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本編
思いがけない涙
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どうやって自分の部屋まで戻ったのかわからない。
いつの間にかソファに座り込んでいたトリシャは、暖炉の薪が崩れる音ではっと覚醒した。
ヘルマンと話をしたくて一階に降り、廊下の奥の部屋から彼とカミラの声が漏れてくるのに気がついた。そこで見たのは、遅い食事をとりながら怒り任せに机を叩く夫の姿だった。
苛立ちを隠せないまま机にあたっただけではない、悪態をつきながら「まだ居座っているのか」と吐き捨てた。
(あれは誰のことを言っていたの……?)
自分で自分に問いかけながらも、その答えに辿り着きたくなくて身体をぶるりと震わせる。
けれどトリシャの耳には、いつもの穏やかなヘルマンとは違う、険のある響きが残っていた。
『いつまでたってもまともに夕食さえとれない』
『碌に仕事もせずお気楽』
『食事を抜けばいいんじゃないか』
ぐるぐると頭の中に響く彼の言葉を追いかけていると、部屋にノックの音が響いた。はっと顔を上げれば、固く閉じられた扉の向こうから「トリシャ嬢」と呼びかけるヘルマンの声がした。
すぐに立ちあがろうとしたものの、身体が震えて動かない。いつもなら駆け寄って労るところなのに、トリシャの足は一歩も進もうとしなかった。
「トリシャ嬢、いらっしゃいますか?」
「は、はい……」
扉を開けなければ。彼は忙しい中時間を作って領地を案内してくれた。そのお礼も十分にできていない。西地区の風車のトラブルは大丈夫だったのか、それも確認すべきだ。
「トリシャ嬢、もしかしてお疲れでしょうか。その、夕食の進みが悪かったと聞いているのですが、何か不備がありましたか?」
今晩のメニューはホワイトシチューだった。子猫に分け与えようにも難しく、メッセージカードの件からくる食欲不振を引きずって、大半を残してしまった。
これ以上いらぬ心配をかけるわけにはいかない。心に鞭打つようにして立ち上がって、入り口に近づく。けれど扉を開けることがどうしてもできなかった。
「……いえ、お食事に問題はありません。ヘルマン様のおっしゃる通り、少し疲れてしまったみたいです。今日は、このまま休みたいと思います」
無言のままでいれば部屋に押し入られてしまうかもしれない。この家の主人である彼にはその権利がある。
今はヘルマンの顔を見る勇気が持てそうになかった。震えそうになる声を抑えてなんとか扉越しに返事をすれば、その向こうで慌てる気配があった。
「大丈夫ですか? 医者を手配した方が……!」
「いえ、それには及びませんわ。一晩休めばよくなりますから」
病気などではなく、いろんなショックで気力が保てないだけのこと。むしろ呼ばれた医者の方が困るだろう。それにリドル領に医者はおらず、必要な場合は隣の伯爵領まで出向かねばならないと聞いている。こんな夜半に誰かを走らせるなどもってのほかだ。
(だってみんな、私のためにそんなことしたくないかもしれないのよ)
今まで見えていなかった自分の立ち位置が、今日拾ったいろんなこぼれ話をつなげることで見えてきてしまった。
だけど。
トリシャは何かに縋るように顔を上げた。目に映るのは子爵夫人の部屋の重厚な扉。その向こうに、自分がつい先ほど好きだと意識したばかりの夫が立っている。アッシュブロンドの髪を無造作にかき揚げ、意志の強そうなきりりとした眉の下の、琥珀色の瞳が優しくトリシャに微笑む姿を、もう知ってしまった。
「あの、ヘルマン様。お伺いしたいことがあります」
彼はいつだって自分のことを気にかけ、優しい言葉をかけてくれた。ごく当たり前のことも当たり前とすませずに、深い感謝の気持ちを向けてくれた。
この人なら信じられると、そう思ったから好きになったのだ。
だから、気になることがあっても、信じられないことがあっても、まず彼に聞いてみようと思った。
消えてしまいそうになる勇気を両手でかき集めながら、どうにか顔を上げる。
「あの、このお屋敷の三階に上がってみたいのです」
