捨身

潁川誠

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捨身

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「捨身」


フィルムに彼女を焼き付ける。
美しい黒髪が波間で太陽の光を一心に受けて輝くさまを。
夕焼けを見ながら、穏やかに微笑む横顔を。
くしゃりと眉を下げて泣き叫ぶさまを。
私の名前を、呼んで、笑うその姿を。
私は写真を撮り続ける。この方法でしか、私は彼女を残せないから。

「ミコト」

彼女の薄い唇が弧を描いていた。



世の中は苦しみに満ちていて、私だけじゃなくて色んな人がそんな苦しみの中で息をしている。
満員電車に揺られて、朝日が照り返す荒川を見ながら、「あぁ今日が始まっちゃったなぁ」だなんて自分とは随分と人ごとのようなことを思う。ガタンゴトンと車輪の音。軽快に揺れる人々の体。Nine Inch Nailsの「The Head That Feeds」を聴きながら、私は彼女からのLINEに気がつく。「今日のお昼、購買でパン買いに行きたい」パンを食べるパンダのスタンプがその後に送られてくる。それをみながら私は薄く微笑んで返事を考える。今日は火曜日だから、きっと購買は混んでいる。デラックス焼きそばパンは人気の商品で、男子だたちが群がるから、きっと彼女はそれを嫌がる。次の曲が「Hurt」にうつったあたりで、私はようやく彼女に返信を返した。「私は、コンビニがいい」「なんで?」「今日は火曜日だから、肉まんが安い」「なにそれw」私のしごく勝手な主張に、彼女は呆れたようだった。ポコンポコンと返ってくる返信の音が曲を邪魔する。私はそれが本当は嫌いだったけれど、彼女だけはそんな嫌な気持ちにならない。彼女からの言葉だけは、私を不快な思いにさせないのだ。

王子駅の一個前は、東十条駅だ。車内から見てもなんにもないこの街に、私は一度でいいから降りて見たいと思っている。ここに彼女を連れてきて、なんにもない街をただひたすらに歩きたい。アスファルトを蹴って走る彼女の後ろ姿を見たい。制服が風に揺れるその様を撮りたい。きっと、何にもない街にこそ、彼女の真価は発揮されるはずだから。
王子駅のアナウンスが鳴った。カバンを背負い直して、人混みに紛れるようにしておりる。
曲が言った。
「If I could start again A million miles away I will keep myself I would find a way」
訳なんてよくわかんないけど、最後だけはよくわかる。「道を探してみせよう」とかそんな感じのことを言ったんだろう。アイファウンドアウェイ。私はとっくの昔から迷子だけど、この曲を聞くたびにどうしようもなく自殺したくなる。エモーショナル。
改札を通ると、彼女が私を待っていた。長い黒髪を、今日はポニーテールにしている。伏せられた長いまつ毛の下には色素の薄いアーモンド色の瞳。化粧っけのないはずの顔はやっぱり綺麗で、私を見つけると彼女は見ていたスマホを雑にポケットに突っ込んで、にこりと笑った。

「おはよ」
「はよ、今日寒すぎじゃない?」
「本当に。だから今日はやっぱり肉まんしょ」
「ミコト、お弁当じゃないの?」
「別腹でいける」
「ふとるよ」
「ウルセェわ」

小気味よい会話に、どうしようもなく安心する。おかしな話だけど、彼女と話していると私は懐かしい気持ちになるのだ。まるで、実家にいるかのような感覚だ。帰るべき場所に、あるべき場所に帰って来たかのような。

「一限、現国だね。」
「そうだっけ?草野先生の授業眠いんだよなー」
「ミコト、この前船漕いでなかった?」
「そうだっけ?」
「それすらも覚えてないの?」

ふはっと笑った彼女のポニーテールの毛先が揺れた。甘い香りは彼女のシャンプーの香りだろう。
その瞬間、あぁ、撮りたい、と。思った。
思わずスマホを取り出した。カメラを向けた私にも、彼女は慣れたように笑った。

「また撮るの?」
「だって、いいかおしてたから」

スマホを向けて、彼女にピントを合わせる。襟がセーターから出ている。紺色のセーターに片手を突っ込んで、襟を正す。その間も、彼女は身動きしなかった。身支度を整えて、スマホ越しのカメラに彼女を捉えた。二つの瞳が私を見ていた。
いや、違う。彼女は私なんて見ていない。
カメラのズームを合わせた。不意に風が吹いて、彼女の瞳が細められる。艶やかな毛先が彼女の頬を撫でた瞬間、私は無意識に彼女を撮っていた。
カシャ。スマホ独特の音。

