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本編
思いがけない到着
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そうして到着したリドル子爵家のお屋敷は、トリシャが想像していた以上に大きかった。古びた気配はあるものの、白壁と三角屋根が特徴的な、瀟洒な三階建の建物だ。没落する以前から健在なノーマン家の領地の家もそれなりな大きさだが、ここまでではない。
「とても大きなお屋敷ですね。びっくりいたしました」
「金回りの良かった祖父の時代に建てられたものです。それまでは家族の部屋がひとつずつある程度のこじんまりした家だったらしいんですが……その方が身の丈にあっていただろうなと思うのですがね」
自慢する気配は微塵もなく、どこか遠い目をしながら語るヘルマンの言い分は、少しだけわかる気もした。リドル領は農業と牧畜が主産業の領地だ。牧歌的な田園風景の真ん中にまるで城のように聳える屋敷は、風景に馴染んでいるとは言い難い。
この屋敷を建てたヘルマンの祖父は画商だったそうだ。自由気ままな性質の人で、領地経営を弟に任せ、自分は仕事にかこつけて海外を渡り歩いていたらしい。たまたま他所の国から買い付けた芸術品のいくつかが世紀の大発見と言われるほどの名品だったそうで、王家や王立美術館に買い上げられるなど、多大な功績をあげることになった。
ちなみにこの話は王都でも未だ語り継がれるほど有名な話だ。クレア妃がジュリアス第三王子の妃に内定したときも、「あのリドル子爵家か!」と世間を騒がせたものだ。
だがその栄光も長くは続かず。突如として財をなしたリドル伯爵家は浮かれた勢いで屋敷を分不相応なものに建て直し、領地経営においても知恵を絞ることなく、どうせ金はあるのだからとお金で解決することを繰り返した。祖父は二匹目三匹目のドジョウを狙って高価な芸術品を買い漁り、晩年には偽物を掴まされ、多額の損失を抱えることになってしまった。
ひとり息子だったヘルマンの父は、そんな祖父を見て育ったためか芸術への造詣は深いものの、見る目は今ひとつ。お人よしの性格も災いして、若く無名な芸術家に支援目的で投資してはトンズラされるなど残念な出来事を繰り返した結果、リドル家の財政は一気に傾き、ヘルマンが十歳をすぎる頃にはすっかり昔の面影は無くなってしまったのだとか。
長きに渡り放置だった領地の農業や牧畜の技術はもはや全時代的で、収益を上げようにも設備投資が必要な状態。祖父の時代に金にあかせて建てた屋敷も老朽化が目立ちはじめ、どうにかしようにも修繕費の工面もできない。
そんな状態で跡目を継いだヘルマンは、ただただ愚直に働きながら借金を返済してきたらしい。
「トリシャ嬢、どうぞ中へ。見た目は古いですが最近やっと修繕に手が回せるようになりましたので、中は比較的整っています」
妹のクレア妃が王家に嫁ぐ際の支度金で、まずは家を整えたのだという。確かに王子妃の実家が壊れかけたおんぼろ屋敷というのは頂けない。
ヘルマンのエスコートを受けて玄関に入れば、そこには揃いのお仕着せを着た使用人たちが十人ほど一斉に頭を下げていた。
「あぁ、みんな揃っているようだな。紹介しよう。その、つ、つ、つつつ妻となったトリシャ・ノーマン伯爵令嬢だ」
「皆様はじめまして。どうぞトリシャとお呼びください」
トリシャが軽く会釈をして微笑めば、一瞬だけ目の合った使用人たちが再び一斉に頭を下げた。
「使用人たちの名前はおいおい覚えていただくとして、先にひとりだけ……カミラ」
「は、はいっ!」
カミラと呼ばれた女性はヘルマンに呼ばれ慌てて頭をあげた。歳の頃は四十歳ほどだろうか。恰幅のいい身体に真っ白のエプロンを身につけている。
「トリシャ嬢、彼女はカミラといって、うちで一番長く働いてくれている人です。主に厨房を任せていますので、あなたとあまり顔を合わせることはないと思いますが」
「そうなのですね。はじめまして、カミラ。じつはわたくし、台所仕事の経験が少しだけありますの。この地域の郷土料理やヘルマン様の好物の作り方について、ぜひ教えていただきたいわ」
何せトリシャは物心ついたときから貧乏で、十歳の頃から使用人のドーシャと一緒に台所に立ち続けた経歴の持ち主だ。加えて家事全般が大好きでもある。
だがカミラは赤ら顔を瞬時に青くして「とんでもない!」と叫んだ。
「そ、その、王都のご令嬢にうちの厨房なんて、絶対に無理です! へ、ヘルマン様、そうですよね!?」
「あ、あぁ、そうだな。トリシャ嬢、伯爵家や道中のホテル並みとまではさすがにいきませんが、カミラの腕もなかなかですので、どうかお任せを」
「あら、でも……」
やる気満々のトリシャは、少ない荷物にもエプロンを忍ばせていた。なんなら今日からでも手伝えるのにと訴えようとしたとき。
