ラストゲーム

谷内 朋

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エピローグ

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 熱戦から一夜明け、早朝四時に起床した中西哲はいつもと同じようにランニングで汗を流していた。本来であればもうやらなくてもよいのだが、少年野球時代から毎日続けているルーティンワークなのですっかり日課となっている。まず自宅裏口の駐車場でストレッチをしてから、三キロほど離れている中学校近くの公園まで一気に走る。そこで再びトレーニングとシャドースローイングをしてから走って自宅に戻る、それを十年続けてきた自身の継続力に我ながら野球が好きなんだなと感慨に耽っていた。
 しかしこの日は自宅にまっすぐ戻らず近所のコンビニに立ち寄ると、まだ早朝の時間帯にも関わらず料理部員の安藤カンナが制服姿で店内を物色していた。彼女がこの店をお気に入りにしているのは知っていたが、見かけても声を掛けることは一度も無い。
 哲が暮らしている界隈は任侠家系が取り仕切っている下町商店街で、安藤が暮らしている高級住宅街とは折り合いが悪いという地域事情があった。今でこそほとんど消え去っているが、彼らの学年では色濃く残っていて言葉を交わすだけで問題視されてきた。しかしこのコンビニは全国展開をしているのでそういった事情は関係ないのではないか……哲はそんなことを考えながらドリンクコーナーのドアを開けてスポーツドリンクを手に取ると、人影を感じてそちらに視線をやる。
「安藤?」
「あっ……おはよう」
 彼女は哲がいることに多少の驚きを見せていた。彼も反射的に挨拶を返したが、学校とは勝手が違い会話が続かない。
「もう学校行くのか?」
 哲は安藤が制服姿でいるのを取っ掛かりに、気まずさもありながら対話を再開させる。
「えぇ、変な時間に起きちゃったから出ちゃおうと思って」
 彼女は弁当、烏龍茶、スイーツをかごに入れており、調理室で朝食を摂ろうという気満々の様相であった。
「そっか。でも校舎はまだ開いてないんじゃないのか?」
「通学だけでそれくらい掛かるから大丈夫よ」
「それもそうだな」
 二人は買い物を済ませて店を出たが、なぜかそれで別れようとはならなかった。二人は示し合わせてもいないのにすぐ側のベンチに並んで座る。
「昨日の試合、惜しかったわね」
「ん」
「でも、凄かった」
 安藤はほんの少し照れ臭そうにして隣にいる哲の横顔を見た。
「ありがとう、応援と……おにぎり」
 哲も彼女の顔を見る。二人はしばし見つめ合っていたが、ほぼ同じタイミングで視線を外した。
「あの暑さだったから腐ってたら困るなぁって皆気にしてたの」
「そうなったら困るからって木暮の案で移動中に頂いたよ」
「なら良かった」
 安藤はほっとした表情でそう言った。
「あとコレ」
 哲はスウェットのポケットから小さな御守を引っ張り出す。それは赤字に小花柄の和服の布地で作られており、正面中央に【必勝祈願】と刺繍文字で縫われているものであった。
「安藤が作ってくれたんだろ?」
「まさか、布地は提供したけど」
 そう言いながらも彼女は顔を背け、わざと人の流れに視線をやる。
「木暮でもここまでキレイには作れないからさ」
 哲は五年以上付き合いのある女子マネージャーが手芸を得意にしていないことは知っていた。
「そんなこと無いわよ……それか一年の子なんじゃないの? 手芸が得意な子がいるって聞いたことがあるから」
「そっか」
 哲はそれ以上の追求をせず、すぐ近くにある大きな時計で六時になったことを確認して立ち上がった。
「そろそろ帰るわ、登校日だから支度しないと」
「きっと大騒ぎになるわね」
 安藤もふふっと笑って立ち上がると、また後でと声を掛け合ってからそれぞれの方向へと散っていった。

 その言葉通り、総合高校の体育館では野球部の慰労会と称した全校集会が行われていた。創部史上初の県大会準優勝で生徒、教諭、特に校長のはしゃぎ振りは凄まじく、ステージに立たされている選手たちの方が冷ややかな表情を浮かべている。
「早く終わってほしいよ」
 昨日の試合で脱水症状を起こした二階堂はこの会への登壇を誰よりも嫌がっており、同じくサヨナラ負けを喫した行定もずっと下を向いていた。
「顔上げとけって、ユキ」
 行定を挟んで座っている森田と松原が接突くも、更に嫌がって肩をすぼめていく。
「ヤダよぉ、俺良いとこ無しだったから公開処刑されてる気分なんだもん」
「かえってみっともないって」
「でもさぁ」
 そんな生徒たちの気持ちをよそに校長は意気揚々と話を続け、来年は甲子園出場の壮行会になればと嬉しそうに語っていた。
「好き勝手なこと言って……」
 下級生たちもそこを目指せる位置に居続けたい考えはあるものの、こうも外野ではしゃがれてしまうとかえって気持ちが引いて作り笑いすら浮かべられなくなる。
「校長、昨日の今日で生徒たちも疲れてるでしょうから……」
 教頭に窘められてようやっと話を切り上げる校長を尻目に二階堂と行定はほぅと息を吐いた。
「もう勘弁してくれ」
 二階堂の渋い表情に依田と勇樹がぷっと吹き出していた。

