記憶

夜咲槭樹

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記憶

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[ごめんなさい。あなたが誰かわからないの]
ショックだった。最愛の彼女が事故に巻き込まれ
た。原因は相手運転手の不注意にはよる衝突事故。その日は雪が降っていた。まぁ過失運転ってやつだ。その運転手もついさっき死亡が確認された。そいつにも家族がいて、そいつの妻と二十歳ばかりの息子が謝りに来た。
[本当にすみませんでした]
謝ったところで何も戻ってこない。事故を起こした男も、彼女の記憶も、この胸の悲しみも。
記憶が戻るかどうかは分からないらしい。何の前振りもなく戻ることもあれば、一生戻らないこともあるらしい。...一生
[とりあえず、今日は帰ります]
俺は彼女の、美幸の両親と話していた。
[本当に水木君には申し訳ないね。娘もあんな風になってしまったし...]
...何か言いたげな美幸の父。
[何か言いにくいことがあるんですか]
びくりと肩を震わせる美幸の母。父の方は悲しく、やるせない怒りを孕んだ目で俺を見ていた。
[あのね水木君。とても言いにくい事なんだけど...]
[大丈夫です。話してください]
二人は視線を一瞬交差させ、覚悟を決めたのだろう。父は口を開いた。
[もう娘の所には来なくていい]
[っ何でですか。俺は何に]
[そう、君は何も悪くない。本当にすまない]
[...せめて理由だけでも聞かせてください]
[今や娘は記憶を失い、私たち家族以外の人間を全て忘れてしまっている。関係の深かった水木君すらもね。しかも記憶が戻るかどうかは分からない。そんな状態で水木君には迷惑を掛けられない。これは私たちと事故を起こした相手家族との問題だ。君には関係ない。恐らく水木君は娘と、美幸との結婚を考えていただろう。交際してだいぶ長いからね。でも本当にすまない。水木君には水木君の人生がある。どうか美幸のことは忘れて、新たな道を進んでいって欲しい]
美幸を忘れるって、そんなことはできない。美幸が俺を忘れて、俺まで美幸を忘れたら、今までが無くなってしまう。
[せめて、もう少しだけ時間を下さい。記憶が戻るかも知れないなら、その手伝いをします。お願いします]
俺は土下座をする。
[顔を上げてくれ。私は君にそんなことをさせたいわけではない。...わかった、一年君に時間をかけて与える。それでダメだったら河野美幸の事は忘れて欲しい。約束してくれ]
[わかりました、ありがとうございます。娘さんを、美幸さんの過去を取り戻してみせます]
[あぁ、頑張ってくれ。私たちも戦わなければならない]
そう言って二人は目を合わせる。きっと裁判のことだろう。
とにかく俺は頑張るしかないんだ。一年という限られた時間で美幸の記憶を引っ張り出すんだ。
それから一年。俺はありとあらゆる手段を試した。
とにかく自己紹介しまくったり、写真を見せたり、昔行った場所にもう一回行ったり...

そうしてまた、冬が来る。

俺は彼女と歩いていた。寒空の下、今日の夕食の鍋の食材を揺らしながら。
[悠斗君]
[何?絢音]
俺はダメだった。何をしても美幸の記憶を取り戻せなかった。悲しみに打ちひしがれていた時手を差し伸べてくれたのが絢音だった。
[今、楽しい?]
絢音は俺に何があったか知っている。
[あぁ、楽しいよ]
[良かった]
絢音が笑顔になる。
あぁ、俺は絢音に嘘をついてしまっている。俺はただ、悲しみを埋める道具として絢音と付き合っている。こんな純粋な笑顔を向けてくれるのに、俺は本気で笑えない。ごめん、絢音。
あれから美幸の両親は裁判に勝った。相当の賠償金をもらったらしい。
しかし美幸は急死した。死因は教えてもらわなかったが、きっと事故の後遺症だろう。俺は知っていた。たまに咳き込んで血を吐く美幸の姿を。それでも、俺は見て見ぬふりをしていた。美幸の両親、すみませんでした。俺は逃げてました。
ごめん。一人きりで死なせてごめん。せめて一緒にいてやれば良かった。ごめん。ごめん。ごめん。
皆、こんな自分勝手でごめん。美幸、ごめん。
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