1LDKの糸と猫

真木もぐ

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6.回る世界の反対側で

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「ジルはさー、恋人とかいないの?」

 冷蔵庫にもたれて座るオリヴァーが尋ねた。余った毛糸でジルが作ったおもちゃで猫と遊びつつ、オーブンのガラス面を覗いては焼き加減をチェックしている。先ほどから、りんごが煮えるジャムみたいな香りが漂っているから、もうすぐティータイムになりそうだ。

「ずいぶんセンシティブな話しだな。きみは失恋したばかりだろ」
「そうなんだけど。なんだろ……。泣いたらちょっとすっきりしたんだよね。おれがどれだけ嘆こうが落ち込もうが朝は来るし、腹が減らないのだってせいぜい一日くらいなもんでさ。おれはスープも菓子も食べるんだよ。ジルはこうやってレースを縫ってて、……あいつは結婚する」
「世界が回るということだな」
「そこまで壮大じゃないけどさ」

 オリヴァーが笑った。

「たぶん、おれを知ってるひとに同情されたら『おれの十年ってなんだったんだ』ってもっと落ち込んだと思う。でもジルにしてみれば、そんなの知ったこっちゃないだろ?」
「まあ、きみにとって人生最悪の日でも、ぼくにとっては変わり映えのしない一日だったからね」
「それだよ。おれにとっては人生最悪の日だった。ジルにとっては日常の一日。それからあいつにとっては、人生最高の日だったんだ」
「きみ、バターをこねながらそんなことを考えてたのか?」

 立ち直りが早いといってしまえばそれだけかもしれないが、会ったばかりのひとの前であれだけ泣けるのだから、「実はいうほど好きじゃなかった」なんてことはないだろう。好きでいた時間が長い分、可愛さ余って憎さ百倍になってもおかしくはないのに、オリヴァーはしっかりと現実を受け止めている。稀有な健全さだ。眩しいほどに。

「ね? おれはぶっちゃけたから、次はジルの番」
「そんなゲームに同意した覚えはない」

 ジルが物分かりの悪い子どもみたいに見えたのか、オリヴァーは毛玉を吊っている編み棒をシュッと前に突き出しながら、「思うに」といった。

「おれたち、もう少しお互いを知ってもいいんじゃないかな。なんていうか、友達になるために」
「ぼくらは十歳くらい年が違うと思うんだけど」
「そんなに違わないよ。せいぜい五、六歳だろ。友達になるのに年は関係ないし」

 根っからの光属性はいうことが違う。

「それで?」
「ご要望にお応えできなくて申し訳ないが、恋人はいない。そしてきみのように、つらい失恋も経験してない」

 ぱちんと糸を切ると、オリヴァーが黙った。彼が、なんだかとてもかわいそうなひとを目にしたような顔をしていて、ジルはいいわけをするようにボソボソと付け加える。

「恋人がいなかったわけじゃない。友人が紹介してくれたひととか……。でもだいたいは、ぼくから別れを切り出すことになるし、ひとりになるとほっとしてる」
「どうして?」

 その問いへの返答を口にするには、少なくない勇気が必要だった。自覚している欠点をオープンにするのはためらわれる。

 ジルは仕事を終えた刺繍針を、アントニの抜け毛と羊毛を詰めたピンクッションに刺した。

「そろそろ、いいんじゃないか」
「ホント?」

 オーブンを指さすと、オリヴァーはあっさりそちらに気を取られた。手製の猫じゃらしを放り出しオーブンの前まで這って行くと、ガラスに額を押し付けて中を覗く。

「焼き色は全体についてるか?」
「大丈夫、いい感じ!」
「じゃあ出してくれ。火傷に気を付けて」
「オッケー」

 オリヴァーが重たいオーブンのふたを開けた。熱せられた空気と、より濃いりんごの匂いが顔に当たり、頬が弛緩する。よくロキシーに「ほっぺがふくふくしているわよ」といわれたが、あぁ、これのことかと納得した。

 ジルがダイニングのテーブルに鍋敷きを置くと、オリヴァーはミトンを両手にはめてグラタン皿を運んできた。オーブンから取り出したばかりのクランブルは、こんがりきつね色に焼けて、皿のふちでりんごの果汁がプスプスと小さな気泡を弾けさせている。

「ヤバい、めっちゃおいしそう」
「できたてだからな」

 スプーンを入れると、甘いシナモンの香りがふわりと立ち昇った。ふたつ並べた皿に取り分ける。とろりとしたりんごから、クランブル生地がぽろぽろ落ちて白い皿の上を転がった。

 首を伸ばしてそれを覗き込んでいたオリヴァーが、「しまった!」と頭を抱える。

「写真撮っときたいのにスマホがない!」
「残念だったな」
「ねぇ、ジルので撮っといてよ。フェイスブックかインスタで共有して」
「どちらもやってないから無理だ」
「うそだろ!」

 オリヴァーが絶叫する。

「ジルって本当に現代人? タイムスリップしてきたとかじゃなくて?」
「失礼だな。ここはニューヨークじゃないぞ」
「そんなこと知ってるよ」
「……ちょっと待て。まさか『ニューヨークの恋人』を知らないのか?」
「なにそれ、自由の女神のこと?」
「きみってやつは、信じられないな」

