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Tの家での話

金縛り

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 「窓から伸びる腕」でも書いたが、Tの家に住んでいる間、それはもう頻繁に金縛りにあった。ほぼ2~3日に1回のペースで、酷い時はほぼ毎日にようにだ。

 金縛りとは、疲れやストレスの影響で身体が休んでいる時に脳だけが目覚めてしまっている状態だと聞いてはいたが、正直気持ちが良いものではない。というかメカニズムを知っていても、怖いものは怖いのだ。そもそもこの家はおかしい事が多過ぎるのだし。

 金縛りにあった時の私の対処法は、「大声で般若心経を唱える」だった。
 客観的に見ると笑える図ではあるのだが、本人は大真面目だ。
 般若心経は仏教系の学校に通っていたのでそこで覚えた。もちろん身体が動かないので声も出ないのだが、それでも唱えることに集中していると、だんだん口の筋肉が動く感覚があって、ぱっと声が出た瞬間に大体金縛りも解けているのだ。
 そうやって頻発する金縛りを乗り切っていたのだが、ごくたまに、起きている時に金縛りにあうことがあった。
 その中で、一番怖かったものを書く。


 その日、夕食が終わって入浴の時間まで、机に向かって絵を描いていた。
 すると急に部屋のドアを開けられた音がした。振り返ろうとしたら、もう金縛りにあっていて動けなくなっていた。

「……」

 おかしい。誰かが2階にある私の部屋にきたのなら、階段を上る音が必ず聞こえる。それが一切なく、ただドアが開けられる音だけがしたのだ。

「……」

 机の方を向いたまま、必死に背後の気配を探った。もしかしたらたまたま金縛りのタイミングが重なっただけで、上がってきたのは家族かもしれない。声をかけてくれたら、きっと安心して金縛りもとけるに違いない。

「……」

 そんな期待も空しく、背後の気配は何も言わない。そう、背後には確実に気配がある。ドアを開けたことで起こった空気の流れの中に、確実に質量を感じさせるものが存在している。

「……」

 もう無理だ。万が一家族だったら大声で般若心経を唱える姿なんて絶対見られたくないから我慢していたが、これは絶対家族じゃない。
 動かない口を必死にこじ開けるイメージで、般若心経を唱えることに意識を集中した。

「……」

 後ろには何もいない。きっと何もいない。これはいつもの金縛りで、きっとうっかり居眠りでもしてしまっていたんだ。口さえ動けばすぐとける。ドアが開いたのもきっと夢で、金縛りがおさまって振り返れば、何も変わっていないに違いない。

 そう考えながら、必死に、般若心経に集中しようとした。背後の気配が近づいてくるのを感じながら。必死に、その気配を、無視した。

 それでも、チリチリと毛が逆立つような感覚が、気配を勝手に追ってしまう。「それ」はもうすぐ真後ろに来ている。


「……×××なのに」


 耳元で声が聞こえた。

 ついでバン! と大きな音がして、同時に口が動き、金縛りがとけた。

 金縛りはとけたものの動けなくて固まっていると、階下から、大きな音がしたけど大丈夫か、と尋ねる母の声が聞こえた。それでやっと振り返ってみれば、ドアと、ベッドのそばの窓が、両方全開になっていた。もちろん、金縛りの前には両方閉じていたものだ。窓の方には鍵もかけていたはずだ。

 母には大丈夫だと返したが、動悸が暫く治らなかった。

 声ははっきりと聞こえた。
 しかし生身の人間という感じではなく、性別も感情もわからない、平板で、ある種機械的な、今でいうテキスト読み上げソフトの感じに近い声だった。当時は電話越しに言われたように聞こえた。

 最初の言葉は聞き取れなかった。

 起きている時の金縛りはこの後もあったが、声をかけられたのはこの時だけで、結局何と言っていたのかわからなかった。
 知らなくて良かったと思う。
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