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小学生編
見守って 17
「滝沢さん、お疲れさん」
「はい、なかなか難しい案件でしたね、もうこんな時間ですか」
「でも滝沢さんがいなかったら、もっとかかっていたよ。君が裁判官を辞めて、我が弁護士事務所に就職してくれて有り難いよ。切れ者だって噂通りだな。あとは明日、書類の整理をして終わりだな」
「そうですね。出張も後一日ですね」
同じ弁護士事務所の先輩弁護士に挨拶して、ホテルの部屋に入った。
実は日本全国に転勤を繰り返す裁判官の仕事を、年末で辞めたのだ。
赤ん坊が生まれるのと、母が昨年発作で倒れたのもあり、前々から考えていたことを実行する時がきたと決断した。
それに、以前から心の中に芽生えた今の仕事への疑問が大きくなり、方向転換するなら今だと思ったのだ。
裁判官と弁護士の最大の違いは、裁判官はあがってくる案件を担当すれば良いが、弁護士は依頼者の話をひとつひとつ丁寧に聞く所から始まる。依頼者は法律用語を知っているわけではないので、優しくかみ砕いて、法律のどの問題に当てはまるのかを考えていく必要がある。
以前の私だったら、面倒だと思っていた部分を今はあえてしてみたい。法律を使って、目の前の人を助けられる人となりたい。
今までに抱かなかったが、心の奥底に眠っていた気持ちだ。
裁くよりも助けたい――
それは瑞樹くんと知り合ってから芽生えた、柔らかな新芽のような素直な気持ち。
まだ宗吾や瑞樹くんにはゆっくり話せていないが、三月の函館出張は弁護士に転職して初めて任された案件だったのだ。
弁護士事務所に勤めれば拠点を東京に置けるので、落ち着いて子育ても出来る。
だから私の決断を美智も母も喜んでくれた。また美智は心根の優しい女性で、昨年心臓発作を起こした母のことを心配し、いずれ同居もしたい申し出てくれた。
ありがたい。
あんなに優しい妻と、どうして長い期間すれ違ってしまったのか。
もったいない時間を過ごしてしまった。
「さてと、ギリギリ間に合うか」
今宵は仕事を終えたら、瑞樹くんのお兄さんと飲む約束をしていた。どこか外でと言われたが、私は瑞樹くんの実家のお邪魔したいと申し出ていた。
家族の団欒があんなに心地よいものだなんて、忘れていたな。
私は厳しい父の影響を受け、5歳年の弟、宗吾には、兄としての厳しさしか伝えられなかった。優しい兄ではなかった。大らかで人懐こい宗吾に嫉妬していた部分もあるのかもしれない。
今、芽生と瑞樹くんが可愛くて仕方がないのは、あの頃兄として宗吾を大っぴらに可愛がってやれず、同性愛も理解してやれず突き放したせめてもの罪滅ぼしなのか。
いや違う、取り返せない過去よりも今を大切にしようという新鮮な気持ちからだ。
「おおーい! 憲吾!」
ん……広樹さんじゃないか。いきなり私を呼び捨て?
それもまたいいものだ。ならば私も広樹と呼ぼう。
戸籍なんて関係ない。
宗吾のパートナー、瑞樹くんの兄ならば、もう私の家族だ。
「大変だ! 何度も電話したんだぞ!」
「あ、すまない。電源を切っていた」
重たい案件で集中していたので、失念していた。
「奥さんが破水したって」
「え……破水?」
「ほらあれだ! 羊水が先に漏れ出しちまうやつ。習っただろう」
「あぁ!」
美智と通った両親学級で、出産のパターンについても学んでいた。
「え? じゃあ入院を?」
「何度も憲吾に電話したそうだぜ」
「しまった!」
なんてことだ……肝心な時に私はまた役立たずだ。鈍器で頭を殴られたようなショックで立ち尽くしていると、広樹に手を引っぱられた。
「何ぼんやりしてる? ほれ電話、電話!」
「あぁ……」
「おっと、まずは宗吾に電話してみろよ! 病院まで送ったそうだから詳しい情報を知っているそうだよ。こんな時間だし、個室かどうか分からないから直接奥さんに電話するのは待て」
「わ、分かった」
裁判官で築き上げた判断力なんて、こんな時は何の役にも立たないな。
「もしもし、私だ」
「兄さん! 美智さんが破水して……大変だったんだ」
「あぁ、今、広樹から聞いた。色々世話になったな。詳しい状況を知っているのなら教えてくれ」
「あぁ破水したので個室に入院させたよ。今晩は母さんが付き添ってくれるが、母さんの体力を考えたら励ますのも明日の朝くらいまでだろう。それより明日の9時から促進剤を使うと先生が言っていたので、明日中の出産になりそうだ」
今朝、美智と話した時はなんの予兆もないと言っていたので、すっかり油断していた。
お産とはそういうものだ。
「明日? 参ったな。出張は明日までで、東京へは明後日の午前中着だ」
「それじゃ間に合わない! 兄さん、美智さん不安がっていた。仕事切り上げて帰って来て欲しい」
宗吾の訴えに、心が揺さぶられる。しかしここまで仕事優先でやってきた私には、かなりの難題だ。
「兄さん、聞いてくれ。出産は命がけだ! それを兄さんは一番よく知っているだろう!」
そうだ、知っている。死と生が……隣り合わせなことも。
出産直前にお腹で心拍を停止した赤ん坊を産まないといけなかった美智。
臨月の死産は、私たち夫婦にとって忘れられない苦しい出来事だった。
だからこそ、今度こそ産声を一緒に聞いてやりたい。喜びを分かち合いたい。
帰りたい! 今すぐ飛んで帰りたい。
「兄さん、待っているよ。明日の朝に戻って来てくれると信じている! まずは美智さんを電話でいいから励ましてやってくれ!」
「わ、分かった」
すぐに美智の携帯にかけた。
「美智! すまなかった。連絡が遅くなって」
「憲吾さん、どうしよう。破水しちゃった、赤ちゃん……また死んじゃう? どうしよう」
「美智、落ち着け! 大丈夫だから……良くあることだ。促進剤を明日まで待てるのはそこまで切迫していないからだろう。だから……な」
「あああ、どうしよう」
美智の様子がおかしい。
「憲吾、憲吾なのね? 美智さんがさっきからパニック状態で大変なの。先生を呼んで安定剤を」
「すまない。母さんも美智もすまない」
「憲吾。帰って来てあげて。どうか今回ばかりは……信じているわ」
二件の電話を終えて呆然としていると、私の様子を窺っていた瑞樹くんの家族と目があった。
「憲吾、明日の仕事はどうしてもいないといけないのか」
「……メインの案件は今日終わって、明日は事務処理の予定で」
「そうか、誰かと同行してるのか」
「先輩弁護士と」
「おっし! 今すぐその人に会って事情を話してこい」
「でも、仕事が……」
おろおろする私を、広樹がまた引っぱってくれる。
「やれやれ瑞樹のにーさんは、案外手がかかるな。来いよ! どのホテルだ?」
「あ……函館ベイ・ブルーマリーナ……」
「了解。みっちゃん、母さん。ちょっと行ってくるわ」
また腕を引っぱられた。
なんて行動的なのだ。宗吾と似ている。
「憲吾さん。また改めて来て下さいな。私の経験上、絶対に帰った方がいいわ」
「憲吾さん、私も同じ立場だから言うけど、旦那さんとの子どもだから、一緒に頑張って欲しいわ」
「分かりました。素直に……私の事情を話してみます」
「よーし、行くぞ!!」
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