Michele=Undergroundの惨憺たる日々

金森璋

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第35話 Flowers and Stones

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 ゆったり、微睡みの朝がシカトリスの空を照らす。
 太陽はまだ昇りきらず、白む空の果てにまだ蒼い夜が残っていた。
「あれ……」
 夜と朝の境で目が覚めたイヴェールは、少しの間ぼうっとしていた。現実感を取り戻そうと何度か目を瞬かせる。
 ベッドの上に淡い光を落としてくる窓を見る。イヴェールは、そこでやっと自分がいつもよりもとても早く目が覚めてしまったのだと理解した。
 起き上がって、二、三、頭を振る。すぐに眠気は転がり落ちた。
「ん、んんー……」
 ベッドの下に脚を降ろして思い切り伸びをする。パジャマの中で身体がじんじんと伸びて、心地よい。力を抜いて、息を一つ吐いて、
「はあ。よし」
 と、心に元気を溜めこんで、イヴェールは立ち上がった。
 しっかりと身だしなみを整え、学校に行くために鞄を整えようと机に向かったところで、はたと気づく。
「このまま行ったらすごく早く着いちゃうな。うーん、と」
 いくつか、朝の寄り道のルートを考える。今日はどんなルートを通ろうか――どのルートを選んだところで、ミシェルの店に行くことは決定なのだが。
「そうだ」
 どうせ、ミシェルの店に行くことは決まっているのだ。ならば、ミシェルのことを手伝えばいい。
 そうと決めれば、話は早い。イヴェールは身支度を整え、二階の自室から母親の待つ一階へと降りる。
「おはよう、母さん」
「あら、早いのね」
「うん。なんだか目が覚めて」
「そう。朝ごはん、簡単なものでいいならすぐ出せるわよ」
「ありがとう。そうして」
 はいはい、と、イヴェールの母、ルーナは手早くシリアルを皿にあける。イヴェールは、学校へ行くために準備した荷物を椅子のそばに置き、父の隣、テーブルの角を挟んで隣り合うように座った。
「父さん、今日の封筒は?」
「今のところ、ない。ロンディ兄貴からも連絡はない。ああ、贈り物用の花は、依頼が少しばかり来ていたな」
「わかった、じゃあ今日もミシェルさんのところに行くね」
 にこり、とイヴェールは笑う。ミシェルのことを手伝えるのが、褒めてもらえるのが、大きな手で撫でてもらえるのが、嬉しいのだ。
 イヴェールの密かな楽しみだ。ミシェルの仕事を手伝い、評価をもらうことが、ここのところ多くなっている。成長を感じ、イヴェールはまた一歩、先に進む。
「イヴェール」
 ルーナに出されたミルクがけのシリアルにスプーンを刺したところで、父親ロッシェから厳しい声が飛ぶ。
「お前、石切職人を継ぐ気を捨てるなよ」
 かたり、と。シリアルの入った皿にスプーンがぶつかる。硬い音、シリアルの乾いた感触。ミルクがじんわりと、シリアルに染みていく。その様は、なんともいえぬ感情が心にじとりと染みこんでいく、イヴェールの心のようだ。
「……父さんは、まだ、ボクに継いでほしいの?」
「ああ。何をやらせてもお前は器用だ。飾りのセンスもいい。できればな」
 お前に、とロッシェが続けようとしたところで、イヴェールは決して上品とはいえない行為で――一気に、飲み干すようにシリアルをかきこんで、椅子から立ち上がった。
「ごちそうさま」
「イヴェール、」
「行ってくる。封筒、もらっていくね」
 そうして、イヴェールはひったくるように鞄を掴み、滲んでいた瞳の潤みを袖で拭って、封筒だけはそっと手に持ってドアを開けた。
「イヴェール。あなた、気にしないのよ」
「母さん……」
「大丈夫。あなたはなりたいものに、なりなさい」
