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上弦の月
月姫 虹の入江
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「そろそろご飯食べにいこうか?」
私と田村さんは水族館を満喫した後、一緒に昼食に出かけることにした。水族館を出ると外は土砂降りだ。海は酷く荒れて、家族連れが傘を必死に押さえながら車から走ってきている。せっかく田村さんと一緒に出かけたのに天気はあまり味方をしたくないらしい。
「あー、本降りですねー。せめて小雨ならよかったのに……」
「そうだねー。しゃーない! 車まで走ろうか!」
私と田村さんは一生懸命、車に向かって走った。サンダルで走りづらかったけど、どうにか車までたどりつき乗り込んだ。さっきバスタオルで拭いたばかりだというのにまた濡れてしまった。
「また濡れちゃいました……」
「俺もけっこう服がヤバいかも」
田村さんの髪は雨を吸ってしなっている。彼の髪から水滴が滴り、座席を濡らしていた。私もワンピースが少し透けるほど濡れてしまっている。下着見えなきゃいいけど。
「服少し乾いてからにする?」
「そうですね! 乾いたらお店行きましょう!」
私と田村さんは車の中で少し休憩することにした。海の荒れた波を眺めながら私たちはまったりとした時間を過ごす。雨が車全体に打ちつけてきて、音がとても賑やかだ。運転席で俯き、物思いに耽る彼を黙って見つめていると心音が速くなった。本当に素敵な人だな。
エアコンをつけてから数分まったりとした時間を過ごすとある程度、髪と服が乾いてきた。
「そろそろ行きます?」
私が田村さんに聞くと彼は「そうだね」といって車を出した。
海辺の道路をワイパーを動かしながら走ると雨の強さが一層強く感じられる。左手に海を右手に松林を眺めながら車は走り、ランチをするお店へと向かった。
お店は大洗町のビーチの近く。環状線から少し内側に入ったところにひっそりとそのイタリア料理店は建っていて、ネットで調べた情報だと利用者は遠方からも来るようだった。
「よーし到着したよ」
田村さんは車を店の前に停めるとルームミラーを見ながら軽く髪をとかした。さっき車の中で雨宿りしたお陰で髪と服が多少乾いたようだ。
料理店のドアを開けるとカランという鈴の音が鳴り、男性店員の元気な挨拶が店内に響く。すぐにやってきた店員さんは私たちを奥の席に案内してくれた。店内はアップテンポのピアノの曲が流れていて、所々に南国調の雑貨が飾ってある。普段こんな感じのおしゃれなお店に来ない私はどう振る舞っていいのかよくわからない。
「今日は雨の中ご来店ありがとうございます。こちらメニューになりますのでお決まりになりましたらお声がけくださいませ」
店員さんはそう言うと厚みのあるカバーのメニューと水の入ったグラスを私たちのテーブルに置いて下がっていった。ブチキレて
「うわー、なんかこんなお店来るの初めてだから緊張しますー。なんかおしゃれだし、私にはもったいないですね」
「なんかいいお店だよねー。雰囲気とかいいしさ!」
たしかにさっき対応してくれた店員さんはとても感じのいい人だった。流れで接客をしている私とは雲泥の差があると思う。運んできてくれた水のグラスさえも高級に見える。
私たちはそれぞれパスタを注文することにした。私は蟹とトマトのクリームパスタを、田村さんはミートソースのパスタをそれぞれ注文した。店内からビーチが見え、この雨だというのに数名のサーファーがサーフボードを持って砂浜を歩いている。
「本当に今日はありがとうございます。さっきの水族館でも田村さんと色々とお話できて、一緒にバイトやってる時みたいで楽しかったです」
「いえいえ、ルナちゃんが楽しいならそれでいいよ。それじゃあ、さっきの続きの話を……」
私は田村さんに姉の話を聞いてもらうことにした。話したところで解決するわけじゃないけど、田村さんには聞いてもらいたい。
「お前はなんで何時もそうなんだ!?」
父さんは居間のテーブルでへカテーに怒鳴りつけた。
その日父さんは、姉の学校に呼び出しをくらっていた。ヘカテーは学校内でタバコを吸っているところを生徒指導の先生に見つかったようだ。父はイライラしながら姉に説教している。
「悪かったよ! もう学校でタバコ吸わないからさ。あんま怒鳴んないでよ」
「つーかお前! まだ学生のくせにタバコとか吸ってんじゃねーよ! ガキのくせに問題ばっかり起こしやがって」
「はいはい、わーったよ。父さんの仕事邪魔してすいませんでした! こんなことないようにすっからもういいでしょ!?」
ヘカテーはうんざりしたように父さんに説教されている。
私は二人の会話を台所で洗い物をしながら聞いていた。いつものことながらヘカテーは反省する様子がないようだ。
「あのよー、先生から話聞いたけどお前ろくに授業も出てないらしいじゃねーか? このままじゃ二年になれないって先生にはっきり言われたぞ?」
「だってさー、学校の勉強嫌いなんだよ。父さんも知ってるっしょ? 私はやりたくないことはできないんだよ」
ヘカテーが悪びれる様子も無くそう言うと父さんは完全にブチキレた。
台所の食器の水滴を布巾で拭いながら二人の会話をこうしていつも聞いていると私はいたたまれなくなる。なんで姉はあんなに自分勝手で好き放題生きているんだろう?
