例えば明日を照らすような、

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 運命に出会ったら惹かれ合って、幸せになれるものだと思っていた。自分はこの二十六年、一度も恋に落ちたことがなかったけれど、そんな自分でも好きになれると信じていた。自分の持っているものをすべて使ってでも幸せにしたくなるような、一緒にいるだけで満たされる相手。
 実際会ってみれば、想定していたような可愛らしい人ではなかったけれど一瞬で惹かれた。些細な行動や表情の変化ひとつとっても可愛くて、ずっと自分の傍にいてほしいと思った。一目惚れとはこういうことを指すのだと理解した。
彼と一緒にいる未来を何度も夢に見ては、期待をして、幸せにすると息巻いた。

 結局自分は、選ばれなかったけれど。



『たとえば明日を照らすような、』



 水野琳、二十六歳。運命の番に振られたアルファである。

 出会えた運命の番には、既に心に決めた相手がいた。それでも自分は、「彼が今はその相手を好きでも、いつか自分を好きになってくれる」と信じてやまなかった。だって運命と名がついているくらいなのだから。
 彼のために、得意じゃない料理を練習した。美味しい手料理を振る舞いたかった。彼の口に入るのは出来るだけ美味しいものにしたかった。家事なんてほとんど人を雇って任せてきたけれど、いつか一緒に暮らし始めたとき彼と暮らす家に他人を入れるなんて嫌だったから少しずつ自分でやり始めた。彼に頼りになるアルファだと思ってほしかった。
 人生で一番、努力というものをした。らしくないことも沢山した。
 でも彼は、自分を選んではくれなかった。自分の手を振り払って走っていってしまった。自分ではない、アルファのところへ。


「お兄さん、大丈夫ですか」

 バーのマスターが心配そうに声をかけてくれる。
 水野はヤケ酒でもしないとやってられなかった。仕事終わり、ちょっとおしゃれな、一度も入ったことのないバーに入った。水野は特別酒に強いわけではない。むしろ弱い方で、基本的に外では飲まない。ただ、今日はなにもかも忘れてしまいたかった。家に帰りたくなかった。モデルルームのように整っていた部屋に増えた生活の痕跡。調理器具や調味料に、複数の洗剤。空っぽだった冷蔵庫にはちゃんと食材が入っているようになった。全部、運命の番である真汐羽衣のためだ。あれを見ると、水野はたまらなく苦しくなる。羽衣を好きだった証だ。羽衣のために何かをしたかった、健気な過去の自分がありありと思い出される。全部無駄になってしまった努力が自分の首を絞めてくる。
(帰りたくないな……)
 仕事をする気にもならないが、家にいるよりは気がまぎれる。水野は都内の病院で小児科医をしていて、子供たちと話をすると自然と笑顔になれた。まだ自分は笑えたんだなとどこかで思っていた。
 帰りたくない。でも明日も仕事だ。閉店時間まではまだあるが、酒に強くない水野はこれ以上飲める気もしないし、こんな客に居座られても店側は迷惑だろう。

「だいじょーぶ、ぇす、」
「本当に大丈夫ですか?」

 怪訝そうな顔をするマスターを置いて、支払いをして店を出た。
 まだ夜のなかば。日付が変わるまで一時間ある。都内駅前はこんな時間でも店の灯りや街灯が煌々と輝いていた。ふらふらとおぼつかない足取りで人の間を抜けていく。水野が人の間を縫っているというよりは、酔っ払いの水野を周りが避けてくれているだけだが。
 恋人の腰に手を当ててラブホに入っていく人や、ビルとビルの間でキスをしている人たちがぐらぐらと揺れる視界のすみにいた。羨ましい。この世の恋人たちは、好きな人と付き合えたというだけで奇跡の中にいることを実感してくれ。
 水野は運命の番に振られてからというもの、実家からさんざんお見合いを勧められていた。大企業の娘。名医の娘。娘に限らず、オメガも中にはいた。誰にも惹かれなかった。羽衣に出会った時の衝撃に勝るものはひとつもない。ダメもとで会うだけでもと父には言われているが、それすらも億劫で断り続けていた。
 ずいぶん長く歩いたような気がする。酔いが回って、もう足が前に出なくなった。人込みを避けるように路地裏に入って。壁に背を預けて座り込む。ぐらぐらする。吐き気もする。なんでこんなにままならないことばかりなのだろう。初めて好きになった人は、運命だったのに。自分はあんなにも惹かれたのに。

「おぇ……」

 考えすぎとアルコールの二重苦で喉元を何かがせりあがってきた。

「おにーさん。大丈夫?」

 ふいに、頭上から声がした。声のする方を見ることは叶わない。少しでも動けば全部出る。胃の中身が。

「あーあー。全然大丈夫じゃなさそう」

 綺麗な声だな、と思った。思ったけれど、それどころではない。
(やば、出る……!)
 思うが先か、全部出た。漫画やドラマなら映像処理ができたかもしれないけど、残念ながらこれは現実。酷い色と匂いを放つ。吐いたのに気分はちっともよくならないし、なんなら口の中が一層気持ち悪いことになってしまった。

「おわー……、派手に吐いたね」

 苦笑いを男が浮かべている。その声には呆れというより関心があった。よくわからない男だ。

「お兄さん、家近い?」

 質問に首をゆっくり横に振る。職場から家までは電車で三駅。そこから歩いて十分。今日は職場近くの店で飲んだから、ここから家まではかなり距離があるはずだ。タクシーを拾ったって、こんな吐瀉物の香りに塗れた人間を乗せるタクシーも運転手もかわいそうである。

「じゃあ俺んとこかなぁ」

 よいしょ、と彼が言うと自分の体が浮いた。その拍子にまた少し吐いた。

「あらら……」
「悪、い」
「いーよ。狭いとこだけど我慢してね」

 自分より背の低い男に引きずられながら歩いた道も、運ばれた部屋も、何も覚えていないけど、こんな夜にひとりじゃなかったことは救われた気がした。

 眼がさめて自分がいたのは、ラブホテル、ではなかった。ぼろぼろの部屋である。天井の隅が薄汚れていて、見渡す限りドアは玄関らしきものと、もうひとつしかない。おそらくもうひとつのドアはトイレだろう。そうであってほしい。つまりこの部屋は、いわゆるワンルーム。シンクらしきものはついているが冷蔵庫はなかった。
(ちょっと待って)
 ふるりと体を震わせる。全裸だった。
 ボロボロの部屋。ドラマでしか見た事ないような煎餅布団。当然そんな部屋に暖房なんて気の利いた道具があるはずも無い。そこに全裸の自分。震えるのも無理はないだろう。
 いや、そうじゃない。なぜ自分は全裸なんだ。思い出そうと頭をひねっても、頭は痛みを訴えるばかりで記憶はろくに戻ってこなかった。

「あれ、起きた?」

 手に自分のビニール袋を二つ持った男が玄関から入ってくる。
 昨日の夜はちゃんと見なかったが、彼はずいぶんと綺麗な顔立ちの男だった。色白の肌に、暗めの茶髪。横でひとつに束ねた髪は、降ろせば肩につくかつかないかというところの長さだろう。髪を結ぶのが似合う男って本当にいたらしい。

「あの、昨日は……」
「酔って立てそうじゃなかったから俺がここまで連れてきたんだよ。覚えてない?」
「覚え……てる」

 思い出したというほうが正しいが。

「あ、全裸なの気になる? おにーさん結構がっつり吐いてたからさぁ、全部脱がせて、洗って干しちゃった。匂いかなり酷くて」

 後ろを指さされて振り返れば、カーテンレールのところに見慣れたスーツがしわしわの状態で干されていた。パンツも。
(最悪……)

「まぁ見ての通り俺は貧乏だから、洗濯機なんて無いから手洗いして絞っちゃった。スーツ、もう着れなかったらごめんね」
「いや、それはいいけど」

 自分はこの、よく知らない男に全身くまなく、それこそ自分の息子に至るまで見られてしまったのだという事実が恥ずかしい。見ず知らずの男に介抱されたことも、迷惑をかけまくったことも、吐いたことも恥ずかしいが、全裸を見られたのはそれ以上に恥ずかしかった。温泉のような、見られるとあらかじめわかっているものは気にならないのに、知らないうちに見られているというのが駄目なのかもしれない。

「あ、これ朝ご飯ね。よかったらどーぞ」
「あ、あぁ。ありがとう」

 受け取ったビニール袋からはおにぎりが二つ。一汁三菜もくそもないが、水野自身も忙しい朝はゼリー飲料だけで朝ご飯を済ませることもあるし、文句を言うほどのことでもない。中に入っていたのは焼き鮭とツナマヨ。水野はとりあえずツナマヨを手に取った。フィルムをはがして食べ始めると、持っていた袋に男が手を突っ込んでくる。

「お、ツナマヨにすんの? ラッキー。俺鮭が良かったんだよね」
「……は?」
「ん?」

 疑問を投げかけるよりも先に、男はおにぎりを食べ始めていた。
(え、一人一個?)
 買ってきてもらった側だ。ただでさえ大変なご迷惑をかけている側として文句は言えなかったが、差し出されたビニール袋の中身はすべて水野のものだと思っていた。住まいからしても、琳とは生活が違うようだ。
 彼は給料日前だからおにぎり一個でも結構贅沢なんだよね、と笑う。

「ほひーはん」
「食べ終わってから喋りなよ……」
「んむ」

 もそもそと焼き鮭のおにぎりを、ごくんといい音をさせながら飲み込んだ。狭い部屋の中は海苔の香りがする。

「おにーさん、名前は?」
「え、っと」
「俺は立川陽。二十五歳。今年二十六になる」
「僕は、水野。水野琳。同い年」
「へぇ、きれーな名前」

 同い年の自分たちはどこからどう見ても違った。上等なスーツに身を包んだ琳と、着古された白シャツとジーンズのラフな格好の陽。家も、琳はもっと綺麗だ。高層マンションと呼ばれる場所で、その最上階。もっと物が色々あるし、新しい部屋だし、部屋数も広さも三倍以上ある。なんならこのワンルームひとつは琳の家の寝室にも満たない。陽がどういう理由でこの部屋に住んでいるのかはしらないが。

