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駒沢大学~二子玉川
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空腹が満たされたせいだろうか。サイゼリヤを出た後も、彼女はやけに機嫌が良かった。
「さあ出発しましょう。海を目指して!」
防災頭巾の上にさっきとは反対向きに座り、しっかりと荷台の前後を握った。
時計は二三時少し前で、駒沢大学の駅前を離れると人通りはほとんどなくなった。自転車レーンは当時まだなく、車の通りはその時間まだあったので、私は歩道を走った。車道より少し高くなった歩道は、私たちの走る大通りと小さな通りが交わる度にアップダウンし、わずかな段差を乗り越える度にガタンと揺れた。
「お尻痛くない?」
「大丈夫です。防災頭巾様々ですね。これは素晴らしい文化です」
二四六はひたすら高速の高架の下で、上の様子は全くわからない。両脇に駅前から続いていた店舗は徐々に減っていき、マンションばかりになった。
「この辺りはどんな人が住んでるんでしょうね?」
「うーん、どうだろうね?」
外廊下に灯された明かりを眺めつつ、想像を働かせる。
「山手線の外だから、市ケ谷よりは普通の人が住んでそうじゃない? けど、まだ都心から離れてないし、家賃は結構高いかもね」
「学生でしょうか? 家族でしょうか?」
「どうだろ?」
建物によっても部屋数は違うのだろうけれど、外から見るだけではよくわからない。それにしてもこれだけの住居があるということは、それだけの人が住んでいて、あの窓の明かり一つ一つにそれぞれの人生の物語があるということだ。
「学生が住むにはちょっと立派すぎる気もするけど、家族が住むには狭そうだし、一人暮らしの社会人とかかな。あとは、まだ子供のいない夫婦とか、同棲中のカップルとか」
「同棲というのは、結婚はしていないけれど一緒に棲んでいるということですよね? 日本語は不思議です」
「あの棲むって漢字、動物の棲処っぽいよね」
「ですよね」
私の言葉に、彼女は嬉しそうに同意した。やはり彼女は私とどこか感覚が合っている気がした。
「まあ人間も動物なんですが……」
彼女がそう言いかけて口を閉ざした。少し先にあったコンビニからレジ袋を持ったカップルが出てきて、こちらに向かって歩いてきている。私も黙って自転車を漕ぎ、彼らとすれ違った。
「もう、そんなこと言ってたら夏が終わっちゃうよ~」
女はそう言って、男の腕に自分の腕を絡めた。
夏はあと一週間と少しで終わる。恋人たちは短い夏を謳歌しているようだった。
「これから部屋飲みかな」
袋の中身までは見えなかったけれど、ビールらしきものが入っていたような気がする。
「楽しそうですね」
「まだ同棲はしてないのかな」
「そんな気がします」
なんとなく、どちらかが遊びに来ただけという印象だ。同棲していたらこんな時間にコンビニでビールやスナックを買わない気がする。
「……上の階の人たちはベランダや外廊下から高速道路が見えそうですね」
彼女は話題を変えた。歩道は狭く、外廊下と高速道路の距離はかなり近いだろう。
「うるさそうだよね」
なんとなくカップルがこれからすることを想像しそうになり、私も彼女に話を合わせた。高速の両側には防音のパネルが付いていると思うが、どこまで効果があるのだろうか。
「こういう場所だと洗濯物を外に干せないらしいですよ。排気ガスで真っ黒になるって」
「まあ今はドラム式洗濯機で乾燥もできるから、なんとかなるんじゃない?」
「そうですね。どんな感じかちょっと住んでみたいですよね。住んだらすぐ嫌になるかもしれませんけど」
「赤と白のライトがずっと並んでるのは綺麗かもね」
話をしている間にも、次々とマンションが、外廊下の明かりが通り過ぎていく。最近だと外廊下は敬遠される傾向にあるらしいけれど、どのマンションにも外廊下があるのは、建てられた時代を反映してるのだろうか。
「あ、今、住んでみたいって……」
そのとき私は不意に気づいた。
市ケ谷では「住んでみたかった」と言っていたのに、彼女は確かに今、「住んでみたい」と言ったのだ。
「言葉の綾です。できることならという仮定の話ですよ。まあいいじゃないですか、そんなことは」
「あはは、そうだね」
私としても、設定が崩れているなどと野暮なことを言うつもりは毛頭なかった。ただ、彼女の気持ちが前向きになってくれたのだとしたら嬉しかった。果たして何が気持ちの変化を促したのだろうか。
食欲が満たされたから?
