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4 便秘を開く

4-1 年齢か心の悲鳴か

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真守は、カウンターキッチン越しに待機する。
御神のカウンセリングを邪魔しないよう、作業道具をパソコンから音の出ないタブレットに変えた。
真守は平行して何かを行うことが苦手だ。
カウンセリングのサポートに入るときは、メモを取りながら話に集中することにしている。
タブレット専用ペンを取り出し、手書き用メモソフトを立ち上げる。
いつも使っているレンタルスペースの予約が取れなかったので、今日は部屋を分けることができない。
気配を消して、かつ、素早く動けるようにしておかないといけない。
カウンターキッチン越しに見えてしまう二人の表情を見過ぎないように気をつけた。

御神のサービスは、基本的に月に1度の対面で進められる。
前田が装置を使用して、真守が倒れてから初めてのセッションだ。
前田がどんな風に変化したのか、御神も気になっているようだった。

前田は、自分の変化をポツリポツリと語り始めた。
以前より生気が薄くなったように見えた。
溌剌としていた以前とは違い、うまくまとまらないようだった。
何度も何度も言葉を止めてうつむいて考え込む。
原因不明であふれてきた「喜び」は、3日ほどたつと元に戻った、と語った。
それからの自分は以前と同じであり、別でもある、と矛盾した感情があると話を続ける。

前田は、自分の状態を語り続ける。
以前と同じように生きているのに、少し頭がスッキリした気がした。
それなのに以前より、少しバカになった。
我慢が効かなくなり、無性に起こりたくなったり泣きたくなったりする。

「私はどうなってるんでしょうか。
これは正常な反応なんでしょうか」
すがるように御神を見上げる。

「千恵さんの心はね、便秘です」
「便秘…」
前田は心細くなったのか、どうしたらいいか分からない困惑を隠そうとしないままうなだれた。

「今ね、正常かどうか聞いたでしょう」
「はい」

「世の中に受け入れられそうな感情だけ、自分に都合のいい感情だけ採用して、あとは我慢してなかったことにしてるの。
そうやって我慢をしてなかったことにすると、何も感じなくなるの。
悲しいことや苦しいことだけじゃない。
喜びや嬉しさも感じなくなるの。
だから、心が便秘になって自分の人生を生きていないように感じてしまうの。
感情を出せなくなっているのよ」

「言ってることは分かります。
そうかもなって思います。
確かにそういうことをやってるかもしれません。
何も感じなくなってきてるな、って思います。
でも感情が鈍くなるのは、年齢のせいじゃないんですか?
仕事して子供育てて、子供を怒らないようにしてたら、みんなそうなるんじゃないんですか?
我慢することってそんなに悪いことなんですか。
我慢しなかったら、何も進まなくなるじゃないですか」

前田は、興奮して御神に詰め寄る。

「じゃあ、どれぐらい便秘なのか感じてみましょう。
悲しいって言ってみて
ただ言うだけでいいの」

二人は交互に輪唱する。
悲しい
悲しい
悲しい…

御神の情感のこもった声に対し、前田の声は棒読みだった。
それどころか、前田の声はどんどんぶっきらぼうになっていく。

「どうだった?」
「イライラします。
そんな言っても損しかない言葉口にしたくないです」

「では、言葉を変えましょう
言ってみるだけ。遊びだから。いかにも嬉しそうに言ってみて」

嬉しい
嬉しい
嬉しい…

ただの言葉の輪唱だ。
そこに何かうれしいことがあるわけではない。
けれど、御神の声は弾んで前田を巻き込もうとする。
―いっしょに遊ぼう
と言外に込めているかのように。

「気持ち悪い」
と言って前田は御神の方に倒れた。


「私、何でこんなに気持ち悪くなるんですか?」
真守も飛び出して手助けする。
前田に横になってもらった。
前田は、涙を流しながら、「どうして?」と呟き続ける。
「なんで泣いてるかも分からないんです。
何も感じてないのに、体が動かなくて涙が出続けるんです」

「理由はいらないの。
理由もきっかけも、もう消せないものだから。
それよりも、こんなに抵抗感があったことを受け止めてあげて。
そっかあ、こんなに拒否していたのかあってそれだけでいいのよ」

「そんなの気持ち悪いじゃないですか。
きっかけが分かったら、
理由が分かったら、
ちゃんと向き合って
もっと幸せになれるはずなんです。
トラウマが消えるハズなんです。
こんな気持ち消えるハズなんです。
そのためにお金を払ったんです」

御神は、前田の横でさみしそうに微笑んだ。
「また消そうとして…。
自分に言ってあげて。
もう消そうとしなくても大丈夫だって」
「御神さんなんて嫌いです。
ひどいです。
私こんなこと望んでない」
そうね、そうねと御神が呟き続ける。
その日のセッションはそれ以上進むことはなかった。

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