「琳ちゃん」
「琳ちゃん……?」
「家。帰れる? あのスーツは着ないほうが良いと思うけど、俺の服入るかなー」

 琳ちゃん呼びに困惑する琳を置いて、陽はごそごそと押入れをあさり白シャツと黒のスキニーを引っ張り出す。陽は自分より身長が低そうだが、体格的にはそこまで差がない。二人とも細身だから、陽の服はおそらく琳も着れるだろう。

「はい。結構最近洗濯したから大丈夫だと思うよ」
「ありがとう」
「服は返してくれたらうれしいけど、返さなくてもまぁいいよ。外出てくるから、着替えて気をつけて帰って。鍵は、あってもなくても変わんないような家だから」

 にこ、と笑って陽は手をひらひらと振った。
 その背を見つめながらぽつりとつぶやく。

「帰りたく、ないな」

 この家のほうが好きだとは言わない。初対面の男の家だ。居心地がいいわけでもない。
 でもそれ以上に、あの家が嫌だった。一度だけ羽衣を家にいれたことがあるが、そのたった一回の記憶がどこにいても思い出される。彼から香る揃いのシャンプーとか、彼のあどけない寝顔を晒したソファとか。
 そのつぶやきを聞いた陽がくるりと振り返る。

「じゃあさ、ここに住む?」
「……は?」


 陽との奇妙な同居に踏み切ったのは、彼を信頼したからではなかった。
 いっそ何かを盗まれて、金づるにされてもいいと自暴自棄になっていたせいだ。クレジットカードを盗られて、全額使い果たされてもよかった。それで自分が野垂れ死ぬことになってもいいか、と思ってしまうくらい、自分は参っていたのだ。運命の番の強さを目の当たりにしていた。
 だけど、陽はなにもしなかった。本当に、なにも。
 どうして琳があそこまで酔っていたのか聞くことも、金を盗んだり強請ることもなかった。出勤して、帰りにこの部屋のインターホンを押せば必ず彼は白シャツ姿で出てきて、琳ちゃんおかえり、と男にしては少しばかり高い声で笑いかけるばかり。琳がどこに出勤しているのか彼は知らない。琳も、陽が日中どこで何をしているのか知らなかった。時折夜遅くに出かけるのも、どこに行っているのか知らない。
 ご飯はあまり豪勢なものは出なかった。もはやご飯が出れば奇跡な位だった。陽はシンプルに貧乏だったからだ。どうりで細いわけである。キッチンも冷蔵庫も必要ない。しまったり調理したりする食材を買わないから。琳が住み着いてから、琳が惣菜を買って帰ることが増えた。陽はそのどれも美味しそうに食べる。

「美味しいものに罪はないけどさ、琳ちゃん、無理して買ってこなくて良いよ?」
「無理はしてないよ。僕が好きで買ってるだけ」

 どうせ琳の金だし。一人で食べる夕飯は味気ない。なら、にこにこと食べてくれる陽と一緒に夕飯を取るほうがずっと幸せだった。陽は大食いというわけではなかったけど、わりとよく食べるほうだった。
 布団はずっと二人で、あの煎餅布団で寝た。布団を買う金は琳が出せばいいとしても、仕舞う場所も無いということで買うのは辞めたのだった。最初は背を向け合って寝ていたが、寝相がひどく悪い陽は目が覚めると大抵琳にどこかしら引っ付いている。それが不快だと思ったことは一度も無かった。
 求めていた香りはしないけれど、陽の体温が好きだった。彼が引っ付いてきたときは自分も腕を回して近くに寄せる。冬だったから、暖房のないこの部屋にはふたりぶんの熱でちょうどいい温度になるのだった。
 陽といるのは楽しかった。気楽で、自分も自由に触れたような気がした。
 一ヵ月住んでも、二ヵ月住んでも、彼はやっぱりなにも聞かない。自分に興味が無いのかもしれない、と思い至るまで時間はかからなかった。だけど自分は一緒に住めば済むほど、陽のことが気になる。仕事はなにをしているんだろう。どうしてこんな部屋に住んでいるんだろう。誕生日は、好きな食べ物は、血液型は。陽のことは気になるけど、そのどれも聞かなかった。羽衣のときみたいに性急に事を進めて打ち破れるのは懲り懲りだったし、そこまで恋に猛進できるほどの元気がなかった。陽も、どれだけ時間を共有しても、誰かに決められたかのように琳の内側に触れようとはしなかった。


「なんで僕を拾ったの」
「え、面白そうだったから?」

 一度だけ、かわらずひっついた状態で目を覚ました陽に尋ねたことがある。そしたら、寝起きのきょとんとした顔で返された。陽は変な男だった。

「面白そうで、人間を拾うの?」
「んー、さすがに人は見るけど。琳ちゃん悪い人じゃなさそうだったし」
「一番ヤバい人ほどヤバく見えないもんだよ」
「そういうもん?」
「そういうもんでしょ」
「はは」

 陽が琳を拾ったのは、面白そうだから。それだけ。

「面白そうだなって思ったのに、僕のことはなにも聞かないんだ」
「話したいなら聞くよ。話したくないことを聞くほど暇じゃないから」
「変なの」
「琳ちゃんには言われたくないなぁ」
「僕は変じゃないよ」
「変だよ。変じゃなかったらこんなボロい部屋に住まない」
「それもそっか……?」
「納得しちゃうんだ」

 けらけらと笑う陽が可愛く見えてそっと抱きしめた。陽は、琳ちゃんあったか~と暢気な声を出すだけ。
 狭い部屋に暮らしているだけのことはあって、自分たちの距離はかなり近い。それでも、そう言う雰囲気になることはなかった。
 陽の第二性を聞いたことはないけれど、オメガでないことはすぐにわかった。フェロモンが少しも香らなかったし、髪を結ぶことであらわになっている項に噛み痕は無かったからだ。三か月に一回オメガはヒートがくるが、そういう様子も見られなかったし、薬を飲んでいるところも見たことがない。威圧を飛ばすタイプではないから確信はないが、アルファっぽいなと時々思う。
 陽は琳のことを「琳ちゃん」と呼んだ。琳は陽のことを「陽くん」と呼んだ。琳は今まで琳ちゃんと呼ばれることなど一度も無かった。同級生の男子にさえ水野くんと呼ばれて遠巻きにされていた。実家が大きい病院で父が名医、権威ある院長であることは周知の事実だったし、琳もまたアルファとして周りから畏怖を混ぜた尊敬の目で見られていた。だから、友達と呼べる友達もいない。病院で働き始めたらみんな水野先生と呼ぶ。誰かのことを名前で呼ぶのも初めてと言っていい。強いていうなら自分が見ている小児科の子たちを呼ぶときは名前である。自分が「陽くん」と彼の名を呼ぶたびに、心のどこかが少年のように浮ついていた。
 友達がいたためしがないから、人との適切な距離感がわからない。
 いつも白シャツを着ている陽のことが気になって、仕事帰り、彼に似合いそうな服を三着ほど見繕って買って来た。だって冬にあんなシャツ一枚で寒いに決まっている。暖房も無いのに。陽は布団を羽織っていることが多かった。そんな陽のために、セーターとかニットとかあったかい服をセレクトした。紙袋を持って帰ったら、怒られた。

「無駄遣いしない」
「無駄じゃない」
「琳」

 真剣な時だけ、陽は琳のことを呼び捨てにする。へらへらしている陽が怒ると、気温の下がり方が異常だった。ただでさえ冬真っ只中なのに。
 琳はよくわからなかった。贈り物をして怒られたのは初めてだ。

「気持ちは嬉しい。デザインもいい。ありがとね。でもこういうのは辞めな」
「なんで」
「なんでも。服あげるとか、そういうのは好きな子にするもんだよ」
「好きな子なんて」

 そんなもの、この間いなくなってしまった。そういえば、羽衣には何かを贈ったことなんてなかったな。

「わかった、もうしない」
「ん。そうしな」
「でもこれは着てよ。陽くん見てるだけで寒い」
「わかったわかった」

 陽は本当に贈った服は着てくれた。どれも似合っていた。元々顔だちの整った男だ。髪を結ぶのが似合う男という時点でお察しだが。身長も琳には及ばないだけでかなり高いし、顔は小さく足は長い。琳が見繕った服を着れば、彼はさながらモデルのようだった。
 案の定、一度二人で都内に買い物に出たとき芸能事務所からスカウトを受けていた。

「お兄さん、こういうの興味ない?」
「ごめんなさい、興味ないです」

 にこやかに、波をたてずに断っていたけど。取り付く島もない陽にスカウトマンはすぐにあきらめてくれたけど、琳は割と気になっていた。

「陽くん興味ないの?」
「ん? 芸能界?」
「うん。似合いそうなのに」
「ないよ。俺が興味あるのはどっちかっていうと撮るほうだから」

 さらっと返された答えに驚いた。知らなかった。

「撮るほうって、カメラマンとか?」
「そう。あれ、言わなかったっけ、俺の仕事」
「しらない。陽くんも僕の仕事知らないでしょ」
「たしかに。でも病院で働いてるんだと思ってたけど、ちがう?」
「……なんで?」
「消毒の匂い、結構するし」