サイゼリヤのソファ席で休めたから?
ここまで交わしてきた会話で打ち解けた?
道が空いていて自転車のスピードが出たから?
「……私のことより、あなたの話をしませんか? 考えてみたら、私はまだあなたのことを何も知りません」
「え? オレのこと?」
急に話を振られて、戸惑う。
あるいはそれは、自分の設定のボロが出ることを恐れてだったのかもしれない。けれどそのときは、彼女が私に興味を持ってくれたのだと思った。
いや、正しくは今でも思っている。設定の破綻を恐れたのも事実かもしれないが、彼女が私に興味を持っていたこともまた事実だと思うのだ。そもそも設定自体が事実かもしれないという話は、一旦脇に置いておこう。
「あんまり面白い話はないよ。普通の家に生まれて、普通に育って、まあまあな高校に入ったけど、今は受験に落ちて浪人中。出生の秘密も数奇な運命もないし、親とはぶつかることもあるけど、全体的にはまあ感謝してるし」
「その普通の話が聞きたいです。この地球の、日本という国の、普通の人生が知りたいんです」
彼女が知りたかったのは、私という個人の人生なのか、それともあくまで平凡な日本人のサンプルとしてだったのか。希望的観測だが、前者であってほしかった。
「うーん、どこから話そうか……」
「そうですね……。まず、生まれた場所は?」
それから私は、彼女に質問されるままに、自分のこれまでの人生を語った。平凡で退屈な、一般的な現代日本人のサンプルにしか見えないであろう人生を。
私は自転車を漕ぎ、彼女は質問し、私は語った。自転車は夜の街を進み続けた。
瓦屋根のレトロな銭湯の前を通り過ぎ、小川を挟んだ遊歩道を越え、緩い坂を上ると、周囲には再びオフィスや商店が増え、またそれが減ってマンションばかりになった。
歩道は狭く、車道には路上駐車もなかったので、私は車道に出ていた。片側二車線の道路の右車線を、いくつもの車が追い越していった。
やがて左手に低い石垣を隔てて小さな森のようなものが見えて、さらに進むと外車の販売店を過ぎた先で高架が大きく右にカーブしているのが見えた。
高架と別れ、私たちは二四六をまっすぐ進んだ。道は地下に潜り環状八号の下を通るルートと、右左折するための側道に分かれている。車に混じって右車線に入るのには危険を感じて側道を進むと、巨大な交差点に出た。
信号が赤なので、左折車線と直進車線のどちらに進むか少し迷ったけれど、私は直進車線に停まった。環八に折れない車は基本的に地下を通る。後から来た車はやはり右折車線と左折車線に停まった。ここを越えれば、多摩川は目と鼻の先だ。
「……もうすぐ東京を出るよ」
一旦身の上話を打ち切って、私は彼女に告げた。
「いよいよですね」
話は確か、私が戸田市に引っ越したあたりまで進んでいたと思う。
信号はすぐに青になり、私はペダルを踏み込んだ。二人を乗せた重い自転車はのろのろと加速し、広い交差点を横切った。
交差点を過ぎると道は下り坂になり、自転車はぐんぐんスピードを上げた。坂道は大地を掘り下げて造られたらしく、左側はコンクリートの擁壁となり、車道と歩道の間にはイチョウらしき木々が連なっている。その遙か先、明かりを灯したマンション群のさらに向こうに、夜の積乱雲が見えた。深い群青の空の奥に、灰色の入道がそびえている。
「見てあの雲。夜でも入道雲ってあるんだな」
「すごいですね。夏です!」
それは確かに夏だった。他のどの夏よりも。
自転車を漕いで汗で体に貼り付いたTシャツ。
髪を揺らす生温かい風。
微かな排気ガスの匂い。
抽象化され純化された、遠い夏の記憶。
