白い結婚の冷遇妻だと思っていたら、実は意外と愛されていたことが判明した貧乏伯爵令嬢の話

ayame@コミカライズ決定

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本編

思いがけない縁談

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「トリシャ、おまえに縁談が来た」

 ノーマン伯爵が慌てた素振りで娘のトリシャにそう告げたとき、彼女は庭の片隅でトマトを収穫していたところだった。日除け用のボンネットを被り、何度も洗濯して擦り切れたエプロンドレスの裾をたくし上げ、中腰でトマトに伸ばした手を止めた彼女は、まじまじと父を見上げた。

「まぁ、なんということでしょう。お相手はどちら様? 奥方様に先立たれたお金持ちのお年を召した御仁かしら。それとも爵位目当てのお金持ちの平民の殿方かしら。縁談、というからには愛人契約ではないのですね。それは嬉しいことです。領地を取り仕切っているお兄様とお義姉様、かわいい甥っ子たちの醜聞にはなりたくないですもの」

 おっとりと微笑む娘を前に、父伯爵はぴしゃりと己の額を打った。この娘の肝の座り具合も年頃の娘らしからぬ落ち着きも今に始まったことではなかったと思い出し、ひとり大慌てで家路を急いだ自分がいささか恥ずかしくなる。

 だがそのおかげで自身も落ち着きを取り戻したノーマン伯爵は、開きかけた口を噤むことができた。こんな大事な話、いくら伯爵家とはいえ庭先でしていいものではない。

 ましてそれが、娘が食卓の足しにと育てている野菜畑の中でだなんて、あっていいことではなかった。

「とりあえずあれだ、私の書斎に来なさい」
「お父様」
「なんだ」
「トマトは持っていってもいいですか」
「……置いてきてくれると助かる」
「では、ドーシャに渡してから行きますね」
「あぁ、そうしてくれ」
「お父様」
「なんだ」
「トマトは今晩、スープとサラダ、どちらにするのがいいかしら」
「……おまえとドーシャに任せるよ」
「わかりました」

 素直におっとりと微笑む娘を見て、亡き妻にますます似てきたなと思う。花を育てるのが好きだった妻の姿もまた、よく庭先にあったものだ。ただし育てていたのは貴族夫人の趣味として許される、鑑賞に向いている花だったが。

「あら、ミミズがいるわ。うふふ、いつもふかふかの土をありがとう」

 その娘は花は花でも、食べられる野草か野菜の花しか知らないふうに育ってしまった。それもこれもノーマン家が貧しいがための所以なので、父親としても娘を責められない。

 一足先に書斎に戻った伯爵は、たった今勤め先である王城で受け取った釣書をしみじみと眺め、この縁談が果たしてまとまることになるのか、気を揉むのだった。





 ノーマン伯爵家の長女トリシャは今年で二十四歳になった。十八歳から二十二歳辺りまでが貴族令嬢の適齢期と言われる世界で、いわゆる「行き遅れ」である。

 ふわふわとした金髪にグレイの瞳、丸顔の中にそれぞれのパーツが品よく収まっている容姿は、十分愛らしい部類に入る。歴史ある伯爵家の令嬢という肩書きもあって、本来であれば引く手数多のはずだったが、十八の社交界デビュー以降、寄せられた縁談はすべて立ち消えてしまった。

 理由は、ノーマン家が持参金を用意できないほど貧しいせいだ。

 ここ十年の間に二度の大嵐に見舞われたノーマン伯爵領は、復興のために貯蓄をすべて使い果たし、それでも足りずに借金をするはめになった。伯爵自身は元々王城に勤める役人でもあり、その給与所得が捨てがたく、王都に残ってそのまま働くことにして、長男であるオリバーが王都の学校を中退し、それまで領地経営を任せていた代官に代わって領地で指揮を取ることになった。幸い長男と婚約していた令嬢は、貧しくてもかまわないと嫁いできてくれたため、ノーマン家を次世代へと繋ぐことができそうなのが唯一の幸いだ。

 長男の結婚式になけなしのお金を使い果たしてしまったノーマン家は、長女トリシャのために何かを用立てることが難しくなってしまった。兄嫁のドレスを借りてかろうじて社交界デビューだけはさせたものの、縁談ともなると持参金の問題でなかなか話がまとまらない。

