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第四章 京都1992

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 祭り囃子と花火の音。大気を震わせるほどの轟音が鳴り響いた。
 見上げると色とりどりの花火が夜空を染めている。
「綺麗やなー」
 私は地上に降り注ぐしだれ柳に見とれていた。
「ほんとだね。京都で見られる花火って私好きだよ」
 栞はぽつりと言うと悲しそうな笑顔を浮かべた。
 悲しそうな……。今にも瞳が零れ落ちてしまいそうな、そんな笑顔。
「なんや栞? 何かあったん?」
「う……。うん。ちょっとね……」
 栞のこの表情を見るのは何回目だろう?
 小学校のときはよく見ていた気がする。
「悩みあんなら言ったらええよ。抱え込むんは辛いからな……」
「うん……」
 それから栞は淡々と話し始めた。一定のリズムを刻むメトロノームのように。
「お父さんが本社に呼び戻されるみたいなんだ。それでね。お母さんもそれに着いていくって」
「は? てことは栞引っ越すんか?」
「そう……。なると思う。急だよね」
 急すぎる。抜き打ちテストだってここまで急ではないだろう。
「そうか……。それで、いつ引っ越すん?」
「予定では今月末には……。遠すぎるんだよね。本社の場所が新宿だからさ」
 栞は放心状態だった。淡々と話しながらも肩は小刻みに震えている。
 夜空に広がる花火はそんな彼女の意思とは無関係に大輪を咲かせていた。
 その色鮮やかな大輪の無神経さに少しだけ怒りを覚える。
「ほんまに寂しくなるな……」
 やっとひねり出した言葉はあまりにもありきたりだった。
 寂しくなる。悲しくなる。辛くなる。
 でも、私はそれ以上何も言えなかった。
「ごめんね。実は一週間前に聞いてたんだけど、ずっと言えなかったんだ。ほんとにごめんね」
「……。謝まらんでええよ。栞が悪いわけやないし。あーあ、にしても急すぎて実感湧かん」
「うん……。それでね。岸田くんにはまだ話してないんだ……。どうしても話せなくてさ」
 健次……。果たして彼はどんな反応をするだろうか?
 取り乱すのは間違いないけれど、問題はその後だ。
「近いうちケンちゃんにも言うんやろ?」
「そだね。言わなきゃだよね……。これからどうするかもあるしさ」
「せやな……」
 これからどうするか。私はそれについて言及しなかった。
 これは栞と健次の問題で私は無関係なのだ。無関係……。悲しい響きだ。
 それから私たちは夜店を見て回った。
 金魚をすくい、粉物の屋台に並び、かき氷を一緒に食べた。
 その日、私たちは不思議なくらいはしゃぎ回った。
 夜祭りの空気は心地よかったし、栞と過ごす時間はとても楽しかった。
「楽しいね! 毎年来てるけどやっぱり堀川は好きだよ!」
「せやね! ほんまにほんまに楽しい!」
 私たちはその日、数週間後の未来を忘れて楽しんだ。
 訪れてほしくない未来について考えたくなかった――。

 その日の夜。私は一人で静かに涙を流した。
 降り止むことを忘れた雨のような涙を。
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