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6-1:籠を開ける 後編

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 私は静かにシエルの人生の断片を聞いた。シエルは最後の方は顔を歪めて、迫ってくる何か大きなものを拒絶するように頭を振ったりしながらも、長く囚われてきた金の檻について告白を終えることができた。

「僕は所詮借金奴隷です。返済のために全てを投げ打っただけの屑です。もう手元には何も残っちゃいないんです。その上今じゃ、周りにある全てが怖い……」

 そう言いながらシエルは自身の首に片手をやった。皮膚の継ぎ目が歪んで見えるほどの回復魔法の跡は、彼が返済の為に受けてきた仕事によるものなのだろう。彼は自分の、青い血管だけが透けて見える骨ばった薄い手のひらを見ている。

「結局返済は間に合わなくて弟は買われていってしまいましたし、僕だってもう働けない。人を前にすると身体中が痛んで仕方ないんです。傷は無いのにズキズキ痛む。頭がクラクラして立っていられないぐらいで、絞められた首では呼吸もままならないんです」

 私とは目も合わせないで、シエルは話を続けていく。かつての記憶に認識を呑み込まれた彼の目が段々と色を変えて、輝きを増していくのが少しだけ不気味だった。その眼が私に影響を及ぼすことはもうないだろうが、強力な力を自覚できずにただ嘆くばかりなのに心ばかりの悲しさをも覚える。

「自分の姿だって分かりません。鏡を見る度、人と会う度変わっているような。忘れたくは無いんです、だって、だって僕は母と同じ色の髪で、同じ色の目で。確かに母はおかしくなっていましたし、もういませんけれど。僕が母の面影を抱えている限り、僕は優しかった母を忘れないで済んだはずなのに!」

 話しているうちに堰が切れたらしく、ボロボロと泣いたシエルは顔を伏せて拳を強く握り込んだ。逃げていく思い出のようなものを捕まえて手元に置いておきたい少年は何度もその手のひらに爪を立てていた。

 彼の目は完全に金色になってしまって、強大な魔力が泣ける巨人のように部屋いっぱいに立ち上がったのが見えた。砂嵐の中に迷い込んだかのような息苦しさは正にそのせいだ。

 頭上の明かりが何度となく瞬いた。床の木板が軋んで、粗末な手作りのローテーブルが悲鳴をあげる。ただ一人少年が号哭するだけで、私までその重みに潰されそうだな、とどこか好奇心を優先したい私がどこかにいた。

「どうして、どうしてこうなんだ!どうして奴らは僕を見る?なんで僕は成長できない?……どうしてこうも…僕は、……」

 時々顔を覆ったり涙を拭ったりしながら、八つ当たりみたいに布団に拳を叩きつける。白くて皮の薄い彼の手は、私よりも少し小さい。一見綺麗に切り揃えられた爪は、よく見ると噛み跡だらけでガタガタだ。
 ビュウビュウとうっとおしいほどなびく自分の赤毛を手で押えながら、私は背後のローテーブルの下に手を伸ばし、掴む。

 そっと、その幼さの残る手に本を持たせた。

「四百六十二ページを開いてごらん」
「……なぜ?」

 疑問を口にしたシエルが私を見て、一度だけその手が革表紙の本を撫でた。私は表紙と仕切り紙を捲り、目次を開く。

「シエルはまだ知らないみたいだけれど、絶対に知っておかなきゃいけないことが載ってる」

 シエルは目次の文字を追って小題を探しながら、細い指を分厚い本に宛がった。巨人のような魔力の山に睨まれながら、私は一度ベッドを離れて部屋の隅に置かれた化粧台の引き出しから古い手鏡を持ってくる。

 癇癪を起こした子供のように乱暴に握っていたシエルは文字を追って、少しだけその冷静さを取り戻したように見えた。

「見つかった?」
「いいえ…さっぱり。このページが、どうかしたんですか」

 開かれているのは、青、赤、銀、金と並ぶ魔眼の解説。ページの隅に描かれた古代文字をなぞると、白い眼球が四つ、空間に投写された。その一つをシエルに持たせ、私は鏡を突きつける。

 大分色を失って、もうほとんど元の緑色になっていた彼の目は、自分が手に持つ目玉の幻と鏡の中の眼を何度も見比べた。驚きに見開かれたその目に、黄金の輝きが戻ってくる。

 今までと比べ物にならないくらい重圧が重くなる。しっとり濡れた魅惑は、さながら薬物のように私を溺れさせんとまとわりついてくる。

 今はまだ主の制御下にないその魔力は、さながら砂漠に潜む毒蛇のようだ。残念ながら私にその毒は通じないので、荒ぶる粒状の魔力が頬を叩くことにさえ我慢すれば、後はシエルに技術と自覚という制御盤を与えるだけなので楽勝なのだ。

