紅蓮仙途 ― 世界を捨てた神々の帰還と棄てられた僕の仙となる旅

紅連山

文字の大きさ
1 / 13

第1話 神が捨てた地に、灰の息子

しおりを挟む
 焚天の谷は、もはや地獄の窯だった。谷底の紅蓮の焔は天を焦がし、血のように赤黒く染まった雲を裂いて、黒曜の城塞・焔の宮を照らしていた。

 塔上に立つ焔璃姫は、紅の鎧に身を包み、神器《紅刃・炎心》を腰に提げていた。彼女の紅玉の瞳は、烈火よりも深く、その静かな眼差し一つが、全軍の命運を掌握していた。

 「報告!東方、神装兵に突破されました!外構、崩壊寸前!」
 伝令の悲痛な叫びにも、焔璃は表情一つ変えない。
 「……外構は放棄。戦力を焔脈の中心へ収束させよ。神々の遺産たる地脈を、穢させるな。」
 その決断は、敗北を知るやむなしの策か、それとも爆発するマグマの予兆か、知る者がいなかった。

 西の空、黒雲を突き破り銀月が昇った。夜の民、月狼族が万人の軍勢。彼らが炎を恐れ、同時に貪欲に求める者である。十人の巫女が、月光を集束させた巨大な銀矢を炎狐族の結界目掛けて放った。

 炎狐の魔法師たちが、自らの血と魂を霊焔に変え、防壁を幾重にも重ねる。紅と銀、焔と月光が空中で絡み合い、昼夜の境界を溶解させた。

 凄まじい轟音の中、焔璃姫は一切の動揺なく、天に向かって咆哮した。
 「炎狐族が絶えぬ限り――滅びぬ!焚天の谷は、まだ燃え尽きてはいない!焔脈の地で、再び、吠えろ!」
 その決意は、熱風を切り裂く真の烈火だった。

 ☆★☆

 時間を遡って、5年前のこと。

 灰の村、風に舞っていた。
 ひとひら、またひとひらと空を漂い、冷えた地に落ちては、指先で触れる前に崩れ去る。

 かつて“家”と呼ばれた場所は、すべて灰に還り、瓦礫の影に人の形を留めるものはもうなかった。空は白く濁り、陽の光は地に届くこともなく、靄に遮られた。

 沈んだ静寂の中で、燐生りんせいは跪き、掌で黒く崩れた地面を掬った。指の隙間からこぼれ落ちる灰の粒が、朝の光を受けて淡くきらめく。その粒に微かな金色が混じっていた。人の骨が燃え尽きたあと、魂の欠片がそうして残るのだと、彼は知っている。

 ――この村は、もう終わった。

 そう理解していても、胸の奥にはまだ誰かの声が残っていた。燃える最中に聞こえた「逃げろ」という叫び。それが誰のものだったのかも、もうわからない。だが、その声が今も彼の足をこの地に縛りつけていた。

 燐生はゆっくりと立ち上がり、焦げた空を仰いだ。肺に吸い込む空気は乾いていて、わずかに焦げた匂いが混じる。胸の奥がきしむように痛い。

 かつての名はもうない。灰と残火に覆われたこの地で、彼は灰の中から再び歩み出すことを選んだ。それでも、希望を捨てきれず――微かに残る炎、希望の痕跡と共に生きる者として、彼は自らを「燐生りんせい」と名乗った。

 背には、小さな包と、一巻の古びた巻物がある。

 それは、旧世の廃墟と化した巨大建築――“天拝塔”と呼ばれた遺跡の地下から掘り出されたものだった。誰が造り、何のために遺したのか、誰にもわからない。だが、初めて触れたとき、指先から温もりが伝わり、胸の奥で“誰かに呼ばれた”気がした。

