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「なんて情けない!! お前は明琳を守るために後宮に入ったのではなかったの!?」
翠季の美しい眉間に深い皺が寄る。皇后である姉の宮殿で容赦ない言葉を浴びせられること小一時間。凌恂は男としても武官としても沽券を失いつつあった。
返す言葉もない凌恂は顔を上げることもできず項垂れるしかなかった。
ほんの数時間前、噂の真相を確かめるために医局を見張ると言い出した香寿に付き合わされることになった凌恂。
しかし待てど暮らせど白い影どころか猫一匹現れないことに痺れを切らし、引き返そうと促していた矢先、女の悲鳴が闇夜に轟いた。駆けつけたそこで……凌恂は目の前に現れた白い影に驚き失神してしまったのだ。
“お前を守るには宦官になるしかないだろう” と息巻いていた早々の大失態である。
香寿も護衛として連れて来た凌恂が真っ先に使い物にならなくなるとは思わず、怯える宮女と失神した凌恂を抱えてどうしたものかと小首を傾けていたとき、これ幸いと由稟が現れたのだ。
香寿にとってはまさに救いの神だった。どうして由稟がここに? という細かいことはこの際置いておくとして、ひとまず宮女を由稟に任せることにした。残るはまったく役に立たなかった宦官である。香寿の小さい体では凌恂は運べない。
仕方なく影の力を借りて翠季の宮殿の前まで運んでもらったのだった。
そして今に至るのだが、弟の情けない姿に翠季の激昂は凄まじく、聞いている方が辛くなるほどの可哀想な言われようだった。まあ、それは仕方のないことだ。守るべき者より先に気絶してしまったのだから。末代までの恥と言われても仕方がない。
さすがの凌恂も言い訳のしようがなく。皇后……姉の翠季には昔から頭が上がらない凌恂はただただ子犬のように震え上がるしかなかった。
「お前はそれでも陛下の近衛なの!! お前のような者が弟など恥ずかしいわ!!」
「あ、姉上! で……ですが幽霊と人間ではまったく……」
やっと口を開いたかと思ったら、よくわからない的外れなことを言い出し、さらに翠季の逆鱗に触れてしまった凌恂はもう憐れとしかいいようがないほど小さくなっていた。
「す、翠季様、もうその辺で……次に名誉挽回して頂けましたら……」
明琳はいたたまれなくなり助け船を出した。
翠季は純白の扇の内側で嘆くような溜息を吐くと「明琳は甘い……しかし、わたくしや明琳が許しても陛下がどのように判断されるか……」
今回、幽霊が相手とはいえ武官にあるまじき失態に皇帝がどう思うかが一番の問題である。しかも皇帝直々の命で明琳を守るという大役を仰せつかったにも関わらず……だ。
「……」
翠季の言葉に凌恂は命はないものと覚悟した。
その時、部屋の扉が微かに音をたてた。燕花が用心深く見に行くと扉の隙間に文が挟まれていた。
「翠季様、扉にこのような文が!」
「これは……」
中身を確認した翠季の顔はほっと安堵しているように見えた。
「……次はない、とのお言葉よ!」と凌恂に伝えた。
「あ、姉上……それは、つまり……」
「今回は不問にしてくださったの! 陛下の寛大なお心に感謝なさい!」
そういう翠季の顔も嬉しそうである。弟がしでかした失態を考えると、身内であっても庇い切れないと思っていただけに、陛下の恩情には頭が下がる思いだった。
「凌恂、良かったですわ!」
「明琳……俺、次は命に代えても絶対守るから!」
「まあ、あまり無理はなさらないで、命は大切にしなくては……」
「明琳」
とにかく命拾いした凌恂だが、崖っぷちであることには変わりはない。本人がどこまで自覚しているかはさておき、今回の幽霊騒動に本題を移そう。
「それより明琳! 幽霊のことなのだけど、正体はわかったのかしら?」
「はい翠季様! それでしたらもう……」
明琳の言葉に、えっ? という顔をする凌恂。あの暗闇で宮女の悲鳴と不甲斐なく気絶した自分のことがあったのに、いつ幽霊の正体がわかったのだろうか? と不思議な顔をした。
「あれは幽霊なんかじゃありませんわ! あの医局の医官ですわ!」と、いともあっさり言うもんだから、この場にいた皆が怪訝な顔をする。
「なんと申しましょうか……お酒に酔った医官が夜な夜な徘徊しているだけ……ということでしょうか」
「じゃあ、あの白い影は?」
「あれは医官の衣ですわ。医官の羽織る衣は基本は白。下に穿く袴の色が暗い色のものだと闇の中では白い衣だけが浮いて見える……という、しごく単純なことですわ。ただ深夜あんな場所にいた宮女には人には言えないやましいことがあって……わざと嘘を言ったのかもしれませんわね」
蓋を開けてみればなんと粗末なことか。
開いた口が塞がらないとはまさにこのことである。
明琳が言っていることが正しいかどうかは別として、「白い影が見えた方からきついお酒の臭いがした」と言っていたこともあって、多分間違いではないだろうが、これを医官に追及したところで “覚えてない” と返されて終わりである。
何にせよ後宮という退屈な世界では時折こういったどうでもいい事で大騒動になったりする。たまに刺激があった方がちょうど良いのかもしれない。
この幽霊騒ぎもそのうち飽きて忘れられるだろう。そしたらまた新しい刺激を見つけて宮女たちは楽しむのだろうと!明琳は思う。
結局のところ、幽霊の真相なんて誰も望んではいなかったのだ。ただ明琳が暇潰しをしたかっただけである。
そのとばっちりを大いに受けてしまったのが、本来なら失態など起こすはずもなかった凌恂である。