「撮れた?」

彼女が無邪気にそう尋ねてきた。私はごくりと唾を飲み込んで、自分が撮ったそれを見つめていた。背景は青空と王子のスタバ。信号機は赤で、人々が退屈そうな顔でいまかいまかと信号が変わるのを待っている。スーツの男性は、味気なさそうな顔で遠くを見つめ、綺麗な服に身を包んだ女性は忙しそうにスマホをいじっている。
人々の何でもないような日常を切り取ったそれらの中で、ただ一人彼女が私をじっと見つめて少しだけ微笑んでいた。ポニーテールの毛先が唇にかかり、彼女の口元が隠されている。だからこそ強調される彼女の強い瞳。二重幅が綺麗な、真っ直ぐな彼女の瞳。
美しい。どうしようもなく、美しかった。
私は、黙ってそれをみせた。彼女は一瞬驚いたように目を見開かせた。手にとって「へぇ」と一言言葉をもらす。

「ミコトが撮る私って、なんでこんなかおしてるんだろう」
「こんなかお?」
「我ながらいいかお」
「……ちょーしのんな」
「へへ」

照れたように笑った彼女の背中をこずく。彼女からスマホをうけとって、「これどうする?」と彼女に尋ねた。

「あぁ、じゃ後で送って」
「…珍しいね。欲しがるの」
「んーなんか」

振り向いた彼女が笑った。

「それは、欲しいなって思った」


世の中は、とてつもなくリアルでできている。リアルな世界は、あまりにも息苦しい。不幸せを、不幸せと言えない拘束感に苛まれながらも人は生きている。幸せを強要される世界。だって、不幸せな顔をしていると、決まって人はこういうのだ。「何か、辛いことでもあるの?」「私でよければ相談に乗るよ」「変なこと、考えちゃダメだよ」まるで、不幸せであることが異常であるような物言いに、私はいつも鼻で笑いそうになる。あんたらが見ている世界は、そりゃ正解な世界でしょうね。だって、それが普通だって刷り込まれているんだから。あ、一個間違えないで欲しいけど、私はそれはそれでいいと思う。人の考えは千差万別。人の価値観は十人十色。同じ人間なんて一人もいないですって言いながら、同じであることを強要される世界で生きている日本国民としては、なんだか油の上で滑っているような主張かもしれないけれど。まぁそれはそれ、これはこれよ。私が言いたいのは、私という存在は、結局この「みんな同じでみんないい!」みたいな世界じゃ、あんまりにも異質な存在なのだ。どこがといえば、多分全部が。

最近は、同性愛にも寛容な社会になってきたらしい。同性を好きになっても、許してくれるような風潮になってきたんだって、風のうわさで聞いたことがある。以前付き合っていた5歳上の男性が、ベッドの中でそんなことを言っていた。もしかしたら、都合のいいところだけ聞いて後は忘れてるだけなのかもしれないけれど。タバコをふかしながらそんなことを言っていたケンゴさん(22歳)は、「世の中はきっともっとよくなるね」なんて言っていた。「はぁ……そうですね」なんて答えながら、私はといえば、この人ウケるなぁなんて思っていた。同性愛が許容される世の中になるだけで、何で全部の世の中が良くなると思ってんのかなこの人。世界はどこまでも、クソだし、クソッタレだし、Fuckだし、語彙力ないからあんまりいえないけど、とりあえずクソなのに、どこをどう見たらそう思えるのかが不思議でたまらなかった。まるで、今、自分いいこと言いましたよね、感が阿呆で、可愛らしくて愛しく思えてしまった。多分これは、同情と憐憫という名の自己満足な愛情。私も持っていて、相手も持っているウィンウィンな感情の一つ。セフレに抱くには一番都合のいいものだ。

ところで、私は「彼女」が好きだ。好き、が何なのかはよくわからないけど、彼女がどうしようもなく好きだ。ステータスは、学校の友達。親友一個手前。趣味の合う友人。登下校はともにする仲。ただそれだけのアバウトすぎる関係性の中で、私だけ、ただ一人だけが、アブノーマルな感情を彼女に抱いてしまった。まぁ、「好き」、はアブーマルなんかはそもそも知らんけどさ。

彼女は信じられないほどに綺麗だ。長い黒髪はいつも手入れしていて、毎日いろんなアレンジをしている。手先が器用なんだろう。アーモンド色の瞳は色素が薄いせいで、太陽に当たると少しだけ黄色に見える。綺麗な二重幅に、縁取るようにして生えた長いまつ毛は人形のようで、きっとアイライナーなんていらないほどだ。右の眉と瞳の間には黒子が一つだけあって、私はそれにいつも色気を感じている。口が裂けてもそんなこといえないけど。通った鼻筋は、スッとしていて横から見るといまるで彼女は北川景子のように美しい。美しいひとは整っている。全てのパーツが均等で綺麗なのだ。私が一番好きな彼女の部位は、顎のラインだ。有名な茶器のようなバランスのいいラインは、どこから撮っても絵になる。下を見向いても、上を見向いても。

