生きる墓

ヒカリサス

文字の大きさ
上 下
1 / 1

生きる墓

しおりを挟む



どんな形でも「生きる」ことを選べますか?


二人は、足を止めた。
男は、傍らの女を見る。
女が、戸惑い気味に男を見上げた。
二人の視線はぶつかり、男は女を促すように視線を前方に移した。
「これが私の妻だ。」
そう言って、男が目を向けた先を見て、女は呆然と立ち尽くした。



         ◆



じゃあ、それで

はい、それで

よくある会話
ガソリンを満タンにするとか、
飲み物をコーラにするとか、
そんなことの決定に使われるような二人の同意の確認。
尾田は、あの日から、このやりとりを嫌悪している。


         ◆


男は、車を走らせていた。
一ヶ月に一度必ず往復する慣れた山道を辿る(たどる)。
助手席に女性が座っていることだけが、いつもと違っていた。
車内に会話はない。
二人の前方で緑は深まり、後方に世俗が遠のいていく。
あまり通る者がいないせいだろう、夏の熱気の中、思うままに伸びた枝が車に当たって音を立てる。
奥へ奥へと車は吸い込まれていく。
男が目指すのは、過疎を通り越し、打ち捨てられたような村。
―廃屋しかない山村に、それはひっそりと開かれている。
世間の非難も、喧騒も届かない。
隔絶された場所。
それは、場違いな白いコンクリートの建物の姿で、涼やかに存在している。



ああ、買出しに行かなくては
冷蔵庫の中には、研究員の名前タグのついたペットボトルばかりが並んでいる。
尾田は、中腰のまま、タグのついていないペットボトルを探す。
ストックとして冷やしているものは一本もなかった。

食事と空気だけはおいしい山の中。
都会の中で育ってきた尾田は、炭酸飲料という、文明を感じさせる飲み物がないと生きていけない。

尾田は、冷蔵庫を閉める。
途端にまとわりつくような湿気が尾田を包む。
やっと梅雨明けがしたものの、置き土産である湿気に悩まされる日々が続くのだろう。

ストックはなかったかと諦めきれずに戸棚を空けた―が、そこには、何もなかった。
尾田は、洗ったものを置いてあるかごから、マイカップを取り出す。
仕方なく備え付けのコーヒーをくんで、給湯室を出た。
白くて無地の大きなカップを片手に自分の部屋である所長室のドアを開ける。
中のひやりとした空気が、尾田の肌から、熱気を追い出した。
カップを机の上に置いた。
机の上には、部下である研究員からの報告書が重なって置いてある。
次の学会までに、研究所としての論文をまとめている途中だった。
尾田の頭の中は、まだ、飲み物のことが気になっている。
町へ自分で行くか、それとも、インターネットで注文するか…。
町に下りるのは、気分転換になるが、そうすると休暇が一日潰れてしまう。
悩みどころだ。
やっぱり、上に掛け合って、自販をこの研究施設につけてもらえばよかった。
何気なくカレンダーを見る。
「もうそろそろ、定期便さんが来るから、資料を揃えておいてくださいね。」
頭によぎる受付の森久の言葉と共に、不快感が押し寄せた。


「定期便」と呼ばれる男は、何かを運んでくるわけではない。
第三土曜日に決まって、この研究施設に「お見舞い」に来る男のことを研究員がひそかにそう呼んでいた。
「はい、よろしくお願いします。」
森久の前に尾田の手で、資料が置かれる。
「所長、本当に定期便さんが苦手なんですね。」
森久は、尾田が持ってきた「定期便」用の資料を確認して、からかうように言った。
「そんなことないですよ。」
と言いながら、なんとか会わずにすまないものかといつも考えている。
「理解できないから、苦手なんですか?」
いつになく突っ込んでくる森久に、忙しいからと一言置いて逃げ出した。
―また、何か愚痴っていくんだろうか?
あの男は、いつもどこかに痣を作っていた。
世間では、結構なやり手だと聞いた。
もう、痣はないだろう。
それとも、ほかの人間に痣を付けられているんだろうか。

所長室は、微かな音楽で満たされている。
尾田は、キーボードを叩いている。
今日が、第三土曜日であることを故意に心から除外して、ひたすら論文の締め切りを考えた。
理解できないものには、極力係わりたくない。
森久のいうことは当たっている。
尾田に、あの夫婦のことは理解できない。
―したくない。
プルプルと内線が鳴る。
受話器をあげた。
「お疲れ様です。所長。お客様です。定期便ですよ。」
「ありがと。今行く。」
受話器を置いた。
尾田はデータを保存して、ロビーへ向かった。


       ◆


「尾田君、所長に決まったから」
尾田は、一瞬何のことか理解できなかった。
荒尾部長は、うれしそうに風変わりな風鈴をつついている。
「ありがとうございます」
すぐに尾田の昇進の内示なのだと理解して、とりあえず、お礼の言葉を口にしておいた。

荒尾部長は、とにかくじっとしていない。
「見識の広さが発想の豊かさにつながる」
という理由で、ちょっと時間ができれば、すぐにそこらへんの店へ入って行ってしまう。
「追いかける身にもなってください」
尾田は、気づくと見失う荒尾部長に何回進言したか分からない。
その度に、
「時間があったら、街を歩きなさい」
と諭されてきた。
今回も例外ではない。
取引先から、「約束の時間を遅らせて欲しいと連絡があった」と告げた途端に消えてしまった。
尾田は、ゆっくりと周囲を見回し、店先に、赤い布張りの長椅子をもつ風変わりな風鈴屋に向かって歩く。
―いた。
荒尾部長は、ふわふわの白髪頭に、上品そうな笑顔を広げている。
「残暑残る秋の風鈴というのも、侘しくていいですねねぇ。夏を惜しんでいるようで…」
荒尾の言葉に、店員の気のよさそうなおばさんが笑顔で答えている。
「あの、長椅子をお借りしても…」
尾田が言い切らないうちに、おばさんは荒尾部長の話を折らないようにうなずいて、手で「どうぞ」と促した。
尾田は、長椅子に腰掛け、パソコンを開く。
移動用のパソコンは、手帳ぐらいの大きさしかない。
小さくて、開くと立ち上がりを待たずにすぐに使えることが気に入っていた。
「ほお、この店は一年中やってるんですか?
季節ものですから大変でしょう…」
荒尾部長は、話に夢中になっている。
―部長は、気が済むまでしばらく動かないだろう。
長い付き合いである。
こういうときの暇つぶしも心得ている。
尾田は、この状態で処理可能な仕事を片付けはじめた。
時間を有効に使わないとすぐに仕事が溜まってしまう。
それは、尾田には許せないことだった。
「尾田君、この風鈴、ちょっとしたカラクリがあるよ。すごいねぇ。」
「そうですね。部長の右横のも、同じタイプみたいですよ。」
部長は、放っておくとすねるので、仕事の片手間に相槌を打つ。
「あ。そうそう。尾田君、所長に決まったから。」
尾田は、一瞬戸惑い、
「ありがとうございます」
と返して、パソコンを閉じた。
これからの自分の人生の方向を説明されているのに、片手間にはできない。
「内内示してた通り、尾田君が所長ね。」
荒尾部長はそうつなげ、風鈴をぶんぶん揺らした。
尾田が本気で聞く体制に入ったことに気をよくして先を続ける。
「補佐に、田村くんつけたから。
君が苦手な交渉ごとは、なるべく彼にやらせなさい。
君達は、二人でひとつだから、そこを忘れないように。」
尾田は、適材適所を実行してくれた部長に頭が下がる想いがした。
尾田も田村も若い。
二人を幹部に据えるために、この人がどんな方法を取ったのか、一番そばにいる尾田にさえ分からない。
田村となら、この人生を賭けた壮大なプロジェクトを乗り切れるだろう。
部長が、もぎ取ってくれた人事に感謝の気持ちが溢れた。
「尾田君、人類というのは偉大だね。
風鈴の音を数式にすることができるんだよ。
そんな秘密を隠し持ってる自然は、もっと素晴らしい。」
荒尾部長は、うっとりと、よく分からない哲学に浸って語りはじめた。
この人は、尾田にこのフレーズを聞かせたかったに違いない。
尾田にとって、重大事な会話で注意を引き付けて、自分の聞いて欲しいことに繋げる。
毎度毎度、色々な手法を使って、荒尾部長は、自分の欲求を満たす。
嘘をついて、自分に注目を集めようとする子供と一緒だ。
尾田は、心地よい敗北感を感じながら、荒尾部長の哲学に耳を傾けた。
風鈴の音(ね)がひとつふたつと重なる。
「波長の重なりが、きれいだねぇ」
荒尾部長が、感慨深げに重なっていく音(ね)を目を細めて楽しむ。
風が吹いて、一斉に揺れる風鈴が、やかましいぐらいに耳についた。





テレビカメラを担いだ男が、荒尾部長に始終まとわりつくことになった。
尾田は、またか…と思ってうんざりする。
「カメラ付くの秋で正解!
むっさい半そでの男に追いかけるよりましだよなあ。」
荒尾部長のマスコミの評価は高い。
そして、荒尾部長は、マスコミが大好きである。
その結果、荒尾部長の周りには、定期的にテレビカメラが張り付き、当然、後継者として行動を共にすることが多い尾田にもカメラが張り付くことになる。
荒尾部長のドキュメンタリーは、偉大な男の物語として放送されるのだ。
「マスコミは、もっと変態ぶりをいっぱい放送するべきだって」
田村が、さっきから少し高いガラガラ声で、喚きたてるように尾田に語りかける。
その手には新聞が広げられていた。
田村は、風邪を引いているわけではない。
ハスキーなかすれた声が、彼の声だ。
カメラから逃げ出すように研究室に篭り、データをまとめていた尾田は、機械的に相槌を打つ。
放送時には、ちょこっとおまけ程度に番外編として出ている奇抜な行為が、荒尾部長の行動のほぼすべてを占めていることは、内部の人間なら誰でも知っている。
「もうちょっと早かったら、あの伝説の場面が映像に残せたのにな。」
田村は、他に人がいないのをいいことにバカ笑いをし始めた。
尾田は、無表情で作業を続ける。



先月―尾田と田村は荒尾部長を見上げて呆然とした。
荒尾部長は、木の上から、手に持っているものを自慢げに二人に見せようとする。
「ほら、蝉ですよ。」

ほんの数分あれば、荒尾部長の奇行は完成する。
だいたい行動パターンが読めてきたと思った尾田の荒尾理論はあっけなく吹っ飛んでしまった。
尾田が、荒尾部長から学んだこと。
世の中には、理解できないものが存在する。
―そして、なるべく理解できないこととは関わらないほうがいい。
理解できることだけ―荒尾部長の尊敬できるところだけ分かっていれば事は足りる。

荒尾部長は、結果第一主義者である。
結果を得るために方法を選ばない。
むしろ奇抜な方法を好んで選ぶ。
この会社のように個人プレーを認めているところでなければ、とてもじゃないが変化を嫌う日本のサラリーマンとしてはやっていけなかっただろう。
「田村、おまえ、いそがしいんじゃないのか?」
田村は、今度建造される研究棟の副所長に内定が決まったところである。
こんなところで油を売っていられるような身分ではないはずだ。
しかも、尾田が、今現在拠点にしている研究室は、共同研究をしている大学を間借りしている。
大学に用事がなければ、めったに研究員以外の会社の人間は訪れない。
「あれ、俺のこと追い出したいわけ?
こんな寒空に追い出そうなんて、情ってもんがないわけ?」
田村は、新聞から顔を上げて、尾田に、でかい口でにかっと笑いかけた。
秋とは言え、先日まで残っていた残暑は一掃され、外はだいぶ冷え込むようになっていた。
「研究の邪魔。」
尾田は、冷たく言って、書類をチェックする。
本当は、自分で実験を手がけたいのだが、今現在、外に回ることが多く、部下の報告書をチェックするので精一杯になっている。
「なんだよ。冷たいじゃん。
腐れ縁は、大事にしとくもんだって。」
田村と尾田は、大学時代からの付き合いである。
同じ研究室を卒業し、同じ会社に入った。
二人の性格は、正反対だ。
尾田が研究者タイプなのに対し、田村は、営業タイプである。
そのせいか、尾田と田村は相性がよかった。
お互いにできないことを相手がやってくれる。
今後、田村が補佐についてくれることで、どれぐらい救われるか計りしれない。
「はい、これ」
田村は、尾田にCD―ROMを手渡した。
尾田は、眉をひそめた。
「これから、所長就任までに、俺たちが、挨拶に行かないといけない人のリスト。
荒尾部長と話し合って決めてるから、抜かりはないと思う。
やばいとこあったら、相談してくれな、所長!
森久さんに言って、補足資料もつけてもらったから、目を通しとけよ。」
尾田は、ピクリとも動かなくなった。
手元のCDを見つめている。
田村は、そんな尾田の様子をにまにまと見ている。
「まっ、そんなに嫌がるなよ。
俺もついてるから、心配すんな」
田村は、ぽんと尾田の肩を叩いた。