子供の頃から明琳が大好きで振り回されてばかりいる一途な男であるーー
翠季の美しい眉間に深い皺が寄る。皇后である姉の宮殿で容赦ない言葉を浴びせられること小一時間。凌恂は男としても武官としても沽券を失いつつあった。
返す言葉もない凌恂は顔を上げることもできず項垂れるしかなかった。
ほんの数時間前、噂の真相を確かめるために医局を見張ると言い出した香寿に付き合わされることになった凌恂。
しかし待てど暮らせど白い影どころか猫一匹現れないことに痺れを切らし、引き返そうと促していた矢先、女の悲鳴が闇夜に轟いた。駆けつけたそこで……凌恂は目の前に現れた白い影に驚き失神してしまったのだ。
“お前を守るには宦官になるしかないだろう” と息巻いていた早々の大失態である。
香寿も護衛として連れて来た凌恂が真っ先に使い物にならなくなるとは思わず、怯える宮女と失神した凌恂を抱えてどうしたものかと小首を傾けていたとき、これ幸いと由稟が現れたのだ。
香寿にとってはまさに救いの神だった。どうして由稟がここに? という細かいことはこの際置いておくとして、ひとまず宮女を由稟に任せることにした。残るはまったく役に立たなかった宦官である。香寿の小さい体では凌恂は運べない。
仕方なく影の力を借りて翠季の宮殿の前まで運んでもらったのだった。
そして今に至るのだが、弟の情けない姿に翠季の激昂は凄まじく、聞いている方が辛くなるほどの可哀想な言われようだった。まあ、それは仕方のないことだ。守るべき者より先に気絶してしまったのだから。末代までの恥と言われても仕方がない。
さすがの凌恂も言い訳のしようがなく。皇后……姉の翠季には昔から頭が上がらない凌恂はただただ子犬のように震え上がるしかなかった。
「お前はそれでも陛下の近衛なの!! お前のような者が弟など恥ずかしいわ!!」
「あ、姉上! で……ですが幽霊と人間ではまったく……」
やっと口を開いたかと思ったら、よくわからない的外れなことを言い出し、さらに翠季の逆鱗に触れてしまった凌恂はもう憐れとしかいいようがないほど小さくなっていた。
「す、翠季様、もうその辺で……次に名誉挽回して頂けましたら……」
明琳はいたたまれなくなり助け船を出した。
翠季は純白の扇の内側で嘆くような溜息を吐くと「明琳は甘い……しかし、わたくしや明琳が許しても陛下がどのように判断されるか……」
今回、幽霊が相手とはいえ武官にあるまじき失態に皇帝がどう思うかが一番の問題である。しかも皇帝直々の命で明琳を守るという大役を仰せつかったにも関わらず……だ。
「……」
翠季の言葉に凌恂は命はないものと覚悟した。
その時、部屋の扉が微かに音をたてた。燕花が用心深く見に行くと扉の隙間に文が挟まれていた。
「翠季様、扉にこのような文が!」
「これは……」
中身を確認した翠季の顔はほっと安堵しているように見えた。
「……次はない、とのお言葉よ!」と凌恂に伝えた。
「あ、姉上……それは、つまり……」
「今回は不問にしてくださったの! 陛下の寛大なお心に感謝なさい!」
そういう翠季の顔も嬉しそうである。弟がしでかした失態を考えると、身内であっても庇い切れないと思っていただけに、陛下の恩情には頭が下がる思いだった。
「凌恂、良かったですわ!」
「明琳……俺、次は命に代えても絶対守るから!」
「まあ、あまり無理はなさらないで、命は大切にしなくては……」
「明琳」
とにかく命拾いした凌恂だが、崖っぷちであることには変わりはない。本人がどこまで自覚しているかはさておき、今回の幽霊騒動に本題を移そう。
「それより明琳! 幽霊のことなのだけど、正体はわかったのかしら?」
「はい翠季様! それでしたらもう……」
明琳の言葉に、えっ? という顔をする凌恂。あの暗闇で宮女の悲鳴と不甲斐なく気絶した自分のことがあったのに、いつ幽霊の正体がわかったのだろうか? と不思議な顔をした。
「あれは幽霊なんかじゃありませんわ! あの医局の医官ですわ!」と、いともあっさり言うもんだから、この場にいた皆が怪訝な顔をする。
「なんと申しましょうか……お酒に酔った医官が夜な夜な徘徊しているだけ……ということでしょうか」
「じゃあ、あの白い影は?」
「あれは医官の衣ですわ。医官の羽織る衣は基本は白。下に穿く袴の色が暗い色のものだと闇の中では白い衣だけが浮いて見える……という、しごく単純なことですわ。ただ深夜あんな場所にいた宮女には人には言えないやましいことがあって……わざと嘘を言ったのかもしれませんわね」
蓋を開けてみればなんと粗末なことか。
開いた口が塞がらないとはまさにこのことである。
明琳が言っていることが正しいかどうかは別として、「白い影が見えた方からきついお酒の臭いがした」と言っていたこともあって、多分間違いではないだろうが、これを医官に追及したところで “覚えてない” と返されて終わりである。
何にせよ後宮という退屈な世界では時折こういったどうでもいい事で大騒動になったりする。たまに刺激があった方がちょうど良いのかもしれない。
この幽霊騒ぎもそのうち飽きて忘れられるだろう。そしたらまた新しい刺激を見つけて宮女たちは楽しむのだろうと!明琳は思う。
結局のところ、幽霊の真相なんて誰も望んではいなかったのだ。ただ明琳が暇潰しをしたかっただけである。
そのとばっちりを大いに受けてしまったのが、本来なら失態など起こすはずもなかった凌恂である。
子供の頃から明琳が大好きで振り回されてばかりいる一途な男であるーー
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