箒星館のゆかいなモノたち 〜神様の休憩所〜

小牧タミ

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プロローグ

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「マジで頼む!!」 

無駄に晴れ渡った空の下、 
築五十年のおんぼろアパートの集合ポスト前で、今しがた届いた白い封筒を祈るように開ける。 
三つ折になった紙を取り出しておそるおそるめくると、取ってつけた挨拶文の後に続く『不採用』の文字に心がポキッと折れる音がした。紙をどうひっくり返しても結果は同じで、この『不』の付いた通知を見るたびに胸が軋み焦燥感でいっぱいになる。そんなやり場のない気持ちは毎度重苦しい溜息と一緒に吐き出され、見るのも苦痛な紙はぐしゃぐしゃに丸めて空のかなたに投げ捨てた。

 「そこのやさぐれ大学生、ゴミはゴミ箱にと教わらなかったかい」 

ふいに聞こえてきた柔らかな声に肩をすぼめると、俺は苦笑いを浮かべてゆっくりと振り返る。 振り返った先には、このおんぼろアパートの大家さんが箒を手に立っていた。 

「えっと……大家さん、すみません。つい……」 
「衝動的にモノに当たるのはどうなんだろうね」
「はあ……気をつけます」

なんだかイラッとする。注意されたことにじゃなく子供に話すような口調で窘められることに……だ。
誰にでもこういう喋り方なのかもしれないが、どこか人をバカにしたような……と感じるのは俺の了見が狭いせいだろうか?胸の奥で苛立ちがフツフツと湧き上がる。
間違いなく相性は最悪で、俺としては極力関わりたくないのだが、大家と住人ではそうもいかない。 
大人気ない行為をした俺が悪い。どんな風に注意されても文句は言えないが……釈然としない。 
ポイ捨てした紙は「ちゃんとゴミ箱に捨てるように」と返却され部屋のゴミ箱行きとなった。

大家の天音史朗(あまねふみあき)さんは、線の細い柔和な感じの……でもどこか飄々とした人で、年齢はたぶん二十代後半。俺は普段“大家さん”と呼んでいる、実際のところ家主なのか、管理会社の人なのかは不明だ。
ただ箒を持ってアパートを掃除するには……どこで人生間違えた?と言いたいぐらい超絶美形(イケメン)で、住人(お年寄り女性)たちの“推し”的存在である。
週に数回はアパートにやってきて掃除や設備のチェックをするのだが、大家さんが来るといつもアパート前は賑やかで、暗い雰囲気のアパートがいっきに明るくなる。
客観的に見てもいつもにこやかで人当たりも良く、良い人……なんだろうけど。小骨が喉の奥に引っかかったような、何か……妙な違和感が……拭えない。

……ーー嘘っぽさ……が。


大学四年の俺ーー蒼野高大(あおのたかひろ)の就活は惨敗続きだった。
面接にこぎつけたのはたったの数社で、あとは書類選考で落とされる始末……大手優良企業に就職したいなんて贅沢なことは言わない。でもせめて社会保険や福利厚生がある会社に入りたい! そんなささやかな希望も見事に打ち砕かれる毎日に俺の心は荒んでいった。
自分なりに見た目には気を遣って相手(面接官)に不快な印象を与えないように気をつけてるし、スーツもこまめにクリーニングに出している。なにがダメなのかさっぱりわからない……。
どちらにしても企業にも選ぶ権利はあるし、これといった特技もアピールできる経歴もなく、偏差値の高い有名大卒予定でもない俺を雇いたいなんて物好きな企業は正直……ゼロといってもいいのかもしれない……。

「おはよう、今日はゆっくりだね」

カンカンと錆びだらけの階段を下りると、アパートの前を掃除していた大家さんと出くわした。超絶美形(イケメン)の涼しげな微笑みは破壊力が凄まじく、ホントなんで大家なんてやってるのか不思議で仕方ない。

「……おはようございます。まあ……はい」 
「なんか疲れてそうだけど、大丈夫かい?」
「はぁ……なんとか」

俺の素っ気ない態度を気にすることもなく大家さんはにこやかに話かけてくる。必要以上に話かけなくてもいいのにと思いつつ……住人とのコミュニケーションは大家にとって必要不可欠な行為なんだろうか?といっても、これも仕事のうちだろうけど。
気まずくて早くこの場を離れたかったのだが、ちょうど下の階に住んでいるおばあ……年配の女性が出てきて、ニコニコと俺たちに話かけてきたこともありタイミングをなくしてしまった。

「天音くん、いつもきれいにしてくれてありがとね」
「いえいえ、好きでしていることなので。田中さんは変わらずお元気ですね」
「まだまだ体力には自信があるよ!」

さすがお年寄り住人の“推し”和気あいあいと楽しそうだ。仲間に入りたいと思わないけど、少し気後れする自分がいてモヤッとする。すると田中さんというらしい年配……の女性が俺に向かって「上の階のぼうやだね。あんたちゃんと寝てるかい?」と言ってきた。一応は住人として認知されているようで、なんとなくほっとするものの……。

“ぼ、ぼう……や!?”

確かにこの田中さんからしたら、俺なんて孫みたいなもんだろうけど、すでに成人していて、見た目もどちらかといえば体育会系で男臭い方なのに。ぼうや……なんて言われたのははじめてで驚いた。

「ちょっと待ってな」

田中さんは何かを思い出したように、年齢にそぐわない俊敏な動きで部屋に戻ったかと思うと、またすぐに戻ってきて「もらいモンだけど、あたしゃ飲まないからね。ほれ」と半ば強引に栄養ドリンクを渡された。キンキンに冷えていて汗ばむ季節には有難い。たぶん俺が疲れた顔をしていたから、気を遣ってくれたんだろう。

「僕、ちょっと疲れてたので、助かります!」

大家さんは純粋かっ!てなくらい素直に受け取っていた。なるほど……これがお年寄りからの人気の所以か……と妙に納得する。

「俺まですみません……あ、ありがとうございます……」
「飲み物くらいでなに恐縮してんだい。デカい図体の割に気ぃ遣いだねぇ、こういう時は遠慮しないですぐに飲むんだよ」

田中さんはちゃきちゃきした人で、俺は勢いに負けてもらったドリンクを一気に飲んでしまった。

「そうそう若いモンはそれくらいじゃないと。変に遠慮されると、こっちが気ぃ遣っちまうよ」

田中さんは満足げに頷くと「あたしゃ用があるからさ~」と年齢を感じさせない軽い足取りで颯爽と去って行った。
あっけに取られていると、大家さんが愉しそうな笑みを浮かべてこちらを見ているのに気づいた。

「な、なんですか?」
「いやぁ、男臭い蒼野くんも、年配のご婦人にはタジタジだと思って」
「!」

心の中を覗かれた気がして大家さんから目をそらした。
昔から体格も良く男臭い俺はガサツというか大雑把に見られがちだったのだが、実際は人付き合いが苦手で変に気を回してしまって空回りすることが何度もあった。両親には体は大きいのに繊細な子ね……とよく言われていた。それを一瞬で見抜かれた気がして、カッと顔がアツくなる。