テレビに、荒尾部長の姿が映る。
田村は、食い入るようにチェックする。
テレビは、破天荒な科学者という切り口で、荒尾部長のドキュメンタリーを放映している。
定期的に行っている取材の総集編で、一年近く前の荒尾部長が映っていた。
「分かってないなー」
田村は、そうつぶやき、缶ビールを口にする。

男の一人暮らし。
田村の部屋は、全体を白で統一し、シックにまとめてある。
余計なものは、極力置かず、置いたとしても、ごちゃごちゃするが嫌で、隠すように置いていた。
田村は、真剣に取り組みたいことがあるときは、女を寄せつけず、部屋にこもることにしている。
今日は、このテレビが見たくて早く帰ってきた。
同時に録画も行うという念の入れようである。

田村にとって、荒尾部長は、研究者ではない。
偉大なプロデューサー…というより、政治家に近い。
田村は、荒尾部長の手腕を尊敬していた。
今のプロジェクトを立ち上げ、理論でしかなかった治療法を奇抜な方法を使って、臨床段階まで引き上げた成果は、社内外問わず、伝説と化す程の偉業だった。
もしかしたら、このテレビ番組でさえ、今の荒尾部長の戦略として仕掛けられたプロモーションの一環かもしれない。
あの人の戦略がどこまで計算され及んでいるのか、荒尾部長の性格もあって悔しいことに田村も把握できていなかった。
荒尾部長は、世論を押さえ、法律をつくり、会社内で予算を確保し、土台を作った。
土台がしっかりしている程、後の人間はやりやすくなる。
これからは、尾田と田村がその上に立つ。
世間は、尾田を荒尾部長の後継者と思っているようだが、実質的に継ぐのは自分だと田村は自負している。
プロモーション能力
人を見る力
行動力
田村は、荒尾部長に近い素質を持っている。
荒尾部長は、長い年月をかけて、一人の男がここまでできると証明して退職を迎えた。
オレもやってやる!
絶対に超えてやる!
田村は、決意を新たにテレビを見る。
荒尾部長を超えるために
荒尾部長を知る。
荒尾部長が得意そうにテレビの中で笑っていた。



ライトがステージを浮かび上がらせている。
講演台のマイクを前に、田村は司会として楽しそうに挨拶をしている。
尾田は、舞台袖で田村に紹介されるのを待つ。
尾田の順番は、まだまだ後であったが、性格上楽屋で待つことができなかった。
舞台袖には、雑多なコードが幾重にも流れている。
薄暗い中で、パイプ椅子が並ぶ。
尾田の隣には、挨拶を待つお偉方が座っている。
舞台から漏れる光だけでは、手元の資料は見えづらい。
頭の中で、何回もシミュレーションを行う。
―学会発表の方がいい。
ライトの向こう側にうっすら浮かび上がる顔は、皆一様に固い。
田村の冗談を踏まえた挨拶で少しはやわらかくなっているが、それでも、異様な空気を放っている。
被験者候補の身内を集めての説明会。
地方を回って、場所を変え、何回も同じ挨拶と説明を行っているというのに尾田はちっとも慣れない。
滅多にかかない汗がじわりと体にまとわりつく。
会場の雰囲気に呑まれそうだ。
舞台の端には、カメラマンの姿が見えた。


研究者になれば、人付き合いをあまりしなくてもいいと思っていたのに。
人付き合いが苦手なことを常々感じていた尾田は、得意の理系を選考し、仕事も、研究者として就職した。
この仕事なら、一人でこつこつやっていくことが許されるに違いない。
そう考えて選んだ職業だったが、甘かった。
研究は大抵チームで行われるし、成果をあげても、表現がうまいやつしか認められない。
たいした結果が出せなくても、うまくプレゼンテーションが出来るやつが出世する。
大学内でも同じだった。
いい論文は必要ない。
どれだけ企業からお金を引っ張ってこれるかが勝負なのだ。
いい論文を書いても、大変な発見をしても大学の化石と化している教授は多い。
所詮は人の世。
コミュニケーション能力が高いやつが生き残る。



―次だ。
尾田は、胃が痛くなるのを感じた。
田村は、司会として舞台と袖を嬉々として移動している。
田村は、卒論をほぼ発表で乗り切った男である。
淡々とこなしていく尾田に対し、本当にこういうことが好きなんだな、と感心した。
田村は口がうまくて、口がでかい。
ちょっと出っ歯気味の歯が特徴的で、ビックマウスにふさわしい顔をしていた。
今日も、今風のスーツに身を包み、イキイキと空気を作っていく。
会場が、田村に引き込まれていく。
プライベートでも、空気を作るのがうまいらしい。
田村は、女にもてるし、本人にも自覚がある。
もてるための努力に余念がなく、その姿勢は、男が引くほどの熱心ぶりであった。

場内の力を感じて田村は、ゾクゾクするのを感じた。
この場内に集まっているのは、この治療法でなければ延命できない患者を身内に持つ人達である。
マイクを握る自分への目線が力となって、田村を突き刺す。
田村は、その力を緩めたり、締めたりしながら、理解と信頼を作り出す。

田村は、思う。
「ものはいいよう」
人はイメージで行動する。
大切なのは真実ではない。
イメージだ。
田村は、仕事やプライベートで、常々、イメージアップを考えて行動していた。
服装、会話力、しぐさ。
田村は、認めたくないし、口にしたくもないのだが、自分の顔に少し自信がない。
そのため、努力を重ねてきた。

田村と入れ替わりに尾田が舞台上に上がる。
尾田は、舞台上で、まるで、研究発表のように無機質な専門用語の羅列を口にする。
「ばかだなあ。」
誰が理解できると思ってるんだ?
だから、あれほど、オレが作った原稿を使えと言ったのに。
尾田は、イメージというものを分かっていない。
真実を追い求める研究職だからだろうか?
〝どんなにいいものでも、イメージが悪ければ普及しない〟
ということに嫌悪しているように見える。
今回も、田村の原稿は、真実を伝えてないと突っぱねた。
「この内容は、俺がいうべき言葉じゃない。」
理解できなかったら意味がないというのに。
―本人にしたってそうだ。
田村は尾田の顔を見て、こいつは、ばかだなあと思わずにいられない。
尾田は、素材がいい。
尾田は、中性的な雰囲気を持っている。
色白で、ひげもあまり生えないらしい、つるつるした肌に童顔である。
めがねをかけ、知的なイメージがある。
そのままで、十分もてているのだが、本人に自覚がない。
もてるために努力をしようという気もないらしい。
田村は、もったいない。
なんてばかなやつなんだ、と思わずにいられないのだが、あえて、何も言っていない。
肝心なのは、女が俺を選ぶこと。
尾田のやり方にまで口を出す気はない。
しかし、田村は忠告以前に、疑問を持っていた。
本人に直接言うと火がついたように怒られるのだが、尾田には、ほんとうに棒がついているのだろうか。
下ネタも嫌いなため、ホモなんじゃないかと本気で疑ったことも、少なくない。
―女とヤったことあるのかな?













最近、こいつの顔ばっかり見てるな。
お互いにそう思いながら、何度重ねたか分からない会議を行っていた。
荒尾部長が、定年になる前に…
「荒尾部長が、定年になる前に、形を作らないとやばいぜ。」
田村は、二人きりになると繰り返した。
「俺らは、なんと言っても、まだ、三十代で、若すぎる。
荒尾部長のコネとカリスマを総動員して、今のうちに城をつくっとかないと、舐められる。」
田村が尾田の下に配属されてから、荒尾部長を含め、三人で、挨拶まわりばかりしている。
「田村が、今後、単独で動きやすくするために」
その目的もある挨拶回りだから、気が抜けない。
今後、田村が、表立って仕切っていくということを了承してもらわなければならない。
気疲れする挨拶しに出かけるか、会議をしてるか…
研究自体の準備の管理も含め、尾田には寝る暇もなかった。
尾田の性格もあり、余裕を持って組まれていたはずの予定は、余裕をどこかに置き忘れてきたらしい。
労働基準法が徹底されている今日(こんにち)、会社で仕事が出来ず、休日返上で、事務仕事を家で行う。
慣れない挨拶回りは、尾田の精神を蝕む。
会社に夜遅くまで残り、そのまま寝てしまったことも一度や二度ではない。
警備員にも目をつぶってもらっていた。




今日は、最終候補者の一人に会う日だった。
予定を確認しながら、尾田は憂鬱になる。
鏡に写った自分は、無表情にネクタイを調えている。
スーツから、病院の消毒薬のにおいが立ち上ってくる気がして、上着の衿をちょっと持ち上げて確かめた。
消臭剤のにおいしかしない。
神経がピリピリしているらしい。
尾田は、軽いため息をついた。

社用の車に田村と一緒に乗り込む。
「さむい」
田村は、急いでエンジンを付ける。
会社のロゴが入った車は、禁煙シールが張ってあるというのに、タバコ臭かった。
二人で回るときは、車好きな田村が運転する。
尾田は、助手席に座った。
田村は、エアコンを付け、自分で編集したCDをかける。
車内に、生暖かい熱風とジャズが満ちた。
最終候補者に会うとき、荒尾部長は同行しない。
尾田と田村の二人で各病院を回って候補者を口説く。
日本全国から、適正を含め、厳密な審査で絞り込んだ候補者達。
死の宣告を受けた彼らに、二人は、生きる道を指し示す。
動物での臨床例しかもたない治療法。
「あなたが必要なんです。」
田村は、どの候補者にもそう訴えた。

「尾田聞いてるか?」
「聞いてるよ。」
田村は、車内でも仕事の話を中心に、いろいろな話題を語る。
よくしゃべるなあ、と尾田は感心しながら、相槌を打つ。

田村と尾田の二人は、今まで、何人もの病人を訪れてきた。
病室には、感情が埋まっている。
―見えない生き物。
尾田は、無意識にそれを感じて、疲れてしまう。
しかし、田村は、それを読み取って、交渉材料として吸収する。
「田村、お前ってなんでそんなに平気なんだよ。」
相槌を打つだけの尾田が急に口を開いたので、
何事にも動じず、平気な顔をして、候補者を口説く田村を横目で見ながら、尾田は、田村を別世界の人間だと思わずにいられない。

「今日は、天使と悪魔、どっちになれるかな?」
田村がおどけてそう口にする。
尾田は、嫌な気分になって、窓の外に目を向けた。
二人を天使扱いする人もあれば、悪魔扱いする人もいる。
歓迎と恐怖。
希望を指し示す天使。
最後の誘惑を奏でる悪魔。
二人は、生きる手段を指し示す。
彼らは、最後の方法をじっと抱える。
死を目前にその手段が、本当に救いなのかゆっくり吟味する。