入道雲の下で、側道は地下から出た本線と再び合流し、けれどそのすぐ先で、今度は高架と側道に分かれているようだ。側道の路面には玉川と書かれており、上の案内標識を見ると、二四六ではなくなるようだ。しかし本線を走る車はかなりスピードを出しており、二人乗りで本線に入るのは危険に思えた。まあ、どこかでまた二四六に戻れるだろう。そう思い、私は再び側道を選択した。
彼女は雲について話していた。なぜ積乱雲を入道雲と呼ぶのかとか、そんな話だ。私は自転車を追い抜いていく車の動きを意識しつつ、どこで二四六に戻れるのかと考えた。側道は下り坂を維持していて、自転車もスピードに乗っていた。私たちと分かれた高架は右に大きくカーブを描き離れていく。
「二四六から外れてしまいましたね」
私の内心に気づいたように彼女は言った。
「またどっかで合流するよ」
そう答えつつ、私は小さな違和感を覚えた。彼女は、道を知っている。
「……二四六とか知ってるんだ?」
「まあそれぐらいは。相模湾までの地理はある程度頭に入れてあります。移動方法もいろいろと検討はしましたので」
考えてみれば当然のことではある。設定が本当であればそれぐらいの検討はするだろうし、実際には私と最初に話してから次の日までの間に計画を練ったのだろう。
それにしても彼女は一体どこに住んでいるのだろうか。免許も持っていない高校生の口から二四六の名前が出ると、その沿線に住んでいそうな気がするが、事前に調べたとすればそうとも限らない。結局のところ何もわからなかった。
「ちなみに、この先はどういうルートでしょうか? 二四六をずっと進むと静岡まで行ってしまうので、どこかで曲がりますよね?」
「大和市辺りで曲がろうかなって。それがいちばん分かりやすそうだし」
「なるほど」
二四六から外れた道は市街地へと入っていく。緑に覆われた商業施設の隣を抜け、渡り廊下のような遊歩道をくぐり、右手に要塞のような巨大な高島屋を眺めながら、自転車は二子玉川の駅前へとたどり着く。バス停の先で左車線が左折専用になっているのに気づいた私は、一旦自転車を歩道に上げた。
「ここは?」
「ニコタマだね。一旦休憩する?」
なんとなく駅前に「着いた」感じになってしまったものの、サイゼリヤを出てから一時間も経っていない。左折車線のある交差点の案内標識は、直進すると二四六に戻れることを示していた。
「いえ、進みましょう」
彼女に促され、私は落としたスピードを再び上げていく。
歩行者用の信号は青だった。まだ終電の時間ではなさそうだが、さすがに人通りは少ない。私は自転車に乗ったまま横断歩道を渡った。
交差点の先は片側一車線で、やや上り坂になっている。自然のものではない、高架に続くような坂だ。おそらく多摩川を越える橋に続いているはずだ。車も少ないようだったので、私は横断歩道を渡りきる直前で自転車を車道に戻し、思い切りペダルを踏み込んだ。
左は東急線の高架で、その上は駅のホームのはずだった。二子橋と書かれた欄干に差し掛かると、道は駅とほぼ同じ高さになった。目隠しのパネルのせいでホームは見えないが、屋根から吊された駅名表示が見えた。そして右側には多摩川の広大な河川敷が広がっている。
「東京の、端まで、来たぞ」
私は必死でペダルを漕ぎ、息を切らせながら言った。
「わーお!」
彼女が小さな歓声を上げた。
坂が終わり、自転車は再びスピードを上げていく。その横を自動車のライトが追い越していく。
河川敷は暗闇だった。対岸のマンションの明かりの下に薄暗い緑が広がり、その手前を流れる川は漆黒だ。
轟音とともに向こう岸から鉄橋を渡ってきた列車とすれ違う。後ろから近づいてきたライトに私たちの陰が長く伸び、縮んでは消える。
「グッバイ、トーキョー!」
彼女が叫んだ。
「後ろ、何が見える?」
「ビル! 明かりが綺麗です!」
去りゆく東京の夜景は、彼女の目にどう映ったのだろうか?