そこに誰かがいるのだとして、それがヘルマンに関係がある人なのだとして、自分もそれを知りたい。
彼が真摯に説明してくれるなら、受け入れようと、そう思ったのに。
「さ、三階ですか!? いや、あそこは普段は使っていないので」
「知っています。でもわたくし、この屋敷の女主人として見ておきたいと思うのです」
「トリシャ嬢にお見せするなんてとんでもない! その、掃除も行き届いていなくてですね……」
「ミーナが掃除に上がるのを見たのです」
「ミーナは特別で……いえ、そ、そうだ! 実はあなたがいらっしゃる前に屋敷を改修したのですが、予算の都合で三階には手が回らず、古いまま放置しているのです。その、雨漏りのせいで廊下が腐っていたりもするので、上がって怪我でもされては困ります」
「でしたら誰か……ミーナにでも案内してもらいながら……」
「とにかく……! 三階は立ち入り禁止で願います。その他の部屋でしたら自由に出入りしていただいてかまいませんので!」
明らかに狼狽するヘルマンに、さすがのトリシャも苛立ちを感じた。ここまで頑なに三階への立ち入りを禁ずるのは、自分に見られては困るものがそこにあるということではないのか。
そう思えば、口が滑るのを止めることができなかった。
「それは……“青の方”に関係があるからですか?」
「な……っ、なぜその名前を!」
扉越しに慌てるヘルマンは、自分が失言をしたことに気づいたのだろう。息を呑んだまま無言になった。その沈黙が何よりの明言だと、絶望的なまでに感じた。
「……わかりました。三階には上がりません。どうぞご安心ください」
「トリシャ嬢、あの……っ」
「疲れているのでこれで失礼しますね。おやすみなさい」
それだけ言い置いてトリシャは扉の前を離れた。ふらふらとソファに倒れ込んだ後も、自分を気遣うようなノックの音が何回か響いたが、耳を塞いでやり過ごせば、やがてその気配も消えた。
部屋の明かりもつけないまま、膝を抱えて丸くなった。薪の爆ぜる音だけが静かな空間に響き、トリシャの虚ろな瞳に炎が揺らめく。
何事もヘルマンにお伺いを立てるようにという父の助言のもと、勇気を振り絞って聞いてみた三階の部屋こと。だがヘルマンは質問に答えるどころか、ごまかすように会話を終わらせようとした。ショックを受けたトリシャはつい“青の方”のことまで口にしてしまった。その結果がヘルマンからの沈黙の返答だ。
必死にかき集めた勇気の欠片が、ちりじりになって燃え尽きていく。
いつの間にかトリシャの頬を涙が伝っていた。
(三階には絶対にあがるなって、強く言われてしまったわ。それに “青の方”のことも……)
トリシャに知られたくなかったことが明白なほどの狼狽ぶりが、何を意味するのか。
一階で聞いたヘルマンとカミラの会話の続きが思い出される。
『——自分はこんな結婚をするつもりなんてなかった』
ぐさりと心を抉るセリフの後、カミラが『“青の方”の方がよかったのですよね』と尋ねれば——ヘルマンは『紛れもなく本心だ』と頷いた。
ここから導き出される答えは……ただひとつ。
(ヘルマン様は、わたくしと結婚したくなかった。なぜならヘルマン様には“青の方”がいらしたから……)
そしてその“青の方”は三階に住んでいる。トリシャが輿入れしてくるよりもずっと前からこの屋敷の住人で、ミーナやカミラとも親しくてしていた。今もまた物音ひとつ立てず息を顰めるようにして、ただ静かに部屋の中で過ごしている。なぜならば。
『——子どもが生まれる前になんとしてでも追い出したい』
ヘルマンが追い出したいのは自分。その理由は……“青の方”が、妊娠しているから。結婚したかった女性との間にもうすぐ子どもが産まれる状況で、王命による政略で押し付けられた名ばかりの妻に、いつまでも居座られてはたまらない。
だから早く出て行ってほしいのだと、そんな事情が見えてしまった。
頬を伝う涙は、抱えたトリシャの膝に落ちて、ドレスに幾つものシミを作った。冷静に答えまで辿り着けたというのに、トリシャの感情はぐちゃぐちゃなままだ。
自分とヘルマンの結婚は王命により決められた。双方断ることもできず、話が持ち上がって式を迎えるまで数ヶ月しかなかった。式のぎりぎりまで領地にいたヘルマンは冬支度に忙しかったと聞いているが、きっとそれだけではなかったのだろう。
