桃(こうはく)~Hold hands with you~

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第1章

第1話

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ここは現実か、はたまた地獄か。逃げ惑う人々、絶望した面々、漆黒に覆われた空。東京のコンクリートジャングルはあの重々しい雰囲気を保っているが、その屋上にはこの世界のものとは思えない、いわば『魔物』が重い腰を下ろしている。

「もっ、もうやめて…」

少女の目から涙が零れ落ち、頬を伝わる。無力な子どもに無慈悲にも化け物は狙いを定めその命の灯を奪いにかかる。その様子をただ絶望の眼差しで見つめる人々、逃げ惑う人々。渋谷の街は人々の絶望に満ちている。その中でどうして君たちはこの絶望に心を痛めながらも向き合い、それでもなお戦っているんだ…。

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人々の暮らしはインターネットと通信システムの発達のおかげで大きく飛躍した。
データの大容量通信、低遅延が実現しAI時代の到来を後押しした5G、陸・海・空そして宇宙までをも網羅し、宇宙開発を30年先に進めたと言われている6G。通信技術の発達は人々の暮らしを何十年も先に進めてきたのだ。
時は流れ2043年。人類と通信技術の歩みは「多世代型移動通信システム」通称NGの運用開始によって新たな一歩を踏み出そうとしていた。

『本日より運用が開始される『多世代型移動通信システム』、『NG』へのシステム移行作業のため、正午より全ての公共交通機関は一時的に運行を見合わせます。皆様のご理解とご協力をよろしくお願いします』

最近しきりに流れているこのアナウンス。冬樹は幼馴染の三塚 葵に半ば強引に連れられ、新たな時代の到来を見届けるために、集中イベントが開催される渋谷を目指し、電車に揺られていた。

「集中イベント楽しみだなぁ」
「そうかぁ?俺はNGにもその集中イベントにも興味ない」
冬樹は目を輝かせている葵を横目に見ながら素っ気なく答えた。
「別にあんたに話かけてないわよ」
「へいへい、そうですか」

(しっかしこいつ小さいよな。)
身長152cm。小学生に間違われそうな低身長でありながら、冬樹がお巡りさんから声を掛けられないのは、小学生にはない大きな山が彼女の前についているからだ。

渋谷に着くと、電車から人が川の水があふれだすかのように改札に向かって歩き始めた。やはりみんな歴史の伝道者となるべく、NGの集中イベントが行われている渋谷を目指していたようだ。冬樹たちは、改札口を出て、ハチ公を横目に見ながらスクランブル交差点を目指す。

「冬樹、左手どうしたの?」
「ん?あぁ、何かで引っ搔いちゃったんだろうな」

葵に指摘されて、左手を見てみると何かでひっかいたような傷が知らず知らずのうちにできていて、血がにじんでいた。

「引っ掻かれたことにも気づかないなんて、あんたホント鈍感ね。気をつけなさいよ」
「へーい」

いつも賑わっている渋谷駅前のスクランブル交差点には360°の大きなステージが組まれていて、それを取り囲むように大勢の人が、きたる時を今か今かと待っていた。冬樹も流れに身を任せつつ、葵とはぐれないように左手で葵の手を掴んだ時、

「なななっなぁ⁉」
「いや、お前小さいしこの人混みだろ。はぐれたらどうするんだよ」
「なんであんたとなんか繋がなきゃいけないのよっ!」

口ではそう言いながらも葵は冬樹としっかり手を繋いだ。
(こういう素直なところは可愛いよなぁ。)
冬樹がそんなことを思っていると大型ビジョンでNGの紹介映像が流れ始めた。

「この新たな通信規格の目玉は「複合現実」、つまり世界の境界を超える技術です!正午にいったいどんな世界が私たちを待っているのか。日本中、いや世界中が注目しています」

複合現実。それは、アナログ世界とデジタル世界の垣根を超える新時代の技術である。NGの運用が始まれば人々の暮らしはますます豊かなものになっていくだろう。けれども冬樹はそんな世界に不安に駆られることがあるようだ。

「なに辛気臭い顔してるのよ」
「いや、アナログとデジタルの世界の境が無くなった世界を本当に『現実』って呼べるのかなぁって思ってな」
「そんなの現実に決まってるでしょ。変なこと言わないでよね。そんなことより始まるみたいよ」

『さぁ、皆さん!お待たせいたしました。いよいよ新たな時代の幕開けです、多世代型移動通信システム『NG』運用開始まであと30秒‼』

モデレーターのアナウンスと共に群衆のボルテージはどんどん高まっていく。

「ねぇねぇおとうさん、はやく!はやくしないとはじまっちゃうよ」
「ステージがあんまりよく見えないだろ、お父さんが肩車してやるぞ」
「ほんと?やったぁ!!」
「お母さんに買ってもらった麦わら帽子落とさないように気を付けるんだよ」
「うん!わかった」

「あのモデレーター可愛いな」
「はぁっ?あのモデレーターと私どっちが好きなの⁉」
「冗談だって。俺にはお前がいるもんな」
「もう///」

幸せそうに話す家族、こっちが恥ずかしくなるような痴話げんかをしているカップル等々あちこちから聞こえてくる楽しそうな話声に冬樹が耳を傾けていると、

『それではみなさんいきますよ!10、9、8、7、6、5、4、3、2…』

渋谷の中心で互いの名前も知らない人々がみな楽しそうに、口をそろえてカウントを刻む。みな新たな歴史の生き証人となるのだ。

「「「1!NG起動‼」」」

観衆のボルテージが最高潮に達し、皆が新時代の到来を喜ぶ中、人々の頭上の空は不気味なほど真っ黒な雲に覆われていった。

「おぉ、すげぇなこれ」
「なんだなんだ。サプライズイベントか⁉」
「これはゲームではないとか言い始めるんじゃね?」

群衆は各々自分が入り込んだこの不思議な世界を、友人、恋人、家族と分かち合っている。これがNG、これが複合現実なのだ。

『それではみなさん!最初のクエストはこれだぁぁ!』

モデレーターの掛け声とともに、駅前広場の方から大きな地響きが鳴り響いた。大きな獣の影がゆっくりと、けれども風格を存分に漂わせながら動いている。群衆の注目はすぐにその巨大な影にくぎ付けになった。