「田村、お前なら、この治療受けたいか?」
田村がちょっと言葉を切った合間に、尾田がぼそりと口にした。
田村は、内心舌打ちした。
「尾田。俺たちは、受けたいと言わないといけない立場なんだよ。
思春期の少年じゃねぇんだから。
今更、そんなこと口にしないでくれよ。」
「分かってる。」
「尾田、大方、建前じゃない俺の本音を聞きたかったんだろ。
俺は、本音でも受けたいと思ってるよ。」
尾田は、窓の外に向けていた目を田村にちらりと向けた。
田村は、まっすぐ前を見たまま運転している。
「お願いだから、被験者の前では、この治療を受けたいぐらいいと思ってるっていうことにしてくれよ。」
「わかってるよ。」

田村は、尾田の危うさに「勘弁してくれ」と心の中でつぶやいた。
人を説得するには、まず自分から。
田村にとって、説得作業は、戦いだ。
―候補者との生と死をかけた戦い。
候補者が、「生」を賭けることができるように、信頼をもぎ取らないとならない。
味方の気弱さを、候補者は、意識、無意識に関係なく敏感に嗅ぎ取るだろう。
田村は、とても敏感だ。
自分の声のトーン、しぐさ、目線、それらが、そんな説得力を持って相手に映っているか、敏感に感じ取る。
尾田が気弱になっていても、あまり表面に出ないことがせめてもの救いだった。



二人は、車から降りた。
ドアを閉める音が、冷たく響く。
駐車場は、病院の地下にある。
薄暗い空気の中に、出口が黄色く光る。
尾田は頭の中で、簡単に今日の挨拶の段取りをチェックする。
準備漏れはない。
あとは、いつものように流れにそって田村のアドリブでなんとかなる。
実験体が、動物から人間に移行するだけで、なんと面倒な手続きが必要なのだろうと憂鬱になる。
候補者への挨拶をするぐらいなら、取引先を回る方が何倍もいい。
尾田は、胃がキリキリと痛むのを感じた。


病室のドアを田村がノックをしようとしたその瞬間、
「痛い!」
女性のさけび声と大きな音がした。
田村は、ドアの寸前で手を止めた。
「後にするか。」
尾田は訳が分からず、田村に従う。
「ちょっと、ナースステーションに行ってくる。ここに待ってろな。」
尾田をロビーに残してそそくさと田村は消える。
尾田は、携帯のパソコンを取り出して、雑用を片付け始めた。


田村が、ナースステーションを訪ねると、看護婦が一斉に振り向いた。
「田村さん、こんにちは。」
田村は、白衣の天使に微笑まれ、とろけそうになる。
院長の趣味で、この病院の制服は、とっても色っぽい。
田村も病院を回るようになってから知ったのだが、白衣にもブランドがあり、ここの制服は、かなりいいもののようだった。
「渡部さんに会いに来たんですか?」
看護婦の一人が何かの容器をあわただしく用意しながら声をかけてきた。
このプロジェクトに就いてから、一番良かったことは、看護婦の知り合いがたくさんできたことだ。
先日荒尾部長に釘を刺されてから、田村は、社外での活動に力を入れている。
仕事で、病院を回る時期にも重なり、看護婦との合コンで最近は潤っていた。
「渡部さん、調子どう?」
田村が尋ねると、皆が口々にしゃべりだした。
「ほんと毎日夫婦げんかばっかりしてるんですよ!」
「さっきも検温行ったら、けんかの最中だったんですよ!やりにくいったら!」
「田村さん、どーにかしてくださいよ!
個室にしても喧嘩の声がうるさすぎて両隣にだれも入ろうとしないんです!
やっと、耳の遠いおじいちゃんに入ってもらって落ちついたんですから!」
この病院のナースステーションは、ガラス張りで、防音になっているため、みんな外に声が漏れることを気にせずまくし立てる。
かなり看護婦のストレスは溜まっているようだ。
そのとき、別の看護婦が入ってきた。
「田村さん、お疲れ様です。
ロビーにいるのって、田村さんのお連れさんでしょ。
あの人、今度の合コンに来ないんですか?」
田村は、心の中で舌打ちした。
見つけたか!本当に目ざとい。
田村は、尾田をわざとナースステーションに連れてこなかったのだ。
合コン仲間である看護婦にあいつを見せたくなかった。
田村は、話題を逸らしてごまかす。



「今度、鍋いこーぜ」
田村の誘いにきゃあきゃあ騒いでいた看護婦が、不意に無言になり、蜘蛛の子を散らしたように消えた。
振り向くと、婦長が立っていた。
「お世話様です。」
田村が、笑顔を向けると、婦長は、軽く頭を下げた。
メールでは、あんなにしつこく合コンの催促をしてくるのに、仕事場では本当に厳格な人だなあと田村は、婦長が愛しくなった。



尾田は、田村が来たのを確認すると、パタンとパソコンを閉めた。
「田村、看護婦とも仲がいいのか?」
そう言いながら、尾田は、パソコンをしまって、立ち上がった。
「当たり前だろ。仕事で何回もくるのに、その機会をこの俺が逃す訳がないって。」
「さっき、病室で何が起こった?」
「夫婦げんか」
「ほかの人に迷惑だろ。」
「よく見ろよ?お前本当に研究者か?
あそこはこ・し・つ!
あんまりにひどいから、個室に移ってるんだよ。」
「なんで、そんなこと知ってる?」
「被験者の親族集めて、説明会したじゃん。
その後に、被験者のことも調べた。
ほんっとに、いつも気づいてなかったの?
候補者全員のところへ、俺は、下調べで一回行ってんだぜ。
ぶっつけ本番で行けるほど、この件は、甘くねぇって。
まずは、敵を知らないとね。」
よくやるなあ。と尾田は感心した。
研究なら、抑えるべきところは分かるのだが、人間関係となると、どうしても詰めが甘くなる。
「おまえ、すげーよ。」
尾田は、苦笑いしながら言った。
「今頃、俺のよさに気づいてるわけ?
おっせーよ。」
田村は、一人の看護婦が、おいでおいでしているのを見つけた。
「旦那の手が空いたみたいだ。」



渡部は、ほほにガーゼをくっつけていた。
よく見ると、腕や手にたくさんの傷をつけている。
「この度は…」
形式的な挨拶を済ませ、尾田たちは向かいあった。
お互い、説明会のときに顔を合わせている。
「操さんは落ち着きました?」
田村が明るく問いかける。
「はい…。いつもながら、激しいですよ。
ホント」
少し猫背の大きな体を小さくして、困ったように言う。
男三人は病室に向かった。

田村が流暢に説明する。
口から生まれてきた男とはこいつのことに違いない。
田村の信条は「ものはいいよう」
人はイメージで行動する。
大切なのは真実ではない。
イメージだ。
その言葉の通りの説明に毎回尾田は舌を巻く。
被験者によって、言葉やトーンを変える、という芸の細かさは、圧巻だ。
田村は嘘を言ってない。
自分の研究がこんなにいいものに思えたのは初めてだ。
うっすら、いろんな意味での感動さえ覚える。
奥さんは、小さな体を横たえて聞いている。
まだ、本格的に治療も症状も始まっていないせいだろう。
イキイキと生命力にあふれていて、にわかには、死に向かう病気を持っているとは見えない。
「それで…私は、その処置を受ければ、生き続けることができるんですね。」
「そうです。」
田村は、にっこり笑った。
「じゃ、それで。」
奥さんは、あっさりとそう答えた。
田村の笑顔が少し止まった。
付き合いの長い尾田でも、かすかに分かる程度だが、田村は、珍しく虚を衝かれている。
「あなたもそれでいいわよね。」
「渡部さん、よろしいですか?」
奥さんと、田村からの問いかけに、旦那さんは答えた。
「はい。それでお願いします。」
渡部は、軽く頭を下げた。
いいのか、それで?



「簡単に済んでよかったな。」
田村は、上機嫌で車に乗り込む。
尾田は、駐車場に来るまでずっと無言のままだった。
「なあ、あれでよかったのか?」
尾田は腑に落ちない。
「いいんだろ。」
田村は、軽い声で言う。
「ああいう、生きることが当然っていう女、俺、好きだぜ。」
「女で美人だったら何でもいいんだろ。」
「きっつい女って、なんかそそられねぇ?
支配欲っていうか…支配したい、されたいみたいな…」
田村は、尾田がどう返すか、期待を込めて見守る。
尾田は、取り合わなかった。
尾田は、らしくない不快感に付きまとわれている。
奥さんには、生きることが当然で、死ぬという選択肢はないのだろうか。
そんなに簡単に、思い切れるものなんだろうか?
尾田が同じ立場なら、悩んであがいただろう。
横で見ていて、奥さんが、田村の説明を理解していたと思えない。
何だか分からないけれど、生きれるなら、生きておこうか。
尾田には、そうとしか見えなかった。
そんなノリで、生死を決めることができてしまうことが、尾田には、理解できない。
「生き死にをあんなに簡単に、あんなにどうでもいいことみたいに、決めていいのか?」
「女に理屈を求めたら駄目だって。
女は、直感で何もかも決めるんだから。」
田村は、尾田がさっきの話題に乗ってこなかったことにむかついて、少し不機嫌な声を出した。
「それに、お前が問題にすべきことはそこじゃないだろ。
俺たちが気にかけるべきは、後々、クレームが起こらないように処置できたかってことだ。」
尾田は、やられたと思った。
「そうだな。」
尾田が研究するのは、人間関係ではない。しかし…。


「何、いらいらしてるんだよ。」
田村が運転の傍ら、尾田の辛気臭い顔を見て、うっとうしそうに声を掛ける。
尾田の中には、もやもやと納得できない思いがつきまとう。
今までの候補者には感じたことのない苛立ち…だろうか?
尾田に、あの夫婦は理解できない
当然のように生を選ぶ女も、
それを当然と受け止める男も
悩むことが良いということではない。
そこに、理解があれば、尾田も気にすることはなかっただろう。
なんとなくの決断と享受。
それだけが存在することに、嫌悪感がつきまとった。
「まだ、さっきのこと気にしてるのか?
女は、強いってことだよ。」
田村が呆れたように言葉を付け加える。
―あれは、強さなんだろうか?
尾田は、もやもやと渦巻く心内を、無理やり鎮めることにした。
―人は、人。
尾田は、もう考えることがないように、もう思い出さないように、頭にねじ込む。
―これでいいんだ。











じゃあ、それで
尾田は、眉をひそめて机から顔を上げた。
はい、それで
尾田は、無性に腹が立って出所を探す。
研究員が、何かの打ち合わせをしているだけだった。

飲み込んだ気持ちはトラウマになり、尾田の神経に触る。
何をどうしたいのか
何に対して怒っているのか
自分でも分からない

研究員が、尾田に気づく。
尾田は、なんでもないと手を振って、手元に視線を戻した。











定期便には、連れがいた。
連れは、見たことのないおとなしそうな女の人だった。
女の人は、ロビーの机で手続きをしている男の横に、戸惑い気味に寄り添っている。
森久が、尾田に気づいて笑顔を向けた。
「渡部さん。お久しぶりですね。」
尾田が声をかけると、渡部は、手を止めてこちらを向いた。
渡部は、いつも、第三土曜に現れるため、研究所では、いつしか定期便と呼ぶようになっていた。
「お世話になってます。」
ここ数年でこの人はすっかり老けてしまった。
「少し待っていただけますか?
用意がありますので。」
尾田は、挨拶もそこそこに、測定室に入った。
「渡部さんが、二人で来た。」
測定器の管理をしている木畑は、その一言で理解した。
「計測器加えますか?」
尾田は計器を見て、現状を再確認しながら、木畑に指示を出す。
木畑は、機器をセッティングしながら、尾田に問いかけた。
「連れって女の人ですか?」
「そう。」
「渡部さん再婚するんですか?」
「さあね。」
理解できないものごとに、首を突っ込むのは嫌だ。
男女間のことなど尚更だ。
森久に内線を入れ、準備ができたことを伝えた。
モニターに二人が映った。



