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第二章【ご近所】

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 届かない言葉を、どれだけ思い浮かべたかわかりません。
 無意味であるとわかっていても、それはもう癖のようなものでした。



 その日の夜、美羽から連絡があった。
 もし時間があれば明日の午後、うちに来て欲しい。
 そんな内容だった。

 僕が美羽の家に呼ばれることは、それなりにめずらしいことだった。
 美羽の家は地元では有名な老舗旅館を営んでいる。その旅館は会員制で、十三歳以下は宿泊不可である。
 そのため美羽と、その弟である遼平《りょうへい》は、小学生の間は家に友だちは呼んでいけないといわれていた。自宅と旅館がそれほど離れていないので、そのためだろう。
 旅館に宿泊する大人たちは、お金を払って静かな非日常を楽しみに来ている。
 僕たちは幼いながらも、それを理解していた。だからこそ旅館の近くで遊んだり騒いだりすることはなかった。そもそも幼い僕たちの遊び場は近くの浜辺か、公園や神社だった。美羽の家で遊べなくても、特に不便があるわけではなかった。
 しかし僕だけは幼い頃から、美羽たちの家に出入りすることを許されていた。
 僕だけは特別だった。
 なぜならご近所さんだからである。家同士が徒歩五分しか離れていないためである。
 田舎と呼んで語弊のない僕たちの住む町は、年齢の近い子どもは多くない。
 家も年齢も近い僕たちが、仲良くなるのは必然だった。美羽は僕の一つ上で、遼平は僕の一つ下の学年である。そのため美羽が中学生になるまでは、暇さえあれば三人で遊んでいた。
 しかし美羽が中学生になると、顔を合わせる機会はずいぶんと減ったように思う。
 それは翌年に僕が中学生になっても、そのまた翌年に遼平が中学生になっても同じことだった。
 それでもほとんどの人間がそうであるように、小学生の頃に過ごす楽しみが凝縮されたような時間は、いつまでも心の真ん中に居座り続けている。頻繁に顔を合わせなくても、僕にとって美羽と遼平は今も特別なままだった。



 約束した時間に美羽の家のインターホンを押しても、返事はなかった。
 そのため僕は「お邪魔します」と、玄関を開けた。
 玄関までは抵抗なく入れるが、さすがに靴を脱いで家に上がることはしない。そのため僕は、しばらく玄関で佇んでいた。
 時間変更の連絡を見落としたのだろうか?
 そんなことを考えながら、ポケットの携帯電話に手を伸ばした。それとほとんど同時に、二階から足音が聞こえてきた。その足音から、おそらく遼平だろうと予想できた。

 玄関に顔を出したのは、ひどく具合が悪そうな遼平だった。
「あ、誠《まこと》くんだ。めずらしいね」
 どうにも僕が来ることは、知らされてなかったらしい。
 遼平は中学生の頃から柔道部に入っており、会う度に体が大きくなっている。身長はまだ抜かれていないが、体の厚みと筋肉量は圧倒的に遼平の方が勝っている。さらには柔道部の方針なのか、遼平は中学の頃から坊主に近い短髪である。体型も相まって、高校一年生とは思えない貫禄がある。遼平はもともと少し癖毛だったので、今の髪型は気に入っているらしい。さらには周りからの評判もよく、中学生の頃から彼女が途切れたことはないようである。
 僕と美羽は同じ高校に進学したが、遼平は柔道の強豪校へ進学した。そのため遼平が高校でどんな生活を送っているのかは未知であるが、楽しそうなのでなによりである。