 英国貴族を演じるヒュー・ジャックマンは最高だっていうのに。

 ジルはオリヴァーにスプーンを突き付け、メグ・ライアンがどれほどラブコメに求められる愛嬌たっぷりの女優かを語りたい欲求にかられた。しかし映画オタクみたいに思われるのは好ましいとはいえないし、なによりせっかくのおやつが冷めてしまう。彼のために作ったのだから、おいしく食べてもらわなければ意味がない。

 天秤が揺れた結果として、ジルは温かいりんごのクランブルがのった皿を椅子の前に置き、「座りな」といった。

 久しぶりに作った菓子は、まずまずのできだ。
 諦め悪くねだられ、面倒になって渡したジルのスマートフォンで気のすむまで写真を撮ったオリヴァーが、ひと口食べるとテーブルの下で足をバタつかせておいしさを表現するくらい。

 生地のさくさくほろほろ具合とか、柔らかいなかに少しだけしゃりっとした歯ごたえが残るりんごとか、細かいところをグルメリポーターみたいにしたり顔で並べ立てたりしないが、「おいしいものはおいしい」という喜びが全身からあふれ出している。

 よほど気に入ったのか、テーブルに飛びのったアントニが匂いを嗅ぎに来ると、「おれのだからダメ」といって腕で皿をガードしていた。

「これ、カフェとかレストランとかで普通に出てきそう」
「いまの仕事がなくなったら考えるよ」

 初めて甘いものを食べた子どものように瞳が輝かせて食べる彼を見ていると、拾った犬に秘密を打ち明けるくらい、大したことがないような気分になってくる。

 考えてみれば、オリヴァーは隙あらば値切ろうとする依頼人でもないし、なんとか実家で暮らすことをジルに了承させようとする「愛情深い」家族でもない。ただ屋根を貸しているだけの、肩ひじ張る必要のない相手だ。

「……疲れるんだよ」

 スプーンを口に突っ込んだオリヴァーが瞬く。しかしすぐに聡明さを発揮して、ジルのつぶやきが先ほどの話題の続きだと察した。

「だれかといるのが?」
「いや。自分にかな。家のなかでひとり黙々と仕事をしてると、いくらでもものを考える時間があるだろ?」
「そうだね」
「議会で論じられる予算案だの、環境問題だのについて考えてる間は、まだ社会的責任を果たしてると勘違いできるから悪くない。問題は──たとえばデートのあと、相手がカフェでお茶ばかり飲んでいたとか、次に会う予定を決めずに別れたことを思い出したときだ」
「つまり、『話題がなくて退屈してたんじゃないか』とか、『次のデートには誘うべきなのか』っていうのを考えるってこと?」
「後ろ向きだろ。勝手に考えすぎて、勝手に不安になって、そういう自分に疲れて面倒くさくなってしまう」

 だから深める前に関係が終わってしまうし、ひとりで予算の行方や気候変動に憤っているほうが楽だと、すねたことを思っている。

 オリヴァーは肘をテーブルについて、スプーンを持ったまま重ねた両手に顎をのせた。滑らかなスプーンの先がジルに向く。

「その、ふかーく考える前にさ、気分転換とかはしないの? 外に出て、バーガーショップの薄いコーラを飲んだり、本屋で読みもしない本の背表紙を眺めたり、真夜中までパブで友達と騒いだりさ。おれは毎週やってたよ」
「毎週?」
「片思いの相手から、ひんぱんに微笑まれたり肩を叩かれたりしてみなよ。そこに含まれてないって分かりきってる恋愛のチャンスについて、『アリ』と『ナシ』で天使と悪魔が戦争さ。毎回耳を傾けてたら発狂するね」

 だから考えることにうんざりする気持ちは分かる、と彼はいった。

 皿に残った、ひと口分のクッキーとフィリングへ視線を落とす。

 相手は悪くないのに勝手にネガティブになる自分が好きではなかったし、特別な相手を見つけるひとたちは、もっと気軽に「うまく」やっているのだと思っていた。けれど、恋をしていてもしていなくても、ひとはおおむね自分に失望する生き物らしい。
 ジルはオリヴァーのことを、言葉の通じない遠い異国で出会った同胞のように感じた。なるほど。親しみの感情を抱くのにも年齢は関係ないらしい。

「外へ出るのは手芸教室と納品、あとは買い物くらいだな。友人はいるけど、とても忙しくてぼくと遊んでる暇はないし」

 これは強がりでもなんでもない事実だ。
 手芸学校で知り合った友人は、ジルと違って一等地に工房を持つ成功者だった。

「ならさ、あした一緒に出かけようよ」
「あした?」

 顔を上げると、オリヴァーは空になった皿におかわりをよそって、一応ジルの予定を尋ねた。

「教室がある?」
「いや」
「急ぎの仕事は?」
「特に」
「決まりだ」

 オリヴァーがハイタッチを求める。

「オリヴァー。きみがスマホだけでなく、財布も持っていないことを忘れてないか?」

 上げた手が、手首からがっくりと折れた。

「そうだった。じゃあせめて、ジルが自己嫌悪に陥らないよう、おれが一日中ソファでしゃべってるね」
「サンドイッチと紅茶を持って出かけるのはどうだろう」

 ジルは即座に提案した。

「せっかくだから、トラムに乗ってバートランド公園まで行こうか。運賃くらいなら持ってやる」

 ドッグランで好きなだけ走り回ってくれ。

 バーガーショップの薄いコーラやパブのアルコールよりは健康的な金の使いかただろう。
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