ぼくの太陽

真木もぐ

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ぼくの太陽 3

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 キス。

『接吻あるいは口づけとは、唇を相手の頬・唇、手などに接触させ、親愛・友愛・愛情などを示すこと』(ウィキペディア)。

 そう。示される感情が重要だ。親愛、ありそうだ。友愛、これもあり得る。愛情、一番嬉しいけど一番期待薄。

 もうすぐカフェタイムが終わる、客のいない夕方。ティムはぼんやりカウンターに座って、指先で額を撫でた。

「どうしたティム。深刻な顔して。ニキビでもできたか?」
「やだ、触らないで」

 からかい交じりに伸びて来る叔父の手を、やんわり払う。

 夜の店に出たことを、叔父は笑って許してくれた。「お前も男の子だったか」と。ただし、客のシャツにシミを作ったことはみっちり叱られたし、もしクッキーが店に来たらクリーニング代を渡すように言われている。

 来ないけど。

 そう、もう一週間は経つ。三日空けずに昼か夜に店を訪れていたクッキーは、あれからまだ一度も顔を見ていない。クリーニング代の入った封筒が厨房の冷蔵庫に貼りつけてあるから、ティムがいないときに寄ったと言うこともなさそうだ。

 数日は、仕事が忙しいのかな、とか。調子悪いのかな、とか。いろいろ理由を考えてみたが、さすがに焦って来た。もう、あまりのんびりしている時間はない。来週には、ティムは羊たちの待つカーシェへ帰らなければならないのだ。

 でも、連絡先も交換していないし、住んでいる場所も知らない。職場は国で一番有名な場所だけど、まさか王宮に電話して繋いでもらうわけにもいかない。そもそも、「クッキー」と言う愛称しか知らないじゃないか。

 ティムは「でも」を重ねる。ただの知り合いに、キスとかするだろうか。挨拶のチークキスじゃない。額だ。そこに特別な意味がないなんて、そんなの信じられる?

「ティム、あなたにお客さんよ!」

 カリナが呼ぶ声がして、ティムは貼りついていたカウンターから飛び上がった。

「はー……い」

 カウベルのついた扉を見て、期待に満ちた声がしりすぼみになる。

 そこにいたのは、きょうもロックバンドのTシャツを着たダンと、変わらずインテリっぽいステファン。
 彼らはあと数分で仕事が終わると言ったティムを、わざわざ表で待っていた。そわそわしながらフロアの片づけと掃除を終えて、「遅くなるなよ」と言う叔父の声を背中に店をあとにする。

 ふたりに連れて行かれたのは、店からほど近い川沿いの遊歩道だった。店側に少し戻るとクッキーと出会った日に買い物をした市場があり、遊歩道を南へ歩いて行くと大きな橋が架かっている。それを渡れば王宮だ。

 ダンは遊歩道に軒を連ねる屋台から、トロピカルジュースを買ってくれた。

「あの、ぼくになにか……」
「こないだ、絡んで悪かった。その詫びだ」

 首の後ろをさすりながらそう言って、ダンはベンチに腰を下ろす。ステファンも同じところへ座って、ふたりの間をぽんぽん叩く。

「あの日、ちゃんと家まで帰れた?」
「え? はい、普通に」

 ティムが南国味のジュースを吸い上げると、背もたれに肘をかけたダンが鼻で笑った。

「ほらな、ガキじゃねーんだから」
「なんですか?」
「クッキーが心配してたんだ。自分が送るつもりで強い酒を頼まなかったのに、けっきょく先に出てきちゃったって」

 ストローに空気が逆流して、プラスチックカップにボコボコと泡を吹いた。

「クッキーが?」
「おれたちも、本当はもっと早く謝りにこなきゃいけなかったんだけど、ちょっとバタバタしてて」
「仕事が忙しいんですか?」
「引継ぎとか、シフトの変更とかね。あいつがいきなり辞めるって言い出すから」
「辞めるって、クッキーが? フットマンを辞めるの?」
「なんだお前、聞いてないのか」

 ダンが信じられないと言うように、ぶるるるる、と唇で音を立てた。ブーイングのつもりだろうか。

「あいつ、好きな子に背中押してもらったって、めっちゃ嬉しそうに言ってたくせに。本人にはなにも話してねーとか、ありえねーだろ」
「でも、ありえそうなのがクッキーだよね。だってクッキーだし」

 待って、「好きな子?」って言った?