「さあ出発しましょう。海を目指して!」
防災頭巾の上にさっきとは反対向きに座り、しっかりと荷台の前後を握った。
時計は二三時少し前で、駒沢大学の駅前を離れると人通りはほとんどなくなった。自転車レーンは当時まだなく、車の通りはその時間まだあったので、私は歩道を走った。車道より少し高くなった歩道は、私たちの走る大通りと小さな通りが交わる度にアップダウンし、わずかな段差を乗り越える度にガタンと揺れた。
「お尻痛くない?」
「大丈夫です。防災頭巾様々ですね。これは素晴らしい文化です」
二四六はひたすら高速の高架の下で、上の様子は全くわからない。両脇に駅前から続いていた店舗は徐々に減っていき、マンションばかりになった。
「この辺りはどんな人が住んでるんでしょうね?」
「うーん、どうだろうね?」
外廊下に灯された明かりを眺めつつ、想像を働かせる。
「山手線の外だから、市ケ谷よりは普通の人が住んでそうじゃない? けど、まだ都心から離れてないし、家賃は結構高いかもね」
「学生でしょうか? 家族でしょうか?」
「どうだろ?」
建物によっても部屋数は違うのだろうけれど、外から見るだけではよくわからない。それにしてもこれだけの住居があるということは、それだけの人が住んでいて、あの窓の明かり一つ一つにそれぞれの人生の物語があるということだ。
「学生が住むにはちょっと立派すぎる気もするけど、家族が住むには狭そうだし、一人暮らしの社会人とかかな。あとは、まだ子供のいない夫婦とか、同棲中のカップルとか」
「同棲というのは、結婚はしていないけれど一緒に棲んでいるということですよね? 日本語は不思議です」
「あの棲むって漢字、動物の棲処っぽいよね」
「ですよね」
私の言葉に、彼女は嬉しそうに同意した。やはり彼女は私とどこか感覚が合っている気がした。
「まあ人間も動物なんですが……」
彼女がそう言いかけて口を閉ざした。少し先にあったコンビニからレジ袋を持ったカップルが出てきて、こちらに向かって歩いてきている。私も黙って自転車を漕ぎ、彼らとすれ違った。
「もう、そんなこと言ってたら夏が終わっちゃうよ~」
女はそう言って、男の腕に自分の腕を絡めた。
夏はあと一週間と少しで終わる。恋人たちは短い夏を謳歌しているようだった。
「これから部屋飲みかな」
袋の中身までは見えなかったけれど、ビールらしきものが入っていたような気がする。
「楽しそうですね」
「まだ同棲はしてないのかな」
「そんな気がします」
なんとなく、どちらかが遊びに来ただけという印象だ。同棲していたらこんな時間にコンビニでビールやスナックを買わない気がする。
「……上の階の人たちはベランダや外廊下から高速道路が見えそうですね」
彼女は話題を変えた。歩道は狭く、外廊下と高速道路の距離はかなり近いだろう。
「うるさそうだよね」
なんとなくカップルがこれからすることを想像しそうになり、私も彼女に話を合わせた。高速の両側には防音のパネルが付いていると思うが、どこまで効果があるのだろうか。
「こういう場所だと洗濯物を外に干せないらしいですよ。排気ガスで真っ黒になるって」
「まあ今はドラム式洗濯機で乾燥もできるから、なんとかなるんじゃない?」
「そうですね。どんな感じかちょっと住んでみたいですよね。住んだらすぐ嫌になるかもしれませんけど」
「赤と白のライトがずっと並んでるのは綺麗かもね」
話をしている間にも、次々とマンションが、外廊下の明かりが通り過ぎていく。最近だと外廊下は敬遠される傾向にあるらしいけれど、どのマンションにも外廊下があるのは、建てられた時代を反映してるのだろうか。
「あ、今、住んでみたいって……」
そのとき私は不意に気づいた。
市ケ谷では「住んでみたかった」と言っていたのに、彼女は確かに今、「住んでみたい」と言ったのだ。
「言葉の綾です。できることならという仮定の話ですよ。まあいいじゃないですか、そんなことは」
「あはは、そうだね」
私としても、設定が崩れているなどと野暮なことを言うつもりは毛頭なかった。ただ、彼女の気持ちが前向きになってくれたのだとしたら嬉しかった。果たして何が気持ちの変化を促したのだろうか。
食欲が満たされたから?