「それは……アパートの人たちとあまり話したことがないので……。じゃあ俺はこれで……」

居た堪れなくて逃げるようにその場を離れる俺に大家さんはにこやかに手を振っている。食えない人……っていうのか……あの、なに考えてるかわからない笑顔がホント苦手なんだよな……。
ため息混じりにポツリと呟くと、俺はアパートから自転車で二十分ほどの場所にある大学に向かった。それは学食でいちばん安いかけうどんを食べるためだ。
なのに……七味をかけようとしたら内蓋が外れてうどんスープがなんちゃってチゲスープになった。

「最悪……だ」

やることなすこと全部がうまくいかない。就活はもちろんバイトもミスばっかりで先日“ヤル気ねーヤツは帰れ”と現場監督にしばらく出禁を言い渡された……ほんとツイてない。
大学ではすでに内定を貰ったヤツらと、まだ俺みたいに内定を貰えず絶望に明け暮れながら就活に励むヤツらとで明暗がくっきり分かれていた。
呑気に卒業を待つだけの脳内お花畑の友人の一人が俺の後ろで「ま、頑張れよ」と声をかけてくるが、それは激励じゃなく嘲笑で言葉の裏に『無理だろうけど』と心の声が聞こえた気がした。ついでにグーパンを食らわしたいぐらい友人の顔には冷笑が滲んでいた。
どうせ卒業したら会うこともないヤツらだが、こんなヤツらが内定を貰えて俺が貰えないのは納得いかない!!
それでもめげずに頑張っていたら奇跡が起きて一社ぐらいは拾ってくれるはず……そんな孤軍奮闘もむなしく俺は世の中の不条理を味わっただけに終わった。
結局どこからも内定を貰えることなく十二月に突入し、やる気もおきず廃人と化した俺はいっそフリーターになって好きな旅行でもするか……と盛大に開き直っていた。



「はぁ……コンビニでも行くか」 

何もしなくてもゴロゴロしてるだけで腹は減る……いつも常備しているカップ麺はいつの間にか切れていて、冷蔵庫もスッカラカン……俺は重い腰をなんとか持ち上げると部屋を出た。たまに来るアパート近くの商店街はいつも以上に賑わっていた。近年の物価高も年末年始には関係ないようで、年に一回のことだし……と名分をつけながら大盤振る舞いする人たちを羨ましくも冷ややかな目で見ていた。

「……くん、蒼野くん。こっちこっち」

買い物途中の主婦や母娘連れ、学生にサラリーマンがひしめく通りをのらりくらと歩いていたら、肉屋の大将に呼び止められた。ここのビーフコロッケが絶品で俺はバイト代が入るといつも買いに来ていて、気づくと大将と顔馴染みになっていた。名ばかりのビーフコロッケとは違い、ここのコロッケはイモより肉のほうが断然多い。ほぼ肉といってもいい。それが一個九十円で食べれるのだから味もコスパも最高である。バイトを出禁になった俺の可哀想なサイフ事情もあり、ビーフコロッケは諦めようと思っていた矢先……大将に見つかり呼び止められてしまった。ここでスルーすると後々コロッケを買いに来にくくなるので。やむなく方向転換して店に向う。

「大将、すんません今日コロッケは……」

俺が気まずそうに言うと大将は慌てて「あ~ちがうちがう。呼んだんは別件や、これを渡したくて」と俺に包み紙を渡してきた。

「……え?」 

渡された袋から温かい……いや、揚げたての熱さが手を通して伝わってくる。それと一緒に香ばしい匂いが鼻の奥までダイレクトに流れてきて、いっきに腹の虫が暴れ出す。

「大将、これは?」
「就活って大変なんだろ?最近、蒼野くん元気ないからさ、これ食って元気出してほしくて。オレからの激励!」
「………」
「蒼野……くん?」

揚げ物を持ったまま無反応な俺の顔を大将が戸惑い気味に覗き込んでくる。
我慢しようと思ったけど……やっぱり我慢できなかった。

「……将ぉ~……良い人……ずぎますよ」

大将の優しさと熱々の揚げ物のお陰か重苦しかった心が少し軽くなった。自分が思っていたより重症だったようで……涙が溢れて止まらなかった。

「えっ?え……蒼野……くん?」
「あんたぁ!なに蒼野くん泣かしてんの!」

おろおろしている大将の後ろから、店の奥にいた女将さんの怒号が響く。大将はスリッパで頭をペチペチ叩かれて気の毒だが、その光景が微笑ましくて、なんだか止めに入るのが勿体ないく思えて……大将には申し訳ないけど俺はしばらく眺めることにした。
大学進学で上京してきて、とくに親しい友達もおらず、同じアパートに住む人たちの名前も知らず……この間、やっと下の階の人が田中さんというのをはじめて知ったくらいで、となり近所との付き合いは皆無だ。
肉屋の大将ともコロッケを買いに来たときに少し話をするぐらいで、正直そんなに親しいわけでもなかった。それなのに月に一、二度買いに来るだけの俺のことを気に掛けてくれていたなんて……驚きと嬉しさが交互に押し寄せて、俺はしばらく子供のように泣いてしまった。
肉屋の前を通る人たちが白い目で見ていくので営業妨害もいいところで。……あの後、俺は何度も頭を下げた。
「気にすんなって。それより就活頑張ってくれよ!」と大将がニカッと太陽みたいな笑顔で言ってくれて、俺は上京して良かった……とはじめて思えた。

サクサクホクホクのいつもほんのり甘いコロッケが、その日は少ししょっぱい味がした。大将と女将さんの優しさと肉たっぷりのコロッケのお陰で、久しぶりにぐっすり眠ることができた。
もし、もし就活がくまくいったら、真っ先に報告しに行こう!大将と女将さんの好きな甘い物を持って……。



「配属先がどこでもいいならウチくる?」

結局、清々しいまでに就活は惨敗。無駄に卒業を待つだけとなった俺に、うちでメシ食う? くらいの軽いノリでその人は言ってきた。……大家さんだ。 
はじめて知ったのだが大家さんは会社を経営している……らしい。なんの会社かは知らないけど、そこそこ大きい会社なのだとか。なんでそんな人がアパートの大家を?なんてことは何百回と思った。そんなことより会社社長って暇なのか?てくらい大家さんはアパートに顔を出している……のだが。本業が大家で副業が会社経営……とか?んなわけあるか。ひとりでツッコみながら、大家さんの言葉を理解するのに時間がかかってしまった。
大家さんの申し出は頑張ったけど報われなかった俺に神様からのご褒美だったのかも。……なのに即答はできなかった。就活惨敗者がなに言ってんだ。悩んでる場合じゃないだろ!と周りからは非難の嵐を受けそうだ。
もちろん自分の現状を考えれば……それはそうなんだが。
一度下がったモチベーションを上げるのも、軌道修正するのもめちゃくちゃ気力のいることで……正直めんどくさい。
ーーそれは言い訳だ。
本当は好ましく思ってない……苦手な相手に雇われることに躊躇したからだ。薄っぺらでも俺にだってプライドはある。が……現実問題そのペラペラのプライドでこの先ご飯が食べられるのか? 家賃を払って貯金や仕送りができるのか? 正社員とフリーター、安定と自由……今の自分に必要なのはどっちだ? と問われたら、もちろん悩むまでもなく「お願いします」だ。 
無情な現実の前に俺のなけなしのプライドがいともあっさり吹き飛んだ。 どうして声をかけてくれたのかも気になる。お情け? 気まぐれ?人材不足? どちらにしても大家さんの気が変わらないうちに返事をしよう。