 ぐるぐる回る頭の中に、聞き捨てならない単語が聞こえた。

「クッキーの好きな子って、ぼく?」
「そこからかよ! 駄目だこいつら!」

 両手を上げて、ダンは天を仰いだ。反対側のステファンも、痛まし気な目でティムを見る。

「いいかい、ティム。殿下の婚姻の儀が終わったころから、クッキーは急に付き合いが悪くなったんだ」
「『恋人ができただろ』って聞いても、『馴染みの店ができただけ』って言い張りやがる」
「ずっと『その店に連れてけー』って言ってたんだけど、なかなか頷かなくて。でもいい加減に言われ続けるのが面倒くさくなったのか、あの日に連れて行ってくれた」
「あいつ、お前をおれ達に会わせたくなくて、お前が昼間しか働いてないって、わざわざ確認してたんだぜ。ウケる」

 じゃあ、クッキーの目論見を、ティムが潰してしまったのか。

「でも、なんでそんなこと」
「独占欲に決まってんだろが! このお子さまめ!」

 びしっと額を弾かれる。

 クッキーがキスしてくれたところなのに!

 ティムは慌てて額を覆った。

「おれたちはてっきり、ふたりでしけこんだ後にその話もしてるもんだとばっかり思ってたのに」
「かわいそうに、びっくりしただろう」

 ステファンに肩を撫でられながら、ティムは必死で考えた。

「ぼくはクッキーが好き。クッキーもぼくが好き」
「その通りだ、子犬ちゃん。おめでとう、両思いだな。ハッピーだ」
「でもぼく、来週には国の端っこの町に帰るんです。それで、クッキーも仕事を辞めて、王宮からいなくなるんですか?」
「もしかしたら、この街からもね」
「両想いなのに?」
「まぁ、そうだな」

 だんだん、腹が立ってきた。

 背中を押された?

 だったら押したティムに感謝して、ひと言お礼を言いに来たっていいじゃないか。それもなしに、あんなキスひとつでさようなら?

 冗談じゃない!

 ティムは立ち上がった。
 トロピカルジュースのカップをダンに押し付ける。

「クッキー、まだ王宮にいますか」
「あいさつ回りしてるはずだから、まだいるんじゃないかな」
「スタッフの通用口は正面を回り込んだ東側だ。走れば間に合うぞ」
「ありがとうございます!」

 スニーカーのひもは、しっかり結んである。

 橋に向かって、ティムは駆け出した。ベンチに座ったふたりが、後ろでハイタッチをしていたなんてことにも気付かないで。





◇◇◇






 こんなに全速力で走ったのは久しぶりだ。
 学校の徒競走か、小さな妹が羊に頭突きされそうになっているのを見つけたとき以来。どちらもこんな夏じゃなった。吸う息がサウナみたいで、酸素が足りない。こめかみから落ちて来た汗が目に入るのを何度も拭う。でもそんなの、間に合わないことに比べたら、なんでもない。

 ホテルや夕食をとるレストランへ向かう観光客の間をすり抜けて橋を渡り、高い柵に沿って王宮をぐるりと回りこむ。

 なんでこんなに広いんだろう。そりゃ、この中で働いてたって、王さまになんてそうそう出くわさないはずだ。

 でも、結婚式の晩餐会では給仕をしたと言っていた。テーブルに並べる皿やグラス、ナイフもフォークも、すべてミリ単位で定規で測って並べることも教えてくれた。メイドが引っ張りまわす掃除機は、戦闘機並みの騒音がすること。王宮にやって来た車のドアを開けたとき、お礼を言うかどうかで貴族の人気が測れること。