「いらっしゃい。姉ちゃんと約束?」
 遼平はしゃがれた声でいった。どうやら起こしてしまったらしい。
「そう。美羽いない? いや、今はそんなことはいいや。僕がいうのもなんだけど、寝てていいよ。具合悪そうだね」
「なんか頭痛いから、部活休んで寝てた。姉ちゃんは、まだ帰ってきてないと思う」
 熱もあるのか、遼平はだるそうだった。
「とりあえず上がってよ」
 僕は促されるまま、家の中に入った。
「あ。これ、お土産」
 僕は持ってきたお菓子と飲み物を遼平に渡した。
「え、ありがとう。飲み物は、冷蔵庫入れとく。誠くんは、その辺座ってて」
 遼平はそういって、ふらふらと冷蔵庫へ向かった。
「なにか食べたいものとかあれば、コンビニで買ってくるよ。プリンとか、ゼリーとか」
「うわ、弱ってる時にやさしくされると泣きそう」
 遼平は本当に泣きそうな声を出した。
「でも今は大丈夫。さっきご飯食べたばっかりだから」
 食欲はあるらしい。とりあえず一安心である。
「熱は計った?」
「計ってない」
「計ってみなよ。たぶん、少しあると思うよ」
「怖いからヤダ」
「え、なんで」
 僕は思わず失笑した。
「数字にされると落ち込むことってあるじゃん」
 よくわからないところで臆病なところは幼い頃から変わっておらず、とても遼平らしかった。
「じゃあ、計らなくていいから。とにかく水分補給しなよ。スポーツドリンクは飲めそう?」
 僕が持ってきた飲み物の中には、スポーツドリンクも入っていた。
「うん、飲める。誠くんはなに飲む?」
「僕のことはいいから」
 遼平は冷蔵庫の前で、ごくごくとスポーツドリンクを飲み始めた。よほど喉が乾いていたようである。

 そんな遼平を見ている間に「ただいま」と、玄関の方から聞き慣れた声がした。
「あ、誠。もう来てる?」
 玄関にある靴をみて、僕が来ていることを察したのだろう。
「うん、誠くん来てるよ」
 遼平はペットボトルから口を離して、玄関に向かっていった。スポーツドリンクはすでに半分ほどの量になっていた。
「うそ。ごめん」
 僕と美羽の通う高校は夏休み中も、補講という名の午前授業がある。出席日数には換算されないが、授業が進むのでほとんど強制参加である。
「待たせた? ごめん」
 美羽はそういいながら、リビングに顔を出した。
 口では「ごめん」といいつつも、悪いと思っている表情ではなかった。むしろ申し訳なさそうな表情を作られたら、嘘くさいと感じただろう。美羽は感情が表情に出ることはあまりない。嘘をついている時の方が表情が豊かになる。
「いいよ。遼平が相手してくれてたから」
「これ。誠くんからのお土産」
 遼平はそういうと、再びペットボトルを口にした。
「わざわざいいのに。あれ、遼平。今日は部活じゃなかった?」
 遼平は美羽の質問に適当にうなずいただけで、ペットボトルから口を離さなかった。
「具合が悪いみたいだよ。熱もあると思う」
 僕は遼平の代わりに答えた。
「全然具合悪そうに見えないんだけど。何度あるの?」
 美羽はそういって、遼平の隣に立った。
 美羽はいつものように、肩より少し長い髪を一つにまとめている。束ねられた髪はとても艷やかで、毛先にまで神経が宿っているようである。その髪形は、美羽のすっきりと整った顔立ちを強調させている。さらには半袖の白いワイシャツと紺色のスカートは、とても美羽に似合っており真夏でもどこか涼しげである。
 なんとなく美羽を見つめていると、その膝に真っ白な包帯が巻かれていることに気がついた。
 すぐに言及したかったが、今は遼平の体調が優先であった。
「計ってない。たぶん、寝てれば治る」
 遼平は僕と話す時よりも、ぶっきらぼうにいった。
 しかし美羽に体温計を押し付けられると、遼平は観念して熱を計った。結果、三十八度近くあった。その数字をみて、遼平の顔色はますます悪くなったようにみえた。そして「だから計りたくなかったのに」と弱々しく主張した。
 それから遼平は飲み物を持って、二階の自室へと戻っていった。
 それを見送った後で「薬とか、飲んだと思う?」と、美羽はいった。
「お昼は食べたっていってたけど、どうだろうね」
「飲んでないね」
「飲んでないだろうね」
「薬渡してくる。ついでに着替えてくるから、テレビでも見て待ってて」
 美羽はそういって、二階へと上がっていった。
 その軽い足音を聞きながら、美羽の膝については軽傷なのだろうと予想した。