嫁ぐ直前、何やら神妙な顔をした父に言われたことを思い出した。
「いいかい、トリシャ。おまえはいささか物事を独自に解釈しすぎるところがないでもない……というかある。それもおまえのかわいいところだと私は思っているが、一般的な令嬢の常識であるかどうかは微妙なところだ。だからリドル家に嫁入りした暁には、何事もまずヘルマン殿にお伺いをたててから行うようにしなさい。そうすればきっとバレな……いや、とにかくだな、自分の常識を通そうとしてはいけないよ。あちらにはあちらの事情があるのだからね」
つまりは何事もヘルマンに確認をしなければならないし、ヘルマンがダメだと言ったことは慎んだ方がいいということだ。
(そうね、トリシャ。ここはお父様の教えに倣って引き下がりましょう。カミラから見れば私は突如として現れた余所者。そんな者に厨房をいきなり引っ掻き回されては困るわよね)
それに一般的なご令嬢はそもそも厨房には立たないということくらい、トリシャも知っている。ノーマン家の台所事情が緊急事態だったから自分に任されていたに過ぎないのだということも。
リドル家もかつては貧しかったそうだが、今ではこれほど多くの使用人を抱えているおうちだ。借金の精算もクレア妃と王家のおかげでどうにかなったと聞いている。侍女やメイドのひとりも連れてくることができなかったトリシャの実家よりも、ずっと貴族らしい生活を取り戻し済みなのだろう。
となればもしかすると、トリシャが得意としている屑野菜を使ったパイのかさ増し方法や、砂糖を使わずに甘いケーキを焼き上げるレシピや、庭の野草を乾燥させた茶葉などは喜ばれないかもしれない。でもリドル領の豊かな自然の中なら、王都の屋敷にいつの間にか飛来してトリシャがせっせと増やしたあの野草が見つかりそうなのだけど……と考えていると、ヘルマンが二階を指差した。
「トリシャ嬢、長旅でお疲れでしょう。お部屋に案内します。誰か彼女の荷物を運んでやってくれ」
ヘルマンの声かけに若い男性の使用人がトランクを抱えてくれた。トリシャはそのままエスコートを受けて二階への階段を登る。張られた絨毯は若干色褪せてはいるが、丁寧に掃除されていることが伺えた。幅の広い廊下には塗りたてのニスの匂いがほのかに満ちている。
家事経験のあるトリシャには、この家の使用人たちがどれだけ丁寧に出迎えの準備をしてくれたのかが手に取るようにわかった。古びた物を丁寧に使い込んでいる様子も伺えて、使用人たちの勤勉さや、それを指揮しているヘルマンの人となりにしみじみ感じ入るのだった。
「とても大きなお屋敷ですね。びっくりいたしました」
「金回りの良かった祖父の時代に建てられたものです。それまでは家族の部屋がひとつずつある程度のこじんまりした家だったらしいんですが……その方が身の丈にあっていただろうなと思うのですがね」
自慢する気配は微塵もなく、どこか遠い目をしながら語るヘルマンの言い分は、少しだけわかる気もした。リドル領は農業と牧畜が主産業の領地だ。牧歌的な田園風景の真ん中にまるで城のように聳える屋敷は、風景に馴染んでいるとは言い難い。
この屋敷を建てたヘルマンの祖父は画商だったそうだ。自由気ままな性質の人で、領地経営を弟に任せ、自分は仕事にかこつけて海外を渡り歩いていたらしい。たまたま他所の国から買い付けた芸術品のいくつかが世紀の大発見と言われるほどの名品だったそうで、王家や王立美術館に買い上げられるなど、多大な功績をあげることになった。
ちなみにこの話は王都でも未だ語り継がれるほど有名な話だ。クレア妃がジュリアス第三王子の妃に内定したときも、「あのリドル子爵家か!」と世間を騒がせたものだ。
だがその栄光も長くは続かず。突如として財をなしたリドル伯爵家は浮かれた勢いで屋敷を分不相応なものに建て直し、領地経営においても知恵を絞ることなく、どうせ金はあるのだからとお金で解決することを繰り返した。祖父は二匹目三匹目のドジョウを狙って高価な芸術品を買い漁り、晩年には偽物を掴まされ、多額の損失を抱えることになってしまった。
ひとり息子だったヘルマンの父は、そんな祖父を見て育ったためか芸術への造詣は深いものの、見る目は今ひとつ。お人よしの性格も災いして、若く無名な芸術家に支援目的で投資してはトンズラされるなど残念な出来事を繰り返した結果、リドル家の財政は一気に傾き、ヘルマンが十歳をすぎる頃にはすっかり昔の面影は無くなってしまったのだとか。
長きに渡り放置だった領地の農業や牧畜の技術はもはや全時代的で、収益を上げようにも設備投資が必要な状態。祖父の時代に金にあかせて建てた屋敷も老朽化が目立ちはじめ、どうにかしようにも修繕費の工面もできない。
そんな状態で跡目を継いだヘルマンは、ただただ愚直に働きながら借金を返済してきたらしい。