(愛する女性の処遇について、どうすべきか奔走していたのかもしれないわ)
トリシャを迎えるにあたって、“青の方”をどこかに匿わなければならない。だが妊娠もしている彼女を屋敷から移動させるのは忍びない。ひとまず三階に部屋を移して凌ぐことにしたのは、輿入れしてきたトリシャが田舎暮らしに耐えられず、自ら出ていくと踏んでのことか。
ひとつ思い至れば、ほかにも納得のいくことがたくさんあった。彼が毎日トリシャを気遣っていたのは、トリシャが“青の方”に気づいていないか確認するため。使用人たちがよそよそしいのは、皆“青の方”を慕っているから。領民たちがどこか遠巻きにしていたのも、皆“青の方”がヘルマンの妻になるのだと思っていたから。
そして、未だ夫婦の寝室が別々で、初夜がなされない事情も。
(ヘルマン様は、わたくしと本当の意味で結婚するつもりなんてなかったのだわ。なぜなら彼には……“青の方”がいらっしゃるから)
そういえばこの部屋と隣の寝室は、ヘルマンの両親が使っていたものだと聞かされた。政略結婚の妻にそれを与えたのは、もともとヘルマンと“青の方”が使っていた部屋ではないからだろう。
だから彼は頑なに向こうの部屋を使わない。ヘルマンが妻と呼びたいのは自分ではないから。
抱えた膝に顔をこすりつけて嗚咽を我慢する。それでも溢れてしまう涙と声が、静かな部屋に響いてしまう。
「ふ……ううっく、なんで、なんで今なの……っ」
気づくならもっと早く気づきたかった。少なくとも自分がヘルマンを好きだと気づく前に。それならまだ、この胸の痛みも苦しみも、もっと軽かったはずだ。政略結婚の妻としての自分が気に入られなかっただけと、割り切ってしまえたのに。
(どうしよう……この先いったいどうしたらいいの)
明日の朝もヘルマンは訪ねてくるだろう。苛立つ存在であるはずの自分に対して、本音を見せることなく、いつもの通りにこやかに朝の挨拶をするために。
そんな彼にどう対応したらいいのかわからない。
自分がここにいていいのかもわからない。
ぐるぐると渦巻く感情は暖炉の炎と同じように蠢いて、トリシャの心を暗く重く照らしていた。
いつの間にかソファに座り込んでいたトリシャは、暖炉の薪が崩れる音ではっと覚醒した。
ヘルマンと話をしたくて一階に降り、廊下の奥の部屋から彼とカミラの声が漏れてくるのに気がついた。そこで見たのは、遅い食事をとりながら怒り任せに机を叩く夫の姿だった。
苛立ちを隠せないまま机にあたっただけではない、悪態をつきながら「まだ居座っているのか」と吐き捨てた。
(あれは誰のことを言っていたの……?)
自分で自分に問いかけながらも、その答えに辿り着きたくなくて身体をぶるりと震わせる。
けれどトリシャの耳には、いつもの穏やかなヘルマンとは違う、険のある響きが残っていた。
『いつまでたってもまともに夕食さえとれない』
『碌に仕事もせずお気楽』
『食事を抜けばいいんじゃないか』
ぐるぐると頭の中に響く彼の言葉を追いかけていると、部屋にノックの音が響いた。はっと顔を上げれば、固く閉じられた扉の向こうから「トリシャ嬢」と呼びかけるヘルマンの声がした。
すぐに立ちあがろうとしたものの、身体が震えて動かない。いつもなら駆け寄って労るところなのに、トリシャの足は一歩も進もうとしなかった。
「トリシャ嬢、いらっしゃいますか?」
「は、はい……」
扉を開けなければ。彼は忙しい中時間を作って領地を案内してくれた。そのお礼も十分にできていない。西地区の風車のトラブルは大丈夫だったのか、それも確認すべきだ。
「トリシャ嬢、もしかしてお疲れでしょうか。その、夕食の進みが悪かったと聞いているのですが、何か不備がありましたか?」
今晩のメニューはホワイトシチューだった。子猫に分け与えようにも難しく、メッセージカードの件からくる食欲不振を引きずって、大半を残してしまった。
これ以上いらぬ心配をかけるわけにはいかない。心に鞭打つようにして立ち上がって、入り口に近づく。けれど扉を開けることがどうしてもできなかった。