「もう今日はいいでしょ? 反省するし、もう面倒かけないようにすっから!」
ヘカテーはそう言うと、自室に走っていった。
私は洗い物の手を止めるとお茶を用意して父さんのいる居間に向かった。父さんはテーブルの前にある椅子に腰掛けて頭を抱えている。
「今日はだいぶ荒れたみたいだね」
そういって父さんの前に湯飲みを置いた。
「ああ、あいつはなんでああなんだろうな? ただ、普通にしていてほしいだけなのにいっつもなにか問題起こすんだよ」
父さんは心底うんざりしているようだ。
「まぁ、ああいう人だからしょうがないよ。父さんは別に悪くないって、お姉には私からあとで話しとくから」
「ルナ……。お前とヘカテーはなんでこんなに違うんだろうな? 俺の育て方が悪かったのかな?」
父さんはひどく項垂れ、今にも折れてしまいそうだ。私は父さんの側に寄り添って、自分なりに慰めになる言葉を探して掛け続けた。父さん可哀想……。
父さんを慰めると私はへカテーの部屋に向かった。ドアをノックしたけど返事がない。
「お姉? 入るよ!」
私はそう言うと、彼女の部屋のドアを開けた。
ドアを開けるとへカテーはベッドにうつ伏せになってヘッドホンで音楽を聴いていた。
彼女の部屋はひどく個性的だ。壁にはパンク系バンドのポスターが貼ってある。左側に長髪のギタリスト、右側には髭を生やしたベーシスト、裏には体格のいいドラマーがいる。そして中央には奇麗な金髪の女性が写っている。バンド名は「アフロディーテ」と書いてあった。机はあるけど、参考書は一冊も無く、代わりにバンドスコアが大量に積まれていた。
「お姉!」
少し大きな声を出して目の前に立つと、彼女はやっと顔を上げた。へカテーの目は不機嫌そうだ。彼女はかったるそうにヘッドホンを外した。
「なに!?」
ヘカテーは苛立った声を発した。
「あのさー、ちょっと話したいんだけどいい?」
ヘカテーは立ち上がりベッドの間に置いてあった真っ赤なギターを横にずらすとベッドの上に腰掛け自分の横をポンポンと叩いた。ここに座れということらしい。
「なに? 話ってどうせ親父のことでしょ?」
私はへカテーの横に座ると大きく息を吸った。
「お姉、お願いだから父さんともう少し向き合ってあげて! タバコ吸ったり、バンドしたりするのは自由だと思うけど、父さんにあんな風に言ったらまずいよ」
「だから悪かったって言ってるでしょ? 親父はただ自分の仕事邪魔されたからイライラしてるだけだしさー。あの人いつもコンビニ、コンビニって忙しいじゃん?」
「そうじゃないよ! 仕事のことは別だよ。父さんはただ、お姉のことが心配なんだよ……」
それを聞いたヘカテーは鼻で笑った。何がおかしいの?
「はっ! 私のことが心配だって!? 笑わせないでよ。親父は何時だって仕事、仕事じゃん? だって私がコンビニのバイト向いてないから無理って言ったときなんか一週間くらい口もきかなかったんだよ? 私のことを労働力ぐらいにしか見てねーんだよ」
「そ、そんなことないよ……」
私は気圧されて口ごもる。
「ルナさぁ、あんまり親父にのせられないほうがいいと思うよ? 親父はあんたを都合良く使ってるだけなんだから!」
何てことを言うんだろう。こんな人が私の姉だなんて!