 私は資料の目玉と爛々輝くシエルの眼を指で指しつつ強調した。時間経過で具現化した資料は目の前から消え去り、再び書籍上の挿絵に変わる。

「分かるかな。図鑑の模型とシエルの目、同じなんだよ」
「そんな……」

 今度こそ彼の錯乱は鎮まったらしい。震える声色にはまだ自責と恐怖とその他諸々が残っているようにも感じられるが、魔力の猛りは完全に収まっている。けれど動揺からかあんまり強く握るから、ページにシワが寄ってしまった。本自体はもう絶版で手に入らない貴重な代物で、破れたりしては困るので取り上げてペラペラとページを捲る。

「魔眼っていうのは、発動すると色が変わるんだ。安心して欲しいのは、シエルの目は普段は綺麗な緑色だってこと。今まで自分が魔眼を使えるって知らなかったでしょう。だから制御できなくて、勝手に発動してた」

 左手でページを捲りながらもう片手で落ち着かせる為に背中をさすってやると、少しずつ重圧が軽くなっていった。布団の上に放り出された手鏡が鈍く部屋を映している。

「君のは一番力が強いやつ。能力が違ったら、魔眼を制御出来てない時点で死んでてもおかしくない」
「死ねていたら……」
「…そんなこと言わないで。殺す気も死なせる気めないよ。自分の能力が何かなんて、ここまで言ったら大体気付いてるんじゃない?分類的には、魅了に近いんじゃないかしら」

 開いたページを見せる。箱で区切られた幾つもの説明文の一つを指差す。対象と魅了の適正を持つ魔力が接触することで、魔力は自身の主への好意を増幅させる効果を持つ強力な精神魔法。使いこなすことができれば傾国を成すことも容易いが、何せ使いこなすことそれこそが難しいらしい。

「厳密に言えば違うだろうけどね。もっと、魅惑とか蠱惑とか、とにかく人を惑わせるもの。加虐欲を掻き立てて、夢中にさせるもの。自分の意思なんて関係なくね」

 シエルはただ呆然と話を聞いていた。一体彼が何を考えているのか、私には分からない。ただなんとなく、彼が自分に突き付けられた事実を受け止めようとしていることだけは理解できた。

「…主様…ねえ、僕は、僕はどうすればいいんですか。これが僕に備わった力だなんて、そんなの解放される術すらないじゃないですか!」

 心の底から悲鳴が上がっていた。慟哭が耳をつんざいたと同時に、潰れそうなほどの重圧が襲いかかってきた。能力を跳ね返すことには慣れたけれど、肩から背中にかかる圧を逃す方法がない。

 なんだか見覚えのある取り乱し方だった。異人の抱える能力は自分ではどうしようも無いし、確かに眼は一生私たちから離れることはないのだ。ずっと昔、泣いていた自分が思い出されるようで俯いた。

「……そんなに泣かないでよ」

 酷く惨めだったあの頃が蘇るじゃないか。

 人間の人生は短い。その大半を研究に費やしたって、エルフやドワーフ、魔族みたいな長命の種族の研究者の得た成果と比べれば私の過ごしてきた時間はそれこそ塵も同然で、彼らですら見つけることのできなかった異人の呪縛を解く方法は私にも分からないままだ。

 長い引きこもり生活の末、結局私は自己救済の方法を見つけられなかった。しかし一つだけ、私たちの抱える常人と異なる力を抑える良いやり方を私は知っている。

「あのね、良いかな。少しで良いから落ち着いて欲しいの。私は、知ってるんだ。君のそれは、能力が無いみたいに封じる方法があるんだ」

 私にはあまり効果がなかったが、もしかするとシエルになら使えるかもしれない。心からの同情と善行意欲の下に隠れる好奇心なんてものは追い払って、私は必死に話を続けた。

「そのためには被術者の魔力管理が上手くないといけないんだけど、君ならきっと出来るようになるから」

 足元に小さな砂漠を形成している、シエルの青白い魔力を見た。私のくるぶしまで浸かるほどの魔力が部屋の床に満ちている。それは正に静かな水面のようで、度々シエルの心情を映すように波紋を奏でていた。

「私が教えてあげるから。君が他人に、自分に怯えないで生きていけるように手伝うよ」

 話すうち、自分の語気が強くなるのを感じていた。腕を伸ばしてシエルの手を固く握る。治癒魔法の傷跡が歪な白い手がさらに白くなるくらい強く握っていた。

「だからね、お願いだから、…泣かないで…」

 慰めるつもりで話していたのに、そう言った私の声は懇願するように震えていた。縋るみたいに、祈るみたいに握っていたシエルの手を離す。自分の声が情けないくらい震えていて、それが恥ずかしくなったからだ。