サイゼリヤのソファ席で休めたから?
ここまで交わしてきた会話で打ち解けた?
道が空いていて自転車のスピードが出たから?
「……私のことより、あなたの話をしませんか? 考えてみたら、私はまだあなたのことを何も知りません」
「え? オレのこと?」
急に話を振られて、戸惑う。
あるいはそれは、自分の設定のボロが出ることを恐れてだったのかもしれない。けれどそのときは、彼女が私に興味を持ってくれたのだと思った。
いや、正しくは今でも思っている。設定の破綻を恐れたのも事実かもしれないが、彼女が私に興味を持っていたこともまた事実だと思うのだ。そもそも設定自体が事実かもしれないという話は、一旦脇に置いておこう。
「あんまり面白い話はないよ。普通の家に生まれて、普通に育って、まあまあな高校に入ったけど、今は受験に落ちて浪人中。出生の秘密も数奇な運命もないし、親とはぶつかることもあるけど、全体的にはまあ感謝してるし」
「その普通の話が聞きたいです。この地球の、日本という国の、普通の人生が知りたいんです」
彼女が知りたかったのは、私という個人の人生なのか、それともあくまで平凡な日本人のサンプルとしてだったのか。希望的観測だが、前者であってほしかった。
「うーん、どこから話そうか……」
「そうですね……。まず、生まれた場所は?」
それから私は、彼女に質問されるままに、自分のこれまでの人生を語った。平凡で退屈な、一般的な現代日本人のサンプルにしか見えないであろう人生を。
私は自転車を漕ぎ、彼女は質問し、私は語った。自転車は夜の街を進み続けた。
瓦屋根のレトロな銭湯の前を通り過ぎ、小川を挟んだ遊歩道を越え、緩い坂を上ると、周囲には再びオフィスや商店が増え、またそれが減ってマンションばかりになった。
歩道は狭く、車道には路上駐車もなかったので、私は車道に出ていた。片側二車線の道路の右車線を、いくつもの車が追い越していった。
やがて左手に低い石垣を隔てて小さな森のようなものが見えて、さらに進むと外車の販売店を過ぎた先で高架が大きく右にカーブしているのが見えた。
高架と別れ、私たちは二四六をまっすぐ進んだ。道は地下に潜り環状八号の下を通るルートと、右左折するための側道に分かれている。車に混じって右車線に入るのには危険を感じて側道を進むと、巨大な交差点に出た。
信号が赤なので、左折車線と直進車線のどちらに進むか少し迷ったけれど、私は直進車線に停まった。環八に折れない車は基本的に地下を通る。後から来た車はやはり右折車線と左折車線に停まった。ここを越えれば、多摩川は目と鼻の先だ。
「……もうすぐ東京を出るよ」
一旦身の上話を打ち切って、私は彼女に告げた。
「いよいよですね」
話は確か、私が戸田市に引っ越したあたりまで進んでいたと思う。
信号はすぐに青になり、私はペダルを踏み込んだ。二人を乗せた重い自転車はのろのろと加速し、広い交差点を横切った。
交差点を過ぎると道は下り坂になり、自転車はぐんぐんスピードを上げた。坂道は大地を掘り下げて造られたらしく、左側はコンクリートの擁壁となり、車道と歩道の間にはイチョウらしき木々が連なっている。その遙か先、明かりを灯したマンション群のさらに向こうに、夜の積乱雲が見えた。深い群青の空の奥に、灰色の入道がそびえている。
「見てあの雲。夜でも入道雲ってあるんだな」
「すごいですね。夏です!」
それは確かに夏だった。他のどの夏よりも。
自転車を漕いで汗で体に貼り付いたTシャツ。
髪を揺らす生温かい風。
微かな排気ガスの匂い。
抽象化され純化された、遠い夏の記憶。