「とにかく! ちょっと考えてよね。本当に二年生になれなかったらどうするつもり?」
「あ? 別に、かまわないよ。もし留年すんなら中退して家出てくから」
私はもうヘカテーと会話したくなくなっていた。その後、何を話したかも覚えていない。とにかく私は彼女の部屋から出て自室に戻った。もういいかな? お姉のことなんかもう……。
「お待たせいたしました。こちらがズワイガニのトマトクリームパスタとミートソースパスタになります。あと、こちらは季節野菜のサラダになっております」
さっきの店員さんがパスタを運んできた。真っ白で曇りのない皿に几帳面にパスタが盛られている。
「食後にはデザートとお飲み物もご用意しておりますので、お済みになりましたらお声がけください」
そう言うと、店員さんは爽やかな笑顔で下がっていった。
「お、美味しそうだね! 温かいうちに食べようか」
「そうですね。いただきまーす」
私たちは話の途中だったけど、運ばれてきたパスタを食べることにした。
「うーん、おいしー! やっぱりこのお店選んで正解でした!」
「うんうん、うまいねー。ルナちゃんのセレクト大正解だね」
パスタは予想以上だった。味付けが私の好みだったし、麺ももっちりしている。
「さっきの話だけどさ。それが決定的にウラちゃんと仲が悪くなった原因てことかな?」
「うーん、その時はそこまでじゃなかったんですよねー。たしかにお姉にはうんざりしてましたけど、あの人のこと諦めるまではいってなかったんです。決定的になったのはその後で……」
宣言通りにへカテーが高校を辞めるまで、それほど時間が掛からなかった。彼女と同じ高校に通う茉奈美と麗奈もへカテーが退学するのをどうにか思いとどまらせようとしてくれたけど、無駄だった。
高校を中退するとへカテーは、水戸駅内のパン屋でバイトを始めたようだった。バイトを始めて一週間ほど経ったときに彼女は髪の右半分だけを金髪に染めた。
「お前はこれからどうするつもりだ!?」
父さんはいつものように居間でへカテーに説教している。
「父さん、本当にごめんね。せっかく通わせてもらった高校も辞めたし、これ以上この家にやっかいになるわけにもいかないと思うんだ」
「はぁ? じゃあ何か? お前家を出てくつもりか?」
「そうしたいと思っています。今まですっかり父さんにもルナにも迷惑かけたし、これ以上は一緒に居られないよ」
ヘカテーは珍しく大人しく父さんに話した。父さんは落ち着いていなかったけど。
「お前みたいなガキが一人で生きていけるほど、世間様は甘くねーんだよ! わかってるのか?」
「大変なのは何となくわかります。さすがに一六年は生きてきたからね。でもね、父さんも知ってる通り、私は父さんたちと一緒にいないほうがいいと思うんだ。一緒に暮らしてもお互いに不愉快な思いするだけだし、ルナだって私のことで頭抱えるのは辛いと思う」
「そう思うんなら、少しは真面目にやってみようとか思えねーか? 中退したとはいえ、定時制でもなんでもあるだろ?」
父さんはへカテーが家から出て行くのを止めようとした。しかし、彼女の覚悟は固いようで首を縦には振らなかった。
「もう知らん!! 勝手にしろ! 二度と帰ってくるな!」
父さんは諦めてへカテーを突き放した。
私はもう、へカテーが出て行くことは仕方ないことだと思っていた。これ以上、姉のことで悩むのは嫌だし、関わりたくもない。それでも最後に話だけはしようと思った。
「お姉、出てくんだってね」
私は事務的な口調で彼女に聞いた。
「うん。ルナ今まで面倒かけたね! 私の性格だとこれ以上無理みたいだからでてくよ」
「そう、まぁ頑張ってね。身体にだけは気をつけて」
「うん。ありがとう」
それから私たちの間には沈黙が流れた。やっと姉から解放されると思うと不思議と気持ちが楽になった。姉を更生させようとかもう思わないで済む。
「ルナ! 最後にお姉ちゃんから話があるんだ」
ヘカテーは改まったように私に話しかけた。
私たちは居間のテーブルで向かい合って座った。
「何か飲む?」
私はへカテーに聞いた。
「いいよ、今日は私が用意するわ。ルナはミルクティでいい?」
「いいよ」
ヘカテーは珍しく台所に行くと、ミルクティーと自分のコーヒーを用意して戻ってきた。彼女のコーヒーはほとんど真っ白でミルクを多く入れすぎたように見えた。
「ねえルナ? 私は出て行く。自分で決めたことだから悪いけどそうさせてもらうよ! でもね、お姉ちゃんはルナのことが心配なんだ。ルナはいつも健気に頑張ってるよね? でもそれって本当にルナがしたいことなの?」
「何言ってるの? 私は自分のしたいことしてるよ。高校だって勉強だってアルバイトだって楽しいよ? はっきりいうけど、お姉が居なくなるからこれからはもっと楽だし楽しいと思ってるよ」
「寂しいこというね。まぁそれはいいよ! 私はルナに迷惑かけっぱなしだったからそう思われてもしょうがないよね。でも、でもねルナ? 私はルナがいつも無理してるように見えるんだ。本当は甘えたいだろうし、やりたくないことだってたくさんあると思うよ? それを無理してまでやるのはなんでなの? そんなに父さんが大事? 捨てられたくない?」
私はへカテーに聞かれて、なんで頑張るのか考えたけど答えは見つからなかった。
「生きてれば、やりたくないことも嫌なこともあるもんだよ。私はそれをやりくりしてるだけだよ?」
