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第三幕 神は天に居まし、人の世は神も無し
42.シーン3-8(寄る辺のない世界)
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「私は」
私は、全然。
そう言おうとして、私の口は不意に止まった。
いつか誰かと結婚して、どこかに腰を落ち着けて、家庭をつくる。子供を産んで、家を守る。人生って、本当にこんなもんだったっけ?と、自分の未来とアリエの未来のわずかな溝を、違和感が過ぎていく。
これからのことを思うたび、ふと立ち止まって、考えてしまう。結婚して、私は一体どうするというのだろう。幸せになるのだろうか。受験前の高校生でもあるまいし、そんなことをして一体何になるのかなんていう、どうしようもないことを感じてしまう。
この世界と自分の間に時々生じる居心地の悪い微かな相違が、いつの間にか亀裂となって心の奥に溝を作る。この世界と自分の間に時々感じる薄気味悪い違和感が、胸のすき間で影となってひしめいている。
どこかの誰かと結ばれて、子供を産んで家庭を育み、アリエとしての役目を終えて、いつの間にか死んでいく。そう考えると、なんだか酷くやるせなくて、どこか少し恐ろしい。
私はこの世界の為に生き、この世界の為に死んでいくのだ。この、確かなものなど何もない、空しい幻想世界の中で。
私は、好きでアリエになったのではない。アリエとして過ごすに値するものを、まだ何も、見つけていない。
「私は、この世界で誰かと幸せになるつもりはありません」
先ほど言おうとしていた言葉の代わりに口から滑り出てきた答えに、我ながら呆れてしまった。思わず、苦く小さな笑みがこぼれる。私はなんて強情なのだ。
「この世界は、曖昧で、いい加減です。そんな不確かな世界の中に、心を置ける居場所なんて何処にもありませんよ」
この期に及んで何をそんなに拗ねているのかと諦めている自分の向かいで、それでも譲れぬ何かがあると一歩も退かない自分がいる。どうにもならない切なさに、私はそっと笑うしかない。
キュリアさんは少しだけ難しそうに考え込んでから、穏やかに息をついて優しい顔になった。
「不確かな世界だからこそ、誰かと心を共有して、確かめながら生きていくという方法もあるんですよ」
曖昧な世界だったが為に、最愛の人をなくしたはずの彼女の言葉は、私が受け止めるには少しばかり重かった。彼女の穏やかな微笑みに、儚い光が淡く差し込む。もしかしたら、これは彼女の経験ではなく、彼女の願いなのかもしれない。
しかし、私は胸の中で、首を静かに横に振った。不確かな世界ならば、確かめられる相手も、確かめられるものも、何も存在しないのではありませんか。
生きたことも、死んだことも、誰かと過ごしたはずの日々も、その思い出が詰まった世界も、全てが実体のない幻だ。そんなものをどうやって共有し、どうやって確かめ合えと言うのだろう。きっと誰とも共有することは出来ないし、確かめ合える日は来ない。そんな空しい虚ろな相手に、何を思って共に生きろというのだろう。それならば、一人でいるのと変わらない。存在している意味がないなら、私は要らない。
よほど深刻そうな表情をしていたのか、キュリアさんは私の顔を見て苦笑した。
「まあ、貴女はまだ若いのですから、あまり失うことを恐れていてもいけませんよ」
まさか、私は喪失を恐れているのだろうか。再び手にしたものが、いつかまた指の間からすり抜けて、消え去ってしまうことが恐いのだろうか。そんなもの、当たり前のことではないか。
私はもう、確かなものだと信じていたはずの全てが跡形もなく消えてしまうだなんて御免だ。世界にある全てのものは、本当にいい加減に出来ている。無責任で、何も保証してくれない。彼女は伴侶の死という喪失を消化することができたのだろうか。
すっかり考え込んでしまった私を見て、キュリアさんはやっぱり何だか笑っている。アリエはまだ十六歳、子供らしさが抜けない少女の背伸び具合が可笑しいのかもしれない。