「トリシャ嬢、どうぞ中へ。見た目は古いですが最近やっと修繕に手が回せるようになりましたので、中は比較的整っています」
妹のクレア妃が王家に嫁ぐ際の支度金で、まずは家を整えたのだという。確かに王子妃の実家が壊れかけたおんぼろ屋敷というのは頂けない。
ヘルマンのエスコートを受けて玄関に入れば、そこには揃いのお仕着せを着た使用人たちが十人ほど一斉に頭を下げていた。
「あぁ、みんな揃っているようだな。紹介しよう。その、つ、つ、つつつ妻となったトリシャ・ノーマン伯爵令嬢だ」
「皆様はじめまして。どうぞトリシャとお呼びください」
トリシャが軽く会釈をして微笑めば、一瞬だけ目の合った使用人たちが再び一斉に頭を下げた。
「使用人たちの名前はおいおい覚えていただくとして、先にひとりだけ……カミラ」
「は、はいっ!」
カミラと呼ばれた女性はヘルマンに呼ばれ慌てて頭をあげた。歳の頃は四十歳ほどだろうか。恰幅のいい身体に真っ白のエプロンを身につけている。
「トリシャ嬢、彼女はカミラといって、うちで一番長く働いてくれている人です。主に厨房を任せていますので、あなたとあまり顔を合わせることはないと思いますが」
「そうなのですね。はじめまして、カミラ。じつはわたくし、台所仕事の経験が少しだけありますの。この地域の郷土料理やヘルマン様の好物の作り方について、ぜひ教えていただきたいわ」
何せトリシャは物心ついたときから貧乏で、十歳の頃から使用人のドーシャと一緒に台所に立ち続けた経歴の持ち主だ。加えて家事全般が大好きでもある。
だがカミラは赤ら顔を瞬時に青くして「とんでもない!」と叫んだ。
「そ、その、王都のご令嬢にうちの厨房なんて、絶対に無理です! へ、ヘルマン様、そうですよね!?」
「あ、あぁ、そうだな。トリシャ嬢、伯爵家や道中のホテル並みとまではさすがにいきませんが、カミラの腕もなかなかですので、どうかお任せを」
「あら、でも……」
やる気満々のトリシャは、少ない荷物にもエプロンを忍ばせていた。なんなら今日からでも手伝えるのにと訴えようとしたとき。
嫁ぐ直前、何やら神妙な顔をした父に言われたことを思い出した。
「いいかい、トリシャ。おまえはいささか物事を独自に解釈しすぎるところがないでもない……というかある。それもおまえのかわいいところだと私は思っているが、一般的な令嬢の常識であるかどうかは微妙なところだ。だからリドル家に嫁入りした暁には、何事もまずヘルマン殿にお伺いをたててから行うようにしなさい。そうすればきっとバレな……いや、とにかくだな、自分の常識を通そうとしてはいけないよ。あちらにはあちらの事情があるのだからね」
つまりは何事もヘルマンに確認をしなければならないし、ヘルマンがダメだと言ったことは慎んだ方がいいということだ。
(そうね、トリシャ。ここはお父様の教えに倣って引き下がりましょう。カミラから見れば私は突如として現れた余所者。そんな者に厨房をいきなり引っ掻き回されては困るわよね)
それに一般的なご令嬢はそもそも厨房には立たないということくらい、トリシャも知っている。ノーマン家の台所事情が緊急事態だったから自分に任されていたに過ぎないのだということも。
リドル家もかつては貧しかったそうだが、今ではこれほど多くの使用人を抱えているおうちだ。借金の精算もクレア妃と王家のおかげでどうにかなったと聞いている。侍女やメイドのひとりも連れてくることができなかったトリシャの実家よりも、ずっと貴族らしい生活を取り戻し済みなのだろう。
となればもしかすると、トリシャが得意としている屑野菜を使ったパイのかさ増し方法や、砂糖を使わずに甘いケーキを焼き上げるレシピや、庭の野草を乾燥させた茶葉などは喜ばれないかもしれない。でもリドル領の豊かな自然の中なら、王都の屋敷にいつの間にか飛来してトリシャがせっせと増やしたあの野草が見つかりそうなのだけど……と考えていると、ヘルマンが二階を指差した。
「トリシャ嬢、長旅でお疲れでしょう。お部屋に案内します。誰か彼女の荷物を運んでやってくれ」
ヘルマンの声かけに若い男性の使用人がトランクを抱えてくれた。トリシャはそのままエスコートを受けて二階への階段を登る。張られた絨毯は若干色褪せてはいるが、丁寧に掃除されていることが伺えた。幅の広い廊下には塗りたてのニスの匂いがほのかに満ちている。
家事経験のあるトリシャには、この家の使用人たちがどれだけ丁寧に出迎えの準備をしてくれたのかが手に取るようにわかった。古びた物を丁寧に使い込んでいる様子も伺えて、使用人たちの勤勉さや、それを指揮しているヘルマンの人となりにしみじみ感じ入るのだった。
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