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第三章 神戸1992

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 京都市内は雨が降っていた。しとしとと絶え間なく降り続く雨。
 空気は湿り、部屋の中までそんなジメジメした空気で満たされていた。
「紅茶でいい?」
「ああ、ありがとう」
 その日。私は栞の家を訪れていた。本当に久しぶりだ。
 彼女の家は古民家で、和雑貨で部屋は満たされていた。
 どうやら母親の趣味らしい。
 壁一面に大きな本棚があり、数え切れないほどの書籍が収められてた。
「そういえば神戸どうだった? 岸田君は疲れたって言ってたけど」
「楽しかったで! 『レイズ』のみんな良くしてくれたし、町並みも綺麗やったな」
「いーなー。次は私も行きたいよ」
 栞は紅茶をすすると口元を緩めた。
「せやね。今度は栞も一緒に行こう。あ、来月から吹奏楽部休みやったね」
「うん。もう書き始めてるけど、来月から本格的に執筆始めなきゃね。青春小説初めてだから緊張するよ……」
 青春小説。甘酸っぱそうな響き。青く蒼い春。
「栞はファンタジーばっかやもんね。何について書くん?」
「うーん……。アイデアはあるんだけどね……。調べるのが大変そうかな」
 そう言うと栞はルーズリーフを私に差し出した。
 ルーズリーフにはプロット(小説の概要的なもの)が書かれていた。
 どうやらバンド活動に関する小説らしい。
「へー。めっちゃええやん」
「ありがとう。実は月子ちゃんモデルに書きたいんだよね……。今更だけど大丈夫?」
「はへ? ウチ?」
 思わず変な反応をしてしまった。私が小説のモデル?
「うん。月子ちゃん歌とかバンドとか好きでしょ? だから主人公の女の子がバンド活動しながら成長する姿を書きたいんだ」
「そうか……。ま、モデルにして貰うのはかまへんけど。なんか恥ずかしいな」
 私はプロットを読み進めた。
 内容は王道のサクセスストーリーのようだ。
 歌手を夢見る少女、月華(げつか)がバンド仲間と一緒に困難に立ち向かい、夢を叶える物語らしい。
「どうかな? 私は書いてて楽しいし、これで文芸賞に応募したいんだよね」
「ええんちゃう? プロット見た感じやと悪ないと思うで」
「良かった! あとはタイトル決めれば書き始められるよ」
 タイトル……。物語の名前。
「うんうん。栞やったらなんて名前付けるん? たしか去年は『翼竜の城』とかやったよね?」
「うーん……。それが難しいんだよね……。今回はタイトルの雰囲気変えたいんだよ。初の青春小説だし。第一候補は『月華の夢』にしようかなーって思うけど」
 実に栞らしい。ファンタージーっぽいタイトルだ。
「なんや中国のファンタジー小説みたいなタイトルやな。もっとバンド! って感じのほうがええんちゃう?」
「そうだよね……。じゃあ『月華の願い』とか? ってあんまり変わらないか……」
「いっそのこと英語にしたらええと思うよ? 例えば『ムーンドリーム』とか『ウィッシュスター』とか」
「うーん……」
 二人して頭を抱える。編集者のような気分だ。
 相変わらず雨が降っている。ジメジメ全開の空模様。
「やっぱり『月』はタイトルに入れたいんだよね。イメージは月の歌姫だから……。ディーバって言えばいいのかな?」
「月の歌姫か……。したら女神の名前でも付ける? なんやったっけ……。アルテ……。なんちゃらいう奴おったやん」
 月の女神……。たしかギリシャ神話の女神だ。
「あ、それは『アルテミス』だよ。うん。それ良いかもしれない! じゃあ『アルテミスの願い』とかかな?」
「うーん……。せっかくやから全部英語にしたいな……。願い……。ウィッシュ。……『アルテミスウィッシュ』」
 自分で言ってみたものの語呂が悪い。
「うーん。それだったら『デザイア』の方がいいかな……」
「『デザイア』? 中森明菜みたいやな」
「ハハハ、そうだね。でも『アルテミスデザイア』ってタイトル良いかもしれないね」
 アルテミスデザイア。悪くないかもしれない。
「せやね。それがええね! ウチ、明菜ちゃん好きやし! ウチがモデルやったらおあつらえ向きや!」
 適当。でも最高だ。
 栞とこうやって将来の夢の話をするのは本当に楽しい。彼女の輝く瞳を見るのは好きだし、私の話を栞に聞いて貰うのも心地よかった。
 ジメジメした六月のある日。栞は特別な物語を書き始めた。
 月の欲望の物語を――。
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