「わたくし、持参金がなくともかまわないと言ってくださるご高齢のお金持ちの貴族の方の後妻ですとか、爵位目当ての平民のお金持ちの方のお飾り妻ですとか、そんなご縁で十分ですわよ?」

 十八の身空でそんなことを言い出す娘があまりに不憫で、ノーマン伯爵は、実際に持ち込まれる「持参金なしでかまわない不良物件」の釣書や絵姿を、娘の目に触れないよう徹底的に隠し続けた。うっかり見つかろうものなら「あら、この方の頭の禿げ上がり具合、たいそう清々しくて素敵ね。歯の欠けた口元も見ようによってはかわいらしいわ」だとか、「この方のたるんだ二重顎、さぞかし栄養のあるお食事を毎日なさっておられるのでしょうね、羨ましいわ。私の調味料を節約した味の薄い手料理、お気に召されるかしら」などと言って、トリシャが自分で諾の返事を出してしまいそうだった。

 そうして月日は流れ、花の盛りはあっという間に過ぎていく。二十四ともなれば再婚話すら難しく、最近は再再婚話までぽつぽつと持ち込まれている中での、この縁談。しかも王家の肝煎りだ。

 ノーマン伯爵は釣書を娘に手渡しながら詳細を明かした。

「お相手はヘルマン・リドル子爵。先立って第三王子妃となられたクレア妃殿下の兄君だ」

 二ヶ月前に盛大な結婚式をあげたジュリアス第三王子の名とともに、クレア妃もまた時の人として王国中にその名を知られていた。下級貴族の出身ながら女官試験をトップの成績で合格し、第三王子の金庫番としてかの人を支え王家に利をもたらした力量が王子を夢中にさせ、王家の目にも止まったというシンデレラストーリーは、今や小説に舞台にと変換され大流行を見せている。貧乏すぎて社交など一切していない娘でもさすがに耳にしていることだろうと、ノーマン伯爵は尊き存在となられた方の御名を口にした。

「まぁまぁまぁ。クレア妃殿下のお兄様ですの? 何かの間違いではございませんこと?」
「間違いではない。恐れ多くも陛下から直接賜ったお話だ」
「でもお父様、この方の絵姿、おかしいですわ」
「何がおかしい? ヘルマン殿はなかなかの美男子だと評判だぞ。本人に会ったことはないが、彼の父親である先代子爵のことは知っている。社交界きっての色男だった。絵姿を見るに、その面影はあるな」
「でも髪の毛があります」
「は? 髪くらいあるだろう」
「それに、太っていらっしゃいません」
「そりゃ、若いのだからそこまで太ってはいないんじゃないのか?」
「だからおかしいのですわ。髪の毛がなかったり二重顎でなかったり歯が欠けていなかったりするお方が、行き遅れで貧乏なわたくしのお相手としてあがるはずがありませんでしょう? お父様ったら昼間からキツネに化かされたんですの?」
「だから! そのお相手候補の価値観からいい加減離れてくれ! それに化かすのはタヌキの仕事でキツネじゃない!」
「あら、わたくしったら、うっかり。そうね、タヌキの仕業ね。あぁ良かった。この写真はタヌキの写真で、本物の子爵はちゃんと髪がなくて二重顎で歯が欠けていて太鼓腹でご高齢なのね。安心しました」
「そこで安心するんじゃない! しかも何か増えてるじゃないか!」
「あ、でもクレア妃殿下は確か二十歳でいらっしゃったから、ずいぶんな歳の差兄妹なんですのね」
「…………」

 ついに机に伏してしまったノーマン伯爵だったが、ここで自分が黙ってしまえば娘がとんでもない勘違いをしたまま嫁に出てしまうことになると、慌てて顔を上げた。

「いいか、トリシャ。よく聞きなさい。ヘルマン・リドル子爵は二十六歳。父君から生前襲爵をされた歴とした子爵家当主だ。その絵姿は限りなく本人に近いと陛下や宰相閣下のお墨付きもある。何よりクレア妃殿下が「本物の方がもっと男前だ」とおっしゃった。したがって髪の毛はあるし太ってもいないし歯も欠けておらん。太鼓腹でもない。領地の切り盛りもこなす有能な若者で、少し推しが弱いところはあるが、クレア妃同様、清廉で裏表などない性質だと、陛下も信頼を寄せておられる。難があるあるとすれば先代と先々代が商売に失敗して作った借金だそうだが、それもヘルマン殿の長年の努力と此度の王家との縁組による支度金で、概ね精算される見通しだそうだ」