「うちの会社絶対蒼野くんに合ってると思うんだ!ほんとありがとう!」

後日、働きたい旨を伝えると両手を握られてめちゃくちゃ感謝された。こんな大家さんははじめてで、心から喜んでいるのがわかった。キラキラが十倍増しで超絶美形(イケメン)のどアップは心臓に悪すぎる。こんなに喜んでくれるとは思わなかったこともあり“ホントに良い人”……なのかも。と単純な俺は呑気に思っていた。
この決断がこの先の俺の人生に大きな影響を与えてしまうことになるなんて、一ミリも思いもせずーーー




後日、大家さんから渡された求人内容を見て愕然とした。 


【 蒼野高大 殿 

   ◯月◯日よりーー 

  配属先ーー旅館 箒星館(そうせいかん) 

  業種  接客業 その他ーー

  勤務日数 日~月(シフト制) 休日 週休二日制 要相談

  就業時間 ◯◯時~◯◯時迄 

  最寄り駅 ◯◯線 あまおと駅 徒歩◯分 

  その他ーー 住込み可 ーー
            
                 あまおと観光 】 




え……旅館って……なんだ?

「あの……大家……さん?これ……は」 
「ん? なんだい」 柔らかな口調の中に、有無を言わせない威圧感と……怖さがある。 
「い、いえ……なんでも……ないです」

もともと旅行が趣味でお金が貯まるとネットや格安の旅行会社を利用して旅をしていたこともあり、旅行会社には詳しい……つもりだった。さっきまで……。
“あまおと観光”なんて、はじめてきく名前だった。最近できた旅行会社なんだろうか?
上手い話には……なんてよくいうが騙されてないか俺!?
最初に“配属先がどこでもいいなら” と大家さんは言っていた。浮かれて詳細を聞かなかった……俺が悪い。 
それでも、まさか旅館なんて……誰も思わないじゃないかあ~~~!! 
大家さんが意地悪して俺の配属先を旅館にしたわけじゃない……と思う、思いたい。たまたまその旅館に空きがあって、たまたまそこになっただけ……だ。 だいたい感謝こそすれ、配属先に不満あること自体がおかしい……まして騙されたなんて、どうして思うことができるだろうか。

「ちょっと変わった旅館だけど、キミなら大丈夫だと思うよ」 
 
ちょっと……変わった旅館? 俺なら大丈夫? そんな風に言われたら……気になるに決まってる!

「そ、それは、どういう……?」 
「行けばわかるよ」

何かを企んでいるような……大家さんの含んだような笑みが余計なことはきかない方がいいよ……と言っているように見えた。世の中、知らない方が良いことなんていっぱいある。正社員で働けるチャンスを棒には振れない……長い物に巻かれろ俺。
胸の悶々としたモノに蓋をして口を閉ざす。一度引き受けた以上は最低限頑張りたい。それくらいの覚悟と根性は……ある……たぶん。
だいいち客商売なんてしたことないけど、大丈夫だろうか? 

まあ、なんとかなるだろう……たぶん。























「蒼野くん、急で申し訳ないんだけど今日付けで旅館に行ってもらえないかな?人手が足りないらしくて」

無事大学を卒業し大家さんのお陰でギリギリとはいえ就職先も決まった。あとは入社する日を待つだけとなった俺に大家さんからヘルプ要請があり、十日ほど早く配属先の旅館に行くことになった。

「駅に迎えを寄越すから心配しなくていいよ」

配属先の旅館は住込みOKな所で、俺は今の部屋(アパート)が気に入っていたので通勤の希望を出した。ただ研修が七日間ほどあり、その間は旅館に寝泊まりしてほしいと大家さんに言われ、とりあえず必要最低限の荷物だけ持ってアパートを出た。

箒星館にあまおと駅ーーはじめてきく旅館と駅名だった。
旅館はともかく、こんな名前の駅あったっけ……?

そういえば……変わった旅館って言ってたけど。行けばわかると一蹴されてしまったから、聞けずじまいだ。あの時の大家さんの顔が妙に引っかかる……。思いっきり何かあるって顔だった……『ちょっと変わった』なんて絶対嘘に決まっている。一抹の不安を抱えつつ、俺ははじめての路線に足を踏み入れた。













ここは、どこだーー?

カタンカタン……とローカル線の列車はひた走る。
小刻みな揺れが心地よく、つい居眠りをしてしまった。 どのくらい眠っていたのか……落ちてくる瞼を押し上げて窓の外を見ると無機質なコンクリートビルの雑多な風景は跡形もなく、自然溢れる田舎の広大な景色が広がっていた。
アパートを出たのは昼前ーーいくらなんでも着いていい頃だ。まったりとした空気が流れる車内を見回すと、俺以外は背負い籠を持ったお年寄りが数人乗っているだけで全体的にガランとして寂しい。お年寄りたちは気持ち良さそうに頭をコクリコクリとさせて、昭和の忘れ去られた風景を見ているようだった。
マイペースに走る古い列車と風景が俺を感傷的にさせる……この列車が“新たな人生に向かう希望の列車”だったら良かったのに……と。
陳腐なフレーズとともにまだどこか折り合いのつかない自分が顔を覗かせる。そんな俺の気持ちなど知らず列車はひたすら目的地に向かって走っている。
窓から覗く知らない景色が夕焼け色に染まっていくのを眺めながら、就活三十五戦三十五敗の惨めな俺に『ウチくる?』と軽いノリではあったけど、手を差し伸べてくれた大家さんには感謝してもしきれない。でも田舎のきいたことのない旅館に配属されてしまった……ほんと世知辛い世の中だ。それでも正社員として雇ってもらえて両親は泣いて喜んでいた。 やっぱりナシで……とは、さすがに言えない。なにより大家さんを敵に回したらヤバい気がする。
バイトは主に肉体労働で接客なんてやったことがない……しかも旅館なんて。即戦力にならなくても体力には自信があるし風呂掃除や雑巾掛くらいなら俺にもできる。とりあえず半年は働こう。何をするにも先立つモノは必要だ。そして金が貯まったら旅に出ようーー………鈍い橙色の光に目を細めると、俺は再び瞼を閉じた。 

目の前に迫った現実をしばし忘れるためにーーー





プシュと手動式の扉が閉まり、列車はまたカタンカタンと走り出す。俺はしばらく列車の後ろ姿を見送った。 

「なんか……辛気臭い駅だな」 

少ない荷物を置き手を頭の上で組むと左右に思いっきり体を伸ばす。体がキシキシと嫌な音をたてる。古い列車の座席は硬くて長時間座ってると尻や腰が痛くなって最悪だ。
旅館の最寄り駅『あまおと』は無人駅で、はじめて降りてみたものの……利用する人なんているのか? まず駅として機能しているのか?と思うほどさびれた駅舎だった。
ただ“在る”だけの駅。といった印象しかなく、醸し出す空気が物悲しい。

「喉が渇いた……って、自販機もないの……か」

仕方なく張りぼてのような改札口を通り外に出ると、目の前には山、山、山……しかなかった。 

「なんだここは!?」 

凛然と佇む山々に圧倒されてポカンとする。今すぐにでも山が押し迫ってくるようで、アニメに描かれる森林の世界に迷い込んでしまったような気にすらなる。
俺はここで本当にやっていけるだろうか?ここに来るまでに覚悟したことが秒で砕けそうになった。

