夏の雪

アズルド

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序章

蛍の光

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 初夏の青葉を揺すって吹き渡る、やや強い風が吹いている。古い建物と新しい建物が混在している和洋折衷の煉瓦通りは、どことなくミスマッチだ。役所は街興しを繰り返しているが、一時的に観光客が増加しても、すぐまた寂れる。

 夏が近付いてきて日が落ちると、川辺では蛍が光を放ちながら舞い始める。綺麗な水のある場所でしか生きられないと言われている蛍だが、日本名水百選にもなっている綺麗な水の流れる川だ。天然記念物の大山椒魚も棲息している。

 街中には世界遺産にもなっている歴史的建造物が建っていた。観光地ではあるのだが、緑に囲まれている人気の少ない寂れた街角のバス停で、学生服姿の男子高校生が最終バスを待っていた。長く伸びた前髪で顔の左半分を隠しているが、左目には眼帯を付けている。

 バスの待合室の簡易な小屋に並べてある青いプラスチック製の備付けの椅子にはヨレヨレの座布団が敷いてあり、備付けの灰皿からはタバコのニオイが漂っていた。市内では最も賑やかな街ではあるが、人口数千人の過疎化が進む地域なので最終バスの到着時間の数十分前だが、待合室は他に誰もいない。

 バス停の横には大きな橋がかかっている。歴史を感じる真っ赤な橋の欄干は、時代劇の撮影に使われた事もあった。住みたい田舎ランキングで第一位に選ばれた事のある場所だが、この時刻になるとほとんど人の姿はない。避暑地なので真夏でも夜になれば涼しい。

 ふと橋の方に視線をやると長い髪の女性が、街灯に照らし出されて橋の上から蛍のいる川をじっと見つめている。女性は思い詰めた表情をして、今にも川へ身を投げそうだったので、男子高校生はゆっくりと近付いて、背後に回り込むと突然、女性を羽交い締めにした。女性は驚いて声を上げる。

