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最終話 めぐり逢い 

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 年季の入った暖簾をくぐり扉を開けると、美味しそうな匂いと温かい湯気が彼を包み、挨拶する前に「おーっ!」という陽気なドラ声が出迎えた。

「来たか、テツ! お前が来るのを首を長くして待ってたぞ」
「オッチャン、お久しぶり」
「まったくだ。今までどこをほっつき歩いていた?」

 でっぷりした図体に汚い前掛けをした、いかにもラーメン屋らしい風体の中年親父がカウンターの向こうからニヤリと笑いかけた。

「今流行の異世界にでも行ってたか!」

 まさしくその通りだった少年が息を呑んで目を白黒させると、親父はガーハハハハ! と、豪快に笑い飛ばした。店内にはカウンター席に品の良さそうな中年の夫婦がいるきりだったが、彼等も釣られたように笑いだした。

(よかった。オッチャン、事件のことは知らないんだ)

 少年はホッとした。一見ガサツだが陽気で心優しいこの親父に、彼は心配を掛けたくなかったのだ。

「うん、異世界に行ってた行ってた。それよりココ、相変わらず繁盛してないね」
「うるせえ、余計なお世話だ!」

 心安立てにからかわれた親父は、気を悪くした様子もなく再び哄笑した。
 そこは、庶民的だが清潔で清掃もきちんと行き届いた気持ちの良い店だった。それでいて中に入れば長い間この街に馴染んだ雰囲気を感じさせてくれる。
 その日一日不快な思いに晒されていた少年は、店内の温かい雰囲気に触れてようやく安心感を覚え、冗談も言えるくらい気持ちも緩んだ。
 店内の客に軽く会釈すると、彼は店の邪魔にならないように「僕、こども食堂の方に行ってるね」と、店の離れへ行こうとしたが。

「あ、待て待て」

 呼び止めた親父は、にっこり笑ってラーメンのドンブリを少年の前にどんと置いた。実は店の外に彼の姿を見た時から麺を茹で始めていたのだ。

「あれ? 僕、頼んでないよ。お金も持ってないし」
「水臭いこと言うなよ。ウチのラーメン久しぶりだろ、食ってけ食ってけ」
「本当にいいの? うわぁ、ありがとう!」

 一瞬躊躇したものの、そこは食欲旺盛な年頃の少年である。鶏ガラと魚粉、海藻が織りなす絶妙なスープの匂いに、ラーメンから長らく遠ざかっていた彼はたちまち降参してしまった。割りばしを挟んで「いただきます」と嬉しそうに手を合わせる。ドンブリから立ち上がる湯気の中に顔を突っ込むとそこには美味しく濁ったスープに漬かった中太の麺、少々の青ネギとゴマ、それに小さなチャーシューが一枚。
 ラーメンを夢中で啜りだした少年を見て目を細めた親父は、それまでカウンター席で雑談していた夫婦と話の続きを始めた。

「それにしても不思議な話だねぇ。亞璃澄ありすちゃんの子供の頃の写真すらないなんて」
「そればかりか私も主人も娘に関して最近までの記憶がないんです。でも二人揃って記憶喪失なんて……」

 品の良さそうな婦人は不思議そうに語る。

「最近になって養女を迎えたような感じで……まぁ、本当に養女だったって構わないんですが」

 首を捻る中年の夫も婦人も困惑した様子ではあったが、それを敢えて解消しようという様子は見受けられない。
 何故なら、二人にとって困惑よりも嬉しさの方がずっと大きいからだった。

「結局、娘がかわいいから二人揃ってオツムが飛んじゃったんだろうって笑い話にされてしまいました。まぁ、言われても仕方ありませんわ。主人なんて最近は『亞璃澄の顔が早く見たいから』って会社から定時で帰って来るし、私は私で毎日娘を外へ連れ出しちゃうし……」
「ははは、まさに親ばか万歳! さね。二人揃って亞璃澄ちゃんと結婚したみたいだな」

