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第三幕 神は天に居まし、人の世は神も無し

54.シーン3-20(鎖)

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 頭部に鈍い痛みが走り、私はどんよりと覚醒した。
 静かに開いたまぶたの上から柔らかな木漏れ日が差し込み、そのまた向こうに、仰ぎ見るに相応しい晴々とした青空が広がっている。

「もう、やっと起きたわね! だからダメだって言ったんじゃないの!」

 ぷりぷりと怒りながら、私を心配していたミリエが顔をのぞきこんでくる。上体を持ち上げると、周りを緑に囲まれた不自然な荒れ地が少し遠くに広がっていた。
 どうやらミリエは、気絶して砂地に野ざらしとなってしまった私を、手近な場所まで避難させてくれたらしい。骨は拾わないだとか何とか言っておいて、なんともまあ可愛いことをしてくれる。

 ニヤつく私を目撃したミリエが目を剥き、手元に置いてあった杖を引っ掴んで振り回した。危ないからと身を捻ってかわしたものの、避けきれなかった杖の先が後頭部をさっと掠め、次の瞬間するどい痛みが頭に走る。

「倒れた時に頭打ったのかなぁ。なんか痛……」

 先程も感じた痛みを確かめながら、私は後頭部をすりすりとさすってみた。こぶになっているような無いような、思いの外まずい倒れ方をしたのかもしれない。

「気を付けなさいよね、もう」

 つんつんしているミリエに言われ、私は渋々頷いた。

 渦巻く砂塵とマナの激しい流れが消えた景色は、時の流れが止まったようにただただ静まり返っている。ため息をついてぼんやりと木に体を預け、私は荒れ果てた地にひとり取り残されていた彼女のことを思い返した。

 歪みの存在だかいった星の下に生まれつき、マナの共振とかいうものから外されてしまった彼女は、そんなマナに縛られ続けた生前を送ってきただけでなく、死後も変わらずマナに縛り付けられ、空白の世界で孤独とともに解き放たれる日を待っていた。

 マナはあらゆる命に実りを与え、あらゆる命の実りを奪い、縁もゆかりもない人と人を繋ぎ合わせ、それと同時にこうして孤独の中に人を繋いで閉じ込める。まるで呪縛か鎖のようではないか。そう、マナはきっと鎖なのだ。
 共振者を繋ぐというマナの絆が私には呪いの鎖に思えてならなかったが、まさしく命を繋ぐ運命の鎖なのだろう。暖かな籠のなかに繋ぎとめて外敵から命を守ってくれるかわりに、籠の外へと連れ出してくれることもない。

「やっぱり共振者を繋ぐ力は運命の鎖なんじゃないかな」

 誰に問うでもなく静かにそう呟く私に、それが聞こえたらしいミリエが運命の糸じゃなくて?と不思議そうに聞き返してくる。運命という繋がりに淡い憧れを抱く妹の素直さが可愛らしくて、ひねくれているのであろう私からは思わず小さな笑みが漏れる。

「糸じゃ細くて簡単に切れちゃうよ?」
「えー、それは嫌よ」
「でしょ? しっかりと繋ぎとめておくのなら、鎖じゃないと。重くて、頑丈な、ね」

 私の多分に嫌味を込めた発言に、ミリエはうーんそうなのかしらと難しい顔でうなる。
 もちろん、外の世界は過酷だし、自由には自己責任が付きまとう。人の手の届かぬ天より与えられた神秘の力、固く確かに結んでくれる正規の力、何者にも干渉されない絶対の力であるからこそ、運命は素晴らしい。百万回生まれ変わったところでまず当たることなど無いであろう外れくじさえ引かなければ、ひとまず共振者という仲間くらいは与えられる。平穏な籠の中で生きるという選択肢が、悪いものであるとは呼べない。別に、リスクを負ってまでそこから出なければならない必要性なんて、どこにもないのだ。ただ、一言だけ添えるならば、運命がその約束をずっと守ってくれるという保証はない。

 一息入れて横を見ると、そばにはオルカも腰を下ろして休んでおり、何だかんだとカインも少し離れたところに控えていて、フルーラさんも私を待っていてくれたようだった。不意にオルカと目が合うと、彼は心なしか気まずそうな顔をした。

 何やらそわそわしている彼を不審に思いながら、待たせたことを軽く詫びて、私はさっと立ち上がった。太陽の高さを見ても、それほど時間は経っていないに違いない。聞けば、事が終わり、ここまで移動した後、ほんの一時休んでいただけのようだ。