「ここ温泉街……だよな?」 

当日は旅館から迎えを寄越すと言っていたのに……。
駅前のロータリーには車どころか人影すらない。みやげ屋の一軒もなく、全体的に閑散とした感じで。休憩所・トイレのプレートが貼られたプレハブ小屋みたいなのがポツンとあるだけだ。
配属先に旅館とあったから温泉街と思い込んでいたけど……もしかして違うのか?じゃあ観光地……そんなもの一目瞭然であり得ない。殺伐とした雰囲気と想像していたものとのギャップに頭がパニックになる。
ふいに背中がヒヤリとして辺りを見回わしたが、のんべんだらりと纏わりつくような空気が流れているだけで、本当に猫の一匹すら歩いていない。
ただ周りの霧がかった……というか薄暗さが妙に気になった。
するとプッープッーと車のクラクションが鳴り、俺の前に白のワンボックスカーが止まった。車体の側面にデカデカと[箒星館]と書いてある。俺は変な緊張感から解き放たれた気がして、ほっと息をついた。

「いや~ すまないね! 途中でトラブルに合ってね。待ったかい?」 

車から降りて来たのは襟元に[箒星館]と刺繍された法被を着た調子の良い感じの男の人だった。長めの髪を適当に後ろで結び不精髭を生やしている。年は四十そこそこといったところだろうか。 

「あ、いえ……それほどは……」 
「予定外にバタバタして、本当に申し訳ないね!」 
「どうせヒマしてたんで全然大丈夫です」 
「えっと、蒼……野くんだっけ、ありがとう。ホント助かるよ~! あ、僕は天音時朗(あまねときあき)。みんなはジローって呼んでる」 
「あ、蒼野高大です。天音? 大家さん……のご親戚か何かですか?」 
「聞いてない? 一応叔父なんだけど。箒星館は僕が経営してるんだけど。まあシローくんの会社の子会社みたいなもんかな」 
「シローくん?」
「天音史朗、僕の時朗もそうだけど堅苦しいし、言いづらいだろ。だからそのまま読んでシロー、僕はジロー」

ジローさんは軽い感じではあるけど、大家さんと違って気さくで明るくて楽しい人だった。 
「続きは車の中で」と促され車の助手席に乗り込んだ。 
 
「あの、ここって温泉街じゃないんですか?」

少しして俺は訊ねてみた。 ジローさんは「まあ……うん、温泉街……ではないかな」と、どこか歯切れが悪かった。 

「?」 
「それより嫌だったんじゃない?」 
「え?」 
「こんな辺鄙な田舎の誰も知らないような旅館にホントなら来たくないよね」

全部お見通しな感じでジローさんが言う。すぐに「そんなことないです」と返せないのがツラい。 
「まあ……ね、曰くありの旅館だから、みんな長続きしなくて……蒼野くんもしかしてシローくんに弱みでも握られてたりする?」 

今、サラッととんでもないこと言った……ような? スルーしたいけど……できない!

「あの……曰くあり……って?」
「あれ? これも聞いてないの? じゃ教えない!」 

ええー! その返しはちょっと……めっちゃ気になります。つーか、教えてもらわないと困ります! 
曰くあり曰くあり曰くあり………………。 
 
「ごめんごめん冗談だよ」 
「……冗談?」
「うん、半分くらい」 

半分くらい……って、なんだ? 

「蒼野くんって、見える人?」 
「見え……?」

 “見える” ってなんだ!? それはもしかして……もしかしなくても “アレ” のことだろうか? 
俺は慌てて否定した。“見える” なんて……俺は幽霊やお化けの類が一番苦手なんだ。 俺の意味不明な身振り手振りにジローさんはクスリと笑う。

「認めたくないって感じかな?」 
「いやいや、認めるもなにも……俺には……」
「でもね “あまおと” 駅って、それなりに “力” がないと気づかなくて通り過ぎちゃうんだよねぇ~」
 
ちゃうんだよねぇ……って、人の話、聞いてます?

「ちゃんと降りてくれてよかったよかった!」 

人の話……聞いてますか?  
ジローさんはどうやら人の話を聞かない人らしい。そもそも俺にそんな怪しげな “力” なんてないし。あってほしくもない。前言撤回……さすが大家さんの血縁者だ。人当たりが良く普通に見えるけど、ジローさんもだいぶ変わり者のようだ。 

「ごめんごめん、こんな話いきなりされても困るよね。少しずつ慣れてってくれたらいいから」 
「慣れてっ……て……」 

ジローさん結局最後まで人の話を聞かず、言いたいことだけ言って話を締めくくってしまった。どのみちここまで来たら帰れない。旅館やホテルといった宿泊施設には何かと“曰く”はつきものだ。嘘か本当かは関係なく古ければなおさら。ジローさんは俺を揶揄って大げさに言ってるのかも知れない。旅館に行く前の軽い談笑と思えばいい……。 あとは何を話すでもなくジローさんは車を走らせる。またその道中が大変で坂道を上ったり下ったり、急カーブだったり急ブレーキだったりとちょっとしたジェットコースターみたいな道のりだった。とにかく俺は食べたものを口から出さないように必死だった。 
正直こんな薄暗い中をよく運転できると関心してしまう。そして車はどんどん奥に入って行く……。
こんな所に旅館なんてあるのか? 秘境と呼ばれる場所にでも行くんだろうか? 旅館、本当にあるのか……?

「もう少しで着くよ」
「ほんと……うっキモチ悪ぃ……」 
「ごめんね~ ここの道って整備されてなくて」 

ハハッとジローさんが笑う。これはあなたの運転が粗すぎるのが原因……です。とは言えなかった。なんとか道端に汚いものを残さずに済みそうで良かったけど……。 それにしても随分と山奥まで来た気がする。土地勘のない俺がこんな所で降ろされたりなんかしたら生きて帰れる気がしない。

「門が見えてきたよ!」 
「……!」

俺は眼前に見えた“門”に目が点になるのを覚えた。
車はスピードを落としてゆっくりと大きな門をくぐり敷地内に入る。建物の裏側に回り駐車場らしき場所で止まると「厠あっちね」とジローさんが指をさした先に仄かな灯が見えた。よく見ると提灯に厠と書いてあり俺はダッシュで駆け込んだ。 