 申し訳程度のホームルームを終え、野球部員全員が部室に集合していた。引退の決まっている三年生たちは残している荷物を放り出して自宅へ持ち帰ることになっており、下級生たちで部室内の掃除を始めていた。
「案外広い部室だったんだな」
「稔の荷物が多過ぎるんだよ」
「俺だけじゃないだろうが」
 弟気質の依田と勇樹が軽く言い合いを始め、哲はこの光景も卒業すれば見られなくなるんだなと感慨深くなる。
「これで一年生は使いやすくなるんじゃない?」
「だね。散らかし魔が三年生じゃ言うに言えないもんね」
 おっとりしている小木と柳原は後輩たちと混じって部室のモップがけをしており、マイペースな二階堂と安西は自分のことが終わると脇でキャッチボールを始めていた。
「哲が言って聞かなかったんだから尚のことな」
「そうっすよ稔さん、現役のうちにもうちょっと片付けてほしかったっす」
「今言うなよお前~」
 早いうちからレギュラーメンバーに定着しているだけあって、下級生の中では田村が最も上級生に臆さない性分と言えた。
「薫は人のこと言えない」
「え~っ」
 幼馴染群のツッコミに周囲は笑いに包まれ、哲は柿沼と一緒に二年生部員たちを眩しそうに見つめていた。
「決めたか?」
「あぁ」
 二人はアイコンタクトを取り合って部室掃除が終わるのを待つ。そうしているうちに監督宅師も姿を見せ、哲に向け柿沼と同じことを訊ねた。
「はい、決めました」
「なら発表するか。全員中に入れ」
「「「「「はいっ!」」」」」
 監督ツルのひと声で部員たち全員が部室前に集合し、三年生、二年生、一年生の順に中へと入っていく。上座には宅師と哲が立っており、下座には二年生以下の部員が体育座りをしていた。
「哲、アレか?」
 壁際に立っている三年生部員依田が旧主将を見てにっと笑う。
「ん、ちょっと悩んだけど今決めた」
「「「「「今かよっ⁉」」」」」
 というツッコミも軽くスルーした哲は、体育座りで自身を見上げている後輩たちに視線を移した。
「コウ、次頼むわ」
「へっ⁉」
 哲から次期主将に任命された群は、まさか自身にその役割が回ってくるとは思わず口をパクパクさせている。
「うん、いいんじゃない?」
 面倒事を嫌う田村はうんうんと頷いていた。他の二年生部員や一年生部員も異論無さげにしている。
「副主将はどうすんのさ?」
 三年生部員勇樹が二年生部員を見ながら哲に訊ねた。
「モリにやってもらおうと思ってる」
「まっ、薫にやらせることを思えば良い人選だと思うぞ」
「え~っ! 俺ディスられてないっすか?」
「お前そういうの無理じゃん、只でさえ忘れもん多いのに」
 選手としては頼もしい田村だが、部室の鍵を持って帰る、遠征先で忘れ物をする、はたまた大事な報連相を素で忘れるといったことが多いためこの手の役割には性格上向いていない。しかし彼以外の二年生部員は基本的に大人しい性分で、リーダーシップを取れるタイプとは言えなかったのが哲の選択を悩ませていた。
「二年は基本的に職人気質なのが多いから正直悩んだよ。薫を主将にすることも考えたけど、そうしたら副主将になった奴の負担がデカ過ぎるからな」
「言えてる、主将のお守りで手一杯とかヤダもんな」
 先代主将となる哲の言い分に他の三年生部員から笑いが起こる。
「奔放な薫の手綱も握れる奴でないとさ、そこを加味したらコウが適任だと思ったんだ」
「なるほどな。そういう訳だからコウ、ビシッと挨拶決めろ」
「ホントに俺なんですね……」
 これまでチームを引っ張る側の立場に立ってこなかった群は、緊張した面持ちで哲の隣に立って一礼してから体育座りしている現役部員たちを見た。
「えっと……こういうの苦手なんでアレなんですが、精一杯務めさせて頂きますので宜しくお願いします」
 新主将のたどたどしい挨拶に拍手が起こり、群は少しだけ安堵の表情を浮かべる。
「あんま偉そうなだけの主将にならないよう気を付けます」
 彼はそう言って照れ臭そうに頭を掻いた。

 それから半年後に“粒揃い”の三年生たちは総合高校を巣立っていき、“少数精鋭部隊”中心の新チームは先輩たちに引けを取らぬ闘いぶりを見せていた。秋季大会、春季大会共に地方大会へと進出し、それぞれで一勝ずつ上げて集大成である夏の大会を迎えた。二年連続のシード校となった総合高校は二回戦から登場し、準々決勝まではコールドゲームで勝ち上がっていた。
 準決勝は北西部にある古豪県立西高校との公立対決を制し、決勝戦は昨年と同じ海洋水産高校が相手であった。海洋水産高校はこれまで三大会連続の甲子園出場を果たしており、今季のセンバツでは準々決勝進出と結果を残している。
「今度こそ勝ちたいな」
 強くなってここまで躍進を続けていても、海洋水産高校の壁はまだ突破できていなかった。
「うん、今回こそ絶対勝とう!」
「「「「「おーっ!!」」」」」
 彼らは更なる高みを目指し、戦場グラウンドへと駆けていく。

─完─
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