 琳にはてんで興味がありませんといった面をして、彼はよく見ている。

「僕だけ何も知らなかった」
「はは、拗ねないでよ琳ちゃん」

 彼は仕事とその内容を教えてくれた。カメラマンだった。でもカメラマンなんてのはよほど名が売れていなければ生活が苦しくなるほど金にならないらしい。だから、夜はコンビニで働いたり、日中は日雇いをしたりしてしのいでいるのだと言った。
 家にカメラの機材があるのを見たことはない。おかしい、と問い詰めたら、彼はなおさら笑った。

「俺はさ、インスタントカメラで撮んの」
「インスタントカメラ……」
「そ。コンビニでも売ってるような安いやつね」

 そんなカメラマンがいるのか、と驚きだった。機材に金をかければかけただけいい写真が撮れるものだと思っていたからだ。だけど陽は、そんなことないよ、と言った。カメラマンならほとんどの人間が高い機材を使っている。それでも売れる人と売れない人が出てくる。つまり、機材云々ではなく、結局その人の切り取り方と被写体選びのセンスがものを言う。インスタントカメラにこだわるのは、あのレトロな感じと、光の拾い方が好きなのだという。あとは、撮った写真がその場で見返せないところ。わくわくする、と目を輝かせていた。

「金にはならないけどね。撮った写真も、半分くらい使い物にならないこと多いし」
「そっか」
「琳ちゃんは? 仕事」
「小児科で働いてる」
「へぇ。子供好きなの?」
「うん。弟がいて、可愛いなってずっと思ってた」
「それで子供好きなんだ。いいね、琳ちゃんがお兄ちゃんって」

 そんなことない、とは言えなかった。
 琳の家は厳しい家で、兄弟もライバルのように扱う。いつだって比較対象だった。琳も、弟もアルファだったから、互いの出来を比べ続けられてきた。生まれてすぐの小さくてふくふくとした可愛らしい弟を愛でることも出来ずに、そっけない態度をとってきたと思う。多分弟も、琳のことが好きじゃない。琳がテストで満点を取るたびに弟は「なんでお前は出来ないんだ、兄を見習え」と親に怒られていたし、怒られている弟が可哀想で手を抜けば、見下されているようだと怒っていた。
 もっと弟を可愛がって、やさしくしてあげたかった。なのに結局何もできなかった。あまつさえ水野の家を飛び出し、琳がいなくなったことで弟が病院の跡継ぎにならざるを得なくなった。彼に圧し掛かる責任と圧は相当なものだろう。琳はついぞ兄らしいことなんて何もできなかったから、その罪滅ぼしみたいに小さい子たちに接している。不純な動機である。

「琳ちゃん」
「なに?」
「帰ろっか」

 弟のことを思い出して沈んでいた琳に、陽はそっと手を差し伸べた。逆光で陽の顔はよく見えなかったけど、たぶん微笑んでいた。

 その日を境に、琳は陽にいろんなことを質問した。誕生日は十二月。陽というくらいだから夏なのかと思ったら、全然違った。

「母親が冬のひなたが好きなんだって」
「そうなんだ」
「琳ちゃんは? 誕生日いつなの」
「六月」
「あぁ~、ぽいわ」
「なにそれ」
「なんか水とか雨とか連想する名前してるじゃん」

 彼の言っていることはよくわからなかった。冬のひなたが好きだという彼の母親の気持ちはよくわかる。空気が澄んでいて、肺の底がひんやりして物悲しくなるあの特有の感じ。あれはさみしいような、でもどこか気持ちいいような不思議な感覚なのだ。

「まって、陽くん十二月?」
「そうだよ」
「何日?」
「十四」
「……え、一昨日?! 言ってよ!」

 スマホを見れば、今日は十六日だった。なんということだ。お世話になっているのに誕生日ひとつ祝わないだなんて。

「欲しいものは? 食べたいものとかある?」
「いいよ、なんもしなくて」
「やだよ。なにかあげたい」
「えー、じゃあ琳ちゃんが買ってくれた服に似合いそうなアクセほしいな。イヤリングでも、ネックレスでも」
「わかった」

 ピアスでもいいけど、そのときは穴開けないとなー、と彼が言ったが、穴を開けさせる気なんてさらさらないのでピアスは選択肢から即座に外した。
 街で見繕ったのはネックレスだった。シンプルなゴールドのネックレス。陽は喜んだ。ずっとつけていた。実はそれが十五万くらいするやつだと言ったら怒るだろうと黙っていた。金額なんて些末な問題だったが、陽が喜ぶ顔に水を差したくない。
 彼の血液型はABだった。琳はBだ。陽は大学のとき美大に通っていた。そのときの奨学金も残っているらしい。第二性はアルファ。両親がアルファとオメガなので驚きはしなかったと琳が買って来た惣菜を頬張りながら言った。

「琳ちゃんもアルファなんだ。まぁそんな感じするけど」
「そう? アルファになんてなりたくなかったよ」
「なんで?」
「運命の番に会ったけど、選んでもらえなかったから」

 自分でも驚くほどするりと言葉が出た。陽に拾われたあの夜、自分がどうしてヤケ酒をしていたのか。その理由が、こんなにもあっさりと語れるようになるとは思わなかった。あんなに悲しかったのに、今はこの話をしていても惣菜が美味い。焼売についたからしが染みる。
陽は神妙な顔をしていた。どういう反応が正しいのか見つけあぐねているようだった。箸が止まっている。

「もう気にしてないから。陽くんもそんな顔しなくていいよ」
「ん。ごめんね」
「なんで謝るの?」
「なんとなく」
「変なの」

 陽はずっと、変な人だった。

 しばらくして、陽は夜に外に出る機会が増えた。バイトを増やしたのだと彼は言ったから、琳にはそれを信じるしかなかった。そもそも自分たちはただの同居人であって恋人でも何でもないので、夜遊びするなということなどできるはずもない。陽がどこで何をしようと自由なのだ。
 頭ではわかっていた。陽が自由であることも、そんな自由さが彼の魅力であることも。
 わかっていたのに、我慢できなかったのだ。


「陽くん」

 深夜二時、こそこそと返ってきた陽から鼻をつくほどのオメガの香りがした。甘ったるくて吐き気がするような香りだ。布団を敷いてそこに寝ていたのに、あまりの匂いに目が覚めた。陽からオメガの香りがするのだと理解した瞬間、頭が焼ききれそうなほど腹が立った。胃の底がむかむかして、煮えているような気がした。

「琳ちゃん? ごめんね、起こした?」
「ねぇ、この匂いなに」
「匂い? あぁ、さっきバイト先で」
「バイト? 本気で言ってんの」
「なに怒ってんの? 琳ちゃん、落ち着いて」
「どこのオメガと寝たの。こんな匂いつけてさぁ、バイトなんて信じるとでも思った?」

 陽の話なんかこれっぽっちも耳に入ってこなかった。バイトだなんて下手くそな言い訳に反吐が出た。怒りが増しただけだ。なんで怒っているのか自分にはちっともわからなかった。でも、彼からオメガの香りがすることが本当に、心の底から腹立たしかった。

「ねぇ、陽」
「……ッ、琳、落ち着いて」
「僕は落ち着いてるよ」

 落ち着いていると宣っておきながら、彼の胸倉をつかみ上げる。陽の顔が苦しそうに歪んだけど、それすらもこの場を乗り切るための策に見えた。
 この男はどんな顔でオメガを抱くのだろう。どんな息を吐いて、どんなふうに腰を振って、オメガのことを啼かせているんだろう。想像すればするほど、やっぱり許せなくなった。彼の自由なところが好きだった。自由な彼が誰かのものになるなんて、耐えられない。どうせ誰かのものになるなら、自分のものになればいいのに。

「どんなセックスしたの。僕に教えて」
「し、てない」
「ねぇ、僕が同じように陽にやってあげる」

 だから早く教えて。
 威圧フェロモンを飛ばしながら問いかける。やがて彼は自棄になったのか吐き出すみたいに鼻で笑った。

「琳ちゃんは勘違いしてる」

 暗闇に慣れた目が、虚ろな陽の目を拾った。

「俺はね、抱かれる側だから」

 陽の手が琳の腰をそっとなぞった。誘い慣れているような、そんな妖しい手つきだった。

「ネコっていうの? はは。……だからね、俺がオメガを抱くことなんか無いよ」

 琳ちゃんも試してみる?
 さっきまで琳に睨まれていた陽が、今は主導権を握ったようにうっそりと微笑む。

「抱かれてたの」
「そう。ベータもアルファも。結構金になるよ。普通にバイトするよりさ」
「僕と、暮してからも?」
「うん。夜に出てったの、その日寝てくれる人探してたか、ん、ぅ」

 陽がすべてを言い終わるより先に、彼の口をふさいだ。キスをして、彼の口内を無理矢理荒らす。苦しそうに陽がばしばしと肩を叩いても、知らないふりをして舌を絡め続けた。
 くやしい。むかつく。いや、悲しいのかもしれない。
 何も知らなかったことも、陽が自分の知らない誰かに抱かれていたことも。あの整った顔が、どんなふうに歪むのだろう。それを知っている男がこの世にいる。琳ちゃん、と笑いかけてくれた彼の声がどんな嬌声をあげるのか、聞いた男が生きている。
(どうして、僕じゃ駄目だったの)
 元々そういう目的で出会ったわけじゃないから仕方がないなんて、そんなことは言われなくたって分かっている。そんな理屈で「はいわかりました」と納得できるような、軽い怒りではなかった。
羽衣に振られた時と同じくらいのやり切れない気持ちだ。