「えっ…!だ、誰?急に抱きついてきたのは…」

「いや…その…死にそうな顔してたから…とりあえず、死ぬのは辞めさせようと思って…」

「私、死のうとしてたわけじゃないよ?ちょっと考え事をしてただけ」

「そっか…俺の勘違いだった!ごめん」

「ううん!君は優しい人なんだね」

「なんか助けを求めてるように見えた」

「友達と…ちょっと…喧嘩しちゃって悩んでたの…」

「悩みがあるなら愚痴くらい聞くよ?バス停の待合室にでも座って話そうか…」

 男子高校生はバス停に戻ると、無雑作に散らばっている座布団を綺麗に並べ直して、その中の一つに腰掛ける。女性もすぐそばに腰掛けた。

「その制服、うちの高校のやつだね!同じ高校の生徒なんだ?何年生なの」

「俺は今…二年生だけど、実はもう成人してるんだ。留年したわけじゃないんだけど、親が高校に行かせてくれなくて学費はバイトして稼いで通ってる。今はバイトの帰り」

「私、一年生だけど十九歳だよ。十六歳の時にちょっと色々あって…高校辞めたんだけど、やっぱり高校くらい行っとかないと!って今更、通ってる」

「君は私服だから、もっと大人の女性なのかと思ってたんだが、化粧もしてるからか…」

「君は学生服だから、ちゃんと高校生に見えるね!」

「俺は背も低いし、顔がガキっぽいからだろ?」

「ううん、背は普通じゃないかな?顔もガキっぽくなんかないよ!それによく見ると結構、イケメンだし」

「そうかな…。身長百七十行かないよ?イケメンなんて初めて言われた…」

「ねぇ、どうして君は…目を片方だけ隠してるの?」

「ああ、これ?眼帯、してるから。こんなの付けてると厨二病に見えるだろ…」

 男子高校生が前髪を手で掻き上げると黒い眼帯がチラリと見える。すぐ髪を下ろして眼帯はまた見えなくなった。

「その眼帯の下は…どうなってるの?」

「左目は潰れてるから何も見えない。死んだ魚の目みたいな感じだよ?眼帯取ったところ、見たいなら見せるけど」

「そうなんだ…。ううん、良いよ!本当は見せたくないでしょ?」

「別に?眼帯を隠してるのは知らない奴からジロジロ、白い目で見られるのが嫌だから。君に見られても特に困る事はないな…」

「そうなの?じゃあ、ちょっとだけ…見せてくれるかな」

 眼帯を外して髪を掻き上げたまま女性の方を向いた男子高校生の左目は、街灯の光で薄ぼんやりとした待合室の中で白目だけが見えた。

「潰れてるって言うから、もっとグチャグチャになったの想像してたけど、思ってたより綺麗だね!」

「これ見て綺麗とか言ったの君が初めてだよ?」

「ホラー映画みたいなの想像しちゃってて、もっとグロくて血とか付いてると思ってたの。私、馬鹿だよね…」

「目が潰れたのはもう何年も前だけど、目からは血は出てなかったし、痛みもそれほどなかったよ?」

「そうなんだ?すごく痛いんだろなと思ってた」

「病院で父親が医者に嘘付いてたけど。父親が潰した癖に俺がふざけて潰した事にされてさ。俺は本当の事、言えずに黙ってた」

「えっ!父親にやられたの?可哀想…」

「まあ、あれが本当の父親かどうかもわからんけど。三日に一度、別の男を連れ込むような母親だったし」

「お母さん、きっと美人なんだろね。君はお母さん似なの?」

「どうかな?父親似だって周りから言われるけど、あんな奴に似たくない。と言うか本当の父親が別にいたとしても、子供だけ作っていなくなるような奴、絶対にまともな男じゃない!」

「なんか君の話を聞いてると、私の悩みがちっぽけに思えてくるよ…」

「そう言えば君の悩みは何だったんだ?君の話をまだ聞いてない」

「私の悩みは大した事じゃないから…」

「でもさっきの顔は大した事ありそうだったけど?」

「友達の彼氏がね…。あっ、この話…君にしたら嫌われてしまうかも」

「別にどんな話を聞いても俺が君を嫌う事はないと思う。俺もロクな人間じゃないし、人の事をとやかく言えるような奴じゃないから…」

「君はお母さんが…嫌いなんだよね?」

「小学生の頃は母親が好きだったよ?でも俺が父親から殴り回されてる時、助けようともせずに母親は見てるだけでさ。中学生の頃に気付いた。母親から愛されてないって事にな…」