二人は、足を止めた。
男は、傍らの女を見る。
女が、戸惑い気味に男を見上げた。
二人の視線はぶつかり、男は女を促すように視線を前方に移した。
「これが私の妻だ。」
そう言って、男が目を向けた先を見て、女は呆然と立ち尽くした。
二人の前にあるのは、植物だった。
青々として瑞々しい―緑。
女は、理解できない―したくなかったのだろうか―というように目線を泳がせる。


モニターの二人のやりとりに対して、操に繋がれた計器は動かない。
操が何を感じたかは、表示されなかった。
女は、青い顔をして、モニターから消えた。
男は、一人とり残され、さびしそうにうつむいた。
操は、正確には、植物ではない。
細胞のすべてを限りなく植物細胞に近いものに変化させた動物である。
操は、人間として生きるより、植物としてでもいいから、生きることを選んだ。
生への執着。
いったんこの治療法が適用されると、人間にはもどれない。
しかし、どんな病気であろうと、治すことができた。
治すというより、病気に犯された細胞でさえ、すべてを生まれ変わらせるといった方が近いかもしれない。
植物として、どれぐらい生きて行けるかは、まだ、分からない。
理論値では、普通の樹木と同じぐらいは生きれるだろう、と仮定している。
望めば、千年ぐらい軽く生きるかもしれない。
未知数である。
未来に、病気を持たない健康な肉体に戻す技術が生まれるかもしれない。
それに賭けて、冷凍睡眠のように考えて、参加した被験者もいる。
生きたい
生きたい
生きたい
死の淵で、その願いだけをかなえるために集められた被験者達。
尾田は、実験と観察を重ねて、その願いを実現する。
―それがここの研究所。
この倫理や道徳に外れる治療法を実現させたのは、荒尾部長である。
マスコミを利用して世の中へ認知させ、法律の枠組みを作った。
どれほどの偉業かは、計り知れない。
尾田は、研究所の所長として、いつも頭が下がる思いだった。


        ◆






「今日も一日よろしくお願いします」
と尾田は、ぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします」
と全員が同じように頭を下げたところで、恒例の朝のミーティングが終わった。
喫茶店の団体用個室から、人があわただしく出ていく。
やっとはじまった臨床実験が行われている大学病院は、目と鼻の先である。
ここで朝食を取って、そのまま会議に参加する者も少なくない。
尾田は、一人残って、今日の連絡事項や議題を吟味する。
なんとか、10人の参加者を確保して始まった治療と言う名の実験は、予定外のことばかり起こる。
実際にやってみなければ分からなかった配慮
理論値通りに出ない結果
思い通りに動かないスタッフ
思いがけないアクシデント
まだ、始まったばかりだというのに、尾田は、迫り来る対応に追われている。
―やらないと分からなかったんだから、仕方ない。
―理論値に含まれていない条件を探して、データの取り方を考え直そう
―指示の仕方をもう一度考え直そう
―二度と、こんなアクシデントが起こらないシステムをつくろう
ひとつひとつに対応を決め、自分をなだめ、次につなげる。
特に、データの取り方は、尾田を悩ませていた。
一応、予想はしていたものの、こんなに個人差が出るとなると、データの取り方を考え直さないといけないかもしれない。
順調なのは、断然、操だ。
そして、周りから一番苦情が来るのも操だった。
苦情は、全部田村に任せてしまいたいのだが、外向きに動いている田村は、研究室にいることが少ない。
操の苦情は、自然に尾田のところへ来る。
どうにかしたいが、手の打ち用がないのが現状だった。
一人でいるときはいいのだ。
周りの言うことも聞いてくれるし、愛想もいい。
旦那がそばに来た途端に豹変する。
わがままを叫んで、大喧嘩をはじめる。
最後の力を振り絞って喧嘩をしなくてもいいじゃないか?
尾田は、途方にくれる。
操は、臨床例の少ない治療法を体に受ける不安と不満をむき出しに見せ付ける。
操の叫びは、尾田のところに筒抜けだった。
だれも操の隣の部屋を使用したがらないため、機材置き場としてしか使えなかったからだ。
機材に向かっていることが多い尾田や研究員が、犠牲になっている。
喧嘩には、いい効果もあった。
喧嘩の叫びのために操の症状は分かりやすく、いろいろ先手が打てるために、操の状態は、常に一番良好に保たれていた。





あー、マイクテスト



…これで、いいのかな?
あ、これ入って…プツン




十一月一日
運転中です
んー
思いつかない

操のことなんでもいいからと言われても、なかなか…あらたまると出てこないです。
あ、正式に投与を受けることが決まったから操は、喜んでました。
あれは、喜んでるのか…



あんなに元気なのに、あのままだともう後がないなんて信じられないです。
普段通りが一番です
と先生がおっしゃったので、普段通りにしてますが、正直なところ、まだ、実感できてません。

十一月十日
あー
すいません
今日言われたように、なるべく毎日入れるようにします。
あいつは、本当に自分がどうなるか分かってるのか理解できません。
いろんな予備段階の薬を入れられてますが、不満ばっかり言ってます。
自分が決めたことだろと言ったら、それとこれとは別問題と言い切りました。
しかも、代わりにやれと言い出しました。
あいつは本当に病気なんですかね


十一月十一日
薬の影響で、少しぐったりしてました。






十一月十二日
毎日病院行って帰りにこの録音するのきついんですが…また今度会ったときに言い直します。
毎日行くの体がもたないんですが、まとまった休みとれないし、何か解決案はないですか?
眠たいです…なんか、今日の操のことじゃないな…

十一月十三日
これ録音するのこんなに適当でいいんですか?
俺の場合いつも車の中で運転しながらになってるんですが…
何かしながらって言ってたから、これでいいんですよね。


十一月十五日
これ、懺悔マイクだったんですね…
もっと懺悔してくださいって…


十一月二十日
喧嘩しました。
来るのが遅いと言うんで、仕事で仕方ないだろと、俺が切れたらコテンパンにやられました。



あの、バカ…あごイテェ…あ、切ってな…ぷちん




尾田が、くたくたになって所長室に戻ってくると、まだ日が高いというのにカーテンが引かれ、部屋の中が薄暗くなっていた。
不思議に思いながら、中に足を踏み入れる。
―急に後ろから、腕を掴まれた。
ギョッとして振り返る。
反対派の人間がここまで入りこんだのか?
一瞬、そんなことが頭をよぎる。
「田村、何してんだよ。」
嫌な笑いを浮かべて尾田の手を握っていたのは田村だった。
「おまえ、おっせーよ。
なかなか戻って来ねーから、あせるって。」
「三〇にもなって、恥ずかしくないのか?」
尾田は、そう言って、腕を振りほどいた。
「企画力がある男は、遊び心が満載なんだよ」
と田村が返す。
「それより、カウンセラーの報告は?」
操をはじめ、被験者には、心理カウンセラーがついている。
そのカウンセラーに、操の騒音対策について聞いてもらっていた。
「このままの方がいいってさ」
田村は、そう言って、尾田に資料を渡す。
「カーテン閉めたの田村だろ。開けるぞ。」
田村は、自分の潜んでいたドアの後ろから注意を逸らすためにカーテンを閉めたのに違いない。
「カウンセラーが言うにはな」
田村は構わず続ける。
「夫婦喧嘩が、ストレス発散と夫婦間のコミュニケーションになってるから、抑えると危険らしいわけ。
だから、防音対策をとれって言われちゃったよ。」
やっと明るくなった部屋で、尾田は資料に目を通す。
「操さんが一日病室を離れる日を作って欲しい。」
尾田は、田村を見た。
尾田の手は、資料の一番最後のページで止まっている。
「防音材手配してきた。
操さんが検査でいない日を取り付けの日に当てるから、病院内の手続きよろしく。
業者の手配はオレするから。」
尾田は、資料に目を落とした。
資料の一番最後は、防音材関係の書類だった。
「予算は、どこから出した?」
「操さんの実家から。
渡部さん通じて出してもらった。
操さんちな、すっげーよ。
でかかった。」
「田村、お前、操さん家に行ったのか?」
「渡部さんに、夫婦の最後の時間のプライベートを守りたいって、力説してもらった。
オレは、横にいただけだって。」
そのシナリオを書き、演出をしたのは、田村だろうと尾田は察した。
「ありがとう。助かる。」
田村がいてくれて本当に助かった。
尾田は、心の底から、頭が下がる想いだった。
「お礼は、いらないから、今日、夜付き合えな。」
尾田は、一瞬考え―承諾した。



廊下で音がして、操が帰ってきたのが分かった。
防音材を取り付けた業者は少し前に帰った。
病室には、入れ違いに来た渡部がいる。
尾田と田村は、隣接する機材室でそれぞれ机に向かっていた。
二人は、黙々と仕事をこなす。
以前、「夜付き合え」と言った田村が、無理矢理尾田を合コンに引っ張って行ってから二人の仲は険悪になっていた。
田村だって、尾田を連れて行きたくなかった。
頭数が揃わなかったのだから仕方なかった。
しかし、今は違う。
どんなに数が揃わなくても、あいつだけは連れて行かないと、あの夜、心に決めた。

ぼこっと隣室からにぶい音がした。
操の声が漏れてくる。
二人にさっきとは違う、気まずい沈黙が流れた。
―夫婦喧嘩は防音材でも防げないのか?
「音だな。」
尾田が先に口にした。
確かに、今までに比べて声は小さくなった。
これなら、まあ、耐えられるだろう。
「ありがとう。これで何とかなる。」
そう、尾田が言うと、
「まあ、こんなもんだろ。」
と言って、田村は、資料に目を落とした。

十一月三十日
操の料理が食べたい
 

十二月一日
仕事の件ですが…やっぱり辞めたくないです。

十二月十五日
友達に、お前は仕事に逃げてるだけだ、と言われました。
冷静に貯金を計算しました。
入院費が免除されたおかげで、なんとか仕事辞めてもやっていけます。
明日、上司に言います。


十二月二十七日
クリスマスの外出許可ありがとうございました。
取れなかったときの操の反応が怖かったんで、助かりました。
遊園地に行ってきました。
満足したみたいです。
あの日から、延々とクリスマスの日のことを聞かされてます。
うるさいです。
一言文句を言うと、百倍になって返ってくるので、黙って聞いてます。
女って、ダイエットに飽きるのは、あんなに早いのに、どうしておしゃべりには飽きないんでしょうね。
おしゃべりしてる時間を全部ダイエットに当てたらものすごい筋肉質になれますよ。
おしゃべりは、二人で過ごしたことだけじゃなくて、遊園地ですれ違った芸能人は、絶対あの人だった!って言い続けてます。
俺は、ちょっと気づかなかったので、返答のしようがないんですが…
何が楽しいんですかね。
答えが出ない、同じ疑問を永遠と繰り返したところで、何にもならないとしか、わたしには思えないんですが…



一月十日
今日、懺悔マイクなくして焦りました。
内容がヤバイっていうのもあるけど、俺、この懺悔の時間で救われてるみたいです。
誰もいなくて、何かしながらだと、本当にぶっちゃけトークができますね。
ちょっと、傍から見ると怖いと思うんですが、だいぶ抵抗がなくなりました。


一月二十日
やっと言いました。
操に反対されたくなくて、会社辞めること黙ってたんですが、妻の危機に当然でしょ、決めるの遅いって言われました。
俺、何のために辞めるんだろ…


一月三十一日
懺悔マイク入りまーす
今日退社しました。
プーになりました。
なんだか、大きな根っこがぶちって切れたみたいです。
明日から、早起きしなくていいんですね。


二月十日
仕事がないのがつらいです。


二月十二日
子供作っとくんだったね。
といきなり言い出しました。
私に似て、かわいい子ができるはずだって断言してました。
もし、女の子が生まれたとして、こいつに似た性格になったら…思考が拒否しました。