 怒りに身を任せて、我を忘れて陽のことを抱いた。何度も何度も。突発的なセックスに準備なんてしているはずも無く、ゴムも無ければローションも無い、セーフティの欠片も持ち合わせのない乱暴なセックスだった。それらがなくてもアルファらしいサイズの琳を呑み込めるほど陽の後ろはほぐれていた。自分の下でびくびくと揺れる太腿がいやらしかった。彼の嬌声は、思っていたよりもずっと扇情的でうつくしい。
 もうやだ、やめて。
 陽が何度訴えても、琳は辞めなかった。辞めた瞬間にするりと逃げ出して、二度と彼が帰ってこないような気がしたから。猫みたいに。
 陽。はる。気持ちいいね。ここがいい?
 呼びかけて、そのたびにナカが締まった。
 日が昇っても琳は辞めなかった。気絶した陽を何度も揺さぶりながら、時々頬を叩いて、起きて、と声をかける。陽は何度も達して、精液も潮も吹いた。最終的にはドライでイって、気絶して、起こされて、ドライでイっての繰り返し。正常位と、寝バックと、対面座位。いろんな体位で抱いて、その間ずっと琳は陽の体を抱え込むようにしていた。逃がさないと言わんばかりに。
 番になれるわけでもないのに、本能からか彼の項を何度も噛んだ。何度目かにかみついた時、あげたネックレスが鬱陶しく見えて、引きちぎった。残骸がベッドに散らばった。カーテン越しに満月の光を浴びたゴールドがちかちかと自分を責め立てるように光った気がしたけど、琳にはどうでもよかった。
 あぁそういえば、そのとき陽は泣いていた気がする。涙とネックレスが、どちらも光っていた。たぶん。

 いつも朝にかけていたアラームが鳴りだしたところで我に返った。
 あと二時間長ければ陽は腹上死していたのではないかと思うくらい、手ひどく抱かれていた。狭い部屋にいろんな匂いが充満している。琳は慌てて陽の中から自身を引き抜いた。何度出したのか分からないほどの精液が、ごぽ、と音を立てて溢れた。
 真っ先にやったことは病院に連絡すること。悪いことだと分かっていたけれど、体調不良だと嘘をついて有給を消化した。急ぎの診察がなかったことと、先日仕事を代わってあげた非番の同僚が入ってくれるということで話がついた。
 一日休みを得た琳は、電話が切れた瞬間陽のほうを向いた。彼は相変わらず気絶していた。はやる鼓動を深呼吸で宥め、彼の中を掻き出した。自分の持っている大きめのコートを彼に羽織らせて、家の前にタクシーを呼んだ。運転手に陽の顔も体も見られないように抱き込んで、後部座席に乗り込み住所を伝える。向かったのは、随分と久しぶりに踏み入れる自分の住んでいたマンションだ。

 部屋は少し埃っぽかった。そんなことはお構いなしに、すぐに風呂を沸かして陽を運び込む。寝室の空気清浄機を回し、自分のパジャマを引っ張り出した。その間、ぐったりとしたままの彼を一度も離さなかった。ずっと抱きかかえたまま、広い部屋の中を行ったり来たりしていた。彼の重みも、微かに聞こえる呼吸も全部傍に置いておきたかった。
 風呂が沸いたと機械音声がつたえた瞬間浴室に駆け込んで、さっき掻き出しきれなかった分を念入りに取り除いた。気絶していながらも陽は感じている様に時折びくんと撥ねた。

「ん……」

 陽が目を覚ましたのは、浴槽に彼の体を入れて温め、五分ほど経ってからのことだ。後ろから抱きしめるように琳が支えていた。全体重を琳に預けて、陽はずっと寝ていた。目元には冷やしたタオルを当てていた。泣きすぎて腫れぼったくなっていたからだ。

「陽くん?!」
「ぅわ、げほっ」

 彼の声は掠れているとかそんなレベルではなかった。もはや息がかろうじて出ていると言った感じだ。
 ごめん、という謝罪とは違う言葉が自分の口から滑り落ちた。

「よかった……」

 陽はあまりにも目を覚まさなかった。タクシーに揺られている間、彼の中を掻き出す間、この部屋をうろうろする間も、体を清めている間も一度も起きる様子を見せなかった。
 このまま死んでしまったらどうしよう、と心のどこかで怖かった。全部、自業自得だった。
 彼を抱きしめたまま、ごめん、ごめんね、と繰り返す。陽は何も返さない。返せなかった。体は重すぎて動かない。腰は砕けて立てない。彼を責める言葉も、彼を許す言葉も吐き出す力が残っていなかった。

 風呂を出てから、琳は甲斐甲斐しく世話を焼いた。空気を清浄した寝室に、琳のパジャマを着せた陽を寝かせ、料理を作っては彼の口に運び、一度も琳は布団に入らず彼の世話をした。有給は結局三日分とった。変わってくれた同僚には頭が上がらない。
 陽は少しずつ回復して、三日目にはさすがに普通に動き回ることが出来るようになった。
 琳は一度もベッドで寝なかった。陽に触れないように細心の注意を払って、寝るときはリビングのソファ。触れるのはせいぜい風呂に入れるときくらい。
三日目に、陽が久しぶりに琳の名を読んだ。

「琳ちゃん、こっちきて」
「……うん」

 陽に促されるまま後ろをついて歩いた。

「はい。ここ座って」

 寝室に入っていった陽はベッドを指さす。琳は無視して床に正座した。

「ちがう。琳、こっち」
「でも」
「でももだってもない。ここに座れっつってんの。座って、はやく」

 こういうときの陽は頑固で、琳はしぶしぶいうことを聞いた。ベッドはふかふかだ。陽はそこに座らずに、立ったまま琳のことを見下ろしていた。

「なにか言うことは?」
「ごめん、なさい」
「ちがう」
「えっと、……えっと」
「はぁ」

 謝る以外になにも思いつかなかったけど、陽の望む答えではなかった。ため息をつく陽に、琳はもう一度ごめん、と謝った。

「なんであんなことしたの」
「ムカついた、から」
「なんで?」

 質問攻めである。陽は真顔だった。質問に答えないことは許さないと腕を組んで仁王立ちして、琳のことを見つめている。

「陽くんが、他の人に、抱かれてる、から……?」
「なにその疑問形」
「だって」

 自分でもわからなかった。なんでこんなに腹が立つのか。

「琳ちゃんさぁ、本当にわかんない?」
「うん」
「俺のこと、好きなんじゃないの」

 陽は呆れたようにため息をついて、しゃがみこんだ。凛と目線を合わせて問いかける。琳の俯いていた顔に両手を添えて、無理矢理視線をあげさせた。陽の目は、今は生気が戻っている。

「好き……、僕が、陽くんを?」
「ちがうの? 好きだから、ヤキモチやいたのかとおもったんだけど」
「そう、かも」
「まぁ、だからって無理やり抱いて良いことにはなんないけどね」

 正論でちくりと刺される。まったくその通り。ごもっともである。どんな理由があろうとレイプが許容されるはずがない。

「りーんちゃん」

 べち、と音を立てて頬が両側から叩かれた。叩かれたと言ってもかなり優しい力でだが。

「責めたいわけじゃないから。あのあと色々処理してくれてありがとね」

 ふわりと笑って、彼は琳の頭をそっと抱きしめる。
 あぁ、本当に彼は変な人だ。こんなときに怒らないなんて。

 それから、琳は仕事に復帰し、その間陽には琳の家にいてもらった。仕事が終わってから琳は陽の家をせっせと掃除し、換気して、ちゃんと住める場所にしてから陽を帰した。仕事を終えて、掃除をして、自分の家に陽を迎えに行った。車を出して陽の家まで送り届ける。

「我が家久しぶりー! 琳ちゃん、掃除ありがとね」
「うん」
「もー、辛気臭い!」
「いたい」

 頭を勢いよく叩かれる。こういうときの陽は容赦ない。
 陽の家に来るのはこれが最後かもしれないと思うと、どうしたって辛気臭くなる。自分が完全に悪いので、また来ても良いか、なんて烏滸がましい質問は出来なかった。

「琳」

 鈴を転がしたように軽やかでいて、どこか甘さのある声で陽は自分の名を紡いだ。

「車。自分の家に戻して、ちゃんと帰ってきなよ」

 うちは駐車場ないかんね、と笑って、彼は送り出してくれた。琳は泣きそうになるのをぐっとこらえて、必ず帰ってくる、と返した。
 まるであんなセックスなどどこにもなかったかのように、穏やかに、日常は帰って来た。陽は琳のことを一度も責め立てずに、いつも琳を迎えてくれた。時折甘い香りがしたけれど、日雇い先にオメガがいただけだとちゃんと話してくれたし、琳も話に耳を傾けた。彼はオメガを抱かないしオメガに抱かれることも絶対にない、と説明してくれた。琳はそれを信じた。
 実家から幾度となく電話がかかってきたけどすべて無視した。どうせお見合いを勧められるだけだ。でも自分は今陽に夢中だった。
 穏やかな日常が帰ってきたけど、変わったことがあるとすれば自分たちの距離は一層近くなった。陽は琳に日夜問わず抱きつくようになったし、琳も最初は恐る恐るだったけど、時間が経つにつれて我慢せずに陽にひっつくようになった。夜は陽を抱きしめて眠る。時々、陽が自分を抱きしめて寝てくれる。部屋にいる時も二人で引っ付いて笑っていた。時々、そう言う雰囲気になってセックスをした。陽はちょっと準備してくるから待ってて、とトイレに篭る。その時聞こえる、頑張って堪えても漏れ出る息が薄いトイレの扉越しに聞こえて、琳はいつも興奮した。
 琳はいっとう気を付けて陽のことを抱いた。陽は全身を火照らせて、潤んだ瞳でよがっていた。きもちーよ、と微笑んでくれる。それがたまらなく愛おしくて、琳はまた陽の体を貪ってしまうのだった。もちろん気を付けながら。

 陽は、自分が手ひどく抱いたあの夜のことは一度も怒らなかったけど、あのネックレスのことだけは般若のごとく怒った。
 自分が引きちぎったネックレスは、掃除の際に棄てた。まさか修繕できるなんて思わなかったし、何よりあの時は陽と今生の別れになると思っていた。レイプした男から送られたネックスレスなんて気持ち悪いだろうと処分した。

