蝙蝠怪キ譚

なす

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第2章 《蜘蛛の意図決戦》

第2章22『糸目春雨』

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 何事もなく自動ドアを躱し、ボクらは受付へと向かった。こんな立派な図書館で人面蜘蛛が受付をしていたら、それはそれですぐに噂が立ちそうなものだが。
 図書館の受付には二人のお姉さんがいた。どちらも人間の、素朴な顔立ちの女性だった。亜麻色の髪を一つにしているお姉さんが、こんにちはと頭を下げた。

「返却ですか? 貸し出しですか?」

「ええっと、違うんです。ここで"イトモクハルサメ"さんって人が働いてると思うんですけど……」

 臼居くんの言葉に、もう一人のお姉さんが首を傾げ、

「えぇ、糸目春雨がどうか致しましたか?」

 と、何でもないように答えたのだ。名札を見る限り、この二人ではないらしいが。ボクらは顔を見合わせた。畳み掛けるように、

「その、糸目さんって今どこにいますか?」

「糸目に御用でしたら、私たちが伝言を──」

「糸目さんに会いたいんです、直接」

「でも、今は休憩中だと思いますけど……」

「それでもいいんです!」

「は、はあ……」

 ボクたちの熱気に随分不信感を抱いたようだったが、お姉さんたちは親切にも休憩室の場所を教えてくれた。お礼を言って本棚をするすると抜けていく。
 見上げてみれば、恐ろしくも螺旋状に本棚が敷き詰まっていた。何がモチーフなのか、未だに分からない図書館である。特に一番上にある本なんて誰がどう見るのかも想像つかないのだ。きょろきょろとしてしまうボクに、

「都会に初めて来た田舎者みたいですね。ほらよそ見してないで歩いてください、氷雨くん!」

「おい、つくしみたいなこと言うなよ。不思議部副部長の座は譲らんぞ!」

「いやいや狙ってませんから」

 僕生徒会ですし、と臼居くんはボクを押した。休憩室は、書庫の近くにあるらしい。つまり、立ち並ぶ本棚のずっと奥ということだ。

「んーと、何だっけ。そこの本棚を右に行って真っ直ぐ、そしたら左か」

「違いますって、そこも右です」

「あ、本当だ」

 まあ、そんなこんなあってボクたちは休憩室に到着したのだ。

「随分端折りましたね」

「しょうがないだろ、もう何日糸目ハルサメとの邂逅を待ちわびたと思ってるんだ」

「ほんの二、三日じゃないですか」

「ああ、体感ほんの五、六ヶ月だな」

「妙に生々しい数字ですね」

 何のことやら耳の痛い会話をした後で、非常口のピクトさんがくっついた扉を勢いよくこじ開けた。

「─────こんにちは、あの……」

「あら、お客さん? ここは職員の休憩室なのだけれど」

「え────?」


 白くて何にも色のない無頓着な部屋には、ソファと机と、せめてもの給湯器が並んでいた。そこでは案の定、女性が一人で本を読んでいたのだ。
 切れ長の瞳を囲うように長いまつ毛が、その憂い顔を際立たせていた。どこからどう見ても、美人だった。風邪をひいているのか、黒いマスクをしていたけれど。ボクらが息を呑んだのは、そこじゃあない。

 黒髪だ。

 彼女は麗しい黒髪の美女だったのだ。真っ直ぐ揺るぎなく伸びるそれは、一切の淀みもない墨汁で書かれた線のように美しい。
 シオンさんが幼少の頃に遭った蜘蛛は、透き通るような白髪だったはずだ。だから、人間の黒髪が羨ましくて呪った。そうじゃなかったのか。乾く喉を懸命に動かし、聞く。

「あの、糸目、ハルサメさんって今、どこにいますか」

 言葉を慎重に選びつつ、綱渡りをするように。
 彼女は笑った。うっすらと、ほんのりと。冗談を優しく受け流すように。気にも留めない残酷な大人のように。

「──ここに居るじゃない。あなたたちの目の前に。私が、糸目春雨よ」


 目に見えないパズルが、完成しかけていたそれが、音を立てて崩れていってしまう気がした。やはり彼女は、シオンさんと同じ、ただの蜘蛛痣の被害者なのか。彼女が呪いの大元、"ママ"ではないとしたら、一体どうしたらいいのか。心当たりはもうない。お先真っ暗な現実に、ボクは額を指で押さえた。