「ゔぇ……んで、こんな目に……っ」

とりあえずトイレの洗面に出すモノ出したらスッキリした。まずしっかり口をゆすいで。これから旅館の人たちに会うのに口が臭い人と思われたくはない。第一印象は大切だ。

 「ハンカチは……っと、あれ?」 

ズボンのポケットを探るがハンカチは鞄に入れたままだったのを思い出す。仕方なくズボンで軽く拭き取ろうとした時『どうぞ』 と優しい人がハンカチを差出してくれた。

「あ、すみません。助かりま……す!?」 

渡されたハンカチを手に俺はあわあわと目を白黒させた。ハンカチはある……けど、そこには誰もいなかったのだ。 

「ジローさん!! ジローさん、ジローさん!!」
「ど、どうしたんだい? そんなに慌てて?」 

ジローさんが一重の目を丸くさせてキョトンとしている。 

「い、今トイレで……こここ」 
「蒼野くん落ち着いて」 
「すみません、トイレでこのハンカチを渡されて……俺しかいなくて……っ」

慌てる俺をよそにジローさんはニヤリと笑った。その笑みが大家さんによく似ていて、やっぱり血縁者だと……残念な気持ちになる。 

「それね、トイレの花吉(はなきち)さんだよ」
「花吉さん?」 

トイレの花子さんは聞いたことあるけど……花吉さんは初耳だ。トイレの花子さんの男版か? 俺はなんともいえずスーと冷や汗が流れていくのを感じていた。

「ハンカチを使ってくれたら花吉さんも喜ぶよ」
「そうじゃなくて……」 
「旅館に案内するよ。みんな楽しみに待ってるよ」

 やっぱり人の話を聞かない人だ。

「……これが旅館? 」 
「箒星館へようこそ! 蒼野くん」 

どうだ! と言わんばかりにジローさんは建物に向かって両手を広げた。 旅館のイメージをはるかに超える “それ” に俺は呆然となった。そもそも旅館というのは日本家屋のような趣のある佇まいの……古き良き木造建築じゃないのか? 侘び寂びを纏い和を集めた空間じゃないのか? と勝手なイメージだが思っていた。 いや、そう思ってるのは俺だけじゃないはず……。
 
“なんだーーこの異国の宮殿みたいな建物は!?”

赤・青・黄・緑・紫……その他のネオンがチカチカと……まるで趣味の悪いラブホテルみたいだ。

「ジローさん、ここは海外ですか?」 
「一応、日本だよ」 

“一応”って、なに?

ジローさんはしれっと言う。 日本にこんなセンスの悪い旅館なんてないと思うけど……と思ったことは胸の奥にしまった。 

「お客様が寛げて楽しく過ごせるなら形なんてどうでもいいんだよ」 ジローさんはポツリと言った。 

「どうでもいい?」 
「そうだよぉ~」 

おちゃらけた感じに返すがジローさんの建物を見る目がとても優しくて、旅館を大切に思ってることが伝わってきた。ようは中身が大事ってことか? にしては奇抜過ぎだろ……。 

「まあ、入ってよ」

ジローさんがニコニコと俺の背中を押す。 正直、俺はもういっぱいいっぱいで、中に入るともっとスゴイことが待ち受けているような気がして怖かった。でも同時に……中はどうなってるのか……?いたずらに好奇心が掻き立てられる自分もいた。どきどきしながら大きな二枚扉の中に入ると、何人もの中居さんらしき人がパタパタと右へ左へと慌ただしく動いていた。
その中のひとりが「あ~ ジローさんやっと帰って来た! 早く手伝ってくださいよ。忙しいんだから!」と、プリプリと怒りながら行ったり来たりを繰り返している。

「いやぁ~ ごめんね。道が混んでてさぁ~」テヘと本人は可愛いく誤魔化してるつもりらしいが。今どきテヘなんて使うヤツいるのか?そんなジローさんを従業員はスルーからの敬いの態度はまったくと言っていい程なかった。

 「ジロー! いつまで油売ってんだい! 今日は忙しくなるから早く帰って来いっつただろがあ~~」

 そんな罵声とともに、何かが飛んできた。 

 「えっ?」と驚く前にそれはジローさんにクリーンヒットしたようで、ジローさんは廊下でカエルがひっくり返ったような憐れな姿でのびていた。

 「ジ、ジローさん!! 大丈夫ですか!?」 

俺は慌ててジローさんに駆け寄り体を起こす。 

「心配しなくても大丈夫よ、いつものことだから」

そう言ったのはジローさんではなく、薄いクリーム色の上品な着物を着た女の人だった。しかもすごい美人。大家さんといい勝負だ。

「蒼野高大さん?」
「は、はい……」 
「私は、この旅館の女将で天音寧子(やすこ)です。みんなネコさんと呼んでるから、蒼野くんも気軽にそう呼んで頂戴な。蒼野くんも下の名前で呼んでもいいかしら」 
「は……はい」 
「ではタカヒロさん。本当はまだ先なのに申し訳ないんだけど、そこの唐変木連れて地下の大浴場の掃除をお願いしていいかしら」
「は、はい!」 

女将のネコさんの男前さに圧倒されて、俺は「はい」しか言えずバケツとデッキブラシを持って、ジローさんと地下の大浴場にやって来た。 

「ほんとに大丈夫ですか?」 
「ハハッ……ありがとう。大丈夫だよ」 

大丈夫と言いながら、ジローさんの前頭葉には見るも痛々しいでっかいたんこぶができていた。

「僕がこんなだから、ネコさんには苦労かけっぱなしでね。申し訳ないと思ってるんだけど……」 
「ネコさんって、もしかして?」 
「あ、僕の奥さんね。美人だろ!」 

ジローさんの目がハートになってる。キラキラと天女か女神かごとくネコさんを崇拝しているようだ。完全に尻に敷かれている下僕街道まっしぐら間違いなしだ。すごく綺麗な人だったし気持ちはわかるけど、打ち所悪けりゃ死んでたよ……。目の端に映るジローさんはネコさんにベタ惚れみたいで、それを喜んでる……節があるのでこれはこれでいいのだろう。俺には理解できない世界だけど。 

「それにしても、めちゃめちゃ広いですね! この大浴場どれくらいあるんですか?」 

子供のようにはしゃぎながら、俺はデッキブラシを走らせる。

 「う~ん、どれくらいだろ?」

ジローさんは首を傾げている。経営者が把握してないくらい広いのか? 地下の大浴場には檜風呂や岩風呂、サウナに水風呂まで何種類もの風呂があり、さらに露天風呂もあるらしい。 アパートは六畳一間の風呂トイレ付きではあるけど、申し訳なさ程度に取り付けたような小っさな浴槽は成人男性が入るには窮屈で。学生には贅沢と思いつつ月に数回、近所の銭湯に通いお湯がたっぷり張った広い浴槽で体を伸ばすのが唯一の楽しみだった。

 「タカヒロくんは風呂好きなんだね。従業員もこの大浴場使っていいんだよ」 
「ほんとですか!?」 
「ほんとほんと。でも時間は決められてるから、またあとで教えるね」 
「はい、 ありがとうございます!」 

ふいに見るとジローさんの顔に笑みが溢れていた。 

「どうしたんですか?」 
「いや、やっと楽しそうにしてくれたから嬉しくて」 「……すみません」 
「あ、嫌味とかじゃなくて。誰だってこんな怪しくて胡散臭い所に配属されたら嫌だよ。僕も“見える人”なんて聞いちゃったし、旅館はヘンテコだし。でもね、この旅館変わってるけど従業員はみんないい子たちばかりだし、お客さんもいいヒトばかりでほんとに良い旅館なんだ。だからちょっとでもタカヒロくんに気に入って貰えると嬉しいな」  
「ジローさん……」 

なんて良い人なんだ。俺の気持ちに気づいてて……そのことで俺が気に病まないように気遣ってくれて。もしかしたらすぐに辞めるかもしれないのに。もしかしたら……ずっと気に入らないかもしれないのに。それでもそんな風に言ってくれるなんて……そんな嬉しそうな顔されたら……辞めずらくなるじゃないか……。
なんで、肉屋の大将や女将さんも……ジローさんも……俺に優しくしてくれるんだろう。俺は……。 

「ジローさん……俺、就活全滅だったんです。そんな俺を見かねた大家さんが声を掛けてくれて。それなのに田舎の旅館に配属になった時、最悪だって思いました。どこも雇ってくれなかった俺なのに不満だけはあって……」