「なに考えてんの?」

 氷点下の声で陽は怒った。陽なんて温かい名前から改名したほうが良いのでは、と思うほど冷たい声だった。

「琳がくれたものじゃん、あれは」
「でも、壊れてたし」
「直せるでしょ。ちぎっただけなら。てゆーか貰ったんだからあれは俺のもんじゃん。人のもの勝手に捨てるってどういうこと?」
「ごめんなさい」

 謝り倒して、新しいものを買った。同じものと、もう一つ買った。二つも買うな、と怒られた。陽はむずかしい。怒ったのに、二つともちゃんと服装に合わせてつけてくれた。可愛い。ついでに穴が開いているスニーカーも変えようと、新しい、琳と揃いのものを買った。やっぱり怒られた。
 夏には、陽を無理矢理自分のマンションに連れ帰った。暖房のないボロアパートは当然エアコンも無い。そんなところで東京の熱帯夜を超えられるはずもなかった。

「陽くん、東京の夏舐めてるでしょ」
「舐めてないよ」
「じゃあ今までどうやって過ごしてきたの」
「それは、その……」

 彼は言葉を濁したけれど、結論だけ言えば夏は特にいろんなアルファやベータに抱かれていたらしい。ラブホや抱いてくれた人の家で一夜を過ごしてエアコン代を浮かせていたとかなんとか。金にもなるし、涼しいしちょうどよかったと彼はもごもご言った。
 ぶちぎれて琳はさっさと自分の家に陽を放り込んだ。

「夏の間はこの部屋。他の人に抱かれるとか、絶対認めないから」

 そんな琳の我儘を陽はあっさりと受け入れた。

「いまさら琳ちゃん以外に抱かれようなんて思わないよ。安心して」

 ちゅ、と頬に口づけをされた。あざとい。二十六歳のくせに。身長一八〇もあるくせに。
 それでもほだされてしまう琳も琳だった。陽が可愛くて仕方なかった。気を抜けばまた抱き潰してしまいそうなほどに。
 自分の家に陽を連れてきてから、陽は自炊をするようになった。食材費はもちろん琳が払っていたが、その代わり夕飯を作ってくれる。

「おかえり、夕飯出来てるよ」

 そう言って陽が出迎えてくれるたびに、心があったかくなる。陽はだんだん料理がうまくなった。

「ねぇ、もうあのアパート引き払ったら?」
「えぇー……」
「陽くんが出迎えてくれたら仕事頑張れる」
「でもこのままここに住んだら、俺ヒモ男だよ?」
「いいよ、ヒモでもなんでも。傍にいてよ」

 何度も打診したけど、陽はうんとは言ってくれなかった。俺が拾った側だったのになぁ、とぼやくばかりだった。
 琳は浮かれていた。だから、気にしたことが一度も無かった。陽が自分の家に来てくれないことも、好きだと言ってくれないことも。

 夏が終わって、夜が涼しくなった九月の半ば。
 いつも通り彼を抱きしめて寝て、起きた朝に「そろそろエアコンなしでもよさそうだし、帰るね」と陽がボロアパートに帰ってしまった。出勤前に車で送り届けて、今日は陽の家に帰ろうと決めた。
仕事を終えて、いつも通り陽のアパートに向かってインターホンを押した。だけどいつまでたっても、彼は玄関から出てこなかった。今日はバイトだっただろうかとスマホを取り出して彼とのトークルームを開く。
 そこには、「相手がいません」という無慈悲な言葉が並んでいた。

 陽が、忽然と姿を消した。
 アパートは数日後に顔を出せば、入居者募集の張り紙。彼が勤めていたコンビニに行ってみても仕事着の彼はいなかった。

「立川さんなら、辞めちゃいましたよ」

 働いている人に尋ねたら、そう言われた。どこに行ったとか、次のバイト先とか、聞いても知らないと言われた。知らないのか、個人情報だから教えられないのか定かではないが、手掛かりにならないことは確かだった。
(どうして)
 まだ自分の腕に、彼を抱きしめたときの感触が残っている。琳ちゃん、と呼ぶ声が頭の中で響く。最近のことを思い出しても、なにひとつおかしいところはなかった。様子がおかしいことなど何も。陽がどうして姿を消したのか、心当たりがひとつもなかった。ぽっかりと胸に開いた風穴が、なおのこと陽の存在をまざまざと突き付けてくる。

「陽くん」

 家に帰って扉を開けて、呼びかけた。縋るような震えた自分の声が惨めに広がって、霧散した。

「はるくん」

 なぁに、と陽の声が聞こえそうだった。部屋は真っ暗だったけど。

「はる」

 どこに、行ったの。
 崩れ落ちて、琳は泣いた。悲鳴のような声をあげて、わんわんと泣いた。


 陽がいなくなった日から、実家が持ってくる見合い話を断らなくなった。いろんなオメガや、アルファにあった。きれいな人も可愛い人もいた。陽より身なりが整っていて、かわいらしくて、守ってあげたくなるような人がたくさんいた。食事をすればそれなりに会話が成立したし、結婚すれば上手くいくんじゃないかと思うことも、そういう相手もいた。
だけど、会えば会うほど、陽が恋しい。陽以上に好きになれる人なんていない。白シャツで、穴の開いたスニーカーでも、陽のほうがずっと魅力的だった。
一年半経って、お見合いを月に二、三回しても駄目だった。近頃は父親も諦めたようで、すすめてくる見合いの数が減った。弟は結婚した。きれいな女性のオメガと。幸せそうに笑う二人が妬ましくて、結婚式でもらったバームクーヘンは職場の皆で食べた。最低な兄である。

 今日も見合いだった。でもやっぱりだめで、もういいぞ、ととうとう父から見切りをつけられた。高級料亭を出て、ふらふらと歩く。冬がすぐそこまで迫ってきている。陽と出会った季節だ。
 駅の改札を入ったとき、すれ違うようにパーカーを深くかぶった人がいた。
 どうしてかはわからない。考えるよりも先に、その人の腕を琳は掴んだ。細い腕。掴まれてびっくりしたのかその人は振り返って、ICカードに触れ損ねた改札に通せんぼを食らった。

「あの、」

 困惑したような声に覚えがあった。探し続けたその人の声だった。

「はるくん」
「……琳ちゃん?」

 改札を塞いでいる二人を、過ぎゆく人が鬱陶しそうに視線を寄越すのを感じて、彼を引っ張る。

「ちょ、琳ちゃん! いたいって」

 駅構内の、人の少ない場所に連れていく。
 やがて琳は唐突に立ち止まると、陽のことを強く抱きしめた。

「陽くん、はるくん……っ」

 涙がでて止まらなかった。
 一年半、探した。見合いと仕事の隙間を縫って、あちこち歩き回った。だけど彼の実家を知らないし、彼の新しい職場も知らない。ネットでかろうじて彼のちいさな個展情報を見つけて足を運んだが、陽のことを聞こうとしても誰にも教えてもらえなかった。

「琳ちゃん、くるしい」
「ごめん」

 慌てて彼の体を離す。自分と陽の間には小さな生き物が陽にしがみついてすやすやと寝ていた。
 赤子だった。

「……なに、この子」

 問うた琳に、陽は気まずそうな顔をした。あからさまに、まずい、と顔に書いてあった。

「だれ、の、子?」
「……俺のだよ」

 絶望にたたきつけられたような気分だった。
 なんで、どうして。
 オメガは抱かないって、じゃあ、オメガじゃない女性を孕ませたってこと? あんなに、抱かれてたくせに?
 何も言わずにいなくなって、自分のことを捨てて、一人だけ。
 羽衣に振られた時よりずっと辛かった。息の仕方がわからない。陽の首元には、自分があげたネックレスが鈍く光っているのに、彼は別の女を抱いている。
『いまさら琳ちゃん以外に抱かれようなんて思わないよ』
 そう、陽は言った。抱かれようとは思わないだけで、別の誰かを抱こうとは思ったんだろうか。

「りん、」
「触んないで」

 伸ばされた陽の手を叩き落とした。
 自分が探し求めていた一年半は、一体何だったんだろう。陽を愛していたあの時の自分は、なんて愚かだったんだろう。一緒に住もうよなんて言って、傍にいてなんて、馬鹿な男だ。陽は自分を好きだなんて、一度も言わなかったじゃないか。
 自分が陽に首ったけになっている間、陽は自分のことをセフレくらいにしか思っていなかったのだろう。
 最悪。
 悪態が口を突いて出そうになる前に、大きな泣き声が響き渡った。

「ふあぁぁん、うぇ、ひっ」
「あーあー、すず。泣かないで」

 陽に抱かれた赤子が泣く。泣きたいのはこっちだ、と大人げない言葉が喉元まで出かかって、無理矢理呑み込んだ。

「すーずちゃん」

 ゆらゆらと赤子を揺らしながら陽がなだめる。すず、と呼ばれた子どもは段々と泣き声を沈めて、またすやすやと寝た。

「琳ちゃん、ごめん、俺帰らないと」
「陽くん」
「ごめん」

 ねぇ、そのネックレスつけたままで、どこに帰るの。
 陽を引き留めたかった。だけどこれ以上傷つきたくもなかった。自分に背を向けた陽を見つめる。三歩ほど歩みを進めたところで、陽の体がぐら、と揺れた。そのままくずれ落ちて、膝をつく。崩れても陽は、自分の子供をぎゅっと抱きしめて守ることを忘れなかった。

