夏の雪

アズルド

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第八章

夢の中

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 ジャグジーのブクブク音に掻き消されて、小声で楽しそうに喋ってる夏海と小雪の声はマダムには聞き取れないが、不機嫌そうな顔で小雪を睨み付けていた。ウォーキングコースの端にあるステンレス製の梯子を昇る。マダムがジャグジー風呂の方へ近付いて来たので、夏海と小雪は慌てて会話をやめた。

「あらあら、この子はなっちゃんの高校のお友達?」

「友達と言うか…多分、付き合ってるって言うやつなのかな…」

「あの喫茶店…恋愛禁止だと聞いてたのだけど」

「喫茶店の客とは恋愛禁止だけど、喫茶店の外は恋愛禁止じゃないと思う…」

 小雪は女の勘で自分がマダムから嫌われている事を悟った。マダムの表情は笑顔だが本心から笑っていないと感じる。

「なっちゃんは…女遊びしない子だと思ってたのに」

「マダムが思ってるような事はなんもしてないっす」

「私が思ってるような事…それってなぁに?」

「わざわざ言わせないでくださいよ…。ガキができるような事はしてません…」

「嫌だわぁ~。そんな風に邪推してる訳じゃないのよ?」

 急にマダムの表情がパァッと明るくなる。先程までの嫌な雰囲気が消えてなくなった。小雪はそれを見てマダムが夏海を男として意識しているのを感じ取っていた。

「あの…私、先に帰ります…」

「あらもう帰っちゃうの?」

「これ以上、お邪魔しちゃうと…夏海君に迷惑がかかりそうなので…」

「迷惑なんてかかってないけど?」

「でも…デート中だったんでしょ?」

「まあ一応、これも仕事みたいなもんか…」

「デートって言うか、お散歩ね?お散歩の付き添い」

「お散歩の付き添い…。そう言うお仕事なんですね…」

「なっちゃんが社会に適合出来るように見守りをしてるの」

「夏海君は普通に社会に適合してると思いますけど…」

「あなたは健常者だから何もわかってないの。私は専門家だからよくわかってるのよ?」

「専門家…夏海君、何の病気なんですか?」

「それは詳しくは言えないのだけど…。守秘義務ってやつね」

「ただの発達障害だよ?俺の場合、そこまで多動性は激しくないから、注意欠陥だけが問題なだけで…」

「あっ、そう言うの聞いた事ある!」

「とにかく!なっちゃんは治療中だから、あまりあなたは…関わってこないであげて?気が散っちゃうから」

「気が散るのは…多少あるけど、別に高校の成績は落としてないし、仕事にも支障は出てないから問題ないと思うけど」

「みんな心配してたわ…。なっちゃんが悪い道に逸れてしまうんじゃないかって…」

「悪い道?マスターやマダムが考えてるような事にはならないっすよ」

 小雪が帰ろうとすると小さなウォータースライダーで子供が遊んでいた。水飛沫が小雪の方にモロに飛んで来る。

「わぁ!楽しそう~」

「小雪さんも滑って来たら?」

「夏海君は滑らないの?」

「なっちゃん!それは危ないからダメって言ってるでしょ?」

「マダム…俺は小学生じゃない…大丈夫だよ」

「ダメ!何かあったら私が叱られるのよ?」

「なんもないっすよ?あんな小さなガキが遊んでるのに危険な訳ないっしょ…」

 小雪は夏海の耳元で小声で囁く。

「なんか過保護な人だね?」

「そうなんだよ…。うんざりする…」

「何を二人でヒソヒソと話してるの?」

「別に…何でもないっす」

「夏海君、私滑ってくる」

 小雪はスロープを勢いよく駆け上がって、小さなウォータースライダーを滑り降りると派手に水着が捲れ上がり、ポロリと大きな胸が溢れてしまったので夏海の目が釘付けになる。マダムはまたイライラし始めた。

