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発展編
幸せを呼ぶ 3
「もうこんな時間か。早くしないと……」
コンビニで書類を書き始めてから、あっという間に一時間が経過していた。この書類を持って瑞樹との縁が本当に切れると思うと、筆が全く進まなかったのだ。
瑞樹のことを一方的に切り放ち、あの部屋に置き去りにしたのは俺だ。そして心からあいつの幸せを望んでいるのも俺だ。
早く解き放ってやらないと。そう思うのにどうしてなんだよ。どうして……こんなにも……名残惜しいのか。
俺には嫁さんがいる。旅館の跡も継ぎ、息子も生まれた。大黒柱として踏ん張ると亡き父にも誓ったじゃないか。だから……未練を断ち切り必死に気持ちを奮い立たせ、一気に書き上げて、慌てて大家さんに書類と家賃を届けた。
もう22時近いのか。戻らないとな。
「じゃあ、これが受け取りの領収書と契約の書類だよ」
「ありがとうございました。あの……長い間お世話になりました」
「あぁ君たちは長いこと住んでくれたね。いつも友達と仲良さそうに暮らしていたね」
「……はい」
瑞樹とは喧嘩らしい喧嘩なんてしなかった。いつも優しくて……俺はあいつに甘えてばかりだった。今となっては……文句のひとつやふたつでも言ってくれたらよかったのに。
俺のひとりよがりな決断のせいで置き去りにされるのを理解していながら……
最後の日まで抱かせてくれた。俺に抱かれてくれた。
あの花のような香り……忘れられない。
迷ったあげく……書類はポストに投函した。
それからも未練がましく暫くマンションを見上げていたが、俺たちが仲良く暮らした部屋に明かりが灯ることは遂になかった。
「流石に帰るか……」
とぼとぼと一人で坂を下り出すと、この坂を毎朝瑞樹と並んで歩いたのを思い出した。
あいつ……いつも可憐に可愛く笑って、俺と肩を並べて歩いていたな。嬉しそうに甘い笑顔で俺をじっと見つめてくれていたな。
あぁこの公園でキスしたこともあったよな。瑞樹は人に見られるのではと躊躇っていたが、俺が家まで我慢できなくて強引に。
そんな時でもアイツは結局微笑んで許してくれた。
細い腰、華奢な躰。でも女の子みたいになよなよしていなくて……魅力的な男だった。
懐かしい公園で立ち止まって過去の幻像を見ていると、胸元のスマホがブルブルと鳴った。
「もしもし……」
「おーい、一馬! お前、今どこにいる? 懇親会抜け出したっきり戻ってこないで。すぐに新宿に来いよ。青年部の会長がお前のことをさっきから待っているぞ。あっタクシー使えよ。経費で落とせって」
「あ……分かった。すまない」
電話は同じ大分の別府温泉代表で来た同僚からだった。
やばいな、早く戻ろらないと……タクシー使うか。
夜道を振り返ると、ちょうど公園の手前で一台のタクシー停止した。街灯がないので暗いのでよく見えないが、背が高い男が下車し、そのまま足早に坂道を上って行った。
あの坂の上には、俺たちが暮らした家がある。
もう戻れない……場所がある。
俺は慌てて再び動き出したタクシーを拾った。
「すみません。新宿までいいですか」
「はいよ」
瑞樹……本当に、さよならだ。
あの日とっくに君とは別れたのに、今宵は未練がましく思ってごめんな。
(いいんだよ……一馬も元気で……)
春風に乗って……そんな優しい声がふと聞こえたような気がして、驚いた。
「あっ……」
突然ボロッと涙が零れた。
俺が男泣きするなんて……何故だ?
慌てて目をゴシゴシと擦ると、視界は雨が降り続ける窓ガラスのように曇っていた。
タクシーの狭い後部座席の空間に、漂う香りに瑞樹を思い出していた。
これは……百合の香りだ。
ブライダルの助手をしていた瑞樹がよく纏って帰ってきた……あの百合の香りだ。
ただの偶然なのに、このタイミングで香るなんて皮肉なもんだな。
あのマンションの一室だけが、最後に俺と瑞樹を繋ぐものだった。
あと一カ月でその縁も切れる。
俺は当分東京には用事はない。だからこれが本当の別れなになるだろう。
もう瑞樹の行方はわからなくなる。追うつもりもない。
瑞樹……ごめん。ごめんよ。
幸せになってくれ!
幸せにできなくて……本当にごめんな。
自分勝手な俺を送り出してくれて、ありがとう。
涙を堪えるので必死だった。
****
宗吾さん……まさか、戻ってきてくれるなんて。
この部屋に入る瞬間に……何故か廊下で一馬の気配を再び感じてしまい、戸惑った。
まるで一馬がすぐ近くにいるかのような、昔感じていた感覚が蘇ったので、慌てて追い払った。
もう僕は進むから……だからもういいんだよ。
一馬は一馬の道を、僕は僕の道を行く。
だからなのか。
なんだか無性に宗吾さんにもう一度会いたくなってしまった。
だから、すごく嬉しい!
僕が会いたい時と宗吾さんが会いたい時が、見事に重なった。
心が重なった!
