修道士は助けた騎士二人に落とされました

八百屋 成美

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 世界の果て、とでも言うべき辺境の地に、その修道院はひっそりと佇んでいた。忘れられた神々の時代の石を積み上げて作られた壁は、苔と蔦に覆われ、悠久の時をその身に刻んでいる。麓の村の者でさえ、よほどのことがなければこの霧深い森の奥までは足を踏み入れない。
 修道士アベルの一日は、夜明け前の鐘の音と共に始まる。冷たい石の床に膝をつき、祈りを捧げる。窓から差し込む最初の光が、質素な礼拝堂のステンドグラスを通り抜け、床に七色の模様を描き出す。その幻想的な光景の中で、アベルは神と対話する。彼の心は、静かな湖面のように穏やかであった。少なくとも、彼はそう信じていた。
 祈りの後は、労働の時間だ。古い書物の写本、傷んだ建物の修繕、そして裏庭の薬草園の手入れ。アベルは特に、薬草を育てる仕事が好きだった。土に触れ、芽吹いたばかりの双葉に指でそっと触れるとき、彼は神が創造した生命の神秘を感じることができた。彼の細く白い指は、傷つき病んだ者を癒やすための薬草を、慈しむように丁寧に摘み取っていく。
 共に暮らすのは、年老いた修道院長と、数えるほどの同僚たちだけだ。彼らは皆、俗世との関わりを断ち、この聖域で静かに生涯を終えることを望んでいた。アベルもまた、その一人のはずだった。
 しかし、夜。一人、硬い寝台に横たわるとき、彼の心には時折、説明のつかない虚しさが影を落とす。神にすべてを捧げたつもりでも、心の奥底にはまだ満たされない空洞がある。誰かに触れたい、誰かの温もりを感じたい。そんな人間としての根源的な渇望が、罪の意識と共に胸をよぎる。アベルはそのたびに固く目を閉じ、聖句を唱えて邪念を振り払うのだった。その中性的な美貌は、彼が望まずとも人の目を惹きつけたが、本人はそのことに全く無自覚だった。

 その夜は激しい嵐だった。風が不気味な獣のように唸り声をあげ、分厚い壁の修道院を揺さぶる。窓を叩きつける雨は、まるで天が裂けて落ちてくるかのようだった。
 そのとき、嵐の轟音を貫いて、修道院の分厚い樫の扉を叩く音が響いた。激しく、そしてどこか切羽詰まったような音。こんな夜更けに、一体誰が。
 修道院長に許しを得て、アベルはランプを片手に玄関へと向かった。重い閂を外し、軋む扉をゆっくりと開く。
 吹き付ける風雨と共に、何かが崩れ落ちるように倒れ込んできた。二つの、人影。鋼鉄の鎧が、石の床にけたたましい音を立てる。血と泥の匂いが、聖なる空間を一瞬で満たした。

「……聖騎士様……?」

 アベルは息をのんだ。彼らが身に纏うのは、王都の聖騎士団の紋章が刻まれた鎧。一人は黒髪、もう一人は濡れて色を濃くした銀髪。二人ともおびただしい数の傷を負い、意識を失っている。鎧の隙間から覗く衣服は、おぞましいほどに赤黒く染まっていた。おそらく、この地の魔物を討伐する任務の帰りだったのだろう。
 アベルはすぐさま他の修道士たちを呼び、二人の騎士を客用の寝室へと運び込んだ。
 手際よく鎧を脱がせ、傷口を確かめる。銀髪の騎士の傷は数が多いものの、幸いどれも致命傷ではなさそうだった。問題は黒髪の騎士の方だった。その脇腹には、巨大な獣の爪で抉られたような、深くおぞましい傷口が開いていた。血はすでにある程度固まっていたが顔色は死人のように青白く、呼吸は浅く、今にも消え入りそうだ。

「院長、このお方は……」
「……神の御許に召されるのも、時間の問題やもしれぬな」

 老院長の重い言葉に、修道士たちは皆、哀れみの表情で十字を切った。
 しかし、アベルだけは違った。

「いいえ、まだです」

 彼は静かだが、強い意志のこもった声で言った。

「神は、まだこの方の命を見捨ててはいらっしゃいません」

 アベルはすぐさま薬草園へと走り、嵐の中で止血と解熱に効く薬草を摘み取ると、休む間もなく二人の看病に取り掛かった。
 特に、黒髪の騎士――ルカスからは、片時も離れなかった。傷口を清め、すり潰した薬草を塗り込み、丁寧に包帯を巻き直す。高熱に浮かされる彼の身体を、濡らした布で根気よく拭い、乾いた唇を湿らせる。その献身的な姿は、まるで我が子を看病する母親のようでもあった。
 朦朧とする意識の中で、ルカスは柔らかな気配を感じていた。身体を苛む激痛と熱の中で、それは唯一の救いだった。誰かが、自分の手を握ってくれている。その手は驚くほど滑らかで、温かかった。そして、耳元で響く、清らかな祈りの声。その声を聞いていると、不思議と荒れ狂う嵐のような苦痛が和らいでいくのを感じた。
 隣の寝台で先に意識を取り戻しかけていた銀髪の騎士――セイルもまた、薄目を開けたまま、その光景を見ていた。嵐の夜、自分たちを救ったのは、物語に出てくる聖人のように美しい修道士だった。月明かりに照らされたその横顔は、あまりに神聖で、この世のものとは思えなかった。彼は興味深いものを見つけた猫のように、その紫の瞳を細めた。
 アベルは昼夜を問わず祈りを捧げ、薬草を取り替え、汗を拭った。疲労で意識が遠のきそうになっても、彼はルカスの手を握りしめ、祈りの言葉を紡ぎ続けた。
 数日が過ぎた朝、奇跡は起きた。あれほど荒かったルカスの呼吸が、穏やかになっていたのだ。額に触れると、燃えるようだった熱も、嘘のように引いている。
 やがて、ルカスの鋼色の瞳が、ゆっくりと開かれた。
 焦点の合わない瞳が最初に捉えたのは、自分の手を握りしめたまま、傍らで疲れ果てて眠り込んでいるアベルの姿だった。朝日が彼の色素の薄い髪を透かし、まるで光の輪のように輝かせている。そのあまりの清らかさに、幾多の死線を潜り抜けてきたはずの聖騎士は、言葉を失った。
 自分はこの見も知らぬ修道士に命を救われたのだ。
 ルカスの心に、今まで感じたことのない種類の強い感情が芽生えた瞬間だった。それは感謝であり、畏敬であり、そして、その神聖な存在を独占したいと願う、暗い欲望の始まりでもあった。
 時を同じくして、隣の寝台でその全てを見ていたセイルの唇にも、意味深な笑みが浮かんでいた。
 嵐が過ぎ去った修道院に、二人の聖騎士と一人の修道士を巡る、新たな嵐の兆しが、静かに生まれていた。
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