入道雲の下で、側道は地下から出た本線と再び合流し、けれどそのすぐ先で、今度は高架と側道に分かれているようだ。側道の路面には玉川と書かれており、上の案内標識を見ると、二四六ではなくなるようだ。しかし本線を走る車はかなりスピードを出しており、二人乗りで本線に入るのは危険に思えた。まあ、どこかでまた二四六に戻れるだろう。そう思い、私は再び側道を選択した。
彼女は雲について話していた。なぜ積乱雲を入道雲と呼ぶのかとか、そんな話だ。私は自転車を追い抜いていく車の動きを意識しつつ、どこで二四六に戻れるのかと考えた。側道は下り坂を維持していて、自転車もスピードに乗っていた。私たちと分かれた高架は右に大きくカーブを描き離れていく。
「二四六から外れてしまいましたね」
私の内心に気づいたように彼女は言った。
「またどっかで合流するよ」
そう答えつつ、私は小さな違和感を覚えた。彼女は、道を知っている。
「……二四六とか知ってるんだ?」
「まあそれぐらいは。相模湾までの地理はある程度頭に入れてあります。移動方法もいろいろと検討はしましたので」
考えてみれば当然のことではある。設定が本当であればそれぐらいの検討はするだろうし、実際には私と最初に話してから次の日までの間に計画を練ったのだろう。
それにしても彼女は一体どこに住んでいるのだろうか。免許も持っていない高校生の口から二四六の名前が出ると、その沿線に住んでいそうな気がするが、事前に調べたとすればそうとも限らない。結局のところ何もわからなかった。
「ちなみに、この先はどういうルートでしょうか? 二四六をずっと進むと静岡まで行ってしまうので、どこかで曲がりますよね?」
「大和市辺りで曲がろうかなって。それがいちばん分かりやすそうだし」
「なるほど」
二四六から外れた道は市街地へと入っていく。緑に覆われた商業施設の隣を抜け、渡り廊下のような遊歩道をくぐり、右手に要塞のような巨大な高島屋を眺めながら、自転車は二子玉川の駅前へとたどり着く。バス停の先で左車線が左折専用になっているのに気づいた私は、一旦自転車を歩道に上げた。
「ここは?」
「ニコタマだね。一旦休憩する?」
なんとなく駅前に「着いた」感じになってしまったものの、サイゼリヤを出てから一時間も経っていない。左折車線のある交差点の案内標識は、直進すると二四六に戻れることを示していた。
「いえ、進みましょう」
彼女に促され、私は落としたスピードを再び上げていく。
歩行者用の信号は青だった。まだ終電の時間ではなさそうだが、さすがに人通りは少ない。私は自転車に乗ったまま横断歩道を渡った。
交差点の先は片側一車線で、やや上り坂になっている。自然のものではない、高架に続くような坂だ。おそらく多摩川を越える橋に続いているはずだ。車も少ないようだったので、私は横断歩道を渡りきる直前で自転車を車道に戻し、思い切りペダルを踏み込んだ。
左は東急線の高架で、その上は駅のホームのはずだった。二子橋と書かれた欄干に差し掛かると、道は駅とほぼ同じ高さになった。目隠しのパネルのせいでホームは見えないが、屋根から吊された駅名表示が見えた。そして右側には多摩川の広大な河川敷が広がっている。
「東京の、端まで、来たぞ」
私は必死でペダルを漕ぎ、息を切らせながら言った。
「わーお!」
彼女が小さな歓声を上げた。
坂が終わり、自転車は再びスピードを上げていく。その横を自動車のライトが追い越していく。
河川敷は暗闇だった。対岸のマンションの明かりの下に薄暗い緑が広がり、その手前を流れる川は漆黒だ。
轟音とともに向こう岸から鉄橋を渡ってきた列車とすれ違う。後ろから近づいてきたライトに私たちの陰が長く伸び、縮んでは消える。
「グッバイ、トーキョー!」
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