 だから安心して受けられる縁談だと言いたくてそう付け加えれば、トリシャは透明感のあるグレイの瞳を大いに歪ませた。

「まぁ! お父様。ダメですわ。わたくしこの方と結婚できません」
「なぜだ? このような優良な縁組、二度とおまえに舞い込まないぞ?」
「だって借金がおありだったのでしょう? ご自身の家のことで精一杯で、我が家に援助などして頂けないと思います。わたくしはお相手がハゲていても歯が欠けていても二重顎でも太鼓腹でもご高齢でも水虫があってもかまいませんが、お金持ちであることだけは譲れません」
「またなんか増えたようだが、とにかくそこから離れよう、トリシャ。我が家の財政は私とオリバーがどうにかすることだ。おまえが考えることではない」
「いいえ、わたくしだってノーマン伯爵家の一員です。わたくしは、わたくしを少しでも高く買ってくださる方のところへお嫁に行きたいのです」
「結婚は売り買いなどではない。大事な娘を売るなどと、そんなことを言わせないでくれ」

 父親の本気の嘆きが伝わったのか、トリシャは言葉を飲み込んだ。愛する娘にこんなことを言わせてしまうのは、間違いなく父である自分の責任だ。まともな結婚などさせてやれないかもしれないと思っていたところに、この上ないお相手との縁組だ。もちろん裏事情があることもすでに知らされている。おっとりしていながら時折鋭さを見せる娘にもその旨を伏せるつもりはなかった。

「この度クレア妃殿下がジュリアス殿下に嫁がれたことで、リドル家は王家と縁続きとなった。しかし下位貴族であり借金も抱えているかの家は、王家の縁戚としてはいささか心許ない。心なき者がヘルマン殿につけこみ、リドル家を取り込んで第三王子殿下に近づこうとする可能性があることを、陛下や宰相閣下は懸念しておられるのだ。ヘルマン殿は優秀な若者らしいが、高位貴族相手に太刀打ちするのはさすがに骨が折れることだろう。そうならぬよう、彼にさっさと伴侶をあてがうべきだということになったらしい。伯爵家以上の高位貴族で、王家とのつながりが薄く、野心をもたない……つまるところ毒にも薬にもならぬ家門の娘ということで、我が家に白羽の矢がたったのだ」
「なるほど。そういうことでしたの。確かに事情はわかりますけれど、何も候補は我が家だけというわけでもないでしょう。ほかにも適齢期のご令嬢がいらっしゃるのでは?」
「ヘルマン殿の唯一の希望が、リドル子爵領で一緒に暮らしてくれる妻ということらしい。子爵領は王都から馬車で一週間はかかる北端。農耕や牧畜が主産業で、ヘルマン殿も領民たちと共に作業に精を出されているそうだ。クレア妃殿下のお話では冬場は雪が多く、他領との行き来もストップするのが日常茶飯事だとか。王都暮らしに慣れている高位貴族令嬢には少々厳しい条件だが、トリシャ、おまえなら十分にこなせるのではないかと思っている」
「まぁ! それでは子どもの頃に過ごしたお母様のご実家みたいに、雪遊びができるのかしら。雪合戦にかまくら遊びも!」
「クレア妃殿下も子どもの頃、よくそのような遊びをされたそうだぞ。領内の犬ぞりレースで一等をとったこともあるそうだ」
「まぁまぁ! 妃殿下とは気が合いそうですわ!」

 見た目のおっとり具合に反してお転婆な娘に、あとひと推しとばかりに伯爵は付け足した。

「それに、此度の縁談がまとまった暁には、王家から祝い金が支給されると……」
「お父様! わたくし、結婚します!」

 きらきらと瞳を輝かせてソファから立ち上がる娘を見て、父伯爵は「そこなのか……」とばかりに、自身の不甲斐なさと、貧乏暮らしがもたらした娘の性格形成事情を嘆くのだった。



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