 それからほどなく、携帯電話が振動した。
 そこには「部屋きて」と、美羽からの連絡があった。眠っているかも知れない遼平に気を使ったのか、単純に大きな声を出すのが面倒だったのかは不明であるが、おそらく両方だろう。僕はリビングのソファーから立ち上がり、美羽の部屋へ向かった。
 二階に上がることも美羽の部屋へ向かうことも、かなり久しぶりである。しかし懐かしさなどは不思議となく、僕は当たり前のように足を進めた。
 美羽の部屋をノックすると「入って」と短い返事があった。
 ドアを開けると、美羽は半袖と短パンというラフな格好になっていた。靴下も脱いで裸足になっているせいか、先ほどよりも膝の包帯が痛々しく感じられた。
「さっきも気になったんだけど。その膝、どうしたの?」
「学校の階段で転んだだけ。でも派手に血が出たから、気絶したの。血管迷走神経反射っていうんだっけ?」
「えぇ」
「たぶん倒れたせいなんだけど、保健室の先生がわざわざ病院に連れていってくれたの」
 どうやらそのせいで帰りが遅れたらしい。
「膝の傷は、どうだったの?」
「誠のお母さんに少し縫ってもらった。その方が治りも早いからって」
「あ、うちの病院いったの?」
「うん、先生がどこの病院がいいか聞いてくれたから。北川《きたがわ》病院って答えた。帰りやすいし」
 我が家は医師の家系で、父は北川病院で院長を務めている。そして母も、その病院に医師として勤務している。僕自身もいずれは医師になって、北川病院で働きたいと思っている。
「大したことないならよかったけど」
 美羽は「うん」と、いっただけだった。
 膝の傷に大した感慨はないらしい。
「あのさ、本題なんだけど。誠に見て欲しいものがあるの」
 美羽はそういって、学習机の中央の引き出しから、白い洋形封筒を取り出した。
「これ。昨日拾ったの」
「手紙?」
 美羽は無言のまま、それを僕に差し出した。
 その封筒には宛名もなにも書いていなかった。
「見ていいの?」
「うん、見て欲しい」
 封筒を開けると、中にはパスポートと一枚の手紙が入っていた。
「パスポートだ」
 僕は思わず声に出した。
「うん、パスポートだった」

 辻吉理沙。
 パスポートの持ち主の名は、手書きでそう書かれていた。
 本籍は東京となっており、生年月日から年齢を計算すると三十二歳らしかった。ぱらぱらとパスポートをめくると、最後のページには現住所が書かれていた。その住所もやはり東京の記載だった。パスポートをある程度見た後で、僕は同封されていた手紙を読んだ。
「これ、遺書?」
 それを読み終えると、僕は聞いた。
「そう思ったから、誠に相談してみようと思ったの」
 美羽は人に意見を求めることは少ない。
 美羽はいつも自分だけで考えて、そして完結する。
 幼い頃は僕も美羽と同じ学年になれば、色んなことを一人で解決できるようになるのだと思っていた。しかし僕はいつまで経っても、美羽のようにはなれなかった。これは学年の差ではなく、僕と美羽の人間としての差なのだった。
 しかし美羽は今、僕に意見のようなものを求めているわけである。
 もしくは遺書という、日常にないものをただ共有したかったのかも知れない。
「市立図書館の近くに歩道橋があるでしょ。そこに落ちてたの」
 それから美羽は、昨日の出来事を話してくれた。

 歩道橋から飛び降りようとしていた人がいたかも知れない。
 その事実を聞くと、この手紙はますます遺書にしか思えなかった。さらにはパスポートが同封されている事実が、その予感を加速させた。
 パスポートには無感情にこちらを見つめる、瞳の大きな丸顔の女性が映されていた。パスポートの有効期限は残り数ヶ月なので、約九年前に撮られた写真のはずである。
「あの歩道橋で飛び降りてないとしても、別の場所で死んでる可能性はあるよね。この人、まだ生きてると思う?」
 どうなのだろう、と真剣に思考した。
「生きてるような気がする。自殺って一度思い留まると、もう一度そうしようって人は多くないって聞いたから」
 僕は希望も込めてそういった。
「なんか聞いたことあるかも」
「それにこの辺で自殺した人がいたら、噂くらいなら僕たちの耳にも入ってくるんじゃないかな」
「そうかも知れない」
 美羽は僕の持つ手紙を見つめた。
「この遺書とパスポートは、警察に届けるべきだよね」
「そうするのが自然だとは思うけど、美羽はそうしたくはないんでしょ」
 僕は確認するようにいった。
「警察に届けたくないというか、大袈裟にしたくないんだと思う。この人が生きてるなら、パスポートだけでもこっそり返してあげたい」
 それから美羽は「でも」と言葉を続けた。
「もし死んでたら、遺書もパスポートも遺族の人に渡すべきだとは思ってる。だから私は、とりあえずこの人の生死を確かめたいんだと思う」

 美羽はそういった後で「どう思う?」と僕を見つめた。






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