大人の女性の何かを悟った微笑みに、私は少し気恥ずかしくなってしまった。自分の未熟さを突きつけられ、妙に負けた気がしてしまう。風潮や文化からあまり容認されているとは言い難いが、しかしもしも私が女の身でいなかったなら、私は彼女を放っておかないような気がするのだが、どうだろう。むしろ、面倒を見てほしいのだが、どうだろう。
「えへ、いいですよもー、私がどうしようもない奴になっちゃったら、キュリアさんに面倒見てもらうんだからー」
沈んでしまった雰囲気の払拭も兼ねて、私は冗談混じりに笑っておいた。私ときたら、これでは完全に妹の地位を隠れ蓑に遊び呆けるプー太郎の台詞である。
「まあ、何をおっしゃるんですか。そんなこと言ってる間に、私なんかすぐお婆さんになってしまいますよ。そんなこと言ってないで、早く借金返済してくださいね」
対するキュリアさんも、軽く受け流して笑い返す。流して笑うついでに、彼女は恐ろしい一言を最後にさらりと付け加えた。出来る大人の女は怖い。
「老け込んだ話してるとこ悪いんだけど」
話の区切りと悟ったのか、発生した会話の途切れを狙いすましてミリエがさっと割り込んだ。またもや二人きりの世界に入り浸ってしまったらしい。
「着いたわよ」
外を確認してみれば、人や荷物や船で賑わう港と、青い海が広がっている。
「失敬な! ギリギリ三十代ですぅ!」
「ギリギリは余計です」
アラフォーだって十分魅力的である。
ちなみに、そもそも私には浮わついた話など何もないので、結婚すること自体について悩む前に、アリエにモテ期がやって来ないことについて悩んでおくべきなのである。このままいけば、何も心配することなどなく、アリエは一生独女である。暗い話になる前に、誰か、そこを突っ込んでほしかった。何だかとっても恥ずかしい。
本当にアリエが一生独女としてその身の純潔を貫いたまま生涯の幕を閉じた場合、私はアリエに向かって心の底から土下座しておこうと思う。いやむしろ、死んでしまってからではアリエは何も受け取れないので、これから何年かごとに独女記念日を設けておいた方が無難と言える。二十歳の独女記念日に、私はアリエのために振り袖を拵えてみようと思うが、どうだろう!
何だかとっても夢がある気がしなくもない。そうと決まれば、これからしばらく寝る間も惜しんで振り袖準備の作業である。その為に、まずは目指せ借金無事完済である。
私は、全然。
そう言おうとして、私の口は不意に止まった。
いつか誰かと結婚して、どこかに腰を落ち着けて、家庭をつくる。子供を産んで、家を守る。人生って、本当にこんなもんだったっけ?と、自分の未来とアリエの未来のわずかな溝を、違和感が過ぎていく。
これからのことを思うたび、ふと立ち止まって、考えてしまう。結婚して、私は一体どうするというのだろう。幸せになるのだろうか。受験前の高校生でもあるまいし、そんなことをして一体何になるのかなんていう、どうしようもないことを感じてしまう。
この世界と自分の間に時々生じる居心地の悪い微かな相違が、いつの間にか亀裂となって心の奥に溝を作る。この世界と自分の間に時々感じる薄気味悪い違和感が、胸のすき間で影となってひしめいている。
どこかの誰かと結ばれて、子供を産んで家庭を育み、アリエとしての役目を終えて、いつの間にか死んでいく。そう考えると、なんだか酷くやるせなくて、どこか少し恐ろしい。
私はこの世界の為に生き、この世界の為に死んでいくのだ。この、確かなものなど何もない、空しい幻想世界の中で。
私は、好きでアリエになったのではない。アリエとして過ごすに値するものを、まだ何も、見つけていない。
「私は、この世界で誰かと幸せになるつもりはありません」
先ほど言おうとしていた言葉の代わりに口から滑り出てきた答えに、我ながら呆れてしまった。思わず、苦く小さな笑みがこぼれる。私はなんて強情なのだ。
「この世界は、曖昧で、いい加減です。そんな不確かな世界の中に、心を置ける居場所なんて何処にもありませんよ」
この期に及んで何をそんなに拗ねているのかと諦めている自分の向かいで、それでも譲れぬ何かがあると一歩も退かない自分がいる。どうにもならない切なさに、私はそっと笑うしかない。
キュリアさんは少しだけ難しそうに考え込んでから、穏やかに息をついて優しい顔になった。
「不確かな世界だからこそ、誰かと心を共有して、確かめながら生きていくという方法もあるんですよ」