「普通の高校生はルナみたいな生活送ってないよ? あんたまるで母親じゃん? ルナは母さんとは違うんだよ。父さんはそれがわかってない……」
「わかってないのはお姉のほうだよ! いっつも自分勝手で面倒事やんないんだもん! 父さんは私たちのことを思ってくれているのに」
「父さんね……。ルナは覚えてないんだね。お母さんのことは」
「覚えてるわけないじゃない? だって母さんが出てったのは私らがずっと小さい頃だよ!」
「ルナは忘れてしまったんだね……。まぁ仕方ないね。とにかく、父さんをあまり信じすぎない方がいい。あの人はルナが思っているほど……」
「いい加減にしてよ! お姉、父さんの何が分かっているの!? さんざんやりたい放題やって、今度は父さんの悪口!? お姉はまともな人間じゃないよ!! 頭おかしいよ!」
私はそこまで言って少し後悔した。自分の姉を異常者扱いするのはさすがにやりすぎた。
「ああそうさ。私はまともな人間じゃないよ。だから出ていくのさ」
そう言ってへカテーは静かに自室に戻った。
その日のうちにヘカテーは荷物をまとめて家を出て行った。出がけに「じゃあね」と声をかけられたけど、私は彼女の別れの言葉を無視した。もう帰ってこないでほしいと思った。
「ふーん、そっかー。ルナちゃんがそこまで言うなら相当だったんだろうねー」
私と田村さんがパスタを食べ終わる頃にちょうど私の話も終わった。
「それ以来、お姉のことを考えるのが耐えられなくなったんですよね」
田村さんはそれを聞いて少し考えているようだった。別に私は解決したいと思っていない。あの日にヘカテーのことはきっぱり諦めてしまったから。私は店員さんを呼んでデザートと食後の紅茶を頼んだ。
「ルナちゃんはウラちゃんとどうなりたい?」
「わかりません。ただ、私はあの人ともう一度一緒に住みたいとはあんまり……。会って話するくらいならと思っても、特に話したいわけでもないし」
「つまり仲直りだけして、その後は関わらないのがベストってことかな?」
「もしそれが可能ならそれもいいと思います。でも無理にってわけじゃないんです。どちらかというと、自分の気持ちの整理をつけたいんですよね」
自分で言っていて答えが見つからない。
「そうか……」
田村さんはそう言うと運ばれてきた紅茶をすすった。
「あ、気にしないでください。今日は話聞いてもらえるだけでよかったんです! 解決とか仲直りとかは私がこれから考えていくことですから」
言ってから、自然と笑みが零れた。今日一番の笑顔だったんじゃないかな? やっぱり田村さんに聞いてもらってよかった。
食事が終わると私たちは店の外に出た。土砂降りだった雨もすっかり上がって虹が出ていた。
「雨上がったみたいだねー。太陽もでたから虹がきれいだ!」
「虹見るのひさびさですー。今日は色々と嬉しいことがあります!」
私たちは車を料理店の駐車場に置いたままビーチまで歩いていった。砂が湿っていて、サンダルにまとわりつく。
「海荒れてるねー。アレだけ降れば当然だけどさー」
「あの、田村さん……」
私は意を決して彼に気持ちを伝えることにした。
「ん? どうした?」
田村さんはいつも通り私の方を向いた。
「なんていうか、あの、その……」
私は口ごもりながら言葉を探る。
「??」
田村さんの顔にはクエスチョンマークが浮かんでいる。早く言わなきゃ!
「私! 田村さんのことが好きなんです! 一緒にバイトしてる時からいいなーって思ってて、でも私自分に自信ないし……。ごめんなさい。急にこんなこと言って迷惑でしたよね」
私はかなりあわあわしながら告白した。田村さんは意外そうな顔を浮かべている。
「そ、そうなんだ。いやいや、嬉しいよルナちゃん、ありがとう。ルナちゃんいい子だし、可愛いしもっと自信もっていいと思うよ」
言ってしまった。ついに言ってしまった。落ち着け京極月姫。落ち着くんだ。
「あの、それでよければ私と付き合ってください! よろしくお願いします!」
「ははは、そうだねー。うん、ルナちゃんみたいな娘ならこっちからお願いしたいくらいだけどねー」
やった! 成功かな?
「じゃあ、いいんですか?」
「うーん、今すぐ返事はちょっとねー。少しだけ時間もらえると嬉しいかな?」
「大丈夫です! 待ちます!」
私は飛び上がる思いで応えた。嬉しい。夢みたい。
それから私は田村さんに送られて家に帰った。帰りがけに田村さんに丁寧にお礼とお願いをして別れる。
家の中に入っても、私のテンションは妙に盛り上がったままだった。嬉しい。嬉しすぎる。
あまりにも心が弾んで止まらなくて困る。家事をして少し落ち着こう、と決めた。
私は台所のシンクを掃除し、テーブルも念入りに拭き上げた。それでも気持ちが落ち着かなかったので、普段使わない六畳間を整理することにした。この部屋はもともと私の母親が使っていた部屋で今は物置部屋になっていた。普段使わないだけあって酷い埃だ。
部屋にある荷物を廊下に出して天井からハタキで叩く。埃が落ちた畳には掃除機を掛ける。掛け終わる頃にはテンションも普段通りに戻りつつあった。最後に荷物を部屋に戻す。
片付けの途中で荷物の入った段ボールを落としてしまった。中には本が入っていてその本が畳に散乱した。私が段ボールから出てしまった本を箱の中に戻そうと集めているとその中に一冊の古びた絵本を見つけた。
その絵本の表紙には《つきのめがみとよるのじょおう》とひらがなで書かれていて、ピンクのドレスを着たお姫様と黒いドレスを着た女王様らしき絵がクレヨン調で書かれている。絵本の裏側を見ると油性ペンの太字で、「たかねえりか」と書いてあった。