 母の言葉に、少しだけ怒りを収め。金の髪を揺らしながら小さく頷いた。母が振る手に手を返して、改めて外へ出た。
 まだ朝早い専門商街だが、人気に満ちている。むしろ、この時間だからこそ動いている商人もいるくらいだ。
 いつもの街を、足早に歩く。イヴェールの思想にあるのは、自分の夢と希望のことだ。
 どうか、どうか叶うのなら。いつか、花の――生きる者への装飾に関わる人間として、生きていきたい。
 たとえ願望を叶えるために、一度シカトリスを離れる必要があるとしても、だ。
 国中から集まった職人を目指す人々が集まる【学校】。アルティザンに生きる人々にとって当たり前になっている存在の職人資格継承学校は、単に学校、と呼ばれることが多い。
「ミシェルさんに、弟子入りできたらな」
 酷く希薄な願いを口にして、ぐ、と口を噤む。叶わないことを願ったところで、それは単に妄想でしかないからだ。
 はあ、とひとつため息を吐く。イヴェールの心に重くのしかかる、強い、けれど何とはいえない感情。いつもこの感情に苦しめられて、ときに夜を侵して眠りを妨げることさえもある。
 どうか、願いが叶うなら……どうしたら、自分は幸せに、そして目標通りに生きていけるのか……。
 まだ年端もいかない少年であるイヴェールには、見当もつかない。
 エクレール川の橋を渡ろうというところで、一歩、脚を止める。――朝日にきらきらと輝く水面が、あまりに美しかったからだ。
 欄干に身体を預け、イヴェールは自然が作り出した宝石を見る。
「綺麗だな」
 心を癒してくれる輝きを、イヴェールはゆっくりと呼吸をしながら瞳と心に焼き付ける。
 流れる水音は微かで、ゆったりと流れるエクレール川を飾る。ダイヤモンドに負けないほどの煌めきが、朝日にちらちらと揺れて、イヴェールの精神を穏やかにさせた。
「どうして、父さんはボクに継いでほしいんだろう。それなら、いとこのジェム兄さんだって資格はあるのに」
 ぱしゃん、と。水鳥が降り立った。煌めきが跳ね、やがて落ち着く。水鳥は波紋を残しながら、滑るように進む。
「おや、イヴェールの坊やじゃないか」
「ユリナさん。仕入れか、何かですか?」
「そうさ。〈いいものを求めるなら朝に動け。銀貨三枚得をする〉って、〈レーグル〉に書いてあるだろ」
「一度、習ったことがあります。銀貨三枚なら、ミシェルさんのお店で花束が買えるくらいだなって、思った覚えも」
「あはは、坊やはいっつも口を開けばミシェルさん、だねえ」
「あ、えと……」
「いいんじゃない。ミシェルだって弟分みたいに思ってるかもよ」
「それなら、いいんですけど」
「なんだい、元気ないねえ。飯屋のおばちゃんで良ければ、話のひとつも聞いてあげるよ。どうせ【Michele-rose】に行くんだろ」
「はい。それなら、じゃあ」
 そして、二人は水鳥の泳ぐ川を渡りながら、商店街に向け歩き出す。ミシェルの店の一本向こうの通りにユリナの店がある。そこまで、のんびりと歩きながら、イヴェールは自身のあらましを話した。
 聞き終わったユリナは、
「ははあ。なるほどねえ。この国ならではの悩みってわけだ」
 と、相槌を打ってみせた。
「そうなんです。ボクは花や緑を扱う仕事がしたいのに、父さんは石切を極めろって」
「従兄弟のジェムって坊やがどんだけの技量かわからないけど、きっとイヴェールの坊やの方が何か……そう、何かがいいんだろうねえ」
「何か?」
「ああ。それが都合なのか、技量なのか、感性なのか、他のものなのかわからないけど、でも何かがいいのさ」
「何でしょう、ね」
「さあね。わからんさ、まだ」
「まだ?」
「そう。まだわからんのさ。イヴェール、あんたまだ石切職人の受験免除資格、持っていないだろう」
「ええ。レポートをあまり送っていなくて……」
「だったら送りな。そんで、手に職をつける準備をするんだ」