彼女は、私の中で唯一の正常だった。
だから好きなのかもしれない。美しい彼女は、決して異常な私を肯定しないから。

彼女を撮るようになったのは、気まぐれだった。彼女の笑顔を見て撮りたいなぁとふと思い立って、そのまま無意識に写真を撮っていた。なぜか彼女もはじめのうちは嫌がっていたけれど、途中からは何も言わなくなった。ふざけてポーズを取ってくることもあったけど、私が何も言わずにシャッターをおしていると、困ったように笑いながら普通に戻って行った。そんな彼女の普通の瞬間が、私はたまらなく好きだった。

「ミコト、私しか撮らないよね」

あるとき彼女にそう言われたことがある。彼女だけと言われても、そもそも撮りたいと思う人が彼女しかいないのだから、と。正直にそう答えれば「私の事好きすぎでしょ」と嬉しそうに笑った。言うまでもないだろうが、好きに決まってるでしょ、なんて当然のように言えなかった。

私は、美しいものしか撮らない。風景画については、世界は美しくないから撮りたくないし、人物画については、彼女以外の人間を、美しいとも思えないから撮らない。彼女がいればその場は華やぐが、彼女以外の全ては「背景」と同化する。だから、「ミコトは上手いんだから、カメラマンになりなよ」と言われた時も、彼女以外を撮りたくないから嫌だと言った。そしたら彼女は目をぱちくりとさせて、「じゃあ私の専属カメラマンでもやる?」と聞いてきた。
それならいい、と頷いた。そしたら彼女はどこか悪戯っぽく笑って「じゃあ決まりね。」と私の小指を絡めとった。

彼女の写真が、賞を取ったと聞いたのは、そのあとすぐのことだった。
「ミコト、ヤング・ポートフォリオ賞、とってるよ」そうLINEがきた。驚いて調べれば、本当に私の写真が受賞していた。けれども、応募の覚えがなく、彼女にそれを尋ねたら「この前王子駅の前で撮ってくれたやつ、いい出来だったから応募したの」と言われた。
愕然としたのは、勝手に応募されたことではなかった。彼女の美しさを世界に知らしめてしまった責任を、感じていた。そのあとのことはあまり覚えてない。あれよこれよという間に私は世界から絶賛されてオファーを受けるようになり、彼女は彼女で、彼女の美しさに目をつけた日本のいくつかの事務所と契約をかわした。意外なことに、彼女はそれを拒まなかった。
結局、彼女以外撮りたくないという、私の青い青い主張は、誰にも認められなかった。どこにも通らなかった。彼女ですら、ダメだった。
ただ、彼女を撮るのは私でいさせてくれと、それだけは事務所に言った。賞をとって名の売れた私の価値のおかげだろう。笑える話だが彼女と契約した事務所はそれを、承諾した。


そうして、彼女は、モデルになった。
私は、カメラマンになった。
高校生の私たちは、それぞれ親と相談をしながらお互いの道を歩んで行った。

彼女の美しさを世界は知った。彼女はメキメキと頭角を表し、芸能界の階段をかけ登っていった。クソ喰らえな世界は、彼女に魅入られるようにして、私の元から彼女を奪った。
それでも私は彼女を撮り続けた。

それから数年。彼女が写真集を出すとなって、私が依頼したのは東十条駅の街中だった。事務所ははじめ、ハワイとか沖縄とかがいいと言ってたけど、私と彼女が頑なにそこがいいと言ったから、仕方もなしに承諾した。
時刻は16時を過ぎようとしていた。サングラスをかけて、ジーパンに茶色のセーターを着た彼女は、眩しそうに夕日を眺めていた。アンバーでウッドな香りはシャネルだろうか。私が見ていたことに気づいたのか、彼女はふっと笑ってサングラスをずらした。

「ミコト、見すぎ」
「カメラマンが被写体を見て何が悪いの」
「だからー見すぎだって言ってんの」

笑いながら彼女が近付いてくる。秋色のネイルをした彼女の爪が、私の額を弾いた。「いてっ」と言葉を漏らした私に、彼女は心底可笑しそうに笑った。彼女は有り体でいえば、派手になった。世界の色に染った。けれども、やはり彼女は美しい。どこにいても、どんな姿でも。前とは違う、ちゃんとしたカメラを構えれば、彼女は薄く微笑みながら言った。