「陽くん!」

 ふわ、と甘い香りがただよう。陽の呼吸があがっている。
(……なんで?)
 オメガのヒートだ。自分を誘う甘ったるい香り。発情したように頬を紅く染めて、苦しそうに息を吐いている。その呼吸一つだけで琳の性欲を煽った。
周りを歩いていく人たちがなんだなんだと眉を顰める。中にはアルファの人もいて、あきらかに興奮していた。じりじりと近寄ってくる男。琳は、陽のことをぎゅっと抱きしめて威圧フェロモンを放った。
 陽に近づくな。
 そんな思いが爆発した。アルファが後ずさりする。

「りん、ちゃ」

 熱に浮かされた陽の声が鼓膜をゆらす。あとすこし、理性を掴む手を緩めれば、人目をはばからずに陽を襲ってしまいそうなほど興奮していた。

「くそ、ッ」

 乱暴に言葉を吐き捨てて、持っていた鞄の内側にしまっていたアルファ用の抑制剤を取り出す。注射器を太腿に勢いよく刺した。冷静な思考はほとんど戻ってこないけれど、陽に襲い掛かりそうな衝動が若干鳴りを潜めたのがわかった。
スマホでタクシーを呼ぶ。なんでこんな日に限って自分は車を家に置いてきたんだろうと悔やまれるが、悔やんだってもう遅い。他よりちょっと値は張るものの、オメガのヒートにも対応できる特殊車体のタクシーを電話で呼びつけて、駅員に事情を説明して改札を出た。絶対に電車になんか乗せたくなかったし、これ以上他人の目に陽を晒したくもなかった。なるべく隠そうと、陽に自分の着ていたスーツを着せる。陽もすずも抱き上げて、速足で歩く。揺れるたびに陽が小さく喘いだ。

「陽くん、声抑えて」
「んっ、……むり、は、っ、ひぅ」
「しー」

 タクシーの運転手はフェロモン遮断と防音のパネルに覆われているので聞こえないが、それにしたって嫌だった。なだめようと彼の後頭部を撫でても、背中をさすっても喘ぐものだから琳もお手上げだった。
 自分のマンションにつくまで、すずはずっと穏やかに寝ていた。案外図太い子供である。
 陽を寝室に寝かせ、すずは琳が抱っこした。ぐずりそうになったけれど、背中をぽんぽんと叩けばまた寝てくれた。

「どこいくの、りん」
「すずを見てるだけだよ。陽くんはゆっくり休んで」
「いかないで」

 涙で潤んだ声が琳を引き留める。これ以上この部屋で甘い香りを吸っていては抑制剤が意味をなさなくなってしまうのに、陽がいかないで、という。唇を血が出るほど噛んで、ゆっくりと陽に近づいた。汗で張り付いた髪を撫でる。陽はその手に甘えるようにすり寄って、一人で気持ちよくなっていた。

「陽」

 名前を呼ぶだけで陽はびくびくと肩を揺らした。

「イったの?」
「だって、りんちゃ、なまえ」
「ん。かわいいね」
「んぅ」

 髪にキスをして、もう一度頭を撫でて、そのまま手で彼の目をふさいだ。キスをした時に飲ませたオメガ用の抑制剤が効くのをじっと待つ。抑制剤が効きやすい体質なのか、熱が徐々に引いた陽はくったりと倒れて、寝息を立てた。

「おやすみ」



 たっぷりと十二時間ほど寝こけた陽はうなだれながら寝室を出てきた。すずはその間ずいぶん大人しくしてくれていた。もちろん赤ちゃんの世話なんて琳はまったくわからないので、子持ちの同僚に色々と助言をもらったが、泣きやまなくて困るようなんてことは特になかった。すず、と呼び掛けて手を差し伸べると、小さな指が自分の指をきゅっと掴むのが愛おしく思えたほどだ。陽の子供だなんて忌々しい、と思っていた自分を殴りたいくらい、すずはかわいかった。目元が陽に似ていた。

「琳ちゃん……」
「あ、起きた? おはよう」
「ごめん」

 陽は静かに謝って頭を下げた。

「なにが?」
「迷惑、かけちゃったでしょ」
「なにも? 良い子だったよ、ね。すずちゃん」

 すずに同意を求めてみるが、すずは陽の姿を見るなり泣き出してしまった。やっぱり陽のほうが良いらしい。苦笑いを浮かべた陽が、おいで、と手を伸ばす。赤子とは思えないほどの力ですずは琳のところから脱出し、陽の胸におさまった。

「陽くん」
「うん」
「すずって、僕の子?」

 すずを慈愛のこもった目で見ていた陽が顔をあげる。今にも泣きそうに歪んだ。
 そうだったらいいな、と心のどこかで思っていた。根拠があったわけじゃない。でも、きっとそうだと、すずと過ごすほどに思えてきたのだった。
 陽は濁すでも、誤魔化すでもなく、うん、とうなずいた。


 琳が無意識のうちにビッチングしていたせいで、陽はオメガになった。正確にはオメガになりかけの状態だったらしいが、そんな体で琳に抱かれて、そこで完全に第二性がオメガに移ったという。基本的にゴムをして陽のことを抱いていたけれど、稀に中に出すこともあったから、そのときに妊娠したのだろうということだった。
 体の変化。起こるはずのなかった妊娠。いろんなものが一挙に陽を襲って、狼狽えた。

「本当は、琳ちゃんにすぐに打ち明けようと思ったんだよ」
「うん」

 琳に愛されている自覚があった。だけど、琳が愛していたのはアルファの自分だ。フェロモンなど出さなくて、ヒートなんか起こさない。妊娠する心配も無い。そういう関係でいたはずだ。それなのに、いきなりオメガになりました、子供が出来ました、なんて、恐ろしくて打ち明けられなかった。
 それに、琳が自分を愛していたのは刷り込みに近いとずっと思っていた。
 初めて会った日の琳は今にも死にそうな顔をして、生気のない瞳で疲れ切っていた。家に帰りたくない、と呟いて、見ず知らずの人間の住むボロアパートに移り住むくらいには正気じゃなかった。あんな立派なスーツを身につけている男がぼろいワンルームにいるのは、ちゃんと考えなくたって普通じゃないことくらいわかる。琳の家のほうがずっと綺麗で、過ごしやすくて、便利だったはずだ。だけど琳は、自分の家が好きじゃなかった。
 琳は、愛に飢えていた。
 厳しい家。友達になれない同級生。振り向いてくれなかった運命。ありとあらゆるものが琳の傍にはなくて、だから、笑って琳を迎え入れた陽を好きになってしまうことなんて容易に想像できたのだ。傷につけこむように、陽は琳の内側に入った。
 それでもよかった。最初は見捨てられなくて、拾ったら面白そうだなという安易な考えで家に住まわせた陽が、犬のように自分に懐いてくれるのは可愛かった。顔が良い琳が、しゅん、とするのが本当に愛おしかったし、自分に美味しいものを食べさせようと惣菜を買ってくる健気さもくすぐったかった。陽だって、好きでもない人間を狭い部屋にいつまでも居座らせたりしない。ましてや抱きついて寝るなんて、絶対になかった。
 琳のことが好きだった。だから、刷り込みみたいに好きになってもらったってよかった。陽に愛されて、嬉しかった。

 琳が、寝言で誰かの名前を呼ぶまでは。

「ういくん、って、琳ちゃんの運命の番?」
「なんで、それ」
「寝ぼけて、俺のことういくんって呼びながら抱きしめてきたから」

 自嘲を含んだ笑いが漏れる。
 ういくん。その声があまりにもやさしくて、すぐにわかった。琳を選ばなかった、琳の唯一。魂の片割れみたいな、特別な人。
 琳が自分を愛してくれているのはわかっている。だけど、琳はずっと、そのういくんとやらを無意識に求めている。それがわかってから、同棲したいという琳に頷くことが出来なかった。愛されたいと思うくせに、誰かの代わりなんてまっぴらごめんだった。

「琳ちゃんを責めてるみたいでいやだけど、だから、子供出来たなんて言えなくて」

 妊娠がわかってから、タイミングを見計らって琳の傍から離れた。芸術関係の道に進むことに反対されて、意見が衝突して飛び出た家にダメもとで縋った。両親は自分のことを心配していただけで嫌っていたわけではなく、出産から育児まで色々手伝ってくれた。自分の母は、さすが自分を育て上げただけのことはあって頼もしい。
 琳の名前の、音を貰って「鈴」と名前を付けた。読み方はすずにした。
 いざ自分の元に子供が来てくれれば、すずは可愛くて可愛くて、本当に可愛かった。目にいれても痛くないほどに。
 琳に会えないことは寂しい。すずを産んでからやってきたヒートはずっとぐずぐずに泣いていた。でも、すずを産んだことを後悔したことはなかった。認知して欲しいとか、養育費を払ってほしいと思った事も無い。すずと生きていけるなら、それが最善だった。運命を忘れて自分だけ愛してくれなんて我儘を琳には言えなかった。曲がりなりにも陽はアルファだったから、オメガのフェロモンの強さは重々理解しているつもりだ。普通のオメガでさえ理性が焼ききれそうになるのだから、運命と名がつくほどの相性であればどれだけ自分に強い影響を及ぼすのか想像に難くない。琳の心は琳のものだから。それが運命なんて都合のいい言葉で片付けられたとしても、琳が「ういくん」を忘れていないのなら、仕方がないことだった。
 仕方がない。わかっているけど、だからと言って割り切れるかと言われればそういうわけにもいかない。ただ陽と琳の二人で付き合っていくだけなら、「やっぱり忘れられない人がいる」と捨てられても傷つくのは陽だけだ。元々傷につけこんだだけなのだから、泣くだけ泣いて割り切ればいい。だけど今は鈴がいる。自分たちだけで完結する話ではないのだ。
(父親は、きっといたほうがいい)
 馬鹿でもわかる。いないよりはいたほうがいい。暴力をふるうなら話は別だが、琳はそういうタイプでもない。子供に手をあげる人間が小児科になんて勤めないだろう。陽は仕事も安い給料だし、住んでた家はボロアパートだ。裕福な暮らしを鈴に保証できる人間じゃない。琳がいてくれた方がずっと心強い。
(でも俺は、琳ちゃんに、鈴を好きになってほしいんだ)
 鈴のことをどうか嫌わないでほしい。愛しい愛しい自分の娘を、父である琳にも愛して欲しいのだった。だけどいつか、羽衣のことを忘れられない琳が鈴のことを疎ましく思う日がくるかもしれない。
 会わないつもりだった。会わせないつもりだった。
 今が、最後のチャンスなのだ。陽が、琳から離れるための。
 番にもなっていなくて、鈴は自分の父親のことなんて知らなくて、まだ陽の傷が浅い、今のうちに離れておきたい。いつか自分も琳のことを忘れて、新しい誰かと付き合って、番になれたらそれがいい。自分みたいなアルファ上がりのオメガなんて可愛げも柔らかさも無いから、アルファが好きになってくれるかは分からないが探してみる価値はあるだろう。

