スプートニク・ショック

海獺屋ぼの

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 軽音部を辞めるとすぐに学内の図書館でアルバイトを始めた。貸し出し受付と返却された本の陳列。仕事内容としてはそんな感じだ。非常に簡単な作業だ。小学校の図書委員の延長みたいな仕事だと思う。
 ここをアルバイト先に選んだのには二つ理由があった。まず一つは高校からの友達がここでアルバイトしているから。もう一つは図書館が惣介とは無縁な場所だからだ。変な話、大学近くの居酒屋でアルバイトするよりも惣介と遭遇する確率はずっと低いと思う。
 ともかく、私は軽音部から……。そして惣介からできうる限り離れたかったのだ。新しい日常。それに早く馴染みたい。心の奥底からそう思った――。

「陽子は要領良くて助かるよー」
 ブックカートを押しながら美里は煽てるような言い方をした。
 美里は高校二年生のときに同じクラスになった友人で良くも悪くも付かず離れずの関係だった。極端に距離を詰めて人間関係を壊さない代わりに情に厚いというわけでもない。まぁ茶飲み友達みたいなものだ。実際、私たちはよくお茶会なるものをやっているし、名実ともに茶飲み友達なのだと思う。
「これで『カ行』は終わりね」
「そうだねー。いやぁ理学部のレポート提出後はは嫌んなっちゃうよ。みんな一気に返却くるんだもん」
 そう言うと美里はブックカートに積まれた大量の書籍をポンポン叩いた。『自然有機化学』だとか『日本の地学史』だとかそんな理系の本が多い。ここでアルバイトしなければ一生手に取ることもないような本ばかりだと思う。
「理学部の学生大変だよね。四六時中レポートと実験でしょ?」
「みたいだよー。私だったら堪えらんないわ」
 美里はぼやきながら私に『サ行』の一冊目を手渡した。『佐渡郷土史』という本だ。なぜピンポイントに佐渡? と心の中でツッコむ。
「まぁウチらも似たようなもんだけどね。惣介くんだって……」
 美里はそこまで言って口を噤んだ。やってしまった。彼女の顔には明らかにそう書いてある。
「……いいよ。別に。別れたばっかだしさ」
 私は少しでけ不機嫌な顔をしてそう返す。
「うん……」
 美里は頷くとバツが悪そうにむつむいた。これじゃ私が意地悪したみたいじゃないか……。
「ま、仕方ないよ。他のみんなだって私たちが別れたって聞いたら『信じらんない』とか『なんで!?』とかって反応だったもん。よっぽどウチらお似合いに見えてたんだねぇ」
「そうだね。私も陽子と惣介くんが別れるなんて思わなかったよ……」
 美里は俯いたまま首を横に振った。そしてすぐに『サ行』の次の本を私に差し出した。
「だろうね。私も別れるとは思ってなかったから」
 私は流れでその本を受け取る。『サンクトペテルブルグの光と影』という本だ。文学作品ではない。ジャンル的には郷土史や歴史書に近いと思う。
「まぁ! あれだよ。別れた男のことはパッと忘れてさ! 飲み行こーよ! 飲み!」
 美里は急に大きな声を出した。おそらくは私を励ましたいのだろう。
「美里、ここ図書館だよ……」
 私は彼女を窘めるように人差し指を口の前に立てた。美里はまた『やってしまった』という顔になる。この子はけっこうドジなのだ。まぁ幸いなことに愛嬌のあるタイプのドジっ子なのだけれど。
 それから私たちは黙々と返却作業を進めた。基本的に本の並びは五十音順なので慣れればサクサクと作業が進んでいく。何も考えない。淡々と本を所定の位置に戻す。それだけだ。
 心を無にして作業をしていると妙に落ち着いた。思えば私はこの手の仕事が好きなのかもしれない。例えばひたすらステープラーで書類を留めるだとか、宛名を印刷したシールを何百枚も封筒に貼るだとか。おそらくそんなルーティン的作業が私には向いているのだと思う。
 ああ、なんて楽しい青春だろう。淡々と本を本棚に戻すだけだなんて。そんな皮肉めいたことを思った。
 君たちには戻る場所があって良いね。私にはないんだ。良かったら『ハ行』の後ろの方を少し分けてくれない? タイトルは『春川陽子の失恋』なんてのはどう? ……そんな馬鹿げたことも思った。
 二時間くらい返却しただろうか? 気がつくとブックカートは空になっている。
「やったぁー! 終わったよー」
 美里はそう言うと私にハイタッチを求めてきた。私も反射的に両手を上げた。
「お疲れ様。今日も仕事教えてくれてありがとね」
「こっちこそありがとね。じゃあ……。飲み行こうか」
 美里はそう言うと今日一番の楽しそうな笑みを浮かべた。
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