 親父はニコニコ笑いながら聞いている。少年もラーメンを食べながら聞くともなしにその話を聞いていた。
 それは、この夫婦に「いつのまにか一人娘がいた」という奇妙な話だった。
 二人には最近まで「自分達には娘がいる」という自覚がなかったのだという。二人揃って家族の記憶がないので不審に思い、さすがにカウンセラーへ相談したが笑われ、すごすごとここへ立ち寄ったものらしい。
 しかしバツが悪い思いをしたと言うものの、夫婦はとても幸せそうだった。

「もうこんな年齢になってしまったからって主人と二人で子供を諦めてたような気がするんです。変ですよね、私達には宝物のようなあの子がいるのに」
「娘さんがいるなら寂しくなんかないはずなのになぁ」
「昨日は寝ている間にあの子が消えてしまわないか怖くなって、三人で川の字になって寝ました」
「……」
「あの子は私達が眠るまで手を握ってくれたんです。本当に優しい子……起きたらやっぱり娘がいて。ああ良かったって、主人と二人で寝顔をずっと見ていました」

 娘への溺愛振りを聞かされ、親父は苦笑混じりに相槌を打つしかない。

「まぁ、あんないい娘だもの、親ばかになったっておかしくないさ」
「この年齢でお恥ずかしい。でも一緒に買い物に出掛けると、通りかかる皆が驚いて娘を見るんですよ。『どこの御令嬢?』『お忍びで来たどこかの国のお姫様?』って。もう、こそばゆくて嬉しくて足が宙に浮いてしまいそうで……」

 夫の方も緩みそうな顔を懸命に顰めて口を挟んだ。

「今日なんて、声を掛けたそうにしている男を見かけたんですよ。それでつい、『娘はまだ一六だ、俺の目の黒いうちは嫁になんかやらんぞ!』って聞こえよがしに言ってしまいました」
「はっはっは、旦那もまだ当分子離れ出来そうにないね」

 親父はとうとう腹を抱えて笑った。夫婦は子供が欲しいと願っていたにも関わらず得られずにいた長い歳月のぶん、積もり積もった愛情を降り注ぐように娘を可愛がっているようだった。

「まぁ親ばかは幸せでいいことだよ。今は子供を虐待する酷い親だって珍しくない世の中だからなぁ」

 こども食堂にはそんな境遇の子も来るのだろう。親父はため息をついた。

「娘が嫁に行くのはまだずっと先のことでしょうけど、考えただけで寂しくなってしまって。出来たらお婿さんが来てくれたら嬉しいのだけど……そしたら亞璃澄が『私には心に決めた人がいるの。いつか必ず連れて来るから待ってて』って」
「へーえ」

 親父は「まだ十六なのに。俺がその年齢の頃なんざ、毎日悪さばっかりしてゲンコツ喰らってたがなぁ……」と、腕組みした。

「あの子はどうしてます?」
「今、離れのこども食堂で子供たちの世話をしてくれてるよ。亞璃澄ちゃんだけじゃない、最近『手伝いたい』と来てくれた奴が二人もいてね。ありがたいこった、細々やってるこんな子ども食堂に……。最近客も増えてな。誰かがSNSとかいう奴でウチを美味いと宣伝してくれたらしい」

 親父は照れくさそうに笑って鼻をこすった。

「こども食堂に来る子達も亞璃澄ちゃん達が勉強を教えたり一緒に昼寝したりデザートを作ったり……凄く楽しそうでいい顔をするようになった。本当に助かってら。世の中、捨てたもんじゃないねぇ……」
「まぁ」
「あの娘、よく気が付くし世話好きだが何というか……凄く大人びてて気品があるね。小さい子なんか『姫しゃま』って呼んでるよ」
「もしかしたら本当にそうかも知れません。知らない間にどこかの国から私達に遣わされたお姫様……もしそうならどんなに感謝してもしきれません」

(姫様、か……)