ジローさんはうんうんと、俺の話を聞いてくれている。 人の話を聞かない人じゃなかったのか? 今は聞いてくれるんだ……上手い人だ。 

「覚悟を決めて来たのに、まだ自分の中で折り合いが付いてないみたいで。正直なんで……って気持ちもあるし……。曰く付きも幽霊もめちゃくちゃ苦手で。突然……逃げ帰るかもしれないし……」 

なに言ってんだろう……自分でもよくわからない。もしかしたらクビって言われるかもしれない。でもジローさんが言葉にしてくれたから俺もちゃんと言おうと思った。
それが相手にとって失礼で傷つくことでも……。

「タカヒロくんは、いい子だね。ウソがつけない子だ」
「ジローさん?」 
「どんな事情があっても、来たくて来たわけじゃなくても、タカヒロくんは箒星館(ここ)まで来てくれた。僕はそれだけで嬉しいよ」 

ジローさんのなんとも優しい笑顔に俺は泣きそうになった。 

「先のことは誰にもわからないし。箒星館(ここ)を次のステップのための休憩場所、通過点と思えばいい。少しでも楽しみながら働いてくれたら、それで十分だよ」 
「ジローさん…」

 この人は大人だ。調子良く見せてるけど懐の深いどこまでも優しい大人の男……。

《掃除終わったのかい!!》 

ネコさんの野太い声がどこからか聞こえてきた。姿は見えないのに声だけでも迫力がある。 ジローさんと俺は「ひっ!」と体をピーンと伸ばして固まった。 風呂場になんとも恐ろしいオオカミの遠吠えのよう声が響いた。あんなに美人なのに……残念すぎる。

 「ヤバい!! タカヒロくん早く掃除を終わらせないとあとがコワイよ。急ごう!」
 「は、はいっ!」 

今のジローさんは調子の良い方のジローさんだ。“大人の男のジローさん” もいいけど “お調子ぽいジローさん” の方がいい。

 「いつまで風呂掃除してんだいっ!! もうすぐお客様が到着するよ。 キビキビ動く!!」
 「「はいーっ!!」」

広いってもんじゃない大広間に座布団が飛び交っている。配膳にビール、カラオケにコンパニオン? の準備……女将さんと何十人いるかわからない中居さん……みんながテンヤワンヤと大忙しだ。 呆気に取られてると『ボサッとしてないで並べる!』と座布団が俺の頭の上に落ちてきた。「!?」たぶん曰く付きだ幽霊だって悩んでる暇もないくらい働かされるんだ……今はその方がいいかもしれない。すぐに結論を出す必要はない。
箒星館がどんな旅館かまだわからないけど、本音をいえば知りたくないけど。ジローさんが一緒なら少しは楽しく思えるかも知れない……ちょっとだけそう思ってしまった。 

“お客様が到着されました” 

アナウンスがどこからともなく流れると、ネコさんとジローさんを筆頭に中居さん達が玄関の両脇に整列する。それは見事なほどに、数ミリの歪みもなく。それに習い俺も一番後ろに隠れるように並んだ。 バスが到着し次から次へとお客様が降りてくる。こんな遅い時間にやって来る客ってどんな人たちだろう?いたずらに好奇心が疼き出す。俺は中居さん達の隙間を縫うように覗き込む。
最初にやって来た御一行様は白無垢みたいな装いをした主らしきヒトを先頭に、法被を着たお供らしきヒトが二人?提灯を持って後ろに付き従っている。
そして、その後方には淡い橙色の光の玉が点いては消え点いては消えを繰り返し幾重にも続いていた。
まるで町興しの提灯行列……違う、もっと神秘的で崇高な空想でしか知らないーー狐の嫁入りを間近で見ているようだった。
それでも今日は祭りか結婚式か?と呑気に思いつつ俺は他の中居さんの真似をして頭を下げる。
違和感を感じたのは、その御一行様が近づくにつれ金縛りに合ったみたいに体が動かなくなり、尋常じゃない鳥肌が全身を覆い、心臓までバクバクと鳴りはじめたからだ。
ガチにヤバい……と思った時、視線の先に白無垢の裾が目に止まった。
御一行様の主が前を通ったのだ。そのまま通り過ぎると思っていたら主はピタリと足を止め『そなた、新しい人間(使用人)かえ?』と囁いた。冷ややかな声音がねっとりと耳の奥に張り付く感覚に俺は目をキツく閉じる。喰われてしまう……と。
なぜか水を打ったように周りが静かになり、俺は恐る恐る薄目を開ける。

ーー声にならない声が喉の奥に蠢いた。

男とも女ともいえない“生き物”が俺を見据えていた。
真っ白で艷やかな羽毛……ではなく毛、床まで伸びた尻尾、シュッと長い鼻、細い糸のような目はどれを取っても人間の“それ”ではなく、人外の“あやかしのそれ”だった。
白い被り物で顔が隠れて気づかなかったが、ひとことで言い表すなら“狐”様。である。本当に狐の嫁入り……だったのか?ゴクリと俺の……いや狐様の喉が鳴ったのかもしれない。
狐様はあるのかないのか分からない目を三日月のように半円にすると、ニヤリと厭な笑みを浮かべて舐め回すように俺を睨めつける。なんとも不気味で……異様な空気の中で俺もジローさんもネコさんも……中居さんたちまで微動だにせず……いや微動だにできず固唾をのんで見守っていた。
そんな状況で……俺はこの白い艶々したやわらかそうな毛に触ってみたいと思ってしまった。
そんなことをしたら……たぶん間違いなく……瞬殺される。

『そなた、名は』

主が俺に名前を訊ねると一瞬周りがどよめき、お供の二人が言葉を発しようとしたが『よい』と遮られる。

「えっと、あ、アオノ……タカヒロ……です」

よもや名前を聞かれるとは思わず、何とか声を絞り出してカタコトになりつつ口にする。

『タカヒロか、良い魂(タマ)を持っておる。その魂を取られぬよう気をつけよ』
「……はぃ?」

ぼう然とする俺を横目に用は済んだと言わんばかりに狐様は旅館の奥に進んでいく。お供の二人も困惑しながらもおくれを取らないようパタパタとそれに続く。
俺はその場に立っているのがやっとで、目の端でおぼろげにネコさんが“あやかし”相手に凛とした態度で対応しているのが見えて、凄い……さすがだな……と思っ………。

「ようこそ、お越しくださいました。狐白様」
『ネコ殿、今回も世話になる。よろしく頼む』
「はい、狐白様が心からお寛ぎ頂けますよう誠心誠意尽くさせて頂きます」
『それに、おもしろい人間が入ったみたいじゃて、楽しみじゃ!』
「狐白様、タカヒロは今日が初日でございます。ほどほどにしてくださいませ」
『そう怒るな、わかっておるて』

フフッと含んだような笑みの後に狐様が小さく舌舐めずりをした……ように見えた。


世の中、知らない方が良いことなんていっぱいある。 明日は大丈夫だろうか、俺はやっぱりとんでもない所に来てしまった。……後悔しても……もう遅い。 
ーー……に魅入られたのだから……。

