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セイレーン

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俺の鼻は、イカれたに違いない。
毎日、毎日、オイルと男にまみれる日常。
外は、海。ここは船。
海上の孤島―三百メートル近いというタンカー船であるというのに、海の上ではなんと儚いことか。
使えないフィリピン人の訛った英語にもやっと慣れた。



商船大学卒業。
商船会社に入社。
タンカー船に乗船。
フィリピン人をまとめる仕事に就いて3ヶ月。
夜中に手すりを持ち、何回もたゆる波に吸い込まれそうな感覚に悩ませられているところを上官に見つかり、初めて下船が許された港。
俺は、フィリピン人に連れられて、街の奥へと入っていく。
「あの、すみません」
ソプラノの日本語に振り向くと、現地民と思われる女性が立っていた。
「日本人の方ですか?」
キャッチセールスのようなものか、と、きびすを返すと、女性は、俺の袖を引いた。
「待ってください。日本のことを少し聞かせて欲しいんです。私は、こんな姿でも日本人です。お願い」
女の目から、涙が落ちた。
フィリピン人のジョセフが、昼食一緒に食べるぐらいいいじゃないかと割って入った。日本語が分からないくせに、ただ事ではないと思ったらしい。
俺は、しぶしぶ承諾した―形を取ったが、エキゾチックな美人と一緒にいれると思うと内心胸が躍った。


「―私は、日本で生まれて、日本で育ちました。両親が不正入国だったことが去年ばれてここに来たんです。故郷といっても、私にとっては外国で…なじめなくて…」
可憐に斜めに見上げる彼女―ミキの青い目が潤む。確かに言葉に違和感を感じない。
「日本の話を何でもいいからしてください。今、流行っている曲とか、そういったささいなことでいいんです」
心地よい日本語は、しっとりと俺の胸に落ちた。
しかし、商船大学は、流行文化とはほど遠い。返答に困ってしまった。
フィリピン人逹は、気を利かせたのか、待ち合わせの約束だけして別の店に行ってしまっている。
「すみません。流行には疎くて…お力になれないと思います」
「流行でなくていいんです!じゃあ、出身を教えてください。生まれは、どこですか?」
ミキは、すがりつくような必死の顔を見せた瞬間、渋い顔をしてうつむいた。
「ごめんなさい。ずうずうしくて…日本語で、なんでもいいから会話したいんです。まわりに、日本語を使う人がいなくて…うれしくて…」
細かく震える彼女は人種は違うけれど、とてもきれいな日本人だった。



「缶蹴りしたした!」
共通の話題を追求していたら、どんどん遡ってしまっていた。小学生のときに遊んだ無邪気な遊びを二人で数えあげる。
人通りの多い市場を歩きながら、時たまミキの肩が当たる。ふわりと嗅ぎなれないシャンプーが、鼻をくすぐる。香りは、久しく女に触れていない身体をいたずらに熱くする。
女に惹かれているのか?
ミキに惹かれているのか?
異国の中で、故郷を見にまとって、二人の世界が出来ている。この国では、日本語が外国語となり、まわりをシャットアウトする。
いい気になる自分が止められない。
思い出に酔い、言葉に酔い、ミキに酔った。



「今日は、どこに泊まるの?」
ミキの目が、下から斜めに見上げるように俺を射た。
街を散策しながら、いろんな話をしていると、いつの間にかミキとはタメ口になっていた。日本に女性の友達が少ない俺だというのに、この子と何時間話しても飽きない。
日本語もずいぶんとポピュラーになったが、この国では、やっぱり外国語だ。
自分たちにしか分からない言語で話している、という感覚が、二人を特別な繭で囲っている。
「降りられるの今日だけなんだ。夕方には船に戻るよ。」
ミキは、泣きそうな顔をして顔を背けたまま言った。
「…電話番号聞いていい?」
俺は、承諾した。
フィリピン人たちと待ち合わせした公園に着く頃には、ミキと俺はなんとなく手をつないでいた。
慣れない土地は、慣れない行動を助長する。
ミキは、いきなりぐいっと俺を引っ張ると、人のあまりこないプレハブのような建物の後ろへと俺を押し付けた。
「思い出…ちょうだい。」
俺の胸にミキは、顔をうずめた。
俺は、そっと、ミキの頭に手を添える。
上を向かせた。
二人とも少し震えていて―ミキを感じた。
ミキをこのまま連れ去りたかった。
こんなところに、置いていきたくない。
今までキスぐらい何回もしたけど、こんなに、痺れるものだとは思わなかった。
頭の中がかき回される。
触れているだけだったのに、入ってきた。
俺は、夢中になる。
このまま、時が止まれば―陳腐な台詞だ。
この世界中で、何回も繰り返された、とても、陳腐な台詞。
この台詞が、もうバカにできなくなった自分を感じた。

ミキ

やっと押し出した声が、かすれてミキの耳に触れる。
「…迎え来てるね」
ミキの声で公園の中心部のほうに顔を向けると、葉の影からフィリピン人が見えた。
「さよなら」溶けるように、ミキは消えた。
動けない俺を残して、水が蒸発したように消えてしまった。


相変わらず船の中は、油と男にまみれている。
港は、地平線の向こうに消えてしまった。
体に残された見えないやわらかい傷跡が、俺を揺さぶる。
「財布は無事だったか?」
上官の日本語が、暗号のように俺の頭に響く。
「…はい」返事はしたものの、乗船してから、財布を見た覚えがなかった。「確認してきます」
「ヨウコには会ったか?」

ヨウコ?

俺は、何のことだか分からない。
「日本語をしゃべる女に会わなかったか?強制帰国させられたって涙ながらに訴えなかったか?」
俺の体は、上官の言葉の意味を察してがくがくと奮え出した。
「まだ、携帯は通じるはずだし、インターネットもある。盗難届けを出して、クレジットは止めとけよ」


部屋に帰ると財布がなかった。
手の込んだスリに、悔しさが体を駆け巡る。
悔しいのに、ミキは、俺の中で笑っている。
こんなに手の込んだことをするからには、強制帰国は、本当なのかもしれない。
女っけがない日常に華を添えたミキが、どうしても憎めなかった。
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