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第四章 京都1992
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吉野くんと会った日の夜。私の中には熱がこもっていた。
その熱は私に眠れない夜を与え、睡眠時間を着実に奪っていった。
瞳を閉じても身体の強ばりはとれず、心音が骨を伝わって頭に鳴り響く。
私はベッドから起き上がると大きく深呼吸した。
部屋は妙に暑く、吸う息も吐く息もねっとりとしている。
時計を見ると午前二時。草木も眠る丑三つ時だった。
台所まで行って水を飲む。水が喉を通ると少しだけ呼吸が軽くなった。
一四年生きてきて初めての感覚だ。佐藤くんとセッションしたときとはまた違う感覚。
私の中で確実に目的が形成されている気がした。とてもシンプルで単純や目的が――。
翌朝。私は雀の声と日の光で目覚めた。
嫌らしいくらいの蝉の声が聞こえ、一階から聞こえる包丁の音が耳に突き刺さった。
私は目を擦りながら一階に降りた。
案の定、母が包丁で朝食の準備をしている。
「おはよう……」
「おはよう。今日はずいぶん早いんやな」
母は淡々と包丁でリズムを刻み、私の方を向かずに続けた。
「今日は金襴見本市やから出かけるで。あんたも来なさいね」
「えー。行きたくないな……」
「我が儘言うんやないの! 去年も行かなかったんやから今年は行かなあかんよ!」
心底うんざりだ。見本市なんて行っても愛想笑いぐらいしかすることはない。
京都市内はこの時期に着物の生地の見本市が行われていた。
正絹の生地がメインだけれど、最近は化学繊維も出回っているらしい。
「お父さんと二人で行ったらええやん? ウチが行かんでも問題ないやろ?」
私は思いきりふて腐れた言い方をした。意識的に。
「あんな月子。あんたは鴨川家の跡取りやねんで? 早いうちからお客さんとも顔合わせしとかんと将来苦労するんや。お母さんが小さい頃はな……」
また母の高説が始まった。口答えするといつもこうだ。
母の話はいつも同じだった。小さい頃から姉妹で見本市に出かけ、金襴の善し悪しを学んだとか、お客さんと仲良くなったから取引がしやすくなったとかいつもそんな話ばかりだ。
可愛そうな女だ。と私は思った。
母はプライドが高く、利己的で上昇志向の塊なのだ。
私はそんな母がとても滑稽に思えた。滑稽……。皮肉な言葉だと思う。
「分かったから……。行くからそのへんにしといて……」
「そう。分かればいいんや。したら月子、新作の着物用意しとるからそれ着ていき!」
「ああ……。分かったで」
母の部屋に行くと衣紋掛けに子振り袖の着物が吊されていた。
藍染めの着物で、袖丈には桜と雲の文様が描かれている。実に母の好みらしい着物だ。
「着付けはおばあちゃんに手伝って貰いなさいね!」
「はーい」
それから私は祖母に手伝って貰いながら着付けをした。
一人でも出来るのだけれど、やはり祖母は手際が良い。
「あら? 虹子ー。可愛い袴やね。ウサギがおるで!」
「ああ、せやね。その袴も新作やからね。成人式とか卒業式向きやろ?」
「ほんまやね。月子によう似合うわ」
祖母と母はそんな会話をしながら私をマネキンにした。
「よし! 出来たで月子! 鏡台で見てみなさい!」
そう言うと祖母は鏡台に掛かっていたカバーを外して私を前に立たせた。
「うん? どうなんやろ? 似合っとるんかな?」
「似合っとるって! やっぱり月子は着物が一番似合うと思うで」
祖母は満足そうだったけれど、私自身似合っているかどうか分からなかった。
着付けが終わると、祖母は私に薄化粧をしてくれた。唇も薄紅色に染まる。
どうせならこのまま夏祭りにでも行きたい気分だった。見本市に行くなんて勿体ない。私はそんな本末転倒なことを考えていた。
その熱は私に眠れない夜を与え、睡眠時間を着実に奪っていった。
瞳を閉じても身体の強ばりはとれず、心音が骨を伝わって頭に鳴り響く。
私はベッドから起き上がると大きく深呼吸した。
部屋は妙に暑く、吸う息も吐く息もねっとりとしている。
時計を見ると午前二時。草木も眠る丑三つ時だった。
台所まで行って水を飲む。水が喉を通ると少しだけ呼吸が軽くなった。
一四年生きてきて初めての感覚だ。佐藤くんとセッションしたときとはまた違う感覚。
私の中で確実に目的が形成されている気がした。とてもシンプルで単純や目的が――。
翌朝。私は雀の声と日の光で目覚めた。
嫌らしいくらいの蝉の声が聞こえ、一階から聞こえる包丁の音が耳に突き刺さった。
私は目を擦りながら一階に降りた。
案の定、母が包丁で朝食の準備をしている。
「おはよう……」
「おはよう。今日はずいぶん早いんやな」
母は淡々と包丁でリズムを刻み、私の方を向かずに続けた。
「今日は金襴見本市やから出かけるで。あんたも来なさいね」
「えー。行きたくないな……」
「我が儘言うんやないの! 去年も行かなかったんやから今年は行かなあかんよ!」
心底うんざりだ。見本市なんて行っても愛想笑いぐらいしかすることはない。
京都市内はこの時期に着物の生地の見本市が行われていた。
正絹の生地がメインだけれど、最近は化学繊維も出回っているらしい。
「お父さんと二人で行ったらええやん? ウチが行かんでも問題ないやろ?」
私は思いきりふて腐れた言い方をした。意識的に。
「あんな月子。あんたは鴨川家の跡取りやねんで? 早いうちからお客さんとも顔合わせしとかんと将来苦労するんや。お母さんが小さい頃はな……」
また母の高説が始まった。口答えするといつもこうだ。
母の話はいつも同じだった。小さい頃から姉妹で見本市に出かけ、金襴の善し悪しを学んだとか、お客さんと仲良くなったから取引がしやすくなったとかいつもそんな話ばかりだ。
可愛そうな女だ。と私は思った。
母はプライドが高く、利己的で上昇志向の塊なのだ。
私はそんな母がとても滑稽に思えた。滑稽……。皮肉な言葉だと思う。
「分かったから……。行くからそのへんにしといて……」
「そう。分かればいいんや。したら月子、新作の着物用意しとるからそれ着ていき!」
「ああ……。分かったで」
母の部屋に行くと衣紋掛けに子振り袖の着物が吊されていた。
藍染めの着物で、袖丈には桜と雲の文様が描かれている。実に母の好みらしい着物だ。
「着付けはおばあちゃんに手伝って貰いなさいね!」
「はーい」
それから私は祖母に手伝って貰いながら着付けをした。
一人でも出来るのだけれど、やはり祖母は手際が良い。
「あら? 虹子ー。可愛い袴やね。ウサギがおるで!」
「ああ、せやね。その袴も新作やからね。成人式とか卒業式向きやろ?」
「ほんまやね。月子によう似合うわ」
祖母と母はそんな会話をしながら私をマネキンにした。
「よし! 出来たで月子! 鏡台で見てみなさい!」
そう言うと祖母は鏡台に掛かっていたカバーを外して私を前に立たせた。
「うん? どうなんやろ? 似合っとるんかな?」
「似合っとるって! やっぱり月子は着物が一番似合うと思うで」
祖母は満足そうだったけれど、私自身似合っているかどうか分からなかった。
着付けが終わると、祖母は私に薄化粧をしてくれた。唇も薄紅色に染まる。
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