 村が炎に呑まれた夜、巻物はひとりでに光を放ち、燐生を包み込んだ。炎も毒も通さぬ光の繭。その中で意識を失った彼だけが生き残った。

 あの夜以来、巻物は沈黙を保ったまま、彼を守るように彼の傍らにある。だが、確信があった。巻物の中には、世界が失った“何か”が眠っているのだと。

 燐生は歩いた。灰に覆われた村を離れ、山を越え、川を渡り、ただ無心に東へ向かった。風は冷たく、夜は長い。星々は、もはや人の祈りを受け止めることもなく、ただ沈黙していた。

 ☆★☆

 世界は壊れ、神々は地を棄てた――そう言われて久しい。

 けれど、なぜ今になって“神”は戻ってきたのだろう。彼らは何を求めて、この滅びた地球に再び降り立ったのか。救うためか。それとも、奪うためか。

 かつて地球を棄て、遺伝子の不完全な人々を「欠陥」と呼び、宇宙の深淵へと去っていった人間たち。彼らはいつしか金属の身体を得、永劫の命を手にし、自らを“神”と名乗った。そして地球に残った者たち――棄人すてびとを“原種”と呼び、冷たい眼で見下ろした。

 同じ“人”だったはずなのに、なぜ。肉を捨て、心を置き去りにしてまで、彼らは何を得たのか。そして、失ったのは誰だったのか。

 燐生は答えを知らない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。
 ――彼らは、村を灰にした。

 理由もなく。警告もなく。天から降る光の雨が、すべてを焼き尽くした。だから、憎い。理解できないものほど、憎い。その姿を思い出すたび、胸の奥が冷え、息が詰まる。

 なぜ彼らは戻ってきたのか。なぜ滅びを与えながら、“神”を名乗れるのか。燐生には、わからなかった。
 ――世界は、何を罰しているのだろう。それとも、誰を試しているのか。

 旧人きゅうじんが地球を去ったあとの世界では、自然が変じ、獣たちが環境の変異と共に進化し始めた。かつて人に飼われ、恐れられた動物たちが、理ことわりを理解し、言葉を操るようになった。
 
 やがて彼らは“妖あやかし”と呼ばれ、人の言葉を学び、理を悟り、そして――人を超えた。
 なぜ、理は彼らを選び、人を見捨てたのか。神は空に、妖は地に。では、人はどこへ行くべきなのだろうか。その答えを知る者は、もういない。

 燐生のような棄人は、神にも見放され、妖にも届かず、ただ生き残っただけの、世界の端に押しやられた。痩せた土地に根を下ろし、細々と命を繋ぐだけの民だった。

 ☆★☆

 何日が過ぎたのか、幾つの山を越えたのか、もはや燐生にはわからなかった。ただ任せた足が導くまま、遙か東へ向かい、“楔ノ里くさびのさと”と呼ばれる小さな集落に辿り着いた。

 崩れかけた石壁に囲まれたその場所には、わずかに火が灯り、人の気配があった。焚き火の煙の向こうから、子供たちの笑い声が風に乗ってかすかに届く。その音を聞いた瞬間、燐生の胸の奥に、微かな温もりが戻った。

 村長は深い皺を刻んだ顔に静かな笑みを浮かべ、彼を迎えた。
「よう来たな。……お前さん、外の者か」
「はい。西の村から来ました。……もう、あそこは……」

 言葉に詰まる燐生を見て、老人は黙って頷いた。

「知っておる。あの辺りは皆、焼かれ、灰になった。それでも、強く生きてなされなさい」
 それが、最初に告げられた、厳しくも暖かい言葉だった。

 ☆★☆

 楔ノ里の人々は、彼を温かく迎え入れた。燐生は村の一角に小屋を与えられ、村人たちと共に穏やかな日々を過ごすようになった。

 夜になると、燐生は灯りの下で巻物を広げる。そこには確かに“何か”が記されているのに、誰にも読めない。燐生はその古文字を理解できないが、そこに宿る脈動を感じ取ることができた。

