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9話
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「うーん……」
「どうしたんですかぁ、せんせー? さっきからずっと前髪を弄ってるみたいですけど」
僕が洗面台の前に立っていると、東雲くんがひょっこりと姿を見せた。
「おはよう、東雲くん」
「おはようございます!」
にこ、と眩しい笑顔を見せる東雲くん。彼の笑顔を見ていると、僕まで釣られて笑顔になる。
「はは、東雲くんは朝から元気だな」
「朝一番に出会った人には、とびきりの笑顔で挨拶をするようにしてるんです。その方が、お互いに気持ち良く一日を過ごせるような気がしません?」
「その通りだな」
東雲くんの明るさは、僕も見習わなければならないだろう。
「君のおかげで、今日はとても良い日になりそうだよ。ありがとうな」
「ふふ、どういたしましてです」
東雲くんは丁寧にお辞儀をすると、「失礼します」と言って脱衣所に入ってきた。どうやらこれからシャワーを浴びるつもりのようで、替えの服を抱えている。
「すまない。邪魔だったかな。すぐにどくよ」
「ううん。大丈夫ですよ。それより、ため息なんて吐いちゃって、何か困ったことでもあったんですか?」
「いや、別に大した問題ではないんだ。ただ、そろそろ髪を切った方が良いんじゃないかと思ってな」
髪を切ったのはもう随分前のことだ。教員を辞める直前は何かとゴタゴタしていて散髪に行く余裕もなく、ここに来てからは髪型の制限もないので伸ばしたままにしていた。
料理をする時は髪を括ったり前髪をピンで留めるなどして対処をしていたのだが、流石に最近は鬱陶しく思っていたのだ。
「ぼくはその髪型も良いなって思いますけどね」
「君等くらいの年齢ならこのくらいの長さでも良いかもしれないが、僕の年でこれは大人気ないというか、あまり適切じゃないだろうな」
前髪もすっかり伸びてしまった。額の上くらいまでばっさりと切ってしまいたいな。
「普段はどこで髪を切ってたんですか?」
「近所に安い床屋があって、そこで切っていた」
「床屋さんなんですか? 美容院じゃなくて?」
東雲くんは目をまん丸にさせた。
「何かおかしかったかな」
「いえ、そんなことは……でも、ぼくの周りはみんな美容院に行ってるから、ちょっとびっくりしちゃいました」
「美容院って、男が行くのは恥ずかしくないか?」
「そんなことないですよ! ぼくもいつも美容院に行ってますし、健ちゃんだってそうしてますよ!」
東雲くんはぶんぶんと首を横に振る。
東雲くんが美容に気を遣っているのは、普段の生活ぶりからも良く分かる。彼は女子高生も顔負けなほどに沢山の化粧品を持っていて、それらを全て使い分けているようだ。
もちろん、僕も人前に立つ身として最低限の身嗜みは気をつけているけれど、それはお洒落というよりは清潔感を保つためのものであって、東雲くんほど力を入れてはいない。
それに、「おじさん」の領域に足を踏み入れつつある_____もしくは既に入っているか_____僕が今更美容院に行くというのは、なんだか気恥ずかしいものがある。
「今時の子はお洒落なんだなぁ……」
僕の発言から諦めのようなものを感じ取ったのか、東雲くんがあたふたと慌て出した。
「良かったら、ぼくがいつも行ってる美容院を紹介しましょうか? 今度髪を染めに行くつもりなんで、その時一緒に行きましょうよ」
「良いのか?」
「もちろんです。でも、本当に嫌だったら無理にとは言いませんけど……」
「いや、一緒に行ってくれるというのは助かるよ。僕はこういうのは良く分からないからな」
「じゃあ、後で美容院に予約を入れておきますね」
「ああ、ありがとうな」
数時間後、無事予約が取れたと東雲くんから言われ、一週間後に一緒に行くことになった。
しかし、東雲くんがいつも行っている美容院か。東雲くんのことだから、とてもお洒落なお店に行っているんだろう。
なんだか緊張するなぁ。
*
「随分と楽しそうだな、東雲くん」
「えへへ。だって、こうやってせんせーと二人でお出かけするのなんて初めてだから、嬉しくって」
「確かに君と二人きりというのは珍しいかもしれないな」
月島くんとは頻繁にメッセージでやり取りをするし、健助くんとは一緒に料理を作ったりすることはあるが、東雲くんと二人で何かをするということはなかった。
強いて言うなら、月島くんの荷物を移動させるのを手伝ってもらった時が二人きりだったが、あれも結構前のことだ。
そう考えると、僕は時間の使い方があまり良くなかったかもしれない。
大家として、二人で話をする機会をもっと作るべきだったな。
「東雲くん。ちょうどいいタイミングだから聞いておきたいのだけど」
「どうしたんですか?」
「君は、あの家で暮らしていて何か不満とかはないのか」
「不満、ですか?」
「ああ。何でも良いんだ。困ってることがあったら言ってほしい。僕にできることであったらすぐにでも対処しよう」
「困ってることですか……うーん……」
小首を傾げていた東雲くんは、ややあって顔を上げた。
「せんせーのご飯が美味しすぎて、たくさん食べちゃうことですかねぇ。最近体重が増えちゃって、運動しなきゃなって思ってるんです!」
うう、眩しい。東雲くんの笑顔が眩しすぎる。
「東雲くん。君はなんて良い子なんだ……!」
「えへへ。褒めたって何も出ませんよ」
「どうか君はそのまま、素直で良い子に育ってほしい」
「いや、あの……ぼく、もう大人ですよ」