 なんて、色々御託を並べてみても結局自分は、琳に軽蔑されるのが恐ろしいのだ。勝手に逃げた自分を、勝手に鈴を産んだ自分を見放されるのが怖いだけなのだった。

「すずを見てくれてありがとう。俺もう帰るから」
「待って」

 背を向けた陽の服を小さく琳がつかんだ。陽はそれでも振り返らない。
 はじめて出会った日は白シャツにジーンズという緩い格好だった。その格好で、彼はいつだって笑って出迎えてくれた。名の如く明るく、安心するような笑みを浮かべていた。へらへら、ちゃらちゃらしているように見えて、琳のことをよく見ている。人にひっついて寝るのが好きで、抱くとエロくて、かっこよくて、かわいくて、羽衣ではもう到底代わりになれないような、琳の唯一。
ここで手を離したら、きっともう一生会えない。それが分かっていたから手を離すことは出来なかった。

「なに、琳ちゃん。養育費とったりしないよ。もう会わない」
「僕は会いたい」
「何言ってんの」
「幸せにする。鈴も、陽くんも。幸せにしたいよ、一緒にいたい」

 お願い、陽くん。
 懇願すれば、陽はしばらく黙り込んで、観念したように振り返って仕方ないなぁ、と笑った。

「琳ちゃんみたいな世間知らず、俺しか手に負えないか」
「せ、世間知らず……?」
「世間知らずで、馬鹿だもんね」
「僕に馬鹿なんて言うの陽くんだけだよ」
「あはは」

 ひさしぶりに笑った陽を鈴ごと抱きしめる。腕の中で、苦しい、と声がした。手放したくないと思った。逃がさない、とも。陽をレイプしたあの夜のように無理矢理はしたくないけど、かといって陽の手を離すこともできない。
『じゃあさ、ここに住む?』
 居場所を与えられたあの日から、琳の帰る場所は陽のいる場所なのだから。


 琳は陽の両親にこっぴどく叱られた。陽の父に至っては、琳を殴りかからん勢いで怒っていたようだが、陽がどうにか宥めていた。琳は殴られずに済んだが、その代わり言葉に何度も殴られた。陽の苦労を思えばそれも仕方ないことだが。

「息子をよろしく頼む」

 散々言われた後で、陽の父は頭を下げた。琳は感極まって泣いた。幸せにします、と答えて。
 琳の両親にも報告した。結婚する、子供がいるとそれだけ。父はそうか、と言っただけだった。陽が挨拶しに行きたいと言ったが、あの両親にそんなのは不要だ。琳のことをまだ自分の子供だと思っているかも妖しいのに。
 両家への挨拶を済ませて、最後にやったことは引っ越しだった。琳の住んでいるマンションに移り住んでも良かったが、あの家には羽衣との思い出がほんの少しながら残っている。すべて陽との思い出にしたくて、新しい部屋を買った。鈴の子供部屋も設けられ、かなりいい。引っ越してから、いっそう琳は家に帰るのが楽しみだった。


「琳ちゃん」
「ん?」

 今琳は、夕飯を作っている陽を後ろから抱きしめている。充電だ。
(危ないからあっちいきな~、って言われそう)
 いつも言われるのだ。琳は揚げ物をしているときでも、何かを焼いている時でも陽にくっつきたがる。さすがに包丁を使っている時はくっつかないが、ずっと陽のことを見つめている。
 ところが今日は、いつもみたいにあっちに行けとは言われなかった。

「来週、俺ヒートだから」
「うん。……え?」
「ヒートだよ、ヒート。俺、オメガよ?」

 そうだった。そういえば。
 陽と暮らしていたときは彼はアルファだった。再会したときに彼はヒートを起こしたが、あれは琳に出会ったことによる突発的なものだったから二日も続かなかった。だから失念していた。そう、陽はオメガなのである。自分がオメガにした。ヒートのときに項を噛まないと番は成立しないため、まだ番ではないというのも、実は琳は忘れていた。陽はとっくに自分の番だと思っていたのだ。

「わ、わかった。具体的にいつとかわかる?」
「十日からかな」
「仕事、あ、電話、休み」
「琳ちゃん落ち着きな?」
「落ち着いてらんないよ! なんで陽くんはそんなに落ち着いてるの!」
「だって初めてじゃないもん」
「可愛い! あざとい!」
「あはは、ありがと」

 ソファに投げ捨てられていたスマホを取り、職場に電話をかける。番のヒート休暇の申請はどうやったらいいか、と上司に聞き、明日書類渡すから記入しろ、と言われた。病院という場だから、必ずしも全日程休みを取らせてやれるかはわからないが、なるべく配慮して調整する、とのことである。電話が切れる前、次はもう少し早くいってくれると助かる、と言われた。まったくだ。来週なんて、あまりに急である。
 電話を切ると、スマホを放り投げて再び陽を後ろから抱きしめた。

「陽くん、休み取れそう。二日くらい出勤しないとかもしれないけど、基本家にいるからね」
「えっと……、琳ちゃん仕事休むの?
「え、休むよ。なんで?」

 番のヒートに休みを取らないアルファなんているはずがない。
 アルファというのは愚かな生き物だ。番がこの世のすべてである。こんなことを言うのは正直よろしくないかもしれないが、実を言うと肉親よりも番。仕事よりも番。自分の命より番である。ヒートのときに仕事なんてやってられない。
 陽だって元はアルファなのだから、そういう感覚のもとで生きていると思っていた。

「俺は琳ちゃんの服、洗濯しないでほしいって言おうと思っただけなんだけど」
「服? なんで。僕がいるのに」
「だって多分、巣作りするし。てゆーか仕事休んでくれるなんて思ってなかったから」

 心の底から、琳が仕事を休むなんて思っていなかったという様子の陽に琳は少し腹が立った。自分の愛は舐められている。

「休む予定だったなら、もっと早く言えばよかったね。ごめん琳ちゃん」
「そんなのはいいけど、休むと思わなかったってなんで? 僕こんなに陽くんのこと好きなのに、まだ信じてもらえてないの?」
「えーっと、はは」
「笑ってごまかさないで!」

 コンロの火を消して、鍋と向かいあっている陽の体をくるりとひっくり返す。

「陽くん」
「……ごめんって。疑ってるとかじゃなくてさ」

 疑ってるわけじゃ、ないんだよ。
 陽にしては珍しく弱々しい声で、琳の胸元に縋りつきながら言った。
 疑ってるとか疑ってないとかじゃなくて、陽にとってそもそもヒートは自分一人で乗り切るものという認識がついてしまっている。琳の元を離れてから、陽がヒートを迎えたのは鈴を産んでからの二回。鈴を両親に預けて、自分はホテルを取った。オメガのフェロモンが漏れない部屋と、番持ちのアルファだけが勤務するホテルで、ここはなんと保険適用なのである。優しい。そこに一週間寝泊まりした。といっても、ずっと自分を慰め、疲れて眠って、起きてまた慰めるの繰り返しだったけど。
 琳にもらった服を全部カバンに詰めて、ネックレスも二つとも持ってホテルにいった。もちろん、琳にもらったスニーカーを履いて。
 貰った服はとっくに琳の匂いなんかしない。かつてはうっすらと抱きついてきた琳の残り香があったものの、洗濯すればそれは当然消えてしまう。ネックレスもスニーカーも、結局身につけているのは自分であって琳ではないのだから、琳の香りなんてするはずもない。
 陽が縋れるものがそれしかなかったから、持っていっただけのことだ。
 引かない熱を内包したまま、琳にもらったネックレスを握り締めて後ろを慰めた。ホテルにはディルドやローターといった道具も用意されていたから、なるべく大きいディルドを穴につっ込んで、琳のほうが大きかった、もっといいところに当たった、とぐずぐず泣きながら抜き挿した。琳がかけてくれる言葉を思い出しながら、彼のセックスをなぞるように、自分であれこれ動いた。陽は琳のキスの仕方を覚えている。イきそうになると決まって彼はキスをするし、陽が中でイくと、ディープキスをしてさらに甘イキさせてくる。よくやる体位は正常位だけど、実は陽が上に乗って騎乗位するのも好きだ。主導権を陽に握られることを琳は嫌がらない。なにより、イった陽が崩れ落ちて体をくったりと預けるのが琳は好きだった。陽の髪を撫でて、またキスをする。
 琳とのセックスを頭の中で何度も再生した。気に入った動画を何度も見るみたいに記憶を手繰り寄せた。
頭の中の琳は優しい。陽に首ったけだった。間違っても、羽衣の名前なんて出さない。
 ヒートは大概五日ほどで収まる。一週間続く人もいるらしいが、それは個人差のようだ。五日経って、冷静になった自分の目に入るのは、琳にもらった服で作られたいびつな巣。服が少ないせいでスカスカだった。そこに包まったって琳の匂いはしない。
(こんなもの作ったって、琳はいないのに)
 いびつで、誰も帰ってこない巣があまりにも哀れで、こんなものを作った自分がみじめだった。ヒート明け、自分が一番最初にやることは作った巣をぐちゃぐちゃにして壊すことだ。
 ひとりで思い出して勝手に寂しくなる。かつてのヒートの話は、琳には言わなかった。責めているみたいだし、自分の自慰の仕方なんて恥ずかしいことを言いたくもない。
 とにかく、陽にとってヒートはすごく惨めなものだった。琳が一緒にいてくれて、時間の限り、めいっぱい愛してくれるなんてそんな幸福なことが連想できないほどには良い思い出が無いのだ。せめて琳のフェロモンくらいは欲しいな、と着た服を洗濯しないでね、と頼もうと思っていた。それくらいの我儘なら許されるだろうと思っていたのだ。