俺の夜は容赦なく更けていくーーー






























世の中には目に見えない不思議がいっぱいあるーーー

つい先日、俺はそれを目の当たりにした。 
それはとても歪で人間の理解をはるかに超えた足を踏み入れてはいけない領域……聖域のように思えた。
それと同時に人は自分の理解の範疇を超える“現象や物事”を体験した時、いくつであれ“知恵熱”を出してしまうことも知った。これが頭が沸くということなのか? 
人手不足だからと前倒しで来たのに、初出勤がこれじゃあ本末転倒もいいとこだ。情けなくてジローさんやネコさん……中居さん達に会わす顔がない……。
箒星館の人達の仕事を増やした上に、余計な手間と心配をかけてしまった……。
腰が抜けて動けず、あまつさえ気を失ってしまった俺は気づけば部屋の布団の中だった。



「蒼野高大くん。久しぶりの新入社員だよ。みんな仲良くしておくれね!」 

ジローさんが機嫌よく俺を紹介する。天音の人たちはどうも人を子供扱いする性格らしい……。 十畳ほどの和室に従業員の人たちが集まっている。この間はもっと人がいた気がするけど……ま、いいか。 
朝礼でみんなの注目を浴びる俺は少しの緊張と、やらかしてしまった大失態に恥ずかしさで顔を上げることが出来なかった。チラリと見えたのは年配の女の人と、俺と同じ年くらいの女の子が二人、彼女たちに隠れるように小学生くらいの女の子がいる。あとはコック服を着た少々強面の男の人が一人。

「あ、蒼野高大です。先日はご迷惑をお掛けて本当にすみませんでした……よ、よろしくお願いします」 

初っ端から大大大迷惑を掛けてしまった俺にみんないい顔はしないだろう……でも迷惑を掛けたまま帰れない。
ヘタレ野郎と思われたまま引き下がれない……それくらいの気概はある。俺は拳に力を込めて顔を上げた。

「気にすることないって。昨日のメンバーって、客の中でもまあまあクセ強いし、蒼野さん新人だから揶揄われただけ。初日から気の毒だっだけど」

俺と同じ年くらい女の子の内の一人がケラケラと笑いながら言う。明るい髪色の美人で、口調からしてサッパリした性格の持ち主……といった印象だ。 

「サヤカ、客ではなくお客様ですよ。それにタカヒロさんはあなたより年上です、口の聞き方に気を付けなさい」 

ネコさんに注意されたサヤカという女の子は「はーい」と悪びれることなく舌をペロッと出した。 ネコさんは頭を抱えるように小さな溜息を漏らす。てか、この子……俺より年下!? ちょっと……いや今の子って発育が……やめておこうセクハラで訴えられるのは嫌だ。 

「そうそう、気にすることないわよ。あんな日に呼び付けたジローさんが悪いんだから」 

そういったのは肝っ玉母さんのような風体と風格を持つ年配の中居さん。

「え、僕のせい……かい?」

いきなり矛先が自分に向いて眉をハの字にするジローさんの顔が可愛くて思わず笑いそうになった。従業員の人たちも微笑ましいものを見るような優しい表情になっている。ジローさんはみんなの癒し系&イジられキャラなんだな~ と妙に納得してしまった。 

「タエさんひどいよ~」 
「ほらほらジローさん、そんな顔しないの」 

ベテランの中居さんはタエさんというらしい。よしよしと母親のようにジローさんに接するタエさんの笑みはまるで菩薩のようだった。タエさんの手に掛かれば四十過ぎの男も子供と一緒らしい。いつも子供扱いされる側だから他の人が同じ目に合ってると変にワクワクするというかテンションが上がる。性格が悪いと思われてもずっと見ていたい。 

「タエさん、あまりこの男を甘やかさないようにお願いしますよ」 
「まあまあ、ネコさんったらヤキモチ焼いちゃって」 「ち、違います! タエさん変なこと言わないでください」 

タエさんにほわんと言い返されたネコさんが顔を真っ赤にしている。旅館を切り盛りするやり手女将も肝っ玉母さんには敵わないようだ。箒星館の二人の主人を裏で操る影のボスって感じだろうか……まあ、そんなことはどうでもいいんだが。箒星館で働く人たちがみんな仲が良いのは見てて伝わってくる。 ネコさんが軽く咳払いする。

「少し話がそれてしまいましたが、簡単に紹介しますね。さっき注意したのがサヤカ、十九歳。箒星館(ここ)に来て二年くらいかしら」
「はーい、小野さやか。元ヤンです。四露死苦(笑)」 
「サヤカ、タカヒロさんを揶揄わないの」
「すみませ~ん」

ネコさんとサヤカさんのやりとりが小気味よくコントみたいで思わず笑いそうになった。サヤカさんがほんとに元ヤンかと思って、ちょっと焦ってしまった。別に元ヤンだったとしても、それをどうこう思わない。ただ俺はヤンキーにいい思い出がなく、つい過剰に反応してしまうのだ。

「サヤカのとなりにいるのが、アカネ十八歳。もうすぐ一年になるわね」
「はい、森川朱音です。……本が好きです。よろしくお願いします」  

アカネさんは黒髪の物静かな感じの女の子で、そんな女の子がなんで箒星館で働いているのか……これも謎だ。

「それからタエさん。箒星館(うち)のいちばんの古参よ。わからないことがあったらタエさんになんでも聞いてね」
「やだわ~古参だなんて恥ずかしい。山田タエです。箒星館(こちら)では長いことお世話になっております。よろしくお願いしますね」

タエさんは少女のように頬を赤くして、ふっくらとした体を揺らしている。滲み出るボス感は隠しきれてないが。

「そして、最後は箒星館(ここ)の料理長のハジメさん。体も大きいし強面だけど、子供と女性と動物には優しいから。ハジメさんの料理は繊細で何より絶品なのよ」

ネコさんがうっとりと口にする。料理長の作る料理は本当に美味しいのだろう。そのうち食べてみたい。
子供と女性と動物には……っていう部分は聞かなかったことにしよう。

「料理長をしてます高井肇です。好きな食べ物とか、リクエストあったら言ってください。いつでも作りますんで」

ちょっとぶっきら棒な感じだけど、ハジメさん良い人確定!

「蒼野高大です。改めてよろしくお願いします」
「あ、それから箒星館(ここ)では、みんな下の名前で呼ぶことにしてるの、強制ではないけど」
「わかりました」
「では、今日もお願いしますね」

ネコさんがそういってパンパンと手を叩くとタエさんやサヤカさんアカネさん、ハジメさんは持ち場に戻っていった。残ったのは俺と小学生くらいの女の子だ。 

「タカヒロくんホントにごめんね、びっくりしたよね~ でも害はないから。慣れたら楽しいし!」 

俺は返答に困った。害はなくても刺激が強すぎて精神がすり減るし、慣れたくはない……。とりあえず愛想笑いで誤魔化した。 

「あ、それからこの子はコユキ、僕たちの子供みたいなもんかな。仲良くしてやってね。ほらコユキ挨拶は」 

女の子は恥ずかしそうにジローさんの後ろに隠れると顔だけ出してペコッと小さな頭を下げた。赤いほっぺがなんとも可愛い! すり減った精神が修復されていくようだ。やっぱり癒し系はおじさんより可愛い女の子がいい!
ちなみに俺はロリコンじゃない。一般論を述べただけだ。 