 その脈動に触れるたび、彼の胸の奥で何かが微かに共鳴する。
 それは言葉を超えた“呼吸”のようであり、まるで世界そのものが彼に語りかけているようだった。

 夜は、静かだった。

 巻物は羊皮紙にも似たその表面は、どこか有機的で、指先を滑らせると脈のように微かに震える。まるで、それ自体が生きているかのようだった。

 そこに刻まれた文字は、誰も見たことのない形をしていた。線でも、点でもなく、光の粒が滲み合うように連なり、まるで呼吸するように淡く脈打っている。
 
 読めない。意味もわからない。
 だが、燐生の中には不思議な直感があった――これは、読むものではなく、感じるものだ。

 彼は息を整え、指先で最初の文字をなぞった。
 瞬間、指から腕、胸へと、鋭い衝撃が駆け抜けた。まるで精妙な電流を流し込まれたように、体内を光が一巡する。

 燐生は息を飲み、次の文字に触れた。
 今度は光が別の経路を通り、肩から背骨へ、そして足の方へと走った。三つ目の文字――また異なる経路。体の中に、三つの光の道が刻まれていく。まるで経脈を描くように、光が流れ、血液が熱を帯びる。

 だが、四つ目に触れた瞬間、光は途切れた。
 五つ目、六つ目――沈黙……いくら試しても、静まり返ったままだ。

 もう一度、一文字目に戻り、順に指を滑らせた。すると再び、あの三つの道だけが光を流した。体の中に何かが“刻まれた”ような、奇妙な感覚。言葉でも理屈でもなく、ただ確かに、“そこにある”と感じられた。

 何度も繰り返し、文字をなぞり続けた。光の流れを追い、体の中でその経路を覚え込ませるように。それは、まるで見えぬ経脈を探る修行のようでもあり、祈りのようでもあった。

 そのとき、外から足音がした。

 燐生は反射的に巻物を布で包み、火を落とした。扉の隙間から見えたのは、村の少年・零士れいじの無邪気な顔が見えた。

「燐生兄ちゃん、まだ起きてるの? 夜の火は妖あやかしを呼ぶから、早めに消してね。」

 燐生は安堵の息をつき、微笑んで答える。
「ああ、ちょっと本を読んでたんだ。もう寝るよ」
「本? すごいな。おれ、字なんて読めねえや」
「……俺も、読めるわけじゃない。感じようとしてるだけだ」

 零士は首を傾げて笑い、「わけわかんねー」と言い残して去っていった。
 足音が遠ざかると、再び静寂が戻った。

 燐生は布をめぐり、巻物を見つめた。しばらく動けなかった。あの光の道――あれは偶然ではない。もし、この流れを繰り返し辿ることができれば……それは、何かの“術”になるのではないか。そう思った瞬間、胸の奥で微かな熱が灯った。

 夜が更け、外は闇に包まれた。焚き火の光も消え、村は深い眠りに沈む。燐生は巻物を胸に抱いたまま、横になった。瞼の裏に、光の流れが浮かび上がる。三つの経路が、脈のように鼓動している。

 ――この世界には、語られる声と、感じられる声がある。

 燐生はまだ知らない。彼が感じ取った“声”こそ、かつて神々が残した最後の詞――世界を再び動かす“黎明の息吹”だった。

 夜は深く、遠くの山の端には、ほんのわずかに光が滲んでいた。獣の声が再び響く。闇の奥、山の稜線の向こうで、金属が軋むような音が微かにした。

 旧人のものか、妖のものか――。

 それは、黎明を告げる最初の鼓動のように、確かにこの世界の奥底で鳴っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

八百万の神から祝福をもらいました!この力で異世界を生きていきます!