「……俺のために、休んでくれるんだね」
「何言ってるの陽くん、休むに決まってるでしょ。こんなに好きなのに」

 縋りつく陽をぎゅっと抱きしめた。それは、ヒートのときに陽が何よりも欲したものだった。


 予定通り十日から陽のヒートが来た。鈴は陽の両親にお願いした。簡単に取れる軽食も買いだめしたし、比較的きれいで、かつ着用済みの琳の服をかごに入れてある。準備は万端。なのに。

「なんでこんな日に限って……」
「もー、しかたないじゃん」

 琳は完全に外出用の格好をしていた。病院側がどうにかスケジュール調整をしたものの、どうしても十日は琳を休みに出来なかったのである。
(記念すべきヒートの初日なのに……!)
 連絡が遅かったこちらに圧倒的な非があるのだが、いかんせん琳はヒートの番を前にした愚かなアルファなので、当然上司の配慮やこちらの非について考えるよりも番を家に置いて出勤しなければならないことに対する怒りが大きい。

「ま、俺はヒート初日は割と軽いから。心配しないで。家でいい子に待ってるから」

 たしかに陽の顔は若干火照っている程度で、いつもとほとんど変わらない。普通に会話が出来る。フェロモンは強くなっているが、おそらく本格的なヒートが始まったらこんなのは比にならないだろう。

「陽くん、絶対外には出ないで。できればずっと寝室にいて。いい? お義母さんたちから電話がかかってきても出ないでね」
「わかったわかった」
「陽」

 うんざりしたように聞き流す陽の顔を掴んで、深いキスをした。がくんと腰が抜けた陽の体を支えて、キスをしたまま抱え上げ、寝室に運ぶ。とろんと揺れた陽の目に気付かないふりをして、ベッドにそっとおろした。

「いい? ここから動かないで」
「ん」
「いい子にしててね」

 こめかみに触れるだけのキスを落として、後ろ髪を引かれる思いのまま仕事に向かった。
 上司は琳を出勤させたものの、さすがにヒートの番がいるのは悪いと思ったのか検診と予約している患者の診療を終えるとすぐに帰らせてくれた。大事にしてやれよ、と声をかけられた。言われなくても、陽がうんざりするほど大事にするつもりだ。もちろん陽だけではなく鈴も。鈴がいつか大人になって、パパ嫌い、というようになったとしても大事にするつもりである。
 車を法定速度ぎりぎりで飛ばして帰ったマンションは、さすがにフェロモンの漏れは起こっていなかった。家賃が高いだけのことはある。その代わり、どこにも行けなかったフェロモンが玄関のドアを開けた瞬間、琳を襲った。
(うわ……ッ)
 一瞬で理性が吹っ飛びそうになる。慌ててドアを閉めて、寝室に向かった。寝室の扉を開ければさらにフェロモンが濃くなる。ベッドには、琳の服を丸く並べてその真ん中で必死に自分を慰める陽の姿だった。

「はる、」
「~~~~ッ」

 そっと声をかけると、陽の足がびくびくと痙攣した。琳に名前を呼ばれただけでイった。それも、琳の服をぎゅっと握りしめて。
(可愛い、かわいい……!)
 何が起こっているのかわからない様子の陽は、困惑したような顔を浮かべていた。それもまた可愛いのだから、自分の番はどうかしている。

「陽くん」
「んぇ、え、りんちゃ」
「ただいま。遅くなってごめんね」

 本当は予定よりずっと早いのだけど。そんなことはどうだっていい。
 ベッドに腰かけて、陽の頭を撫でた。全身性感帯になったように陽は少しの刺激に敏感で、肩をかすかに揺らす。これだけ敏感になっていれば、撫でた頭が汗ばんでいるのも納得だった。

「巣、作ってくれたの?」

 問いかけると、陽ははっと焦ったように暴れ出した。

「ちが、ごめ、こんなの」
「陽くん?」
「こんなの」

 作ったって、りんちゃんはいないのに。
 ヒートで情緒不安定になった陽がボロボロと泣く。陽が泣いているのを、そういえばセックスの時以外に初めて見た。
ヒートの熱に浮かされて現実が見えなくなった陽は、今自分の傍に琳がいることがわかっていない。琳がいなかった過去のヒートと同じように、目の前にいる琳は自分が生み出した幻覚だと思っている。巣を作ってくれたの? と優しく問いかける琳は目が覚めたらいなくて、自分がひとり、巣の前に佇むだけ。
 潜在意識に根付いた諦めや寂しさが、冷静ではない陽を襲った。
 作り上げた巣を構成する琳の服が陽の目に入った。壊してしまおう。どうせ、だれもこんな巣は求めてないんだから。

「陽、待って」

服に伸びる手を琳がつかんだ。そのまま陽を自分の腕の中に閉じ込める。

「壊しちゃうの? もったいないよ。こんなにきれいなのに」
「だって」
「僕はちゃんとここにいるよ? 僕も入れて欲しいんだけど、だめ?」
「だめじゃ、ない」
「うん、ありがと」

 陽の了承を得て、陽を抱きかかえたまま巣の中央に入った。琳からすれば自分のフェロモンが若干香るばかりで、特別安心するということはないが陽が作ってくれたと思うだけで愛しさで爆散しそうだった。琳のフェロモンで陽が安心してくれるのだという喜びが沸き上がる。考えれば考えるほど、陽が可愛い。

「いいところだね」
「ほんと?」
「うん。ほんと」

 舌ったらずになった幼い陽が腕の中で丸くなっている。実物がいるのに、陽は琳の服を離そうとはしなかった。

「巣づくりして待っててくれたんだね」
「ん、ぅ」
「ありがと。可愛いね、いい子」

 褒めて、キスして、彼の項に舌を這わせた。

「ねぇ、番にしてもいい?」
「つがい?」
「うん。陽のなか入って、奥突きながら項噛みたい」

 明け透けな言葉で懇願しながら、とっくにはち切れそうになったあそこを陽の太ももの間に擦りつける。もうスーツが悲鳴を上げるほど盛りあがっていた。

「ずっと僕の傍にいて、勝手にいなくならないで」
「ずっと?」
「そう。ずっと」
「いーよ」

 うっそりと微笑んだ陽が、琳と唇を合わせる。

「ずっと、すきでいて、ね」
「うん。うん……ッ」
「はは。りん、泣かないで」
「すきだよ。ほんとに、すき」


 がり、と皮膚をえぐる音がした。





「琳。なにか言うことは?」
「……全部可愛かった」
「そうじゃない」
「ごめんなさい」

 正座をする琳を、鈴を抱えながら見下ろす陽。すぐそばには、まだショッパーから出されていないベビー用品の数々があった。
 ヒートを終えて、陽の第二子妊娠が分かったのはほんの三日前のこと。琳は妊娠検査薬を持って打ち明けた陽を抱き上げ、泣きながら喜んだ。たった三日。まだ三日しか経っていないのに、琳は毎日紙袋三つ分ほどのベビー用品を買ってくる。哺乳瓶やベビーバスだけではない。ベビー服を大量に買うのである。
 赤子の成長は早い。すぐに服は着れなくなる。というかそもそも性別もまだわからない。なのに家には、大量のベビー服。

「こんなにあっても使いきれないでしょ」
「でも可愛かったから……。陽くんと血が繋がってるんだから、絶対なんでも似合うよ」
「そういう問題じゃないよ琳ちゃん」
「あ、鈴も着たらいいよ」
「サイズ考えな?」

 琳はバカだった。
(まぁこんなバカなとこも好きだなって思うんだから、俺も相当だよね)

「……だって、鈴のときはなにもしてあげられなかったから」
「うっ」

 それを言われると陽も言葉を飲むしかない。元はと言えば羽衣の名を呼んだデリカシーのない琳の寝言がすべて悪いのだが、何の相談も無しに行方をくらませたのは陽だ。産声をあげたときとか、そのあとの大変な生活とか、琳が経験するはずだったすべては陽が奪ってしまった。
 妊娠が分かったその日には寝室にベビーベッド二つ目が運び込まれた。鈴の分と、二人目の子の分である。琳は、それだけ子供に浮かれている。きっと鈴のときもちゃんと打ち明けていたら、こんな風に楽しみにいてくれていたのかもしれない。

「じゃあさぁ琳ちゃん」
「なに?」
「ベビー服はもういいからさ」

 しゃがみこんで、琳と目線を合わせる。腕の中の鈴が、う~と動いて琳のもとへ行きたがった。鈴はいつのまにか、琳のことが大好きである。鈴は琳に抱かれて、くふくふと笑った。こう見ると笑い方がどこか琳に似ている。

「それよりももっといいプレゼント、あげてほしいなぁ」
「もっといいプレゼント?」
「そう」

 一生に一度。人生最初の、一番重いの篭ったプレゼント。
そうたとえば、この子の名前とか。


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