 いまさら、クッキーが話してくれたことを思い出す。

 まだまだ、いっぱい話したいし、彼が話しているのを聞きたい。あの太陽のような笑顔で。こんなところで、ひと夏の思い出にしてたまるか。

 そして見つけた。茶色の前髪を立たせ、牧羊犬のような足取りで歩く男。その肩には、スターク・インダストリーズのトートバック。

 通用口から出て来て、こちらに向かって歩いて来る。ティムは突進した。

「うおわっ!」

 正面からいきなりタックルを食らって、クッキーが歩道に転がる。トートバックと、左手に下げていた紙袋が吹っ飛んだ。

「なになに、だれ……ティム?」

 起き上がろうとする胸倉を掴み上げる。ぽかんと半開きになった唇。一週間前、額に触れたそこに、ティムはキスをした。

 少なくない通行人から、驚きと感嘆の声が上がる。けど、放っておいて。これはティムとクッキーの物語だから。

 残念なことにすぐ苦しくなって、くっつけていた唇を離し、ティムは肩で息をする。大人って、どうしてあんなに長くキスをしていられるんだろう。

「キスは、口じゃないと嫌です!」
「は、はい……」
「好きです! ぼくを恋人にしてください!」

 鼻がぶつかるくらいの距離で叫び、周囲がどっと沸いた。

 放っておいてってば!

 切れかけの電灯が点滅するみたいに瞬きしたクッキーが、ばったり歩道に倒れこんだ。そのまま大きく息を吸って──。

「おれも好き──!」








◇◇◇






「え、辞めるんじゃないの?」
「フットマンは辞めるけど、配置換えみたいなもんなんだよ」

 映画さながらの喜劇──あるいは悲劇──を演じ、王宮の前でこれ以上騒ぐなと、制服姿の衛兵に追い払われたふたりは、暗くなり始めた道を店に向かって歩いていた。

「だって、ステファンが『街も出てくかも』みたいなこと言ってたのに」
「勤務地が変わって、しばらく住み込みになるけど、ここから車で三十分くらいだよ。隣の地区。あいつらも知ってるはずだけど」

 からかわれたことに気付いて頬を熱くしたティムの手を、クッキーが握る。

「フットマンの仕事も嫌いじゃないけど、ずっと続けられるものじゃないなって思ってたんだ。そろそろ次の仕事探そうかなって。そんときに、別の部署で募集があってさ」
「迷ってたって」
「そうそう。かなり長期的な育成プログラムみたいなのだったから、さすがにすぐ覚悟は決まらなかったねー。でも、侍従への昇進の打診を断ったときには、ある程度決めてたのかも。そこで、ティムがどーんと背中を押してくれたってわけ」
「あれ、そんなつもりじゃなかったんだけど」

 だよねー、とクッキーが笑った。

「普通に考えれば愛の告白だよね。あのときは一秒でも早く応募しなきゃって必死だったから、気付かなかった。ごめん」
「ひどい」
「ティームー、ごめん。許して」
「わぁっ」

 両腕で抱え込まれて、頬にスタンプみたいなキスをされる。

「ばか! やめて!」
「許すって言え」
「許す! 許すからやめてってば!」

 さらに四つくらいスタンプを押され、くすぐったさに首を縮めるティムを、クッキーはようやく解放した。

 踊るようなステップで橋を渡り切って、こんどはティムから手を繋ぐ。

「これからは、どっか行っちゃう前にちゃんとそう言うこと話して」
「仰せのままに。ほかには?」
「……カーシェに帰る前に、デートして」
「いいよ。どこでも連れてく」
「あと、名前」
「ん?」
「本名。まだ聞いてない」
「あれ、そうだった?」

 クッキーモンスターが耳元で囁いた名前に、失礼ながらティムは思い切り噴き出した。

「変な名前!」

 でもこれから、ずっと、一生忘れない。
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