「たかねえりか?」
誰だろう? 私の知らない名前だ。えりか、えりか……。私は少し考えて思い当たった。
すっかり忘れていた。普段、思い出すこともない名前。私の母親の名前は京極恵理香だった。
私と田村さんは水族館を満喫した後、一緒に昼食に出かけることにした。水族館を出ると外は土砂降りだ。海は酷く荒れて、家族連れが傘を必死に押さえながら車から走ってきている。せっかく田村さんと一緒に出かけたのに天気はあまり味方をしたくないらしい。
「あー、本降りですねー。せめて小雨ならよかったのに……」
「そうだねー。しゃーない! 車まで走ろうか!」
私と田村さんは一生懸命、車に向かって走った。サンダルで走りづらかったけど、どうにか車までたどりつき乗り込んだ。さっきバスタオルで拭いたばかりだというのにまた濡れてしまった。
「また濡れちゃいました……」
「俺もけっこう服がヤバいかも」
田村さんの髪は雨を吸ってしなっている。彼の髪から水滴が滴り、座席を濡らしていた。私もワンピースが少し透けるほど濡れてしまっている。下着見えなきゃいいけど。
「服少し乾いてからにする?」
「そうですね! 乾いたらお店行きましょう!」
私と田村さんは車の中で少し休憩することにした。海の荒れた波を眺めながら私たちはまったりとした時間を過ごす。雨が車全体に打ちつけてきて、音がとても賑やかだ。運転席で俯き、物思いに耽る彼を黙って見つめていると心音が速くなった。本当に素敵な人だな。
エアコンをつけてから数分まったりとした時間を過ごすとある程度、髪と服が乾いてきた。
「そろそろ行きます?」
私が田村さんに聞くと彼は「そうだね」といって車を出した。
海辺の道路をワイパーを動かしながら走ると雨の強さが一層強く感じられる。左手に海を右手に松林を眺めながら車は走り、ランチをするお店へと向かった。
お店は大洗町のビーチの近く。環状線から少し内側に入ったところにひっそりとそのイタリア料理店は建っていて、ネットで調べた情報だと利用者は遠方からも来るようだった。
「よーし到着したよ」
田村さんは車を店の前に停めるとルームミラーを見ながら軽く髪をとかした。さっき車の中で雨宿りしたお陰で髪と服が多少乾いたようだ。
料理店のドアを開けるとカランという鈴の音が鳴り、男性店員の元気な挨拶が店内に響く。すぐにやってきた店員さんは私たちを奥の席に案内してくれた。店内はアップテンポのピアノの曲が流れていて、所々に南国調の雑貨が飾ってある。普段こんな感じのおしゃれなお店に来ない私はどう振る舞っていいのかよくわからない。
「今日は雨の中ご来店ありがとうございます。こちらメニューになりますのでお決まりになりましたらお声がけくださいませ」
店員さんはそう言うと厚みのあるカバーのメニューと水の入ったグラスを私たちのテーブルに置いて下がっていった。ブチキレて
「うわー、なんかこんなお店来るの初めてだから緊張しますー。なんかおしゃれだし、私にはもったいないですね」
「なんかいいお店だよねー。雰囲気とかいいしさ!」
たしかにさっき対応してくれた店員さんはとても感じのいい人だった。流れで接客をしている私とは雲泥の差があると思う。運んできてくれた水のグラスさえも高級に見える。
私たちはそれぞれパスタを注文することにした。私は蟹とトマトのクリームパスタを、田村さんはミートソースのパスタをそれぞれ注文した。店内からビーチが見え、この雨だというのに数名のサーファーがサーフボードを持って砂浜を歩いている。
「本当に今日はありがとうございます。さっきの水族館でも田村さんと色々とお話できて、一緒にバイトやってる時みたいで楽しかったです」
「いえいえ、ルナちゃんが楽しいならそれでいいよ。それじゃあ、さっきの続きの話を……」
私は田村さんに姉の話を聞いてもらうことにした。話したところで解決するわけじゃないけど、田村さんには聞いてもらいたい。
「お前はなんで何時もそうなんだ!?」
父さんは居間のテーブルでへカテーに怒鳴りつけた。
その日父さんは、姉の学校に呼び出しをくらっていた。ヘカテーは学校内でタバコを吸っているところを生徒指導の先生に見つかったようだ。父はイライラしながら姉に説教している。
「悪かったよ! もう学校でタバコ吸わないからさ。あんま怒鳴んないでよ」
「つーかお前! まだ学生のくせにタバコとか吸ってんじゃねーよ! ガキのくせに問題ばっかり起こしやがって」
「はいはい、わーったよ。父さんの仕事邪魔してすいませんでした! こんなことないようにすっからもういいでしょ!?」
ヘカテーはうんざりしたように父さんに説教されている。
私は二人の会話を台所で洗い物をしながら聞いていた。いつものことながらヘカテーは反省する様子がないようだ。
「あのよー、先生から話聞いたけどお前ろくに授業も出てないらしいじゃねーか? このままじゃ二年になれないって先生にはっきり言われたぞ?」
「だってさー、学校の勉強嫌いなんだよ。父さんも知ってるっしょ? 私はやりたくないことはできないんだよ」
ヘカテーが悪びれる様子も無くそう言うと父さんは完全にブチキレた。
台所の食器の水滴を布巾で拭いながら二人の会話をこうしていつも聞いていると私はいたたまれなくなる。なんで姉はあんなに自分勝手で好き放題生きているんだろう?
