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第六章 アフロディーテ

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 一九九四年九月一七日。私は一六歳になった。
 しかし、特に変わったことはない。学校にも普通に行ったし、健次も私の誕生日を忘れていた。当たり前過ぎて今日が誕生日ということさえ忘れてしまいそうだ。
 帰りのバスから見える市内はオレンジ色に染まっていた。すっかり日が短くなり、風も冷たくなった気がする。
 バス停から帰る道すがら、私は一ヶ月前のオーディションのことを思い出していた。栞のこと……。逢子のこと……。そして西浦さんのことを――。
 一ヶ月前のオーディションで私は最終選考まで残った。結果的に最後は私が辞退する形になったのだけれど……。辞退を申し出たことに西浦さんは「そう……。残念ね」とだけ言った。
 そのことを逢子に告げると彼女は「なにしとんねん!」と酷く取り乱していた。もしかしたら逢子は私に馬鹿にされたと思ったのかもしれない。でも、私はどうしても結果を受け入れきれなかった。どう考えても私は逢子に負けていたし、勝ったのは単なる偶然だと思う。
 我ながら自分が馬鹿だと思った。せっかくチャンスを蹴ってしまったし、結果的に逢子をさらに傷つけてしまった。でも……。どうしても結果を受け入れられなかったのだ。
 なぜ私はあのときそんな風に思ったのだろう? 自分でもその理由は分からなかった。いや、本当は分かっているのだ。理由は至極簡単。でも私はその理由と向き合いたくはなかった。向き合ってしまったら私は耐えられなくなってしまうだろう。
 単純に私には覚悟が足りなかったのだと思う。あのままオーディションに合格し、将来が確定してしまうことが酷く怖かった。改めて私は自分の弱さを痛感した。もし歌手になるとすれば両親……。主に母の期待を裏切ることになる。そして何より逢子の恨みを一生背負う羽目になるだろう。
 私は本当に弱い人間だ。大切な何かを得るためには対価が必要だということに今更気づいてしまった――。
 この件に関して健次は理解してくれた。そして充は私を酷く罵った。罵られることで私は逆に納得することが出来た気がする。充の言うとおり私の決断は愚かで何の生産性もないと思う。何も生まないし、何も学べない。
 だからこそ、愚か者の私にはこの愚かな決断が似合っていると思った。
 亨一は結果的に私たちのバンドに合流することになった。『レイズ』内でどんな話し合いがあったか詳しくは知らないけれど、最終的には逢子と亨一の二人で話し合って決めたらしい。
 亨一はその件に関してあまり多くを語らなかったけれど、逢子たちとは喧嘩別れに近かったらしい。
 私は亨一の居場所を強制的に奪ってしまった気がした。自分勝手で誰もが傷つく方法で……。
 オーディションが終わると私は抜け殻のようになっていた。新しいバンドの名前さえまだ決められないほどに空っぽだった。
 苦しくはなかったけれど酷く虚しかった。このまま歌うのを止めてしまおうか……。そんな風にさえ思うほどに。

 西浦有栖から私のもとへ連絡が来たのはそれから間もなくのことだ――。
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