「そっか…。私は君のお母さんに似てると思う」

「ああ、実はなんとなく母親と似てるなとは思ってた。雰囲気とか…美人なところもな」

「やっぱりお母さん美人だったんだ!君がイケメンなのはきっとお母さんに似たからだね?」

「イケメンだと思った事はないけど、母親に似てると言われても嬉しくはない」

「君はお母さんの事が嫌いなら…私の事も嫌いって事?」

「君の事は別に嫌ってないよ?なんでそう思ったんだ…」

「お母さんに似てるって言ってたから」

「俺が母親を嫌いなんじゃなくて、母親が俺を愛してないって言っただけだろ」

「じゃあ…お母さんの事、好きなの?」

「わからない…。愛されてないと気付いた時は哀しかった。だから俺も母親を好きでいるのはやめた」

「私は君の事、好きだよ」

「まだ逢ったばかりなのに?」

「少しだけ喋ったら何となくわかるよ」

「一体、何がわかるんだよ?何もわかってないだろ」

「うん、でも今までに出逢った人の中で一番、優しい人だなって感じたの」

「今までにロクでもない奴としか出逢ってないのか?俺が優しいって感じる時点で、君がどれだけロクでもない奴とつるんでたかわかるよ…」

「確かにロクな男に引っかってなかったかも?男を見る目がないのかな…」

「俺が優しい人に見える時点で見る目がないね」

「それは…そんな事ないと思う!」

「さっき男を見る目がないって言った癖に」

「今までは…、ね!君は絶対に優しい人だと確信してる。これは譲らないよ?」

「根拠のない自信だな…。だから変な男に騙されるんだよ?普通に考えてみろ。いきなり背後から抱き付くのは変態だ」

「でもあれは助けようとしてくれたんだよね?」

「君が美人だから抱きつきたかっただけかもしれないだろ?それを適当に誤魔化す為についた嘘だったらどうする」

「私、美人じゃないよ?それに嘘つきはそんな事、自分から言わないと思うし」

「わざとかもな?君を信用させる為に言ったのかもね。騙されるなよ」

「騙してないってわかってるから」

「こんな簡単な手口に引っかかるなんて君は危なっかしいから将来が心配だよ」

「ほら、やっぱり優しい人だよ?」

 男子高校生は立ち上がると少し離れた場所に座り直す。しばし沈黙が流れた。

「私…、君に嫌われちゃった…、の?」

「嫌ってない。嫌いになる理由がない」

「じゃあ…どうして?逃げたの…」

「逃げてない。俺が君のそばにいると…あまり良くない気がしただけだ…」

 待合室のそばを蛍の光が横切った。それをぼんやり眺めながら呟く。

「蛍の光はさ。オスだけが光ってて、あれは蛍語でメスを口説いてるんだって」

「そうなの?知らなかった…。君って物知りだね!」

「子供の頃に教わったんだ。もし蛍語がわかったら、蛍はこう言ってるかもしれない。そこの綺麗なお姉さん、俺と一緒にあっちで甘い水でも飲まない?」

「それって面白い!蛍語がわかったら楽しそう」

「蛍語ではもっとチャラくて、変な男が気持ち悪い口説き方してるのかもよ?」

「えっ…?蛍にも変な男いるのかな…」

「いるだろ?それでメスに嫌われてる」

「蛍はみんなあんなに綺麗な光なのに」

「君は男を見る目がないからな。俺がどんな事を考えてるかもわかってないし」

「それはわからないけど、君の考えてる事、教えてくれる?」

「俺の考えてる事、君に教えたら嫌いになると思う」

「嫌いにならないよ?だって私…、君の事が好きだもん」

「じゃあ、交換条件だ。さっき途中まで言いかけた君の友達の彼氏の件を話してくれたら、俺も考えてる事を君に全部、教えるよ?」

「それは…君に嫌われちゃうから言えない。君にだけは嫌われたくないし」

「なら俺も言わない。君は言わないのに俺にだけ言わせるのはフェアじゃない」

「私が話した後に君は話すのやめたりしない?」

「約束は守るよ?途中で話すの辞めたから、気になってる」

「それじゃ…言うけど…。私ね…友達の彼氏に…レイプされたんだ…」

「レイプって…。それで話したがらなかったのか…。無理に聞き出そうとして悪かった」

 男子高校生はバツの悪い顔をしながら言葉を選んで慎重に返答する。

「こんな話、聞いたら嫌いになっちゃうよね…」

「嫌いにはならない。でもそう言う悩みは男の俺には理解出来ないし、まさか友達の彼氏の件がそんな話だと思ってなかった…」

「私がバイト先でミスして落ち込んでる時に相談に乗ってもらってて、友達の彼氏だったから安心して部屋に行ったの」

「えっと…、なんて言うか…、君みたいな美人が、男の部屋にのこのこ行くのは、危険だよ?」

「別の友達に相談したら同じ事、言われたよ。全部、私が悪いって言われて、寝取ったも同然だって罵られた」

「君は悪くないよ。悪いのは男の方だ」

 そこへ最終バスがやって来たので、男子高校生は慌てて乗り込むと、入口の脇にある整理券を取る。

「あっ、良かったら携帯の番号教えて」

「携帯は持ってない。早く乗らないと他のお客さんの迷惑になるから」

「私はバスじゃないの。また明日、高校で会えたら話そう?」

「一年生の教室には行かないから、君が二年生の教室に来るの?」

「うん、会いに行くから名前だけ教えてよ」

夏海なつみ…。女みたいな名前だから、この名前は嫌いなんだけどさ」

「夏海君か…。良い名前だね!私の名前は小雪こゆき

「お客さん、早くしてくれませんか?」

 不機嫌そうなバスの運転手が急かすので、夏海が席に着くとドアが閉まった。
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