「もう今日はいいでしょ? 反省するし、もう面倒かけないようにすっから!」
ヘカテーはそう言うと、自室に走っていった。
私は洗い物の手を止めるとお茶を用意して父さんのいる居間に向かった。父さんはテーブルの前にある椅子に腰掛けて頭を抱えている。
「今日はだいぶ荒れたみたいだね」
そういって父さんの前に湯飲みを置いた。
「ああ、あいつはなんでああなんだろうな? ただ、普通にしていてほしいだけなのにいっつもなにか問題起こすんだよ」
父さんは心底うんざりしているようだ。
「まぁ、ああいう人だからしょうがないよ。父さんは別に悪くないって、お姉には私からあとで話しとくから」
「ルナ……。お前とヘカテーはなんでこんなに違うんだろうな? 俺の育て方が悪かったのかな?」
父さんはひどく項垂れ、今にも折れてしまいそうだ。私は父さんの側に寄り添って、自分なりに慰めになる言葉を探して掛け続けた。父さん可哀想……。
父さんを慰めると私はへカテーの部屋に向かった。ドアをノックしたけど返事がない。
「お姉? 入るよ!」
私はそう言うと、彼女の部屋のドアを開けた。
ドアを開けるとへカテーはベッドにうつ伏せになってヘッドホンで音楽を聴いていた。
彼女の部屋はひどく個性的だ。壁にはパンク系バンドのポスターが貼ってある。左側に長髪のギタリスト、右側には髭を生やしたベーシスト、裏には体格のいいドラマーがいる。そして中央には奇麗な金髪の女性が写っている。バンド名は「アフロディーテ」と書いてあった。机はあるけど、参考書は一冊も無く、代わりにバンドスコアが大量に積まれていた。
「お姉!」
少し大きな声を出して目の前に立つと、彼女はやっと顔を上げた。へカテーの目は不機嫌そうだ。彼女はかったるそうにヘッドホンを外した。
「なに!?」
ヘカテーは苛立った声を発した。
「あのさー、ちょっと話したいんだけどいい?」
ヘカテーは立ち上がりベッドの間に置いてあった真っ赤なギターを横にずらすとベッドの上に腰掛け自分の横をポンポンと叩いた。ここに座れということらしい。
「なに? 話ってどうせ親父のことでしょ?」
私はへカテーの横に座ると大きく息を吸った。
「お姉、お願いだから父さんともう少し向き合ってあげて! タバコ吸ったり、バンドしたりするのは自由だと思うけど、父さんにあんな風に言ったらまずいよ」
「だから悪かったって言ってるでしょ? 親父はただ自分の仕事邪魔されたからイライラしてるだけだしさー。あの人いつもコンビニ、コンビニって忙しいじゃん?」
「そうじゃないよ! 仕事のことは別だよ。父さんはただ、お姉のことが心配なんだよ……」
それを聞いたヘカテーは鼻で笑った。何がおかしいの?
「はっ! 私のことが心配だって!? 笑わせないでよ。親父は何時だって仕事、仕事じゃん? だって私がコンビニのバイト向いてないから無理って言ったときなんか一週間くらい口もきかなかったんだよ? 私のことを労働力ぐらいにしか見てねーんだよ」
「そ、そんなことないよ……」
私は気圧されて口ごもる。
「ルナさぁ、あんまり親父にのせられないほうがいいと思うよ? 親父はあんたを都合良く使ってるだけなんだから!」
何てことを言うんだろう。こんな人が私の姉だなんて!