しまった。教師だった頃の癖で、生徒に接するように東雲くんにも接してしまった。
「どうしたんですかぁ、せんせー? さっきからずっと前髪を弄ってるみたいですけど」
僕が洗面台の前に立っていると、東雲くんがひょっこりと姿を見せた。
「おはよう、東雲くん」
「おはようございます!」
にこ、と眩しい笑顔を見せる東雲くん。彼の笑顔を見ていると、僕まで釣られて笑顔になる。
「はは、東雲くんは朝から元気だな」
「朝一番に出会った人には、とびきりの笑顔で挨拶をするようにしてるんです。その方が、お互いに気持ち良く一日を過ごせるような気がしません?」
「その通りだな」
東雲くんの明るさは、僕も見習わなければならないだろう。
「君のおかげで、今日はとても良い日になりそうだよ。ありがとうな」
「ふふ、どういたしましてです」
東雲くんは丁寧にお辞儀をすると、「失礼します」と言って脱衣所に入ってきた。どうやらこれからシャワーを浴びるつもりのようで、替えの服を抱えている。
「すまない。邪魔だったかな。すぐにどくよ」
「ううん。大丈夫ですよ。それより、ため息なんて吐いちゃって、何か困ったことでもあったんですか?」
「いや、別に大した問題ではないんだ。ただ、そろそろ髪を切った方が良いんじゃないかと思ってな」
髪を切ったのはもう随分前のことだ。教員を辞める直前は何かとゴタゴタしていて散髪に行く余裕もなく、ここに来てからは髪型の制限もないので伸ばしたままにしていた。
料理をする時は髪を括ったり前髪をピンで留めるなどして対処をしていたのだが、流石に最近は鬱陶しく思っていたのだ。
「ぼくはその髪型も良いなって思いますけどね」
「君等くらいの年齢ならこのくらいの長さでも良いかもしれないが、僕の年でこれは大人気ないというか、あまり適切じゃないだろうな」
前髪もすっかり伸びてしまった。額の上くらいまでばっさりと切ってしまいたいな。
「普段はどこで髪を切ってたんですか?」
「近所に安い床屋があって、そこで切っていた」
「床屋さんなんですか? 美容院じゃなくて?」
東雲くんは目をまん丸にさせた。
「何かおかしかったかな」
「いえ、そんなことは……でも、ぼくの周りはみんな美容院に行ってるから、ちょっとびっくりしちゃいました」
「美容院って、男が行くのは恥ずかしくないか?」
「そんなことないですよ! ぼくもいつも美容院に行ってますし、健ちゃんだってそうしてますよ!」
東雲くんはぶんぶんと首を横に振る。
東雲くんが美容に気を遣っているのは、普段の生活ぶりからも良く分かる。彼は女子高生も顔負けなほどに沢山の化粧品を持っていて、それらを全て使い分けているようだ。
もちろん、僕も人前に立つ身として最低限の身嗜みは気をつけているけれど、それはお洒落というよりは清潔感を保つためのものであって、東雲くんほど力を入れてはいない。
それに、「おじさん」の領域に足を踏み入れつつある_____もしくは既に入っているか_____僕が今更美容院に行くというのは、なんだか気恥ずかしいものがある。
「今時の子はお洒落なんだなぁ……」
僕の発言から諦めのようなものを感じ取ったのか、東雲くんがあたふたと慌て出した。
「良かったら、ぼくがいつも行ってる美容院を紹介しましょうか? 今度髪を染めに行くつもりなんで、その時一緒に行きましょうよ」
「良いのか?」
「もちろんです。でも、本当に嫌だったら無理にとは言いませんけど……」
「いや、一緒に行ってくれるというのは助かるよ。僕はこういうのは良く分からないからな」
「じゃあ、後で美容院に予約を入れておきますね」
「ああ、ありがとうな」
数時間後、無事予約が取れたと東雲くんから言われ、一週間後に一緒に行くことになった。
しかし、東雲くんがいつも行っている美容院か。東雲くんのことだから、とてもお洒落なお店に行っているんだろう。
なんだか緊張するなぁ。
*
「随分と楽しそうだな、東雲くん」
「えへへ。だって、こうやってせんせーと二人でお出かけするのなんて初めてだから、嬉しくって」
「確かに君と二人きりというのは珍しいかもしれないな」
月島くんとは頻繁にメッセージでやり取りをするし、健助くんとは一緒に料理を作ったりすることはあるが、東雲くんと二人で何かをするということはなかった。
強いて言うなら、月島くんの荷物を移動させるのを手伝ってもらった時が二人きりだったが、あれも結構前のことだ。
そう考えると、僕は時間の使い方があまり良くなかったかもしれない。
大家として、二人で話をする機会をもっと作るべきだったな。
「東雲くん。ちょうどいいタイミングだから聞いておきたいのだけど」
「どうしたんですか?」
「君は、あの家で暮らしていて何か不満とかはないのか」
「不満、ですか?」
「ああ。何でも良いんだ。困ってることがあったら言ってほしい。僕にできることであったらすぐにでも対処しよう」
「困ってることですか……うーん……」
小首を傾げていた東雲くんは、ややあって顔を上げた。
「せんせーのご飯が美味しすぎて、たくさん食べちゃうことですかねぇ。最近体重が増えちゃって、運動しなきゃなって思ってるんです!」
うう、眩しい。東雲くんの笑顔が眩しすぎる。
「東雲くん。君はなんて良い子なんだ……!」
「えへへ。褒めたって何も出ませんよ」
「どうか君はそのまま、素直で良い子に育ってほしい」
「いや、あの……ぼく、もう大人ですよ」
しまった。教師だった頃の癖で、生徒に接するように東雲くんにも接してしまった。
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