「もう大丈夫なの?」

 オルカがそれはそれは心配そうに私を見上げる。妙に私を気遣うオルカに問題ないとの返事をすると、しばらくしてからミリエとオルカとフルーラさんも腰をあげた。

 ちなみにこれは少ししてからこっそりオルカが教えてくれたことなのだが、野ざらしの私を気にかけたミリエは、率先して私をどこかへ避難させようと動いてくれたらしかった。私の両脇を意気揚々と担ぎ上げてくれたミリエは、次の瞬間うっかり手を滑らせてしまったのだそうだ。

 運悪く私の頭部が当たる場所には石のように硬くなって盛り上がった土があり、結果、相当危ない激突音がしたという。ミリエ酷い! ちなみにオルカはもう駄目だと思ったという。何が駄目か言ってみたまえ。

 オルカが距離を置いていたカインに帰ろうよと声をかけた。彼は頭でも痛いのか、軽く俯き額をおさえ、木にもたれるようにして立っている。私たちが立ち上がった気配にも気が付かなかったらしく、オルカに声をかけられて、彼はすぐさま当てていた手を下ろして顔を上げた。大丈夫かと皆が問うが、こんな時の彼の答えはもはやお約束とも言える。

「他人の心配してるけどアンタこそ本当に大丈夫なの」

 同様に大丈夫かと声をかけた私を見て、ミリエが眉をひそめて再度私を心配する。

「強いて言うなら後頭部の打撲、ここ数日の寝不足による疲労蓄積、強打による後頭部内出血、治しかけの左足首軽度捻挫、あとは頭のたんこぶくらい」
「……大丈夫そうね」

 何が。

 カインを取り巻くマナの流れは、やはり聖都の時と同じくいつにも増して不吉な気配を漂わせていた。狂った魔力も彼一人には収まりきらぬとばかりにごうごうと猛り渦巻いている。

 景観を変えてしまうほど存在していたはずの多量のマナは、はてさて一体どこに消えたというのだろうか。先ほど荒野のど真ん中にあったものと規模はさすがに違えども、君のそれとよく似ているねと、誰かいつか言い出さないかと私は割りかたハラハラしているのだが、しかし誰もそんなことは口にしない。ここまでくるとさすがに何も言われないのは不自然だとも思えるが、なるほど、ここまできたのだから、皆はあえて何も言わないのだと思われる。

 言ってはならない。口に出してはならない。禁句、とはまた少々異なる。
 言霊なんてものがある。言の葉には、力があるのだ。

 例えどれほど優れたものをもつ人がいようとも、彼らが去ってしまえばそれらも全て消えてしまう。獲得した知識や物を教え合い、知恵として語り継ぐ。そうして人は、人と人との繋がりをより緻密で強固なものへと築き上げて生きてきたのだ。それらをよりよく構築していく上で必要不可欠となる言語、言の葉は、鋭い爪や牙や硬い甲を持たない我々人類を、この酷薄な世界に存続せしめる強大な武器なのだ。

 人を生かし、人を殺す力を持った言の葉たちを、人は特別なもの、半ば神性にも近いものとして扱ってきた。だから、不用意に畏れ多い言葉を口に出してはならないのだ。

 邪なるものの気を引かないため、祟られないため、現実にしないため。人は敢えてそれを口にしない。忌み言葉、いわゆる一種の験担ぎだ。

 このまま街へ戻って大丈夫なのかとミリエがカインに確認する。何やら、マナの正常化に少しばかり手こずったらしい。カインは問題ないと答えた。そして、手間取ったことを短く詫びた。やはりまだ気分が優れないせいか、いつにも増して目付きが悪い。

 ぼんやりと彼らのやりとりを眺めていた私は、沢山お話ししたっていいよね、なんて言って彼女が屈託なく微笑んでいたことを思い出した。なるほど、道理で手こずるはずである。
 穏やかな時の背後でこっそりと繰り広げられていたのであろう戦いを知り、例え転んでもただでは起きない彼女の強かな性格に、私は思わず舌を巻いた。どうにも彼女を含む五人の中で、私が一番のんびり過ごしていたらしい。

 カインの答えが問題ないとか関係ないとかいった感じの一点張りであったため、私たちは街へ戻り、フルーラさんのお宅で一息ついでにお茶を御馳走させてもらえることになった。さぞお疲れのご様子の解放隊三人と、一応は倒れていた私を彼女は気遣い、どうぞお茶でも飲んでゆっくり体を休めてくださいと言って笑顔で勧めた。この交易の盛んな街で商いをしている家なだけに、不謹慎にもその内容にうっかり期待してしまう。私は寝ていただけである。
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