「ミコトはさ、天才だよね」
「…は?」
「私、ずっと知ってたんだ。ミコトは天才だって。初めて撮られたときに思ったの。ミコトは、私のことをいちばん綺麗に撮ってくれるなぁってさ」
「……私は、綺麗なものしか撮らない。綺麗なものを撮ってるから、綺麗なだけ。それ以外でもそれ以上でもないよ」
「ふふ、ミコトならそういうと思ったわあ。」

今をときめくスーパーモデルが、雑誌の表紙にならない日はないような、そんな彼女が東十条駅を歩いている。学生の時に、あれだけ撮りたいと思っていた、彼女と今ここで歩いている。カメラを構えながら彼女について行くと、どうしてだか目の前が歪んだ。
美しい。
長い黒髪をゆるく巻いて、ただ歩くだけの彼女が心底美しかった。
クソでクソッタレでFUCKな世界でも、どうしようもなく、彼女だけは美しい。大っ嫌いな世界なのに、彼女はやっぱり美しい。誰のものにもならない彼女が、フィルムの中では私を見る。激しい愛情と嫉妬。憎しみと愛しさ。振り向いて、私の名前を呼ぶ。「ミコト!」彼女の口を塞いでしまいたい。今すぐにでも、手を伸ばして。好きで、大好きで、堪らない。彼女を今すぐ、殺してしまいたいほどに。

「ミコト」

ふと、カメラいっぱいに彼女がうつった。惚けていて反応が遅れた私に、彼女はそっとカメラをどかす。首にかかっていたカメラの紐を外し、白魚のような細くて白い手が私の手首をつかんだかと思うと、そのまま私を強く引き寄せた。
シャネルのアンバーな香水の香り。あ、と思う前に、彼女の唇が私の唇に落ちていた。舌が私の下唇を舐める。あまりのことに動けない私に、彼女は微かに笑いながら、がぶりと噛み付いてきた。痛くて思わず声を上げた私に、その隙を見逃すはずも無く彼女はぬるりと唇の間から舌を入れてきた。
甘く、腰が痺れた。遠慮もクソもなく彼女の舌は私の口内を侵す。やめて、と彼女の胸を叩けば、暫く味わった後に彼女はようやく唇を離した。
赤い口紅が取れていた。濡れた唇もそのままに、息もたえだえな私を彼女はなんとも言えない表情で見つめていた。困惑─違う。罪悪感─違う。この、彼女の表情は──どこか疲れたような、草臥れたようなかおだ。

「…なんで」

漸くでた私の言葉に、彼女は曖昧に微笑んだ。

「やっとだなと思ったら、なんだかさ」
「……やっと?」
「そう、やっとだよ。…長かったわ、ほんとに。ここまで来るのに、どれほど苦労したか。」

彼女は美しく、艶やかに微笑む。サングラスを外して、胸元に掛けると私の方を真っ直ぐ見つめてきた。

「ミコト、私の事好きでしょ?」
「…っ」

息が詰まった。
どうして。正常なあなたが、どうして。
困惑のあまり声の出せない私に、彼女はまた緩やかに近づいてくる。怖かった。どうしてだか、心底怖かった。

「私の事が、好きで好きでたまらないミコトが、私は大好きなんだ。もうさ、ずっと……いつ言おうかずっと迷ってたの。」

は…?と顔を上げた私に、彼女は恍惚と笑った。

「私、結婚するね」

嗚呼、思い出した。
彼女のつけているシャネルの香水の名前。
『エゴイスト』。そう、そんな名前だった。



写真を撮る行為は、人を閉じこめる行為─監禁に似ている。だって思い出は裏切らない。人はいつまでも、思い出の中に生き続けることができる。甘く、優しい、バターが溶けるような温い温度の中で。永遠に。

「ミコトー!こっちも撮って!」

彼女に名前を呼ばれる。私は笑顔で彼女達のそばに行く。そこでは、彼女の旦那と彼女が、腕を組んで幸せそうに笑っている。ファインダーを覗いて、彼女たちに照準を合わせる。美しい彼女と背景の人達。何年経っても変わらない。美しい彼女だけに照準を合わせて、息を止めて僅かなブレも抑えて、シャッターを切る。そうして、彼女を撮る度に私の中で何かが擦り切れていく。命が削れる心地のいい音だ。ヤクがきまったかのような心地良さに酔いしれながら、私は何度も何度もシャッターを切る。

そうやって私は。
いつまでも、彼女の美しさの中に生きている。
彼女の美しさの中でしか、私は生きられない。

この身を捨てて、彼女に尽くす。
美しい彼女を、永遠に撮っておくために。

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