二月十四日
バレンタインデーですね。
チョコを買わされました。
あいつ、言わなければ分からないって、かなりむさぼってたんですが、問題ない…ですよねぇ…


二月十六日
今日、植物人間として、眠り続けている人を見ました。
…筋肉が落ちた人間って、あんな風に…なるん…ですね。
言い方悪いけど、ミイラみたいでした。


二月十七日
どうして、そこまでして生きたいんだよ!
と言ってしまいました。
私が生きたいからよ!
あなただって、私がいなきゃ生きていけないでしょ!
って言い切りましたよ。ははっ



二月二十八日
今日操と外出させてもらってありがとうございました。
これが最後だから、思い出をつくるつもりだったのに、家で一日過ごしてしまいました。
何やってるんでしょうね。俺たち。


三月一日
いよいよ、明日から本格的な投与だと、説明を受けました。
今気づいたんですが、あいつ、文句は言っても治療自体を怖がったりはしてないですね。
だいぶ、体はきついと思うんですが、喧嘩ばっかりです。

三月二日
えー今日のことではないんですが、この前、家に帰ったときのことを…本当は、言わないつもりだったんですが、残すことにしました。
この前、あいつ、台所に立ってくれたんですよ。
食事作ってあげるーって、ちょっとよろよろしながら、歩いていったんです。
ちょっとしてから、様子がおかしいんで覗いてみたんです。
泣いてました。
俺のこと見て、泣きついてきて、
「ここは、私の台所じゃない」
って。
よくよく聞いてみたら、いろいろ配置が移動してたらしいんです。
だんだん悲鳴みたいな声で泣き出して、俺何も出来なくて。
とりあえず、そのまま台所のすみで、抱きしめて、よしよしってして…
俺は、あいつの泣かないところが好きだったんですけど、ただただ、怖かった。
ああ、やっぱり操も怖かったのかと、こいつにも怖いものがあったのかって思いました。


三月十日
集中治療室から出てきました。
拒絶反応が出たのが初めてだったんで、ちょっとびびりました。
他の人には出てるのに、どうしてこいつには出ないんだろう、ってちょっと思ってたんですが、俺がバカでした。
あいつ、いつの間にあんなに細くなったんだろう?


三月十五日
操が家を買うために貯めていた貯金を崩して使っていることがばれました。
もう、それを使うしかないということが、理解してもらえません。


三月二十日
操が食欲がないと言いました。
昔は、ダイエットしたいと言いながら、ケーキ食べてたくせに…それさえ言えませんでした。


三月二十五日
目がうつろになってきました。


三月二十九日
完全に、食事を採らなくなりました。
操が一番遅かったそうです。
やっぱり、食い意地張ってますね。



日差しが、目に沁みる。
尾田は、健康のため、時間が空くと日光に当たることにしていた。
ただでさえ白い肌が、最近、青くなってきている。
陽に焼けても赤くなるだけで、黒くならないのに、これ以上白くなるのは、男として少し許せなかった。
病院内にある広場の隅へと歩く。
尾田は、いつも座る人気のないベンチへと座った。
日中、だいぶ暖かくなった。
広場の桜の枝に硬いつぼみがいくつもついている。
一週間以内には桜前線がニュースになるだろう。
だいぶ豊かになった葉の間から日差しが、尾田の体を刺す。
白衣を横に置き、少し腕をまくって陽を浴びる。
自分の腕を眺めていると、その向こうに渡部がこちらへ歩いてくるのが見えた。
―目が合った。
尾田は、さりげなく腕を元に戻す。
今日はこの時間から、面会か―仕事を持つ渡部がこの時間に現れるということは、今日は日曜日だ。
世間は休日で涌いているという嫌なことに気づいて、うんざりした。
「隣に座っても大丈夫ですか?」
「どうぞ。」
渡部は、尾田が座っているベンチの隣に座った。
―嫌とは、言えない。
正直、研究室の空気に嫌気がさし、一人になりたくてここに来たのだが、断るのは気が引けた。
もっと人気のない奥に行けばよかった、と後悔したが、後のまつりだった。
「いつも、うるさくてすみません。」
渡部がすまなさそうに言う。
ほんとだよ
と心の底から思ったが、
「いえ…奥様には、感謝しています。
奥様は、今現在、一番適正が高いんです。
奥様が決断されて本当によかったですよ。」
と田村に学んだ大人の会話で切返した。
適正が高いのは、真実である。
操の臨床例は、今後重要になってくるだろう。
「そう言って頂けると…。
周りは、不思議そうに言うんですよ。
なんで、あそこまでされて一緒に居たがるんだって。」
何気なく身の上話を始めようとする渡部に、尾田は驚愕した。
まったく赤の他人に近い自分にどうして欲しいんだ?
そういうものは、田村みたいなやつにすればいいのだ。
あいつなら、具体性はないが、なんだか解決したようになる高説をぶっぱなしてくれる。
俺は、そういうカウンセラー的なものに向いていないんだ。
「私は、あれの嘘がないところに惚れましてね。」
あの人は、本当に嘘がない人間だ。
特に旦那に対して、思ったことが全部言葉になっている。
気を使ったり、気をまわしたり、そんなことで取り繕うことは一切ない。
日本人的な感覚が本当にない人だ。
「私は、主婦をターゲットにしたアイデア商品を作ってる会社に勤めてるんですが、あれのおかげで、ずいぶん助けられました。
下手なモニターを手配するより、開発中の商品をこっそり持って帰って、嫁に使わせたほうが早いんですよ。
はっきり、きっぱり、いいものはいい、悪いものは悪いと言いますからね。」
だから、それがどうしたというのか。
「おかげで同期で一番早く役職にもつけましてね。
あれの実家も裕福ですから、コネも使わせてもらいましたしね。
やることは、やる女でしたから、私にとって言うことない嫁です。」
渡部は、そこで初めて尾田を見た。
「すみません。つまらない話なんかして。
ちょっと、自分を立て直したかったんです。
一緒にいるときは、私が不安になる暇もないぐらい騒いでくれますからね。
いらいらもしますよ。
でも、言ってくれても、分からないですから…。
病気の苦しさは、分かち合えないですから、あいつが、ああやって言ってくれることだけが救いなんです。」
渡部は、片手で両目を覆った。
「それなのに、さっき、ちょっと言い返してしまって…。」
渡部は、目を覆ったまま黙っていた。
手で覆いきれない色白の肌が少し赤くなっている。
泣いているんだろうか。
もう、研究室に戻らないといけない。
しかし、この状況では、戻りにくかった。
尾田は、研究室の人間にこっそり、「遅れる」とメールを打った。
困ったな…。
何か言った方がいいんだろうか。
この空気に耐えられず、切羽詰って、口を開いた。
「私は口下手な人間で、素っ頓狂なことばかり言ってしまうので、励ますことは得意でありません。
はっきり言って、今の告白も、研究資料のひとつとしか取れません。
しかしですね、患者の心理状態、患者の置かれた状況。
これが、今後、奥さんの体にどのように作用をするのかは非常に興味があります。
また、把握するのが、担当者として、義務でもあると思うんです。
だから、逐一、報告してもらえますか?
だいたい、私は、ここで休憩してますから。」
渡部は、体を振るわせた。
「報告は、今回でたくさんですよ。」
よく見ると渡部は小刻みに震えて笑っているようだった。
「本当に励ましてないですね。
おまけに、すごく嫌そうだし。
今のは、いつでも話を聞くと言ってくださってるんですよね。
あなたも正直な方ですね。
額面通りの励ましの言葉より、効いたかもしれません。
泣いても笑っても現実があるだけですもんね。
なるようにしかならないですからね。
受け入れますよ。
覚悟を決めます。」
何を納得したかは分からないが、渡部は、落ち着いたようだった。
話も切れたようだし、尾田は、研究室に戻ることにした。
「では、失礼します。」
そう言って、尾田はベンチを立つ。
目を覆ったまま、手を一度もはずすことのなかった渡部を残し、研究室へと戻った。





被験者達は、最終段階に入った。
今のところ死亡者は、出ていない。
拒否反応も、ギリギリ乗り越えた。
「これからは、被験者の家族の様子に気をつけてください。
カウンセラーの報告によると、かなり追い詰められています。
様子がおかしいようだったら、気分転換を勧めてください。
カウンセラーへの報告も忘れないようにお願いします。」
田村は、そう言って発言を終えた。
いつもの早朝会議は、暗い空気になる。
生きた痕跡を次々と消していくように変化する被験者の体に耐えられない人が出てきている。
あれほど繰り返し行った説明会の効力はむなしく、尾田に家族を返せと言って詰め寄ってきた男もいる。
尾田は、正直、被験者を生かすことで精一杯だ。
被験者の家族の機微まで、読み取る余裕はなかった。

操の検診を行う。
操の状態は、良好で安心する。
「操は、泣いてるんですか?」
唐突に渡部に聞かれた。
操の目が開いたままになって、目を保護するために流れ出た水が、目の中で広がることなく、幾筋もの線になって流れている。
「違いますよ。
瞬きができないせいで、涙みたいに見えるんです。」
―泣いていたとしても、確認はできないが。
「目は見えてるんですか?」
渡部の様子もだんだんとおかしくなっている。
だが、尾田の目には、ただ疲れているだけに見えた。
尾田は、脳派を確認する。
「見えてますよ。この脳派がその印です。」
尾田は、脳波計の一部を示した。
「瞬きしてるみたいなんです。
閉じたり、開いたりするんです。
操が動かせるのは、もう、ここだけですか?」
尾田は、脳派と手元のカルテで、操の状態を確認した。
「そうですね。自分の意思で動かせるのは、まぶたぐらいですね―では、失礼します。」
尾田は、話を切り上げて、次の被験者に向かうことにした。
少しうつろな渡部の目が尾田の背中を追った。
尾田は、ふと、荒尾部長の言葉が頭をよぎる。
「君は、この治療法が正しいと絶対的に信じられるかね?」



「君は、この治療法をどう思うかね。」
荒尾部長がそう口にしたので、尾田は、その口調から、聞いて欲しいんだなと気づいた。
新幹線の中は、静かなざわめきに包まれている。
尾田は、聞き上手である。
おしゃべりな女系家族で育った尾田は、話すより聞くほうが多い。
荒尾部長は、独白のように語るときもあり、そのときは、聞いて欲しいのだと察することができた。
「どうというと?」
「世間では、いろいろ言われてるだろう。」
荒尾部長の目は、尾田を見ていない。
荒尾部長の外で、景色が流れていく。
「君は、この治療法が正しいと絶対的に信じられるかね?」
尾田は、与えられたことを求められたようにするだけだと思っていた。
臨床研究に一生を捧げろ、と言われて、今まで、そうしてきた。
それが、この会社を選んだ自分の役目だと思った。
正しいか間違ってるかは、尾田にとって問題ではない。
むしろ、尾田が考えるべき問題じゃない。
立場が違う。
尾田にとって考えるべき問題は、
どうやって実現させるか
実現は可能か?
である。
荒尾部長は、返事に困る尾田を見て、尾田の考えを読んだのだろう。
また、遠くを見た。

荒尾部長は以前、
この治療法を見つけたとき、ゾクゾクしたのだ
と言っていた。
最高で最後の挑戦。
この奇想天外な治療法を世の中がどれだけ認めるか。
男として、自分の力を試し示すのに、こんなにわくわくするものには出会えないだろうと思って興奮したのだ。
と語った。
尾田には理解できない発想で、返事に窮したからよく覚えている。

「荒尾部長が、正しいと信じなかったら誰が信じるんですか」
悩むなら、実現する前に悩むべきじゃないのか?
悩む時期など、疾うに過ぎている。
進んだプロジェクトは、もう止まらない。
この人は、今さら何を考えているのだろう。
「そうだね。今更か…。」
生きたいという人間が存在し、
それを叶える方法がある。
世の中が成立を許した以上、個人がどうこういう時期は過ぎた。
あとはただ、生きたいという人を助けていくだけだ。
「がんばんなさいね。」
荒尾部長が感慨深げに尾田の頭をくしゃとなでた。