「……いえ、お食事に問題はありません。ヘルマン様のおっしゃる通り、少し疲れてしまったみたいです。今日は、このまま休みたいと思います」
無言のままでいれば部屋に押し入られてしまうかもしれない。この家の主人である彼にはその権利がある。
今はヘルマンの顔を見る勇気が持てそうになかった。震えそうになる声を抑えてなんとか扉越しに返事をすれば、その向こうで慌てる気配があった。
「大丈夫ですか? 医者を手配した方が……!」
「いえ、それには及びませんわ。一晩休めばよくなりますから」
病気などではなく、いろんなショックで気力が保てないだけのこと。むしろ呼ばれた医者の方が困るだろう。それにリドル領に医者はおらず、必要な場合は隣の伯爵領まで出向かねばならないと聞いている。こんな夜半に誰かを走らせるなどもってのほかだ。
(だってみんな、私のためにそんなことしたくないかもしれないのよ)
今まで見えていなかった自分の立ち位置が、今日拾ったいろんなこぼれ話をつなげることで見えてきてしまった。
だけど。
トリシャは何かに縋るように顔を上げた。目に映るのは子爵夫人の部屋の重厚な扉。その向こうに、自分がつい先ほど好きだと意識したばかりの夫が立っている。アッシュブロンドの髪を無造作にかき揚げ、意志の強そうなきりりとした眉の下の、琥珀色の瞳が優しくトリシャに微笑む姿を、もう知ってしまった。
「あの、ヘルマン様。お伺いしたいことがあります」
彼はいつだって自分のことを気にかけ、優しい言葉をかけてくれた。ごく当たり前のことも当たり前とすませずに、深い感謝の気持ちを向けてくれた。
この人なら信じられると、そう思ったから好きになったのだ。
だから、気になることがあっても、信じられないことがあっても、まず彼に聞いてみようと思った。
消えてしまいそうになる勇気を両手でかき集めながら、どうにか顔を上げる。
「あの、このお屋敷の三階に上がってみたいのです」
そこに誰かがいるのだとして、それがヘルマンに関係がある人なのだとして、自分もそれを知りたい。
彼が真摯に説明してくれるなら、受け入れようと、そう思ったのに。
「さ、三階ですか!? いや、あそこは普段は使っていないので」
「知っています。でもわたくし、この屋敷の女主人として見ておきたいと思うのです」
「トリシャ嬢にお見せするなんてとんでもない! その、掃除も行き届いていなくてですね……」
「ミーナが掃除に上がるのを見たのです」
「ミーナは特別で……いえ、そ、そうだ! 実はあなたがいらっしゃる前に屋敷を改修したのですが、予算の都合で三階には手が回らず、古いまま放置しているのです。その、雨漏りのせいで廊下が腐っていたりもするので、上がって怪我でもされては困ります」
「でしたら誰か……ミーナにでも案内してもらいながら……」
「とにかく……! 三階は立ち入り禁止で願います。その他の部屋でしたら自由に出入りしていただいてかまいませんので!」
明らかに狼狽するヘルマンに、さすがのトリシャも苛立ちを感じた。ここまで頑なに三階への立ち入りを禁ずるのは、自分に見られては困るものがそこにあるということではないのか。
そう思えば、口が滑るのを止めることができなかった。
「それは……“青の方”に関係があるからですか?」
「な……っ、なぜその名前を!」
扉越しに慌てるヘルマンは、自分が失言をしたことに気づいたのだろう。息を呑んだまま無言になった。その沈黙が何よりの明言だと、絶望的なまでに感じた。
「……わかりました。三階には上がりません。どうぞご安心ください」
「トリシャ嬢、あの……っ」
「疲れているのでこれで失礼しますね。おやすみなさい」
それだけ言い置いてトリシャは扉の前を離れた。ふらふらとソファに倒れ込んだ後も、自分を気遣うようなノックの音が何回か響いたが、耳を塞いでやり過ごせば、やがてその気配も消えた。
部屋の明かりもつけないまま、膝を抱えて丸くなった。薪の爆ぜる音だけが静かな空間に響き、トリシャの虚ろな瞳に炎が揺らめく。
何事もヘルマンにお伺いを立てるようにという父の助言のもと、勇気を振り絞って聞いてみた三階の部屋こと。だがヘルマンは質問に答えるどころか、ごまかすように会話を終わらせようとした。ショックを受けたトリシャはつい“青の方”のことまで口にしてしまった。その結果がヘルマンからの沈黙の返答だ。