曖昧な世界だったが為に、最愛の人をなくしたはずの彼女の言葉は、私が受け止めるには少しばかり重かった。彼女の穏やかな微笑みに、儚い光が淡く差し込む。もしかしたら、これは彼女の経験ではなく、彼女の願いなのかもしれない。
しかし、私は胸の中で、首を静かに横に振った。不確かな世界ならば、確かめられる相手も、確かめられるものも、何も存在しないのではありませんか。
生きたことも、死んだことも、誰かと過ごしたはずの日々も、その思い出が詰まった世界も、全てが実体のない幻だ。そんなものをどうやって共有し、どうやって確かめ合えと言うのだろう。きっと誰とも共有することは出来ないし、確かめ合える日は来ない。そんな空しい虚ろな相手に、何を思って共に生きろというのだろう。それならば、一人でいるのと変わらない。存在している意味がないなら、私は要らない。
よほど深刻そうな表情をしていたのか、キュリアさんは私の顔を見て苦笑した。
「まあ、貴女はまだ若いのですから、あまり失うことを恐れていてもいけませんよ」
まさか、私は喪失を恐れているのだろうか。再び手にしたものが、いつかまた指の間からすり抜けて、消え去ってしまうことが恐いのだろうか。そんなもの、当たり前のことではないか。
私はもう、確かなものだと信じていたはずの全てが跡形もなく消えてしまうだなんて御免だ。世界にある全てのものは、本当にいい加減に出来ている。無責任で、何も保証してくれない。彼女は伴侶の死という喪失を消化することができたのだろうか。
すっかり考え込んでしまった私を見て、キュリアさんはやっぱり何だか笑っている。アリエはまだ十六歳、子供らしさが抜けない少女の背伸び具合が可笑しいのかもしれない。
大人の女性の何かを悟った微笑みに、私は少し気恥ずかしくなってしまった。自分の未熟さを突きつけられ、妙に負けた気がしてしまう。風潮や文化からあまり容認されているとは言い難いが、しかしもしも私が女の身でいなかったなら、私は彼女を放っておかないような気がするのだが、どうだろう。むしろ、面倒を見てほしいのだが、どうだろう。
「えへ、いいですよもー、私がどうしようもない奴になっちゃったら、キュリアさんに面倒見てもらうんだからー」
沈んでしまった雰囲気の払拭も兼ねて、私は冗談混じりに笑っておいた。私ときたら、これでは完全に妹の地位を隠れ蓑に遊び呆けるプー太郎の台詞である。
「まあ、何をおっしゃるんですか。そんなこと言ってる間に、私なんかすぐお婆さんになってしまいますよ。そんなこと言ってないで、早く借金返済してくださいね」
対するキュリアさんも、軽く受け流して笑い返す。流して笑うついでに、彼女は恐ろしい一言を最後にさらりと付け加えた。出来る大人の女は怖い。
「老け込んだ話してるとこ悪いんだけど」
話の区切りと悟ったのか、発生した会話の途切れを狙いすましてミリエがさっと割り込んだ。またもや二人きりの世界に入り浸ってしまったらしい。
「着いたわよ」
外を確認してみれば、人や荷物や船で賑わう港と、青い海が広がっている。
「失敬な! ギリギリ三十代ですぅ!」
「ギリギリは余計です」
アラフォーだって十分魅力的である。
ちなみに、そもそも私には浮わついた話など何もないので、結婚すること自体について悩む前に、アリエにモテ期がやって来ないことについて悩んでおくべきなのである。このままいけば、何も心配することなどなく、アリエは一生独女である。暗い話になる前に、誰か、そこを突っ込んでほしかった。何だかとっても恥ずかしい。
本当にアリエが一生独女としてその身の純潔を貫いたまま生涯の幕を閉じた場合、私はアリエに向かって心の底から土下座しておこうと思う。いやむしろ、死んでしまってからではアリエは何も受け取れないので、これから何年かごとに独女記念日を設けておいた方が無難と言える。二十歳の独女記念日に、私はアリエのために振り袖を拵えてみようと思うが、どうだろう!
何だかとっても夢がある気がしなくもない。そうと決まれば、これからしばらく寝る間も惜しんで振り袖準備の作業である。その為に、まずは目指せ借金無事完済である。
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