四月一日
操の体の動きが鈍くなりました。


四月三日
体が硬くなってます。
あんなに脂肪がたっぷりついてたのに、どこに行っちゃったんでしょうね。
俺は、少しぽっちゃりしたほうが好きなんですが…


四月五日
さっきまで、操の化粧を拭き取ってました。
手もろくに動かせなくなってるくせに化粧がしたいってだだをこねるから、美容師の友達呼び出して、化粧をしてもらいました。
しつこく、私きれいでしょ?
って言うから、適当に返事してたら満足したみたいです。
おとなしく寝付いたんで、友達に教えてもらった通りに拭き取りました。
目元が難しいですね。
目の中に入らないようにそうっとやってたら、かなりヤバイ色になってあせりました。
気づいたら、夢中になってやってました。
女の人は、こんなこといつもやってるんですね。
拭き取ってから気づいたんですが、眉毛が細くなってました。


四月十日
何かしゃべってるんですが、なんていうか…スローモーションみたいで何を言ってるのか分かりません。


四月十五日
手の指が曲がらなくなりました。


四月二十一日
操と話し合って決めておいたポーズに一日がかりで整えました。


四月二十八日
まぶたが動いて…五分ぐらいかかって閉じて開きます。
この目は、見えてますか?
って尾田さんに聞いたら、脳波が動いてるから、読み取ってますよと言われました。
瞬きが遅いもんだから、涙がこぼれて止まりません。
泣いているわけではないって分かっててもこたえます。
まだ、動いてます。


五月一日
完全に動かなくなりました
目をつぶった蝋人形みたいです

なんか、こういうとき、涙って出ないんですね。
まだ本当に終わってないけど、終わったって、それしか思えません。
悲しいのか、安心したのかよく分かりません。


五月二日
最近、なんか、考えごとができないです。
頭の中に霧があって、何か考えようとすると散ってしまうんです。


五月五日
今日、やっぱり外に出てよかったです。
ちょっと俺やばかったんですね。
後ろめたかったけど、ちょっと楽になりました。


五月十日
操の爪を切ってやりました。
だいぶ慣れたんですが、肉まで切ってしまいました。
赤い血に、ちょっと、ほっとしたんです…
俺、緑の血でも出ると…どこかで…思ってたみたいです…


五月十五日
脳停止。
死んでないから、停止なんですね。
意識があるかどうかは分からない。
あっても、時間軸が違う
っていう説明が頭に入ってこないので、何回も繰り返してます。
やっぱり、頭に入ってきません。


五月二十日
心臓がまだ動いてるそうです。
耳を当ててみましたが、音が分かりません。





五月二十五日
心臓が止まりました





五月二十六日
俺、操の枕元で、これで満足か?って言ったら、もちろんと言われました。
本当は、聞こえるはずがないのに。
なんか、そう感じました。












五月三十日
操が、山奥に移ることになりました。
この録音…今日で最後でいいんですよね。
なんか、少し色が変わったから、彫刻みたいです。
芽吹けば、形が変わるそうです。
根っこも出るそうです。



シメ…の…言葉が…思い…浮かばないので…
これで切ります―ぷちん



        ◆








しばらくすると、渡部は、モニターの中から消えた。
尾田は、それに合わせて、ロビーに向かった。
渡部は、力なくとぼとぼ歩いてくる。
「すみません。美佐子は、どこに行ったでしょうか?」
「休憩所で、休んでもらってます。
呼んできましょうか?」
「いえ…。美佐子が、戻ってくるまで、ここにいさせてもらってもいいでしょうか?」
「どうぞ。」
渡部は、ロビーの椅子に腰掛けた。
「これ、操さんの今週の経過です。」
俺は、先ほどまとめたカルテを渡した。
経過を知らせることは義務である。
渡部のように自分で取りに来る人は少なくなった。郵送で送る方が増えてきている。
時間は、残酷だ。
「おおむね良好ですよ。
臨床例として、公開の許可をいただいて本当に感謝しています。
操さんは、この研究の希望ですから。」
田村の言葉の引用も、ここ数年板についてきた。
「あれは、生きてるんですか?」
納得済みのことをなぜ聞くのか、尾田には理解できなかった。
尾田は、渡部に断って渡したカルテを開く。
「この数値が生きてる証拠です。」
数値は、操が元気であることを証明する。
渡部は、困ったように口の両端をあげた。
尾田は、質問の意味を取り違えただろうか―と思ったが、何と言葉を続けたらいいか分からなかった。
自分の口から出たのは、違う言葉だった。
「お恥ずかしながら…」
渡部は、目線を落として口を開いた。
「今度、今日一緒に来た…美佐子と、籍を入れることになりました。
再婚する前に一度、ここに来なければと思いまして。
私が、再婚するときに役所にどういった届けを出したらいいのか、あとで確認させてもらってもよろしいでしょうか?」
この研究施設の治療法が適用された人間は、法律的には死亡の扱いを受ける。
植物に人権も、納税の義務も課すことができないからだ。
そのため、渡部は、奥さんは生きているが再婚できることになっている。
この辺の法律を整えたのも、荒尾部長の成果である。
本当に偉大な人だった。
「今日に合わせて、一応戸籍を取り寄せました。
戸籍の死亡の字が、なんだか、浮き出て見えました…
操は、生きた墓ですね。
操は、存在してないのに、生きている。
どう扱っていいのか困りますよ…」
うまいことを言う。
尾田は、言い得て妙な言い回しにちょっと感心した。
「なんか、不思議な気分ですね…。操にも、美佐子にも、何も悪いことをしてないのに、なんだか…。」
尾田は、逃げたくなる。
以前、話を聞くと苦し紛れに口にしたせいか、渡部は、よく愚痴っていく。
「あの…」
言いにくそうに森久が口を挟んだ。
いつの間にそこにいたのか気づかなかった。
あまりにもいいタイミングだったので、うれしくてしょうがない。
「すみません。立ち聞きするつもりはなかったんですけど…
渡部さん。美佐子さん、少し気分が悪いから少し、仮眠室で寝ていかれるそうです。
それから…
毎月忙しい中、この辺鄙なところに会いにくるあなたはすごいと思いますよ。他の方はめったに来られませんから。
全部を把握してる受付の私が言うんですから、確実ですよ。
堂々と再婚されてください。
説明は、私のほうから、張り切ってさせていただきますから。」
渡部は少し笑った。
「いや…。会いにきてたのは、操が怖くてね…」
森久は、続ける。
「姿を変えても生き残りたいという方は、やっぱり生命力が強いんだと思います。
資料にもありますが、操さんは、理論値よりたくましいんですよ。」
渡部は、観葉植物を見ながら、言葉をつむぐ。
「永遠に縛られることに疲れました。
この気持ちごと、美佐子は受け取ってくれると信じて、再婚します。
今は青い顔をしてますけど、あの人は強いですから…
やっぱり、強い女性しか愛せなかったようです。
尻に敷いてくれる人がいないと、私は、駄目みたいです。」
渡部は力なく笑った。
尾田は、柄にもないことを聞いた。
「奥さんをまた、お見舞いにこられますか?」
渡部は、
「あれを捨てることは、怖くてできませんよ。」
納得した。
なんとなく二の句を告げずにいると、森久に呼ばれ―尾田は、席をはずした。



渡部は、一人残され、ぼんやりと座っている。
渡部の目が、観葉植物に止まった。
渡部は、立ち上がり、歩み寄り、手を伸ばす。
葉を一枚むしる。
茎を持って、手元でくるりと回した。
渡部は、何かを確認するように植物を見る。
―痛いと叫ぶことを
―何かの意思表示を感じ取ることを
期待しているようだった。
観葉植物は、静かに居座っている。
渡部は、無表情のまま、葉っぱを土の上に置いた。



気分の良くなった美佐子を連れて、渡部は、お互いをいたわるように、ゆっくりと帰って行った。
「問題は、渡部さんより、美佐子さんが、受け止めれるかどうかなんでしょうね。」
森久が、出したお茶などを片付けながら、つぶやいた。
どれぐらい許せるだろう。
生きてもない死んでもない妻を持つ男との再婚。
前妻のことをどう受け止めるのだろう?
少し気になったが、考えてもしょうがないと切り離した。
森久は、いつまでも、考え深げに食器を片付けていた。





荒尾は、足を止める。
足の下にはみずみずしい緑がやわらかに広がる。
「着きましたなあ。」
登山グループのメンバーは、それぞれに山頂に到着した喜びを分かちあう。
女性などは、喜びもそこそこにお弁当を広げる準備を始めた。
荒尾は、見晴らしがいい場所へと移動した。
夏が近いからだろう、汗が滴り落ち、荒尾は、ぐいぐいと顔をぬぐって、目を細めた。
ゆっくりとすそ野に広がる村を眺め、満足したように深呼吸をする。
時間をかけて登った山。
制覇した空気は、こんなにもおいしい。

荒尾は、退職してから、山登りが日課になった。
山の近郊まで車で来て一泊し、登山グループのメンバーと落ち合い、一日かけて登る。
全てはこの登頂の瞬間を迎えるためだ。
天と地の狭間
さえぎるもののない空
広がる尾根。
「荒尾さんは、ほんと、この山が好きですね。」
インストラクターの高橋が声を掛けてきた。
高橋は、髭もじゃで、実際何歳なのかよくわからない風貌をしている。
しかし、動きやしゃべり方から、見た目より若いだろうと推測できた。
「これで、何回目ですか?」
「そんなに来てましたかねぇ?」
荒尾は、ゆっくりと腰を下ろし、水筒のお茶を注ぐ。
荒尾は、実際この山にしか登っていない。
山登りを始めたきっかけも“健康のため”とまわりに言い、自分でも言い聞かせてきたが、本当の目的は違っている。
―ここなら、アレが見れる。
「高橋さーん」
世間話をしていた高橋は、お弁当を広げていた女性に呼ばれて「はいはい」と出向いて行った。
お茶を手に、アレに目をやる。
尾根の隙間に、白いコンクリートの建物が見え隠れしていた。
今や、若い者に託した遺物を肴にお茶をすする。
荒尾は、研究棟を見に来ていた。
―あの子たちは、うまくやっているだろうか?
あの研究施設の中に荒尾の居場所はない。
しかし、あの研究棟は、荒尾の人生の集大成だ。
夢見た形とは程遠いけれど。



人を木にするという異色の論文を見たとき、頭に浮かんだのは、森の中に開かれた整然とした墓地の姿だった。
植物の墓標。
人類は、不老不死を手に入れ、植物と調和する。
現実可能な未来の姿。
墓と言ってはいけないのかもしれないが、人としての生を終え、永遠の姿を手に入れるなら、それは、墓としか荒尾には思えなかった。
荒尾が本当に評価されるのは、何十年も後になるだろう。
―悪魔と言われるかもしれない。
荒尾を動かしたのは、正義ではなかった。
世界を相手取った魅力的なチェス。
それに挑戦したいという欲望。

荒尾は、種まき屋だ。
作り上げることを得意とする。
困難であればあるほど、興味が沸く。
荒尾は、継続するということができないし、興味もなかった。
自分というものを知ってから、生涯をかけて作り、残せるものを探してきた。
不可能と言われるものを可能にして作り上げたかった。
そして―この理論を見つけた。
この理論になら、勝負を賭けてもいいと感じた。
この理論を認めさせるために、
世論、
政治、
宗教。
あらゆるものと闘い―荒尾は勝利した。
スリルに溢れた闘いに、荒尾は、充分満足した。
しかし、本当に大変だったのは、それからだった。
生と死。
どんな形にせよ、生という選択肢を持った人間と、それに振り回される人間達。
広がる選択肢
追いつかない倫理
その狭間に追い込まれる人間模様
すべては、荒尾の予想を超えた。
世論という団体より、生と死を抱えた人間のほうが恐ろしいのだ、ということに気づいたときは遅かった。
早く死ねと言われ続けても生きることを選ぶ執念。
周りに望まれずに生を選んだ者もいる。
荒尾のことを殺したい程憎んでいるものも少なくない。
荒尾は、臨床段階になって、自分の上げた神輿の恐ろしさを知った。
―今更だ。
今更、自分に問いかけたところで、進みだしたプロジェクトはもとに戻らない。
昔は、こんなことを考えたことがなかった。
ひたすら、がむしゃらに進んできた。
世の中に受け入れられなければ、自分の負けだとしか認識していなかった。
走ってきた道を振り返るタイプではなかった。
歳をとって、気弱になったのかもしれない。
ここに何回来ただろう?
おもちゃを取り上げられた子供のように、未練たっぷりに見下ろしてきた。
―我ながら、情けない。