「そんな派手な水着を着てるから、すぐに脱げちゃうのよ?受付でレンタル出来る水着にしなさい!はしたないわぁ…」

「小雪さんって痩せてるのに胸が大きくて不思議だ…。痩せてる女って大体、胸が小さいのに…。本当に実在してる生き物なのだろうか…」

「えっ?夏海君…何言ってるの?」

「俺は自殺未遂の後に植物状態になって…今は夢の中であり得ない美少女と出逢って…仲良くなるとか言う都合の良い夢を見ているのではないかと思う…」

「夢じゃないよ?ほっぺたつねってみて…」

「いや、俺の夢はリアルだから前に夢の中でほっぺたつねっても痛かった事があるから無意味だ」

 マダムが夏海を引っ張って連れて行こうとする。マダムの顔を見ているだけで現実に引き戻された。

「ああ、この感じ…間違いなく現実だ…」

「早く帰りましょ?なっちゃんの動悸が激しくなってるようだから、また心臓発作で倒れたら、ドクターヘリ呼ばなきゃならなくなるのよ!」

「興奮したらダメなのはわかってるけど…心臓発作で死んでも悔いはない…」

 シャワーの向こう側には左右に分かれて男女の更衣室に繋がっているので、やっとマダムから解放されて、竹で作られたベンチに腰掛けてタオルで頭を拭く。

「まさか小雪さんのポロリまで見られるとは…。一生分の運を使い果たしてしまったような気がする…」

 その頃、小雪はマダムと一緒に女子更衣室に来ていた。マダムはじっと小雪の裸を観察している。モデル体型でスタイルが良い。

「さっきも言ったけど、なっちゃんは心臓が弱いから、あまり派手な水着で誘惑して刺激しないであげてね?」

「はい、次に来る時は受付で水着をレンタルします」

「またここに来るつもりなの?」

「私がプールに来たらダメなんですか?」

「別に…来るのは自由だけど…」

 歯切れの悪い返事だが、明らかに小雪を排除しようとしている。小雪は凛とした表情でこう言った。

「私、遊びじゃなくて…本気で夏海君の事が好きなんです」

「みんな初めの頃はそう言うのよ?それですぐに捨てられて、なっちゃんは自殺未遂までしたんだから…」

「そう言えば夏海君がさっき…自殺未遂がどうとか言ってたけど…」

「あの時もなっちゃん…あなたみたいに綺麗な子と付き合ってたみたいなんだけど」

「夏海君、母性本能をくすぐられるから、モテそうですよね」

「そうそう。なっちゃんって母性本能をくすぐられるの」

「マダムは母性本能を通り越しているように見えます…」

「そんな事ないわ!なっちゃんはみんなのアイドルなのよ?」

「夏海君、みんなのアイドルなんだぁ~」

「やっと立ち直って、奨学金で高校に通い始めたのに、邪魔しないであげて?」

「邪魔するつもりはありません…。夏海君と一緒に…私も立ち直って生きて行こうと思ってます」

 マダムより先に着替え終わったので、ドライヤールームで髪を乾かす。アイラインを素早く書いてコスメポーチからグロスを取り出して唇に塗った。マダムがモタモタしてる間にロビーに出ると、夏海がソファーに座って待っていた。

「あっちにランニングマシーン置いてあるやん?」

「本当だ。アスレチックも出来るんだね」

「使っても良いか受付で聞いたらさ、ジャージないとダメって言われて、うちの高校はジャージないやん?それで諦めた。ジャージは買うと高い…」

「確かに体育の授業とかはないよね…」

「普通の高校に通いたかったんだけど、その頃は親に監禁されて、行かれへんかったから…」

「どうして夏海君の親は虐待で逮捕されなかったの?」

「親が虐待してたの発覚した時、俺が二十歳だったからさ?大人だから可哀想じゃないって言われた」

「それっておかしくない?虐待を受けてた時はまだ子供だったのに…」

「児童虐待は未成年者じゃないと適応されないんだとさ。警察は弱い者の味方はしてくれないよ」

「それはわかるよ…。私がレイプされた時も…私が悪いみたいな言い方されたし…」

「俺も同じ…。殴られたのは全部お前が悪いで済まされた…」

「日本の警察って…本当に無能だよね…」

「ああ、アメリカとかは知能指数高くないと雇ってもらえない特殊部隊があるけど、日本はそう言うのないからな。だから犯罪を未然に防げないし、手遅れになるまで何もしない…」

「今まで誰にもわかってもらえないと思ってたけど、夏海君に出逢えて本当に心の支えになってるよ」

「それは俺の方だよ?小雪さんに出逢ってから運が良過ぎて…これから不幸な事が起こる予感がする」

「人生で良い事と悪い事って同じ数あるって言うよね」

「十九年間不幸だった分、二十歳になってから幸せになれるって事なんかな?」

「私も十九年間不幸だったから、今から十九年間は幸せになれるの?」

「でもその理論だと…三十八歳からは不幸になる計算になるな…」

「三十八歳までは幸せなら良いよね?」

「うん。まあ、今が幸せなら良いか…」

 マダムが更衣室から出て来たので、夏海を連れてどこかへ行ってしまった。帰り道を小雪は一人で歩いていたが、何となく家には帰りたくなくて、夏海と初デートで行ったゲームセンターまで来る。夏海の好きなアニメキャラのキャップが付いたジュースを買う。柄の悪い男たちが小雪の方をチラッと見た。

「おい、あの女…夏海が連れ回してた女じゃねぇか?」

「じゃあ愛奈が言ってたヤリマンってあの女だったのか?」

「ヤリマンには見えねぇけど…ヤリマンなんだ?あの女…」

「ああ言う清楚系の方がヤリマンだったりすんだぜ?」

「しかしあの女…モロに俺の好みのタイプなんだが…」

「愛奈がめちゃくちゃにして欲しいとか言ってたからやっちまって良い感じ?」

「そうだな。もし夏海にバレても愛奈に頼まれたって言えよ?」

「夏海…本気で怒るとマジでやべえ奴だからな…」

「ポリ公が五人がかりでやっと押さえてたからなぁ…」

「あんなひ弱そうなのにあそこまで暴れるとはねぇ…」

「夏海は頭のネジが吹っ飛んでんだよ?拳の骨が折れるほど、ポリ公を殴ったらしいから…」

 ゲームセンターの爆音でかき消されて、男たちの話し声は小雪には聞こえていないが、悠長にソファーに座ってジュースを飲んでいる。小雪の前まで男たちがやって来た。

「お姉ちゃん、一緒に遊ばない?」

「いえ…私はもう帰ります…」

「そんな冷たい事言わないでさ~」

「夏海君が来るかもしれないから、ここで待ってただけなので…」

「夏海は日曜日はここにはこねぇよ?水曜日によく来てたが」

「それは知ってるんだけど…。他に夏海君が行きそうな場所がわからなくて…」

「お姉ちゃん、夏海と付き合ってんの?」

「えっと…一応、彼女みたいです…」

「なんであんなチビが良いんだ?俺たちの方が絶対に喜ばせてやれるのに」

「夏海君の良さは…あなたたちにはわからないです…」

「良いからこっち来いよ?」

 無理やり小雪の腕を男が掴んだ。
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