「とにかく! ちょっと考えてよね。本当に二年生になれなかったらどうするつもり?」
「あ? 別に、かまわないよ。もし留年すんなら中退して家出てくから」
私はもうヘカテーと会話したくなくなっていた。その後、何を話したかも覚えていない。とにかく私は彼女の部屋から出て自室に戻った。もういいかな? お姉のことなんかもう……。
「お待たせいたしました。こちらがズワイガニのトマトクリームパスタとミートソースパスタになります。あと、こちらは季節野菜のサラダになっております」
さっきの店員さんがパスタを運んできた。真っ白で曇りのない皿に几帳面にパスタが盛られている。
「食後にはデザートとお飲み物もご用意しておりますので、お済みになりましたらお声がけください」
そう言うと、店員さんは爽やかな笑顔で下がっていった。
「お、美味しそうだね! 温かいうちに食べようか」
「そうですね。いただきまーす」
私たちは話の途中だったけど、運ばれてきたパスタを食べることにした。
「うーん、おいしー! やっぱりこのお店選んで正解でした!」
「うんうん、うまいねー。ルナちゃんのセレクト大正解だね」
パスタは予想以上だった。味付けが私の好みだったし、麺ももっちりしている。
「さっきの話だけどさ。それが決定的にウラちゃんと仲が悪くなった原因てことかな?」
「うーん、その時はそこまでじゃなかったんですよねー。たしかにお姉にはうんざりしてましたけど、あの人のこと諦めるまではいってなかったんです。決定的になったのはその後で……」
宣言通りにへカテーが高校を辞めるまで、それほど時間が掛からなかった。彼女と同じ高校に通う茉奈美と麗奈もへカテーが退学するのをどうにか思いとどまらせようとしてくれたけど、無駄だった。
高校を中退するとへカテーは、水戸駅内のパン屋でバイトを始めたようだった。バイトを始めて一週間ほど経ったときに彼女は髪の右半分だけを金髪に染めた。
「お前はこれからどうするつもりだ!?」
父さんはいつものように居間でへカテーに説教している。
「父さん、本当にごめんね。せっかく通わせてもらった高校も辞めたし、これ以上この家にやっかいになるわけにもいかないと思うんだ」
「はぁ? じゃあ何か? お前家を出てくつもりか?」
「そうしたいと思っています。今まですっかり父さんにもルナにも迷惑かけたし、これ以上は一緒に居られないよ」
ヘカテーは珍しく大人しく父さんに話した。父さんは落ち着いていなかったけど。
「お前みたいなガキが一人で生きていけるほど、世間様は甘くねーんだよ! わかってるのか?」
「大変なのは何となくわかります。さすがに一六年は生きてきたからね。でもね、父さんも知ってる通り、私は父さんたちと一緒にいないほうがいいと思うんだ。一緒に暮らしてもお互いに不愉快な思いするだけだし、ルナだって私のことで頭抱えるのは辛いと思う」
「そう思うんなら、少しは真面目にやってみようとか思えねーか? 中退したとはいえ、定時制でもなんでもあるだろ?」
父さんはへカテーが家から出て行くのを止めようとした。しかし、彼女の覚悟は固いようで首を縦には振らなかった。
「もう知らん!! 勝手にしろ! 二度と帰ってくるな!」
父さんは諦めてへカテーを突き放した。
私はもう、へカテーが出て行くことは仕方ないことだと思っていた。これ以上、姉のことで悩むのは嫌だし、関わりたくもない。それでも最後に話だけはしようと思った。
「お姉、出てくんだってね」
私は事務的な口調で彼女に聞いた。
「うん。ルナ今まで面倒かけたね! 私の性格だとこれ以上無理みたいだからでてくよ」
「そう、まぁ頑張ってね。身体にだけは気をつけて」
「うん。ありがとう」
それから私たちの間には沈黙が流れた。やっと姉から解放されると思うと不思議と気持ちが楽になった。姉を更生させようとかもう思わないで済む。
「ルナ! 最後にお姉ちゃんから話があるんだ」
ヘカテーは改まったように私に話しかけた。
私たちは居間のテーブルで向かい合って座った。
「何か飲む?」
私はへカテーに聞いた。
「いいよ、今日は私が用意するわ。ルナはミルクティでいい?」
「いいよ」
ヘカテーは珍しく台所に行くと、ミルクティーと自分のコーヒーを用意して戻ってきた。彼女のコーヒーはほとんど真っ白でミルクを多く入れすぎたように見えた。
「ねえルナ? 私は出て行く。自分で決めたことだから悪いけどそうさせてもらうよ! でもね、お姉ちゃんはルナのことが心配なんだ。ルナはいつも健気に頑張ってるよね? でもそれって本当にルナがしたいことなの?」
「何言ってるの? 私は自分のしたいことしてるよ。高校だって勉強だってアルバイトだって楽しいよ? はっきりいうけど、お姉が居なくなるからこれからはもっと楽だし楽しいと思ってるよ」
「寂しいこというね。まぁそれはいいよ! 私はルナに迷惑かけっぱなしだったからそう思われてもしょうがないよね。でも、でもねルナ? 私はルナがいつも無理してるように見えるんだ。本当は甘えたいだろうし、やりたくないことだってたくさんあると思うよ? それを無理してまでやるのはなんでなの? そんなに父さんが大事? 捨てられたくない?」
私はへカテーに聞かれて、なんで頑張るのか考えたけど答えは見つからなかった。
「生きてれば、やりたくないことも嫌なこともあるもんだよ。私はそれをやりくりしてるだけだよ?」
「普通の高校生はルナみたいな生活送ってないよ? あんたまるで母親じゃん? ルナは母さんとは違うんだよ。父さんはそれがわかってない……」
「わかってないのはお姉のほうだよ! いっつも自分勝手で面倒事やんないんだもん! 父さんは私たちのことを思ってくれているのに」