耳を澄ませば、階段を駆け上る音がする。それから廊下を走る音がする。
玄関を開ければ、息を切らした彼が立っていた。
「瑞樹。やっぱり今日は一緒にいよう!」
コンビニで書類を書き始めてから、あっという間に一時間が経過していた。この書類を持って瑞樹との縁が本当に切れると思うと、筆が全く進まなかったのだ。
瑞樹のことを一方的に切り放ち、あの部屋に置き去りにしたのは俺だ。そして心からあいつの幸せを望んでいるのも俺だ。
早く解き放ってやらないと。そう思うのにどうしてなんだよ。どうして……こんなにも……名残惜しいのか。
俺には嫁さんがいる。旅館の跡も継ぎ、息子も生まれた。大黒柱として踏ん張ると亡き父にも誓ったじゃないか。だから……未練を断ち切り必死に気持ちを奮い立たせ、一気に書き上げて、慌てて大家さんに書類と家賃を届けた。
もう22時近いのか。戻らないとな。
「じゃあ、これが受け取りの領収書と契約の書類だよ」
「ありがとうございました。あの……長い間お世話になりました」
「あぁ君たちは長いこと住んでくれたね。いつも友達と仲良さそうに暮らしていたね」
「……はい」
瑞樹とは喧嘩らしい喧嘩なんてしなかった。いつも優しくて……俺はあいつに甘えてばかりだった。今となっては……文句のひとつやふたつでも言ってくれたらよかったのに。
俺のひとりよがりな決断のせいで置き去りにされるのを理解していながら……
最後の日まで抱かせてくれた。俺に抱かれてくれた。
あの花のような香り……忘れられない。
迷ったあげく……書類はポストに投函した。
それからも未練がましく暫くマンションを見上げていたが、俺たちが仲良く暮らした部屋に明かりが灯ることは遂になかった。
「流石に帰るか……」
とぼとぼと一人で坂を下り出すと、この坂を毎朝瑞樹と並んで歩いたのを思い出した。
あいつ……いつも可憐に可愛く笑って、俺と肩を並べて歩いていたな。嬉しそうに甘い笑顔で俺をじっと見つめてくれていたな。
あぁこの公園でキスしたこともあったよな。瑞樹は人に見られるのではと躊躇っていたが、俺が家まで我慢できなくて強引に。
そんな時でもアイツは結局微笑んで許してくれた。
細い腰、華奢な躰。でも女の子みたいになよなよしていなくて……魅力的な男だった。
懐かしい公園で立ち止まって過去の幻像を見ていると、胸元のスマホがブルブルと鳴った。
「もしもし……」
「おーい、一馬! お前、今どこにいる? 懇親会抜け出したっきり戻ってこないで。すぐに新宿に来いよ。青年部の会長がお前のことをさっきから待っているぞ。あっタクシー使えよ。経費で落とせって」
「あ……分かった。すまない」
電話は同じ大分の別府温泉代表で来た同僚からだった。
やばいな、早く戻ろらないと……タクシー使うか。
夜道を振り返ると、ちょうど公園の手前で一台のタクシー停止した。街灯がないので暗いのでよく見えないが、背が高い男が下車し、そのまま足早に坂道を上って行った。
あの坂の上には、俺たちが暮らした家がある。
もう戻れない……場所がある。
俺は慌てて再び動き出したタクシーを拾った。
「すみません。新宿までいいですか」
「はいよ」
瑞樹……本当に、さよならだ。
あの日とっくに君とは別れたのに、今宵は未練がましく思ってごめんな。
(いいんだよ……一馬も元気で……)
春風に乗って……そんな優しい声がふと聞こえたような気がして、驚いた。
「あっ……」
突然ボロッと涙が零れた。
俺が男泣きするなんて……何故だ?
慌てて目をゴシゴシと擦ると、視界は雨が降り続ける窓ガラスのように曇っていた。
タクシーの狭い後部座席の空間に、漂う香りに瑞樹を思い出していた。
これは……百合の香りだ。
ブライダルの助手をしていた瑞樹がよく纏って帰ってきた……あの百合の香りだ。
ただの偶然なのに、このタイミングで香るなんて皮肉なもんだな。
あのマンションの一室だけが、最後に俺と瑞樹を繋ぐものだった。
あと一カ月でその縁も切れる。
俺は当分東京には用事はない。だからこれが本当の別れなになるだろう。
もう瑞樹の行方はわからなくなる。追うつもりもない。
瑞樹……ごめん。ごめんよ。
幸せになってくれ!
幸せにできなくて……本当にごめんな。
自分勝手な俺を送り出してくれて、ありがとう。
涙を堪えるので必死だった。
****
宗吾さん……まさか、戻ってきてくれるなんて。
この部屋に入る瞬間に……何故か廊下で一馬の気配を再び感じてしまい、戸惑った。
まるで一馬がすぐ近くにいるかのような、昔感じていた感覚が蘇ったので、慌てて追い払った。
もう僕は進むから……だからもういいんだよ。
一馬は一馬の道を、僕は僕の道を行く。
だからなのか。
なんだか無性に宗吾さんにもう一度会いたくなってしまった。
だから、すごく嬉しい!
僕が会いたい時と宗吾さんが会いたい時が、見事に重なった。
心が重なった!
耳を澄ませば、階段を駆け上る音がする。それから廊下を走る音がする。
玄関を開ければ、息を切らした彼が立っていた。
「瑞樹。やっぱり今日は一緒にいよう!」
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