戻ってきた高橋は、手にいっぱいお菓子を抱えていた。
「お姉さま方に戴きました。」
と言って丁寧にリュックにつめる。
「荒尾さん、さっき、言いそびれたんですが、他の山にも登ってみませんか?
荒尾さんなら、体力があるから、もっと難しい山でもいけますよ。」
高橋は、リュックからチラシを出した。
「よかったら、このメンバーに入ってみませんか?」
荒尾は、チラシをチラッとみた。
「もうしわけない。申し出はありがたいんですが、今、再就職するか、事業を起こすか悩んでるところなんですよ。」
「定年退職したのにまだ働くんですか?」
「やっぱり、体が動く内は、働くのが一番ですよ。
これからは、好きなことを仕事に出来ますしねぇ。」
山の制覇も魅力的だが、自分がそんなもので満足することがないことを荒尾はよく知っている。
暇な日々は、荒尾を真綿で絞めていく。
社会に戻り、刺激的な毎日を取り戻したかった。

































生きた墓
存在できない嫁
生きたいと願った意志は、そこに存在している。
醜い
浅ましい
と言われても生きたいと願った意志がそこに存在している
私は、もう、共に生きることができない。
静かな生と共に生きるのは長すぎる
私は、生を再び手に入れよう
お前のことは忘れない
過去として存在している
誠実さが
私を苦しめる
なぜ、こんな技術ができたのだろう
妻の死を願っている自分が恐ろしく、
妻の存在は、そびえたっている








「ちくしょう、こんなのやったことねーよ。」
菅(すが)は、心の中で、そう叫んで目の前の論文を投げ出したくなった。
「どうした?」
木畑は、目頭を抑えて動かなくなった菅に気づくと、自分の仕事を中断して声を掛けた。
「俺、入社するとこ間違えました。
これを理解するの無理です。」
菅は、絶望的にそう訴えた。
「まだ、入ったばっかりなんだから、気にすんな。
そんなに今から追い詰めなくても、通常勤務内容だけしっかりやっておけばいいから。」
木畑は、菅に言い含めた。
おれも、通った道だから
と付け加える。
菅は、最近、研究施設に入った新入社員である。
社員の選択基準は、人柄が重視される。
なるべく大学でやってきたことが繋がるように配慮はされているが、全然違う畑の研究に配属されるのは珍しくない。
菅の机には、大量の資料が置かれている。
辞書のような単行本や、英語の論文が本棚を占領している。
一人前になるには、まだまだ遠い道のりのようだ。
「菅、ちょっと息抜きするか?」
木畑は、ちょっとした休憩所がある方向を示す。
菅は、はいと言って木畑の後に従った。


「ここって本当に田舎ですね。」
窓の外には、田んぼと山ばかりが広がっている。
菅は、目を細めて窓の向こう側を見る。
「地元は、都会の方?」
木畑は、そういいながらペットボトルに口を付けた。
「俺、大学は、東京です。
もともと地元は、田舎で農業やってて―大学卒業後も都会でずっと過ごしたくてこの会社選んだのに、田舎に来るとは思いませんでした。」
運がなかったな
と言って、木畑も窓の外を見る。
建物の中は、快適な温度の中、切り刻まれるように時間に追われる。
窓の外は、ぎらぎらと夏の熱気で充満しながら、ゆったりした時間が広がっている。
「川遊びしたら、気持ちよさそうですね。」
外に広がる悠久の時間は、菅の心をやさしく撫でる。
自分に課せられたものの大きさと時間のなさを一瞬忘れることができた。


定期便が帰ってから、一週間が過ぎた。
何もない日常は、静かに退屈に過ぎる。
単調な結果をまとめるだけの日常。
電線で区切られていない空。
見上げれば山に囲まれ、何が鳴いているのか、動物の鳴き声が響く。
研究所を一歩出ると、なんだか小学生の夏休みの世界に紛れ込んだような気分になる。
尾田は、未だに田舎生活に溶け込めない。
何だか、ゆったりとした空気が自分にそぐわない。
自分が、どこか都会にこだわっているからかもしれない。
「所長、お疲れ様です。」
新入社員の一人が、尾田を見つけて声をかけてきた。
「菅くん、お疲れ。
もう、ここには慣れた?」
「分からないことばっかりです。」
「通常勤務は、もうばっちりだって、木畑が言ってたよ。」
「本当ですか?うれしいなあ。
でも、俺なんか、まだまだです。
それに理論が追いつかないから、何やってるのか怖いですよ。」
通常業務は、被験者達の世話と、データの取り方が中心である。
とどのつまり、やり方さえ覚えればいい。
しかし、理論がないとデータの取り方ひとつでも臨機応変がきかない。
何かあったときに一人でも対応できるようになるためには、理論の習得が欠かせなかった。
菅が一人前になるまで、直属の上司である木畑が面倒を見る。
「所長は、息抜きですか?」
「見つかっちゃったから、もう戻るよ。」
尾田は、立ち上がった。
この平穏な期間に、やれることをやっつけなければ。


菅は、尾田を見送って、そこを去った。
この研究施設は、いわくつきの場所だった。
木になった人が存在する場所。
この研究所が立つまでは、マスコミも騒いでいたが、今は、他のセンセーショナルなニュースにまぎれてしまっている。
菅自身もここに配属されなかったら、意識しなかったかもしれない。
両親には、ここの研究の内容は言っていない。
―言えなかった。



尾田が、いつものように布団に入ると携帯が鳴った。
入ったばかりの布団から手を伸ばして携帯を取る。
研究所からだった。
緊急時でもなければ研究所から携帯が鳴ることはない。
ぎくりとした。
「所長すみません。
お休みのところ。菅(すが)です。」
たどたどしい敬語を駆使した新入社員の菅(すが)の声だった。
尾田は、枕元のメガネを取ってかけた。
「いや、お疲れさん。何かあったか?」
菅が、今日の夜勤だったのか。
菅が、何か失敗したに違いない。
普通は、直属の先輩に連絡するものだが、新人だから、しょうがない。
部下の面倒を見ることも仕事の内だ。
たいした用事でないことを祈りつつ、仕事用のかばんから、メモ帳とペンを取り出した。
「渡部操さんの葉の色が何枚か変わっています。
原因は分かりません。
数値の異常は認められません。
計測機を増やしたり、何か対策をした方がいいでしょうか?」
体の中を冷たいものが落ちた。
「いや、そのままにしといてくれ。
これから行く。」
尾田は、菅に感心した。
計器に出ない被験者の変化は、毎日よく見ていなければ気づかない。
逆に、毎日見すぎても目が慣れてしまって気づかない。新人であるおかげかもしれないが、彼は、よく気づいてくれた。
褒めてやらなくては。


尾田は、あわてて着替える。
尾田の家は、もとからある古民家を改築した、モダンなつくりになっていた。
古くて新しい。
深い色合いをした床を鳴らしながら、尾田は、外に飛び出した。


研究所に着くと、夜間用ライトで病室とも言うべき実験場を明々と照らしあげた。
いくつもの奇妙な植物が白々しい光の下、浮かびあがってくる。
―操は、何枚も葉の先が黄色くなっていた。
尾田は、数値を見ながら、操を確認する。
菅は、定期巡回中、懐中電灯で操を照らして気づいたのだと報告した。
葉は、枯れようとしている。
数値にわずかにその兆候も見える。
異常と認められない程度の変化だったから、気がつかなかった。
尾田は、短く息をついた。
操は、枯れてしまうかもしれない。
何せ、前例がないため、何がどうなっているのか毎回正確に把握できない。
計器が正常を示しているとなるとお手上げだ。
「このメンバーにも来るように連絡を入れてくれ。」
尾田は、端末からアドレスを引っ張りだして菅の端末に送る。
「はい。」
と言った菅の顔は少し青かった。



菅は、震える手で、木畑に連絡を取る。
尾田に連絡を取ったときは何とも思わなかったのに。
尾田にした連絡は、念のためのものだった。
木畑の次のシフトが早朝だったため、所長に連絡を取るほうがいいだろうと判断した。
しかし、いつも冷静な尾田が、困ったように召集をかけたのを見て、ヤバイんだな、と感じた。
「木畑さんですか?夜分遅くすみません…」


一通りのデータを揃えたところで召集をかけたスタッフが揃った。
「操さんが枯れるかもしれない。
少し、葉の先が黄色くなっている。」
スタッフの中に緊張が走った。
操は、一番元気な被験者だった。
この人が駄目となると、この研究の存在が危うくなる。
操を理想モデルとして各学会には発表している。
「未知の病気かもしれないため、徹底的に検査を行う。各自準備してくれ。」


菅が、夜間勤務から帰った次の日。
昼勤務に出社すると、新たなシフト表が出来ていた。
シフト表には、菅が連絡を取ったメンバーが抜けている。
「対策チームが立ったからシフト変わったのよ。」
菅が、シフト表を不思議そうに見ていると、森久が教えてくれた。
「渡部操さんの調子が悪いから、シフトに出てないメンバーで、徹底的に解析するの。
菅くんも、早く一人前になって、対策チームに入れるといいね。」
森久がにっこり笑ってプレッシャーをかけてくる。
菅の笑顔が引きつった。


菅は、淡々と一人で通常業務をこなす。
木畑は、対策チームに駆り出されたまま帰ってこない。
「ここ教えてもらってもいいですか」
現場で分からないことがあると、周りの人間を捕まえた。
しかし、聞いた相手の答えは要領を得ない。
通常業務に関する具体的なこと―どう動けばいいか―というようなことなら答えてもらえるのだが、論文の内容になると、逃げられてしまう。
本当に分かっている人が、現場に残っていないのだ。
木畑に帰ってきて欲しいのだが、たまに食堂ですれ違う木畑は、目もうつろで、寝ていないのだろうとうかがえた。
対策チームの人間と廊下ですれ違うと、とげとげしい緊張感が伝わって怖いぐらいだ。
自分が発見したことが原因のため、どうなっているのか聞いてみたかったが、声を掛けることははばかられた。
森久が言うとおり、菅も対策チームに入って解析を行うときが来るんだろうか?
―そこまで続くといいなあ。
とため息とともに考えた。


菅は、ひさしぶりに操の通常チェックをすることになった。
チームの人間は、細かく取ったデータを持って解析室にこもり、通常、数日かけて行う解析を一日で仕上げて原因を毎日検討している。
データの解析に時間がかかり、人手が足りなくなったため、通常チェックのみをするように尾田の指示をもらって菅は、操の横に立っている。
尾田に電話をしてから、操はチームの人間以外触れることができなかった。
少し恐れ多いものを感じながらチェックを始め―そして、気づいた。

尾田は、菅に呼ばれて操の隣に立つ。
「操さんのここ、何か出てますよ。」
菅が、操の一部を指差した。
連続連夜の調査が祟ったしょぼしょぼする目を一生懸命見開いた。
菅の指先を見る。
操の体に本当に小さなでっぱりがあった。
尾田は、震える手で、そっと確認する。
尾田の中に、安堵とくやしさが広がる。
操が大丈夫だという安堵と、なんで今まで気づかなかったのかというくやしさ。
尾田は、そこにあるものを認めた。
「―芽だ。」