「父さんね……。ルナは覚えてないんだね。お母さんのことは」
「覚えてるわけないじゃない? だって母さんが出てったのは私らがずっと小さい頃だよ!」
「ルナは忘れてしまったんだね……。まぁ仕方ないね。とにかく、父さんをあまり信じすぎない方がいい。あの人はルナが思っているほど……」
「いい加減にしてよ! お姉、父さんの何が分かっているの!? さんざんやりたい放題やって、今度は父さんの悪口!? お姉はまともな人間じゃないよ!! 頭おかしいよ!」
私はそこまで言って少し後悔した。自分の姉を異常者扱いするのはさすがにやりすぎた。
「ああそうさ。私はまともな人間じゃないよ。だから出ていくのさ」
そう言ってへカテーは静かに自室に戻った。
その日のうちにヘカテーは荷物をまとめて家を出て行った。出がけに「じゃあね」と声をかけられたけど、私は彼女の別れの言葉を無視した。もう帰ってこないでほしいと思った。
「ふーん、そっかー。ルナちゃんがそこまで言うなら相当だったんだろうねー」
私と田村さんがパスタを食べ終わる頃にちょうど私の話も終わった。
「それ以来、お姉のことを考えるのが耐えられなくなったんですよね」
田村さんはそれを聞いて少し考えているようだった。別に私は解決したいと思っていない。あの日にヘカテーのことはきっぱり諦めてしまったから。私は店員さんを呼んでデザートと食後の紅茶を頼んだ。
「ルナちゃんはウラちゃんとどうなりたい?」
「わかりません。ただ、私はあの人ともう一度一緒に住みたいとはあんまり……。会って話するくらいならと思っても、特に話したいわけでもないし」
「つまり仲直りだけして、その後は関わらないのがベストってことかな?」
「もしそれが可能ならそれもいいと思います。でも無理にってわけじゃないんです。どちらかというと、自分の気持ちの整理をつけたいんですよね」
自分で言っていて答えが見つからない。
「そうか……」
田村さんはそう言うと運ばれてきた紅茶をすすった。
「あ、気にしないでください。今日は話聞いてもらえるだけでよかったんです! 解決とか仲直りとかは私がこれから考えていくことですから」
言ってから、自然と笑みが零れた。今日一番の笑顔だったんじゃないかな? やっぱり田村さんに聞いてもらってよかった。
食事が終わると私たちは店の外に出た。土砂降りだった雨もすっかり上がって虹が出ていた。
「雨上がったみたいだねー。太陽もでたから虹がきれいだ!」
「虹見るのひさびさですー。今日は色々と嬉しいことがあります!」
私たちは車を料理店の駐車場に置いたままビーチまで歩いていった。砂が湿っていて、サンダルにまとわりつく。
「海荒れてるねー。アレだけ降れば当然だけどさー」
「あの、田村さん……」
私は意を決して彼に気持ちを伝えることにした。
「ん? どうした?」
田村さんはいつも通り私の方を向いた。
「なんていうか、あの、その……」
私は口ごもりながら言葉を探る。
「??」
田村さんの顔にはクエスチョンマークが浮かんでいる。早く言わなきゃ!
「私! 田村さんのことが好きなんです! 一緒にバイトしてる時からいいなーって思ってて、でも私自分に自信ないし……。ごめんなさい。急にこんなこと言って迷惑でしたよね」
私はかなりあわあわしながら告白した。田村さんは意外そうな顔を浮かべている。
「そ、そうなんだ。いやいや、嬉しいよルナちゃん、ありがとう。ルナちゃんいい子だし、可愛いしもっと自信もっていいと思うよ」
言ってしまった。ついに言ってしまった。落ち着け京極月姫。落ち着くんだ。
「あの、それでよければ私と付き合ってください! よろしくお願いします!」
「ははは、そうだねー。うん、ルナちゃんみたいな娘ならこっちからお願いしたいくらいだけどねー」
やった! 成功かな?
「じゃあ、いいんですか?」
「うーん、今すぐ返事はちょっとねー。少しだけ時間もらえると嬉しいかな?」
「大丈夫です! 待ちます!」
私は飛び上がる思いで応えた。嬉しい。夢みたい。
それから私は田村さんに送られて家に帰った。帰りがけに田村さんに丁寧にお礼とお願いをして別れる。
家の中に入っても、私のテンションは妙に盛り上がったままだった。嬉しい。嬉しすぎる。
あまりにも心が弾んで止まらなくて困る。家事をして少し落ち着こう、と決めた。
私は台所のシンクを掃除し、テーブルも念入りに拭き上げた。それでも気持ちが落ち着かなかったので、普段使わない六畳間を整理することにした。この部屋はもともと私の母親が使っていた部屋で今は物置部屋になっていた。普段使わないだけあって酷い埃だ。
部屋にある荷物を廊下に出して天井からハタキで叩く。埃が落ちた畳には掃除機を掛ける。掛け終わる頃にはテンションも普段通りに戻りつつあった。最後に荷物を部屋に戻す。
片付けの途中で荷物の入った段ボールを落としてしまった。中には本が入っていてその本が畳に散乱した。私が段ボールから出てしまった本を箱の中に戻そうと集めているとその中に一冊の古びた絵本を見つけた。
その絵本の表紙には《つきのめがみとよるのじょおう》とひらがなで書かれていて、ピンクのドレスを着たお姫様と黒いドレスを着た女王様らしき絵がクレヨン調で書かれている。絵本の裏側を見ると油性ペンの太字で、「たかねえりか」と書いてあった。
「たかねえりか?」
誰だろう? 私の知らない名前だ。えりか、えりか……。私は少し考えて思い当たった。
すっかり忘れていた。普段、思い出すこともない名前。私の母親の名前は京極恵理香だった。
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