必死にかき集めた勇気の欠片が、ちりじりになって燃え尽きていく。
いつの間にかトリシャの頬を涙が伝っていた。
(三階には絶対にあがるなって、強く言われてしまったわ。それに “青の方”のことも……)
トリシャに知られたくなかったことが明白なほどの狼狽ぶりが、何を意味するのか。
一階で聞いたヘルマンとカミラの会話の続きが思い出される。
『——自分はこんな結婚をするつもりなんてなかった』
ぐさりと心を抉るセリフの後、カミラが『“青の方”の方がよかったのですよね』と尋ねれば——ヘルマンは『紛れもなく本心だ』と頷いた。
ここから導き出される答えは……ただひとつ。
(ヘルマン様は、わたくしと結婚したくなかった。なぜならヘルマン様には“青の方”がいらしたから……)
そしてその“青の方”は三階に住んでいる。トリシャが輿入れしてくるよりもずっと前からこの屋敷の住人で、ミーナやカミラとも親しくてしていた。今もまた物音ひとつ立てず息を顰めるようにして、ただ静かに部屋の中で過ごしている。なぜならば。
『——子どもが生まれる前になんとしてでも追い出したい』
ヘルマンが追い出したいのは自分。その理由は……“青の方”が、妊娠しているから。結婚したかった女性との間にもうすぐ子どもが産まれる状況で、王命による政略で押し付けられた名ばかりの妻に、いつまでも居座られてはたまらない。
だから早く出て行ってほしいのだと、そんな事情が見えてしまった。
頬を伝う涙は、抱えたトリシャの膝に落ちて、ドレスに幾つものシミを作った。冷静に答えまで辿り着けたというのに、トリシャの感情はぐちゃぐちゃなままだ。
自分とヘルマンの結婚は王命により決められた。双方断ることもできず、話が持ち上がって式を迎えるまで数ヶ月しかなかった。式のぎりぎりまで領地にいたヘルマンは冬支度に忙しかったと聞いているが、きっとそれだけではなかったのだろう。
(愛する女性の処遇について、どうすべきか奔走していたのかもしれないわ)
トリシャを迎えるにあたって、“青の方”をどこかに匿わなければならない。だが妊娠もしている彼女を屋敷から移動させるのは忍びない。ひとまず三階に部屋を移して凌ぐことにしたのは、輿入れしてきたトリシャが田舎暮らしに耐えられず、自ら出ていくと踏んでのことか。
ひとつ思い至れば、ほかにも納得のいくことがたくさんあった。彼が毎日トリシャを気遣っていたのは、トリシャが“青の方”に気づいていないか確認するため。使用人たちがよそよそしいのは、皆“青の方”を慕っているから。領民たちがどこか遠巻きにしていたのも、皆“青の方”がヘルマンの妻になるのだと思っていたから。
そして、未だ夫婦の寝室が別々で、初夜がなされない事情も。
(ヘルマン様は、わたくしと本当の意味で結婚するつもりなんてなかったのだわ。なぜなら彼には……“青の方”がいらっしゃるから)
そういえばこの部屋と隣の寝室は、ヘルマンの両親が使っていたものだと聞かされた。政略結婚の妻にそれを与えたのは、もともとヘルマンと“青の方”が使っていた部屋ではないからだろう。
だから彼は頑なに向こうの部屋を使わない。ヘルマンが妻と呼びたいのは自分ではないから。
抱えた膝に顔をこすりつけて嗚咽を我慢する。それでも溢れてしまう涙と声が、静かな部屋に響いてしまう。
「ふ……ううっく、なんで、なんで今なの……っ」
気づくならもっと早く気づきたかった。少なくとも自分がヘルマンを好きだと気づく前に。それならまだ、この胸の痛みも苦しみも、もっと軽かったはずだ。政略結婚の妻としての自分が気に入られなかっただけと、割り切ってしまえたのに。
(どうしよう……この先いったいどうしたらいいの)
明日の朝もヘルマンは訪ねてくるだろう。苛立つ存在であるはずの自分に対して、本音を見せることなく、いつもの通りにこやかに朝の挨拶をするために。
そんな彼にどう対応したらいいのかわからない。
自分がここにいていいのかもわからない。
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