「えっと、あなたに何個か聞きたいことがあって。あの、何から聞いたらいいかな」

「答えられることは、答えるわ。ここの図書館、バイトは募集していないのよ」

「そうじゃなくて、ええと……」

 助けを求め隣に目をやると、臼居くんもボクと同じ顔をしていた。どうするんです? と言う顔だ。まったく。自分で考えないから現代っ子の自主性は失われていくのだ。
 ボクはもう一度彼を見やり、そして糸目さんを見た。

「───では、あとはこの臼居少年が質問するのでボクは席を外しますね」

「えええ!? ちょっ! 氷雨くん」

「あとは任せたぜ、臼居くん!」

 君のことは忘れない! と、ボクは廊下に繋がる方のドアから、一時退室したのだった。   

 ◆◆◆

 単にがっかりしたからとか、面倒くさくなったから退室したわけではない。勘違いしないでくれ。ボクは薄情に見られがちなタイプだが、約束とかは極力守る派の人間なんだ。
 では何故席を外したのか。それは、

「ったく、図書館にいるのに電話かけるとか、アホかアイツ」

 ボクは震えるポケットに手を伸ばした。

「もしもし、つくし」

『どうもどうも、レイくんの電話帳に唯一いる女子でーす』

「切っていいか?」

『待って待って切らないでくださいよ!』

 通話口からした声の主は、白野つくしで間違いなかった。休憩室を探していたときからずっとバイブしていたのだ。

『レイくん、大図書館には着きましたか?』

「ああ、まあな」

 近況確認といったところだろうか。しかし、どことなく彼女の声は切羽詰まって聞こえていた。

「シオンさんに何かあったのか?」

『あった、ありました! シオンさんの呼吸が、どんどん浅くなっていくんです。ずっと痛がってますし。今、キヨタくんに来てもらったんですけど、どうしたら良いか……』

「そんな……急にか?」

『レイくん、お願いです! 早く呪いの大元を断ってください』

「それは──無理だ。糸目春雨は大元じゃあなかった」

『え……』

 希望を切り捨てるように、差し掛けていた光を一気に闇に戻してしまうように。ボクはばっさりとそう吐き捨てた。狼狽えたような嗚咽と、苦しいほどの沈黙が落ちる。顔が見えなくたって、手にとるように分かるのだ。きっとつくしも、同じように口を開けて呆然としていることだろう。
 そりゃそうさ、だって糸目春雨は、

『───レイくんは、馬鹿なんですか?』

 切りかけたその通話口、響いたのは煽るような声だった。何事か、そう問う前に言葉が降る。

『シオンさんからも聞きました。出会った蜘蛛は"ハルサメ"と名乗っていたと。その様子じゃあ、糸目春雨さん本人に会えたんでしょう、レイくん』

「だけど、ボクらがあった糸目春雨は黒髪で──」

『染めてる可能性だってあるでしょう!? それより今、大丈夫なんですか? まさか……』

「ああ、そのまさかかもな」

『ちょ、レイく』

 ブチッ。

 臼居くんが、危ない。ボクは急いでケータイをポケットに突っ込んだ。浅はかだった。怠惰だった。ドアノブをガチャガチャと捻るが、開く気配は微塵もない。

「くっそ、鍵をかけたのかよ!?」

 油断も隙もない。制服で来たボクたちも馬鹿だった。これじゃあシオンさんの仲間だって言ってるようなもんじゃないか。中の音は一つも零れてこない。まずい。非力な臼居くんと、敵の大ボス蜘蛛一匹。一発でやられること確定じゃないか。ボクは力任せに固めた拳で扉を殴った。

「開けろ!! 返事をしてくれ、臼居くん!」

 チャキッ。

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