「コユキちゃん、俺……お兄ちゃんはタカヒロってゆうんだ。よろしくね」

膝を折って屈むとコユキちゃんに目線を合わせる。 コユキちゃんは体をゆらして小さく頷いた。 

「コユキ、ネコさんの所に行っておいで」ジローさんがそういうと、コユキちゃんはトトトと走って部屋を出ていった。 

「タカヒロくん、一緒に来てもらっていい?」 
「はい」

ジローさんと旅館を出ると、あれだけ派手でチカチカしていた建物とネオンは鳴りを潜め、地味で趣味の悪いただのラブホテルになっていた。夜と昼とじゃまったく違う建物だ。これなら夜の方がマシかも……。 
この間は暗くてわからなかったけど、旅館はぐるりと山に囲まれていて、コンビニや生活に必要なライフラインなどはなく道らしき道もない。あるのは緑豊かな景色と都会とは全然違う澄んだ清らかな空気だけだ。
俺はジローさんの後ろについて歩く。五分ほど進むとそこは林に囲まれた場所だった。鬱蒼とした林の中は朝靄に包まれた神秘的な空間が広がっていた。ピシッ……と張り詰めた清浄な空気に体内が清められていく感じがする。
ジローさんが立ち止まった少し先には小さな祠がポツンと佇んでいた。あちこち傷んでいて相当古そうだ。 
ジローさんが軽く手を合わせたので、俺も慌てて手を合わせる。

「この祠は境界線なんだ」と、ジローさんが言った。

なんの? と俺は困惑する。県境の……ではないのは確かだろう。 

「ここに来ることはないと思うけど、この祠を越えないように気を付けてね。落ちちゃうと二度と“こっちの世界”に戻れなくなるから」 

なに言ってんですか~ジローさん。とホントなら笑い飛ばしたいところなのだが。
今のジローさんにおちゃらけた様子も嘘を言っている感じもなく。淡々とした口調から“本当”のことなのだとわかる。これはちゃんと聞かないとダメなやつだと……。

「聞いても……いいですか?」 
「え、聞きたい?」 

ジローさんがパッと顔を輝かせる傍ら意地悪っぽく聞き返した。さっきまでの陰のあるジローさんはどこに?
この人も案外性格が悪いかも。俺も人のことは言えないけど……。 

「あの世とこの世の狭間……とでも言えばいいのかな。そしてあまおと駅はあの世とこの世を繋ぐ駅なんだ。だから普通の人には見えないし降りることも出来ない。唯一“力”を持った人間だけが下車できる駅なんだ」

ファンタジー要素満載の話に俺の頭は?マークでいっぱいだ。 

「箒星館はこの世の“モノ”ではないものたちの心と体を癒やす場所……僕たちはそのお手伝しているんだ」 
「この世の“モノ”じゃないものたちが心と体を癒やす場所……? 」
「この間、見たよね?」 

ジローさんの細い目が絡みつくように“見なかった”なんて言わせないよ。と俺をジトリと睨みつける。 
大家さんと同じでジローさんも敵に回したらヤバい人なのかも……。 普段優しい人って怒らずと恐いっていうし、気をつけよう。

「優しくてホント良いお客様ばかりだから。大丈夫だよ」
「はあ……なんていうか次から次といろんなことが出てくるので、ちょっと頭が追いつかない……というか……」 
「ハハッ、そうだろうね。まあちょっと変わってるけど。やることは旅館の仕事だからそんなに深く考えなくていいよ。でもここには間違っても近づかないようにね」 

ちょっと……どころでは、ないよね。と付け加えたい。

「……でも、なんで俺に?」 
「それはキミに“力”があるからだよ。この場所は結界が張ってあってね、力の弱いものは気づかないし入れないんだけど。タカヒロくんは力が強いから万が一迷い込んだりしたら大変だからね」
「力……? はじめて会った時も言ってましたけど、霊感みたいなやつですか?」 
「うん、それもあるけど……ちょっと違うかな」 
「それは何ですか?」
「え~!これ聞いちゃうとタカヒロくんが困るかもしれないよ」

ここまで言っておいて。とツッコミたくなった。

“好かれる力”かな……人ではない“モノ”に。

そう言ったジローさんの顔はどこか少し悲しそう……に見えた。

 “人ではないモノに好かれる力”なんだ……それは!? 

俺はとんでもなく間抜け面だったに違いない。

「その人の意思とは関係なく“人ではないモノ”を惹きつけてしまう……ってこと。僕もネコさんもそうだけどぉ~
あやかし……とか?ま、幽霊や妖怪もかな。稀に………」 

はっきりと“あやかし”って言ってるよジローさん!幽霊に妖怪って!? 俺はそんなモノと無縁で生きてきたのに……。今さらあやかし担当とかあり得ない……! 

「さっきも言ったけど、タカヒロくんなら大丈夫だよ。あくまで好かれる力は“性質”であって、力の大小とは関係ないから。タカヒロくんが力が強いのはホントだけど」

そんな笑顔で……って? 待てよ……。 

「あの、じゃあ……大家さんが俺を雇ってくれたのって……もしかして」
 「うん。シローはタカヒロくんの“力”に気づいてたみたいだね。スカウトしたいけど本人は無自覚だし、どうやって箒星館に来てもらおうかって、頭を悩ませてたよ」
「お情けで雇ってくれたわけじゃないんだ……」
「シローは使えない人間をお情けで雇うほど優しくないよ。タカヒロくんの力が利益になると思ったから雇っただけさ。まあ就活全滅で雇うきっかけが出来て良かったって喜んでたけど……ね」 

喜んで良いのか悪いのか……裏でそんな風に思われてたなんて。なんて恐ろしい天音一家。でも……そうか、お情けじゃなかった……お情けじゃなかったんだ。
俺はふしぎと怒りより喜びが大きかった。社会に必要ない人間だと。誰からも認めてもらえない人間……だと思っていたから。どんな経緯であれ、少なくとも大家さんは俺という人間、正確には力をだけど……認めてくれてたんだ。そう思ったら嬉しくて、箒星館(ここ)に来た意味があったんだと……今さらながら思えた。

「ジローさん、俺……」 
「なんだい?」
「即戦力になれるよう……頑張りますから」 
「うん、ありがとう。でもタカヒロくんはタカヒロくんらしく頑張ってくれたらいいからね」 

ジローさんの優しい微笑みと温かな言葉に目頭が少し熱くなった。どうもこの人の前だと涙腺が緩んでしまう。それはジローさんが癒やし系ゆえだろうか……。 とにもかくにも、やっと俺の気持ちは定まった。 もう熱がでることも腰を抜かすこともないだろう。 

「タカヒロくんの気持ちも固まったみたいだし、これからもよろしくね」 

俺は大きく深呼吸をして「はい!」と答えた。 

「じゃあ、まずは玄関の掃き掃除からお願いしようかな。でも早く戻らないと、またネコさんに怒られてしまうよ」 

俺とジローさんは祠を後にして、足早に旅館に戻った。 

が、時すでに遅しーーそこには鬼のような形相をしたネコさんが仁王立ちで待っていた。

「ジロー、あんたはっ、いつもいつも油ばっかり売って、油売りがしたいなら出ていきなさーーいっ!!!」

俺が怒られたわけじゃないのに、思わず一緒になってビビリあがってしまった。

「「ごめんなさーーい!!」」


そして、今日より箒星館での日々が歩き出すーーー
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