 少年の胸に嫋やかな異世界の王姫の姿が浮かび、胸に痛みを感じた。
 きっとこの離れの奥で子供達の面倒を見ている少女も、王姫に似た美しい容姿と優しい心の持ち主なのだろう……
 それからしばらくよもやま話が続き、やがて夫婦は「では、娘をよろしくお願いいたします」「あまり遅くならないようにと伝えて下さい」と席を立った。
 彼等が支払いを済ませている間に少年もラーメンを啜り終え、席を立った。本当は食べ終わったらこども食堂へ顔を出すつもりだったのだが、そこで子供達の相手をしている少女がいると知って邪魔すまいと思ったのだ。

「僕もお暇するよ……ラーメン、ごちそうさま」
「おい、テツ。ちょっと待っ……」

 店の外へ出ようとした少年は、ちょうど暖簾を掻き分けて入ってきた青年と「オッ」と、ぶつかりそうになった。

「あっ、ごめ……」
「よう!」

 見知らぬ顔から突然親し気に声を掛けられ、どこかで会っただろうか? と、少年は相手を見た。

「ええと……誰?」
「さて、オレ様は誰でしょう?」

 どこかずる賢そうで皮肉っぽい笑みをした青年だった。
 だが、それが彼の為人を現わしている訳ではなかった。親し気な様子からは、明らかに少年への好意が感じられる。どこか見覚えがあるような気もするが、どうも思い出せない。

「あれ? どこ行くんだよ。こども食堂に用があるんだろ」

 首を傾げている間に青年に馴れ馴れしく肩を掴まれ、そのまま回れ右で強引に店内へ押し戻されてしまった。
 どうやら彼は、こども食堂を手伝っている一人らしい。「オッチャン来たよー。これ、土産だぁ」と、手にした小さなバケツを差し出した。近くの海岸で釣りをしていたらしく、中には魚が何匹も泳いでいる。

「いやぁ、大物を狙ったんだけど、結局釣れたのは小物ばっかりだった。悪ィ」
「何言ってやがる。今日は食材がほとんど余らなくてな。こども食堂の晩御飯はどうしようかって思ってたんだ。助かるぜ」
「そりゃ良かった。でもガキ共、魚なんて食うかなぁ」

 ボヤいた青年に、親父は「おい、料理の鉄人をナメてんじゃねえぞ」と凄んでみせた。

「どれどれ、アジとメジナか。ふむ……よーし、コイツらは唐揚げにしてやる」
「唐揚げ?」
「カラッと揚げた上に三杯酢を掛けるウチの特製だ。味も匂いも絶品だぜ。どんな魚嫌いでもヨダレを垂らして食いつくぞ。まぁ見てろ」

 自信満々の宣告を聞いた青年が「聞いてるだけで何か美味そうだなぁ」と漏らすと親父は「おうよ!」と、得意そうに胸を叩いて見せた。
 少年はすっかり置いてきぼりにされ、ポカンとして見ている。

「そういや、オレの相棒は?」
「お前の彼女ならこども食堂にいらぁ。あの娘器用だね、お姫様みたいなドレス作って亞璃澄ちゃんに着せて例の絵本を朗読させてるよ。おかげで子供達、絵本の世界にすっかり入り込んでる。夢中になって聞いてるぜ」
「へぇ、道理で向こうの部屋がえらく静かな訳だ」

 青年と顔を見合わせて笑うと、親父は早速バケツの魚を捌き始めた。

「沙遊璃ちゃんだっけ? お前、いい娘を彼女にしたなぁ」
「お、おう」

 青年は照れくさそうに笑い、少年は二人のやりとりを聞いているうちに疎外感を感じて俯いた。
 このこども食堂は、自分の居場所のつもりだった。
 だが、自分がずっと支えてきたつもりでいた場所に、今は見知らぬ青年が食材を届け、彼の恋人や親から宝物のように思われている少女が子供達を世話しているという。
 もうここは別に自分がいなくてもいい場所になってしまったのだろうか……そんな寂しさを覚えた少年は思わず「僕、また来るよ」と、逃げるように去ろうとする。
 すると、青年が驚いて「おい、どこへ行くんだよ!」と引き留めた。

「まさか変な勘違いでもしてんじゃねえだろうな。みんな、お前のことを待ってたのに」
「みんな?」
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