異常が発見されてから、一週間が経とうとしていた。
ここでの対策チームは、徹夜に近い一週間を過ごし、ぐったりとしている。
研究所にいる人間は、古いか新しいかどちらかしかない。
離職率が高く、ここにいる対策チーム以外の人間は、異常事態に対応できない。
専門性の低い、バイトでもできるようなことしかさせられないのが現実だった。
―手駒が少ないのだ。
最近は、小康状態が続き、通常勤務のシフトを組めればよかったため、油断していた。
―田村を呼ばなければ
人材手配は、田村の仕事である。
なかなか田村がこの施設に顔を出さないため、おざなりになっていた。
菅はセンスがいい。
菅にいろいろ研修を受けさせる手配をするためにも、田村を呼ばなければ。


尾田は、資料を持って、解析室に入る。
一週間でかなり雑然とした部屋には、原因の見えない解析に、疲労ばかりが溢れている。
尾田は、解析室に主要メンバーを集めた。
「操さんが芽をつけました。
ここ一週間の調査と照らし合わせた結果、
操さんの異常は、芽をつけるための準備活動と断定します。
今までの動きから見ても、しばらく、危険はないと判断します。
ご苦労様でした。
今回の対策チームを解散します。」
チームのみんなの緊張が緩んだ。
「よかった。」
大本は、そう言って、目を手で覆った。
疲労からくる極限状態は、人を涙もろくする。
いままで、たくさんの被験者を失ってきた。
半数以上が、異常の原因をつかむ前に亡くなってしまった。
ひとつひとつの個体の症状が違うため、明確な治療法を編み出すことができない。
異常は、死を予感する。
特に操のように初期メンバーで残っている人は、もうだれもいない。
被験者が亡くなる度にマスコミに叩かれてきた。
そのたびに研究員も減ってきた。
本人にやる気があっても、親族が無理やり辞めさせた例もある。
ここにいるチームは、そのすべてを乗り越えてきたメンバーだった。
尾田は、秘かにこのメンバーを誇りに思っている。
「このチームのメンバーは、明日から、四日間、代休を取って下さい。」
メンバーは、歓声を上げて拍手した。
4日間という代休は、少し長いけれど、今週一週間を考えると妥当な日数と思えた。
今月は、対策チームが立ち上がった時点で、シフトをチームメンバー抜きで作ってある。
通常業務に影響は出ない。
対策チームを解散したため、この四日間で、新たにシフトを組み直さなければならない。
尾田は、おしゃべりで沸き返る解析室を後にした。



「つぼみかーすげぇな。」
田村が操の経過を資料で確認する。
芽が判明してから一週間後、操の芽はつぼみになった。
尾田は、目をぎゅうと瞑って、椅子に座ったまま天井を仰ぎ見た。

近代的なデザインで統一されているオフィス。
この建物の中で、小会議室兼、所長室となっている尾田の城である。
尾田の机が奥に置かれ、その前には、ちょっとした話合いができるように、簡素でセンスのいい応接セットが置かれている。
意外にかわいいもの好きの尾田の机の上には、小さなスヌーピーが居座っている
きれい好きな尾田の性格そのままに、部屋は、整然としていた。

尾田は、この一週間、半休という形で出社していた。
操がもう少し落ち着いたら大型の連休を取ろうと決めている。
生き物相手のため、取れるときにとっとかないと、休みが消化できない。
尾田は、応接セットの机の上に資料を広げた。
操の芽は、確実につぼみへと成長していることを証明している。
菅をいくらほめてもほめたりないぐらいだ。
あんな小さなでっぱりをよく見つけることが出来たと感心する。
今でこそ、大きくなって肉眼でもすぐに分かるものの、あのときは、数値からでさえ、読み取ることができなかった。
本当に、新種の病気でなくて良かった。
安心で心の中がいっぱいになる。
「これをつくるために全身の力を振り絞ったんだな。」
田村が、口を挟んだ。
やっと来た田村は、都会の空気をまとわりつかせている。
あつい、と言っておきながら、中途半端に閉めたブラインドからもれる陽の光が、ストライプに田村を染める。
田村は、あいかわらずイキイキしていた。
「枯れると思ったんだけどな…」
―操は失意のうちに生きる気力をなくしてしまったにちがいない。
 旦那が、自分との関係も持ったまま、再婚する。
異常な関係ではあるが、関係は関係だ。
やっぱり、ショックなのだろう。
だから、もう生きることをあきらめてしまったんだろうと。
「こんどこそ、危ないと…」
尾田は、それ以上言葉が続かない。
枯れるどころか、芽をつけて、花を咲かそうとしていた操が、やっぱり理解できない。
予想外の出来事に、尾田は、あっけにとられてばかりいる。
なんだか、操に負かされているような気持ちばかりが積み重なっていく。
「そういや、定期便が、もうそろそろ来るころじゃね?」
尾田は、卓上カレンダーをちらりと見た。
この調子でいくと、ちょうど操の開花時期に定期便は来ることになる。
「定期便って言ってること、なんで知ってるんだよ。」
「俺のネットワークを甘く見るなって。」
ああ、と尾田は納得した。
田村にとって、一言でも口を利いた人間はネットワークの一部にされる。
その場の限りという付き合いはあまりしない。
用が思いつけば、躊躇なく気軽に電話をかけたりする。
尾田には、真似できない人間関係のつくり方で―それ以上追求しないことにした。
「恋する女は、すごいねぇ。」
尾田は、田村の言うことを聞き流して、仕事の話に戻した。



ああ、また、思い出したかのように特集が組まれている。
田村が帰った後、尾田は、一息ついて、机に向かう。
田村が持ってきた資料を読んで嫌な気分になった。
資料に挟まれていた、ディスクをパソコンに差込み、テレビ特集を確認する。
田村は、マスコミに敏感だ。
この研究に対する特集があると、細かくまとめて、尾田に持ってくる。
尾田は、テレビが劇的にまとめた事件を苦々しく思い出した。

荒尾部長の退陣と共に、マスコミも引いた。
立ち上がりに世論を味方につけるために必要だったマスコミは、継続には必要なかった。
マスコミの役割は終えた。
邪魔なだけだ。
尾田と田村の代になってから、被験者のプライバシー保護を目的にマスコミをシャットアウトした。
荒尾部長のキャラクターでドキュメントを組むことが多かったマスコミも、部長がいない今、番組に華がなくなったために、あまり取り上げようとしなくなった。
しかし、完全に放っておいてくれるわけではない。
被験者が亡くなると、その遺族から情報を得て、大きな事件として取り上げ、ある程度の時間が経つとたまに特集を組む。
どこでかぎつけてくるのか、完全マスコミシャットアウトだというのに、フリーライターがここまで訪ねてくることもある。
もう、ここまで軌道にのったら放っておいてくれないだろうか
と思うのだが、だめらしい。

「俺にどうしろというんだ。」
尾田は、一度田村に詰め寄ったことがある。
「世間は俺に何を期待してるんだ?」
「マスコミの対応は、俺に任せろと言わなかったか?
どうせ、何もできないのならノーコメントで通せと言ってあるだろうが。」
「ベストを尽くしたって言ったことのどこが悪いんだ。」
「世間は、感動的なドラマが欲しいんだよ。
お前は、人を死なせたんだから、誰よりも不幸な面をしていればよかったんだ。
それを普通の顔して、ベストを尽くしただとう!
あれじゃあ、私は悪くありませんが何か?って言ってるようにしか見えないだろうが!」
「実際手の打ちようがなかったんだから、ベストを尽くした以外に何を言えって言うんだ?
毎回毎回、これでもかって言うぐらい脚色しやがって。
あれじゃあ、どっかのお涙頂戴のドラマじゃあないか!」
「人の生死以上にドラマになるものがあるか?
俺は、あったことをなるべく世間に分かりやすい形で公表してるだけだ。」
田村は、尾田の不服そうな顔を見て、言葉を続けた。
「じゃあ、おまえの納得する形で言ってやる。世間が欲しいのは、非日常だ。
生死の中に潜むドラマティックな状況が欲しいんだ。
ここでのことが日常的で、隣の家で起きているできごとで、普通だったらやばいんだよ。
人はな、自分の身に起こらないと思っていることには、寛容なの!
ここでのことが、自分の世界とは違うと印象付ければ付けるほど、俺たちは安泰。
どっかの田舎で繰り広げられてる特別なことと思わせておけば、世間は同情こそすれ、俺たちをどうにかしようとは考えない。
尾田。おまえの役割は、人の命を預かる者として、一生苦しむことだ。」
尾田は、田村から目をそらした。
尾田は、自分の役割は、ベストを尽くすことだと信じている。
マスコミに発表される尾田の姿は、ベストを尽くすというより、自分のやることに不安ばかり持っているように見えた。
患者に感情移入し、いつも自分のやることに不安を持って、苦しんでいる人間。
尾田は、自分がそんな風に描かれることがだんだん琴線に触れるようになっていた。
自分のやることを否定して、どうやってベストを尽くすんだ?
患者に感情移入して苦しむことは、ベストを尽くすことに関係ない。
苦しみながら、どうやってこの仕事をこなしていくんだ?
自分の精神も含めて、この仕事がベストにこなせるように整えればいいんじゃあないのか?
田村はかまわず続けていく。
「尾田、改めて言っておく。
これからは、ノーコメントで過ごせ。
一言もマスコミとは口を利くな。
俺の仕事だ。
お前を悲劇の研究者に仕立ててやるよ。」



菅は、連休から戻ってきた木畑を捕まえた。
「相談に乗って欲しいんです。」
二人は、仕事が終わってから村に一件しかない居酒屋へと足を向けた。
「相談なんて、どーした?」
木畑は、注文を終えると、癖のあるにやっとした顔で、タバコに火をつけた。
「親へ、この研究をどうやって説明していいか教えて欲しいんです。」

木畑が連休に入ってから、菅の机には、研修案内がいくつも置かれるようになった。
「菅くん、所長に見込まれたみたいよ。
がんばってね。」
研修日程の説明をし終えた森久にそう言われるまで、通常の新人が通る道だと思っていた。
嫌なことがあると「いつか辞めよう」と、なんとなく考えていた菅に、研修案内書は、少し重く感じた。
―決めなければ。
辞めるなら、今しかない。
研修を受けた後は、今より辞めにくくなる。

木畑は、うーんとうなって考えている。
「普通に言ったのじゃ駄目なの?」
「帰る時間がないんで、電話で言いたいんですけど、分かってくれるか自信がないんです。」
親に告知することは、「継続」を選んだ自分へのけじめだった。
今は、マスコミもだいぶ落ち着いているが、今後、この施設でニュースに取り上げるようなことが起こるかもしれない。
その前に、自分の口から言っておきたかった。
「説明するのが難しいと思うなら、森久さんに、パンフをもらったらいいよ。
被験者の家族に配る用に、子供向けまでそろってるから、それを送ってみたら?」
木畑は、じっと菅を見つめる。
灰皿にタバコの灰を落とした。
「研修行くんだって?」
「はい。つくばの方に行きます。」
木畑は、自分も行ったことのあるつくばの研修について語り始めた。
菅は、前より木畑との距離が埋まった気がした。
木畑は、こころなしか、少しうれしそうだった。



尾田は、ぼんやりと操を見る。
ちょっと休憩を―と思ったらここに来ていた。
「今日は、定期便さんが来る日ですね。」
森久が、こちらに向かって歩いてくる。
森久と二人で操を見た。
操は、豪華に、そして、あでやかに花開いていた。
「これは、やっぱり、旦那さんの結婚を祝福してるのかな?」
尾田がそう言うと、森久は、キッと尾田をにらみつけた。
「もう!全然、女心分かってないですね!
嫉妬してるんですよ。
それで、見せ付けてるんです。
きれいでしょって。私を見てって。」
森久は、顔を尾田から操に向けて言った。
「けなげですよね。」
けなげ?
恐ろしいだけじゃないか!
尾田は、目線を森久から操に向けた。
尾田は、ことごとく予想を裏切るこの操という女性がおそろしい。
こんな姿になっても「旦那は私のものだ!」と主張している。
一部を犠牲にしてまで、自分を華やかに彩る。
あの操ならやるだろう。
艶やかな花は毒々しいあだ花に見えた。



しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...