「…ごめんね、強く握りすぎた」
「痛かったです」

 私に捕らえられていたシエルの左手には、赤っぽいピンク色の痕が浮いていた。泣き腫らして白目と目尻が赤くなった目が遠慮がちに視線を合わせてくる。

「僕をどうして買ったんですか。どうして助けようなんてしてくれるんですか」
「その場に居合わせたから。自分のいた建物で人が死にかけてるなんて、そのまま立ち去ったら後味悪いでしょう。人間ってのはそういうもんさ」
「そういうものでしょうか」

 間髪入れずにシエルがそう言った。一応の疑問形だった。

「そういうものだよ。だって、ほとんどの人がそう言ってるんだもの」

 会話を切り上げて、背後のローテーブルに積み上げていた洋服の数々を小脇に抱えて移動させる。

「それは?」
「洋服屋のおばあさんがいたでしょ。杖ついたあの人ね。昔の型だけど、って安く売ってくれたの」

 広げて見せた襟シャツには古めかしい木製ボタンが付いていた。

 確かに古めかしいけれど、薄く草模様の彫られて艶めくボタンだとか、型こそ古いけれど形の綺麗な様だとか色落ちしていないところとか、とにかく大切に保管されていたことが見て取れた。

 アンティークといっても過言じゃないような立派なものだ。肌触りも良いし、きっとシエルに似合うだろう。

「これ、そこのクローゼットにしまっておくから。明日の朝起きたらそこから好きなの取って着てね。下着の類は隣の棚に入れておくよ」
「ありがとうございます。でも、その…その畳み方は良くないかと…」

 私の背後にある布の山を指してそう言った。ぎこちなく私も振り向く。

 とりあえず、と半分に折られたズボン。筒みたいに丸められたシャツ。袖やら裾やらの飛び出た洋服の山を見れば、あちらこちらシワだらけになりそうだと分かった。

「……ごめんよ、家事とかあんまりしてこなかったから。でもね、ついさっきハンガー取ってこようと思ったところで…」
「もう動けますから、僕が自分でやります。主様はもう寝てください」

 ベッドから下りたシエルが覚束無い足取りでテーブルまでやってくる。山から幾らか引っ張り出して畳んでくれるようだ。

「分かった。ものすごく助かるよ!待っててね、今ハンガー取ってくるからね!」

 爆速で扉を開けて、大急ぎで倉庫まで走った。隅に積み上げられた木箱の中にあった木のハンガーを適当に掴んで部屋へ戻る。戻る途中、曲がり角で壁に腰を打って悲鳴を上げた。

「あぁハンガー、ありがとうございます」
「どういたしまして…」
「途中凄い悲鳴が聞こえましたが…大丈夫ですか?」
「ちょっと壁にぶつかっただけだから。うん、大丈夫だいじょーぶ」

 腰の左側を擦りながら入室した私を、シエルは気遣ってくれた。優しさに感謝しながら、持ってきたハンガーをテーブルに置く。カタンと音がしたと同時に、立ち眩みが襲ってきた。

 グルグル回る頭の中、今日の分の薬を飲み忘れていたことに気がついた。

「……今日はやっぱり、もう寝るよ」
「それがいいと思います」
「明日は魔力について教えてあげる。だからシエルも早く寝るんだよ」

 私がこんなこと言っている間もシエルの手は止まらない。揉みくちゃだった洋服の数々が、次々に綺麗な形で畳まれていく。

「分かりました」
「おやすみー」
「…おやすみなさい」

 そそくさと部屋を出て、扉が閉まる音を聞くや否や私は走った。

 ダイニングへ向かう。扉を開け放って、小走りに蛇口へ向かいながら食卓にある籠の中の粉薬を一袋、乱暴に掴んで封を切り、コップへ水を注ぐこともしないで口に含んだ。

 栓を捻った蛇口から勢い良く水が吹き出る。紛い物の水道に埋め込まれた水の魔石がギシギシと軋んでいた。水を掬い上げて薬と一緒に嚥下する。

 一瞬、昨日の夜にせっかく飲んだ薬を吐き戻したことを思い出したけれど、きっと大丈夫だと言い聞かせて飲み込んだ。

「ふぅ…」

 一息ついて、薬が体に回る様を想像した。私が握る手網から逃げようとする膨大な魔力が鎮められる。

 吐いても大丈夫なように、一応水道のところで少し待っていた。けれど案の定何も無かったし、震えて割れそうなくらいだった蛇口の魔石もすっかり静かになっていた。
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