悪魔的隙間

くそがっきー

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悪魔的隙間

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なんてことはない日。
地上は雨だった。





地下を走る鉄道の車内にも
その気配は満たされていた。

雨水と靴底に踏み抜かれて
濡れ汚れた車内。

同居した各々が様々な色の傘を
携えていて、その石突から今も
雨水が床を濡らしている。

照明を照り返した鈍く光る水は
表面に人や物の形を写し取り、
その片隅に僕の姿を取り込んでいた。

僕が僕を見つめている。
空っぽの表情。
その中にどんな感情も抱かない、
つまらない男がいる。

誰しもが持っている傘を
その男は持たずに濡れるに任せている。
幸い濡れているのは僅かで、
ほとんどが乾いているが、
目的の場所で降りた後に
ずぶ濡れになるだろう未来が、
容易に想像できた。

雨が僕を濡らして、
許容を超えて溢れた水が
体を伝い地面へと帰る。
僕が作り出す水滴は、
どんなに踏み抜かれた後の雨水よりも
黒く汚れているに違いない。
そんな風に考えていた。





何駅目で降りたのかは分からない。
どれほどの時間を
地下で過ごしていたのかさえも。

実は目的の場所なんてなかった。
ただ、どこかへと行きたくて、
変わることのない
日常から脱出したくて、
僕は地下に潜っていた。

咽せ返るような吐息や匂いと共に、
何か見えない
圧力に押し出されるようにして
ホームへと降りる。

人々の合間を縫って
改札を通ると地上へと続く階段が、
蟻の巣のように分岐しながら続いている。

傘の石突きが水滴の道を作り、
放射状にそれぞれの出口へと伸びている。
僕はその中の一本の線を辿っていくと
人気のない所へと導かれた。





地上へ昇る。
何もかもが濡れている。
雨空の下に乾いている場所はない。

街が出すどんな声も
打ち付ける雨音に全て飲み込まれて、
僕自身の呼吸音すら耳へと届かなかった。

地下へと続いた出入り口には
屋根が有って、地下へと雨水が
侵入しないように地面より
一段高くなっている。

ここに立っている限りは
濡れずに済むけれど、
一歩でも踏み出しさえすれば、
僕も濡れる街の一部となる。





乾くことのない通りを人々が行き交う。

赤、青、黒、中でも透けた
透明のビニール傘が目立つが、
僕のそばを通り過ぎて行く誰もが、
頭上に傘を広げている。

僕はその傘達に弾かれるようにして、
ジグザグに進路を進んで行った。

良く目が合う。

傘を差さずに濡れ草臥れた僕の姿を
まるで汚物を見るかのようにして、
人々は一瞥し、先を急いでいる。

なるべく下を向いて歩くようにした。

視線を足元に縫い付けたまま
十六分を刻む雨音の中、
僕はゆっくりと四分の歩調で歩いた。





どれほど歩いただろう。
何となく覚えのある角があった。

そこを角度をつけて折れてみると
良く見知った大通りに出た。

知らない土地でもなんでもなかった。

何も考えずに降りた地下鉄の駅は、
自分の許容を超える場所には
連れて行ってはくれなかった。

記憶というか、
身体に染み付いたような道だ。

縦横無尽に
網目のように広がった道の中を辿って、
僕はある建物の前で立ち止まった。

仄かに滲んだ外観の集合住宅。
そのエントランスの中に足を踏み入れる。

自動ドアの向こうは乾燥している。
もう僕の何処にも乾いている場所はない。

この場所に僕は酷く不釣合いな気がする。

彼女が今居るかも分からない。
けれど何故か
彼女は今、部屋に居る気がした。

こんな僕でも受け入れてくれる気がした。





「帰ってきてくれたんだ」
インターホン越しに女性の声が聞こえる。

僕の指は自動的に
三桁の数字を押していた。

スピーカーの上にカメラが付いている。
このレンズ越しに彼女は僕を見ている。
まだ僕は声を発していないのに、
彼女は僕を僕だと認識してくれていた。





「あけるね」
セキュリティのロックが外れて、
中へと続くガラス扉が開かれた。

僕はそのスライドレールの上を跨いで、
中へと入り込む。

フロアは茶色を基調とした
落ち着いた内装だった。

そのまま真っ直ぐ進むと、
直ぐ左手にエレベーターがある。

ちょうど一階に止まっていて、
上昇の釦を押すと
消えていた内部の照明が点き、
僕を迎え入れる準備をした。

エレベーターの扉が口を開ける。

中は三人乗るのがやっとだろうか、
新しく奇麗だが、圧迫感がある。

僕は階層の釦を押し、静かに息を呑む。
 




「なんで、そんなに濡れているのかは
解らないけれど、何でもいい、
帰って来てくれて嬉しいよ、お帰り」
彼女は玄関で僕を待ち構えていた。

半袖のシャツに下着だけという姿で。





「もう、もう、会えないだろうなって
思っていたんだけれど、君はまた、
此処に帰って来てくれたんだね、お帰り」
白く艶めかしい二本の足が
僕を誘っている。





「ただいま」
僕は返事を口にした。

つい、癖のように。





シャツの裾に出来た太腿の隙間が、

「ここに手を差し込んでみろ」

と僕に命令をしている。

僕は一体何を見ているのか、

此処に来ると
僕は何時も少しだけおかしくなる。

聞こえる筈のない声が聞こえる。
その声は聞いたことの無い響きだったが、
その声に僕は、抗うことが出来ない。






「もう欲しいの、いいよ、私は、
いつでも君を待っているんだから、
ほら、見て、
すっかり準備は整っている」

彼女は裾をゆっくりと持ち上げる。

太腿の隙間が口を広げる。
その隙間の向こうには黒い空間がある。
何もかもを飲み込んでしまう空間がある。





「ほら、おいでよ、
ここに、帰っておいでよ、お帰り」

彼女の姿が僕に迫った。

それは僕が
彼女に近づいているからだった。





ゆっくりとゆっくりと彼女は後退して、
僕はその一定の距離を保つように
部屋の中へと入った。

靴は脱いでいない。

全てがそのままの姿で、
頭の上から足の先まで、
雨に塗られた艶やかなままで、
僕は入ってはいけない領域に
近づきつつあった。





そう広くない部屋だ。

窓には遮光カーテンがひかれている。

その中心に少しだけ裂け目が見える。

彼女の太腿に出来た隙間の色を
そのまま反転させたような色調に思える。





「もう何処にも行かなくていいんだよ、
怖がらなくていいの、
君はずっと此処にいていい」





ベッドに倒れ掛かる。
丸いテーブルが側にある。





「私がずっと飼ってあげる」







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