トリガー
ファンタジー
神様のミスで死んでしまったリオ。 女神から代償に八百万の神の祝福をもらった。 転生した異世界で無双する。

高校生の俺、異世界転移していきなり追放されるが、じつは最強魔法使い。可愛い看板娘がいる宿屋に拾われたのでもう戻りません

下昴しん
ファンタジー
高校生のタクトは部活帰りに突然異世界へ転移してしまう。 横柄な態度の王から、魔法使いはいらんわ、城から出ていけと言われ、いきなり無職になったタクト。 偶然会った宿屋の店長トロに仕事をもらい、看板娘のマロンと一緒に宿と食堂を手伝うことに。 すると突然、客の兵士が暴れだし宿はメチャクチャになる。 兵士に殴り飛ばされるトロとマロン。 この世界の魔法は、生活で利用する程度の威力しかなく、とても弱い。 しかし──タクトの魔法は人並み外れて、無法者も脳筋男もひれ伏すほど強かった。

【完結】487222760年間女神様に仕えてきた俺は、そろそろ普通の異世界転生をしてもいいと思う

こすもすさんど(元:ムメイザクラ)
ファンタジー
 異世界転生の女神様に四億年近くも仕えてきた、名も無きオリ主。  億千の異世界転生を繰り返してきた彼は、女神様に"休暇"と称して『普通の異世界転生がしたい』とお願いする。  彼の願いを聞き入れた女神様は、彼を無難な異世界へと送り出す。  四億年の経験知識と共に異世界へ降り立ったオリ主――『アヤト』は、自由気ままな転生者生活を満喫しようとするのだが、そんなぶっ壊れチートを持ったなろう系オリ主が平穏無事な"普通の異世界転生"など出来るはずもなく……?  道行く美少女ヒロイン達をスパルタ特訓で徹底的に鍛え上げ、邪魔する奴はただのパンチで滅殺抹殺一撃必殺、それも全ては"普通の異世界転生"をするために!  気が付けばヒロインが増え、気が付けば厄介事に巻き込まれる、テメーの頭はハッピーセットな、なろう系最強チーレム無双オリ主の明日はどっちだ!?    ※小説家になろう、エブリスタ、ノベルアップ+にも掲載しております。

優の異世界ごはん日記

風待 結
ファンタジー
月森優はちょっと料理が得意な普通の高校生。 ある日、帰り道で謎の光に包まれて見知らぬ森に転移してしまう。 未知の世界で飢えと恐怖に直面した優は、弓使いの少女・リナと出会う。 彼女の導きで村へ向かう道中、優は「料理のスキル」がこの世界でも通用すると気づく。 モンスターの肉や珍しい食材を使い、異世界で新たな居場所を作る冒険が始まる。

最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。

みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。 高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。 地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。 しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。

魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。

カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。 だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、 ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。 国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。 そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。

小さな貴族は色々最強!?

谷 優
ファンタジー
神様の手違いによって、別の世界の人間として生まれた清水 尊。 本来存在しない世界の異物を排除しようと見えざる者の手が働き、不運にも9歳という若さで息を引き取った。 神様はお詫びとして、記憶を持ったままの転生、そして加護を授けることを約束した。 その結果、異世界の貴族、侯爵家ウィリアム・ヴェスターとして生まれ変ることに。 転生先は優しい両親と、ちょっぴり愛の強い兄のいるとっても幸せな家庭であった。 魔法属性検査の日、ウィリアムは自分の属性に驚愕して__。 ウィリアムは、もふもふな友達と共に神様から貰った加護で皆を癒していく。

ドラゴネット興隆記

椎井瑛弥
ファンタジー
ある世界、ある時代、ある国で、一人の若者が領地を取り上げられ、誰も人が住まない僻地に新しい領地を与えられた。その領地をいかに発展させるか。周囲を巻き込みつつ、周囲に巻き込まれつつ、それなりに領地を大きくしていく。 ざまぁっぽく見えて、意外とほのぼのです。『新米エルフとぶらり旅』と世界観は共通していますが、違う時代、違う場所でのお話です。

処理中です...