『最初のミッションは巨大ハチ公の討伐です!この会場にいる皆さんで協力して討伐してください。それではクエスト開始です!』

「よっしゃー!俺が先陣を切るぜ」
「何でお前が先に行くんだよ、俺の方が先だ!」
「おいおい、武器も持ってないのにどうするんだよ笑」

周りの群衆は口々に我先にとクエストに向かっていく。その流れはすさまじく、繋いでいた葵との手はいつしか離れてしまっていた。葵がどこにいったのか分からないし、これがいったいどんなクエストなのか皆目見当もつかない冬樹は先行隊とは少し距離を置き遠目にNGの初クエストを眺めることにした。それにしても大きい。遠くの方から雄たけびも聞こえてくる。遠目に見えるその姿は待ち合わせ場所として人気なハチ公とは思えない威厳のある立ち姿である。何人かの先行隊が巨大ハチ公の足元にたどり着いたようだが、なにやら様子がおかしい。

「おいおい、こういうのって初期装備が配布されr
「さきにいくなってhnnnhmod…。うっうわぁぁぁぁぁ」

悲鳴の先に目線をやった冬樹は目を疑った。ここは現実か、はたまた地獄か。巨大な魔物は人々を躊躇なく割き殺し、血の海に新たな血を加え続けている。先行隊は一気にパニックに陥り、右往左往逃げ惑い始めた。冬樹は目の前の出来事が現実なのか分からず呆然とした。それと同時に葵の横顔が冬樹の頭をよぎった。

「葵っ!葵っ‼どこにいるんだぁ!」
(今すぐにでもあいつを探し出してここから逃げないと。)

夢中になって葵を探していると冬樹の背後から何かがぶつかった。振り向いてみると辺りと全く調和していない、大きなフードを深くかぶった人が尻もちをついて倒れていた。

「おっ、おい…。大丈夫か」

その人に手を差し伸ばした冬樹は、すぐに手を引っ込め、襲い掛かってくる恐怖、寒気を悟られまいと必死になった。深くかぶられたフードから一瞬見えた女の目はこの世界に絶望し、輝きが失われたような冷たい目だった。

「…て」
「えっ…?なんだって」

女は身軽そうに立ち上がると冬樹の顔を見ることももう一度言葉を繰り返すこともなく、足早に走り去っていった。
あっという間に見えなくなった彼女の背中の遠くに見えるコンクリートジャングルの上には、重い腰を下ろす大きな魔物の姿があった。逃げ惑う人々、絶望に満ち溢れた面々、東京の空は漆黒の雲に覆われていた。彼女はこの絶望の中に姿を消していった。

「きゃぁっ!」

声の先には巨大なハチ公に今にも襲われそうになっている人影が見えた。

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「それではクエスト開始です!」

モデレーターの掛け声を合図に我先にと人々が巨大なハチ公に向かって走り出した。二人はその人波に飲まれ、

「あっ…」

葵は強く握りしめていた冬樹の手を離してしまい、冬樹とはぐれてしまった。

「はぐれないようにってつないだくせに、どうして放しちゃうのよ…。ばか冬樹!!」

そう強がって、辺りを見回した時、

「なに、、、あれ、、、」

葵の目に映ったのは冬樹の姿ではなく、勢いよく飛び出していった観客の一人が、あの「魔物」に引き裂かれる瞬間だった。その魔物は躊躇すること無く、自分の進む先にいる人々を割き殺していった。
幸せだったひとときは一変、人々の恐怖に包まれた。みな、我先にと、迫ってくるハチ公から逃げようと右往左往走り回り、会場はまさに混乱の渦に包まれていた。
ハチ公は依然、人々を躊躇なく割き殺していた。

「おとうさん…、こわいよぉ」
「大丈夫だ、お父さんの手を離さないように、しっかり掴んで」
「うん」

しかし、子供の足取りでは、人を殺す快楽を覚えた魔物の速さに敵うはずもなく、すぐに親子はハチ公に追いつかれてしまった。

「お父さんは後で行くから先に一人で逃げなさい!」
「えっ、おとうさんは?」
「いいから早く、行きなさい」

親が子を思う叫びが渋谷の街に響き渡ったと同時に、漆黒の空に赤い血柱が吹き上がった。

「おとうさん?」

ハチ公は目の前で何が起こったのか分かっていない女の子のことなどつゆ知らず、女の子の命を奪うため大きな爪を振りかざす。
ほんの10分前まで、あんなに楽しそうに話していた親子がいとも簡単に引き裂かれたのを目の当たりにして、

「もっ、もうやめて」

葵の頬には涙がつたった。その時葵とハチ公の目が合った。真っ赤に染まった大きな前足、その爪には小さな麦わら帽子が、引き裂かれ刺さっていた。ハチ公から逃げようと葵は思わず後ずさりした。何かにぶつかった感じがして、後ろを振り返ると、さっきまで痴話げんかをしていたカップルが転がっていた。

「きゃぁっ!」

葵は恐怖のあまり、その場に崩れ落ちた。獲物を追い詰めたハチ公は、葵をめがけてその大きな腕を振り上げた。
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