「えっ、石切職人のですか」
「もちろん。そんで、それから考えればいい。石切職人になるのか、【学校】に行くのか」
「【学校】、ですか」
 アルティザンでは、専門職に就くために【学校】で学ばなければならないことがたくさんある。介護や福祉に始まり、花屋や葬儀屋、墓守、建築業など様々な分野に及ぶ。
 資格さえ得られれば、好きな職業を選び、店を持ったり、同じ職業に就く人を先輩に持ったりなど、自由に働くことが出来る。
 さらに、資格の免除制度もある。一定の職業を家庭や出稼ぎという形で修行し、年に数回レポートを送付することで資格試験の一部の免除を受けられるのだ。
 今のイヴェールには、資格試験の免除は受けられない。どころか、このままでは花屋になるにも石切職人になるにも、【学校】へ行かなくてはならないという状態にある。
「行きたくないわけじゃないです。でも、無駄なことかな、とも」
「だろうねえ。そう思うよ。だから、まずは石切職人の資格を得るんだ」
「どうして」
「何、簡単さ。物事を始めるのに遅いってのはないんだ。手に職をつけられるんだから、まずは石切職人になればいい。それでも花屋になりたいんなら、ミシェルさんに相談するんだね」
「だけど、でも……」
「難しい話だわね。おばちゃんにはなかなか結論を出せないよ」
「ユリナさんは、【グラティチュード】をやっていてよかったと思っているんですか」
「そりゃあ当然! おばちゃんね、こう見えても親孝行な娘なんだ。ママからこの仕事を継いでよかったと思ってる。そんで、女優職に就かなくてよかったとも思ってる」
「えっ、女優!?」
「なんだよ。おばちゃんだって夢があったのさ。おばちゃんの体格ならオペラ歌手になれるって噂されてね。一時期【学校】に通ってみたんだ」
「それで、どうだったんですか」
「面白かったし、楽しかった。でも、食堂をやりたいって夢も捨てきれなかった。だから四つ脚で歩こうと思って革靴を履いたんだけど。免除を一部受けているからって、全部を勉強しなくていいわけじゃあなかったんだ。だから結局」
「どちらかしか叶わなかった……」
「その通り。結局受かったのは免除を受けていた食堂の職員資格だけ。女優の夢は潰えちまった。だけど、それでもよかったんだ」
「どうして?」
「なぁに、簡単さ。食堂のおばちゃんが歌って盛り上げるのが見れるのは、アルティザンでも【グラティチュード】くらいのもんだろう」
 そう言って、ユリナはぱちりとウィンクをしてみせた。イヴェールはなんだか嬉しくなって、笑顔を返す。
「そうそう! 坊やはせっかく綺麗な顔してんだから、しっかり笑いな。その方が似合ってるよ」
「ありがとうございます!」
 そこで、ユリナは足を止めた。商店街の別れ道に辿り着いたのだ。
「ミシェルさんによろしく頼んだよ、坊や」
「はい。ユリナさんも頑張ってください」
「あいよ。そんじゃあね」
 ユリナは、豊満な身体を揺らしながら、辻の向こうに去っていく。イヴェールはユリナが雑踏に紛れたのを見送って、ミシェルの店へと向かった。
 たくさん話したいことができた。夢のこと。職業のこと。未来のこと。たくさん、たくさんミシェルと話したい。
 まずは、受け取った封筒を渡して、午後にでもまた来よう。お昼を一緒に食べようと考えているのだ。
「ミシェルさん。ボクのこと、どう思うかな」
 鞄の中にある封筒に思いを馳せる。ミシェルを頼りにするように、将来、イヴェールの石細工を楽しみにする人ができるかもしれない。それとも、いつかは憧れの花屋になれるだろうか。
 まだわからない未来を胸にいっぱい抱え込んで、イヴェールはミシェルの店の扉を叩いた。

【花と石――Fin.】

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