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本編
思いがけない手紙
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どうやってベランダにネズミが仕込まれたのか。隣のベランダとの距離が近いから、そこから投げ捨てたのだろうか。あれこれ考えようとしたが、意味のないことに思えてすぐさま窓を閉じた。
昨日ベランダから外を眺めているとき、ヘルマンと目が合った気がした。彼は私がここに立っていることすら不快で、外に出るなと警告する意味であれを仕込んだのかもしれない。
彼からすれば自分は政略結婚の相手。愛する人との仲を割く邪魔な存在。田舎暮らしに根を上げてすぐに出ていくだろうと思っていたのに、しぶとく居座っているお飾りの妻。
だから初夜を行う必要もなく、結婚式での誓いのキスすらフリで終わらせた。
家政を任せるつもりもなければ、使用人と積極的に交流もさせたくない。ともに食事をとることすら不快で、ダイニングに呼ぶこともしない。
そこまで邪魔な妻なら、徹底的に冷たくして排除してくれてもいいのに、王命の重みのせいだろうか、毎朝トリシャに声をかけにくる。
今もまた控えめに響くノックの音に、びくりと身体が反応した。
「おはようございます。トリシャ嬢、今よろしいでしょうか」
「……はい」
扉も開けずに返事だけすると、ヘルマンは心配そうな声色で続けた。
「体調はいかがですか? 昨晩雪が降ったせいで今朝はかなり冷え込んでいます。もう外をご覧になりましたか?」
まるでベランダの新たな嫌がらせに気がついたかと問われているようで、辛くなったトリシャは首を振って否定した。
「いいえ、今起きたばかりで、気づいておりませんでした。それから体調はもう問題ありませんわ」
自分は何も見ていない、あなたたちの悪意に傷ついたりしていないと言わんばかりに、そう嘘をつく。けれどヘルマンは特に残念がる様子もなく、話を続けた。
「そうですか。予想通り、今年は初雪が早めでした。トリシャ嬢は雪を楽しみになさっていたので、ぜひ後でご覧になってください。一晩でかなり積もりましたから、きっと驚きますよ」
「そうですね」
すでに朝から驚いてばかりで、これ以上驚くことなどなさそうなのだが、曖昧に返事した。
「そうそう、朝早くからお伺いしたのは、手紙が届いたからなんです」
「手紙? どなたから?」
「妹から、あなた宛の手紙です」
「クレア妃殿下から、わたくし宛にでございますか?」
驚きと喜びから、ヘルマンの言葉が終わらぬうちに扉を開けた。起き抜けで夜着のまま、羽織もない状態だが構っていられなかった。
一日ぶりに見るヘルマンの驚いた顔に目もくれず、トリシャは彼が差し出した手紙を受け取った。
「まぁ! ありがとうございます……!」
この家に嫁いできた翌日、クレア宛にしたためたあの手紙の返事が届いたのだろう。久々の胸踊る出来事に、トリシャの表情も明るくなった。
「よかった、お元気そうですね……」
なぜかこちらを直視しないように目を逸らせたヘルマンは、そのままおずおずと切り出した。
「その、よければ朝食をご一緒にいかがでしょうか。雪が降れば外の仕事はしばらく休みになるんです」
「せっかくのお誘いですが、妃殿下のお手紙をゆっくり読みたいのです。それにお返事を書かねばならないかもしれませんので」
彼の本心はもうわかっている。自分でなく“青の方”ととるべき食事こそが、彼にとっての癒しであり日常なのだと。そこにお飾りの妻でしかない自分が割り込むのは気が引けるし、クレアからの手紙を一刻も早く開封したいのは本当だった。
「わたくしのことはどうぞお気遣いなく」
それだけ言い置いて扉をしめたトリシャは、急いでデスクに駆け寄りペーパーナイフを手にした。
伸びやかで大きいクレアの文字は、本人の清廉な性質を表しているようで好感が持てるものだった。トリシャの手紙に対する礼と、ヘルマンの仕事人間は今に始まったことではないからという説明、それにトリシャのことを心から気遣う空気が満ち溢れた、とても温かな手紙だった。
手紙を読みながら、じつはクレア妃もヘルマンの事情を知っていて、トリシャが冷遇されることを見越した上で結婚相手に定めたのではないかと抱いた疑いは、綺麗に霧散した。
彼女がヘルマンと仲がいいことは事実だろう。手紙に書かれたヘルマンの取扱説明書とも思えるリストには、クレアの鋭い観察力が存分に生かされた巧みな分析の中にも、兄を慕う愛情が見え隠れしていた。トリシャが懸命にリドル領に馴染もうとしている姿勢を評価した上で、焦らずゆっくりでいいといった優しいメッセージも添えられていて、そのどこにも嘘があるようには見えなかった。
ここ数日ずっとささくれ立っていた心に温かなものが染み入ってきて、反動で胸が痛くなる。その温かさはトリシャの心では受け止めきれず、大きな奔流となって一気に溢れ出た。
気がつけばトリシャは泣きながらペンをとっていた。青い便箋を広げ、取り繕うことも忘れてひたすらペンを走らせる。——クレア様、励ましのお手紙をありがとうございます。せっかく温かく送り出してくださったのに、私の努力が足りず、ご期待に添えることができそうにありません。ヘルマン様にはほかに愛する方がおり、その方は屋敷の三階で暮らしておられます。さらに妊娠もなさっていて、お飾りの妻である私は完全に邪魔者なのです。私たちは白い結婚で、一緒に食事をとることすら嫌がられています。使用人たちも皆、ヘルマン様と彼の愛する方の味方で、嫌がらせもされています。皆私を追い出したいようで——。
そこまでペンを走らせてからはっとした。自分はいったい何を書こうとしているのだろう。
これはヘルマンの妹であり、妃殿下となられた方への返信だ。こんな赤裸々なことを書くなんてもってのほかだし、許されることではない。
己を恥じるかのように俯けば、頬を伝った涙がぽたりと便箋に落ちて、文字を滲ませた。ひどい手紙の有様を見てようやく冷静になったトリシャは、書きかけのそれを横に避けた。
(クレア妃はなにもご存じないのだわ。だったら、ご心配をおかけするわけにはいかない)
涙を拭ったその手で新しい便箋を取り出し、今一度ペンを持つ。今度は当たり障りのない、丁寧な文章を心がけながら手紙をしたためた。けれど前回のように希望に満ちた気持ちなど持てぬ今、ごく普通の近況報告でさえさらさらと書き進めることができず、かなり時間を要してしまった。
朝食もそこそこに長い時間をかけて取り繕った手紙が仕上がったとき、再び部屋を訪れる者があった。
「トリシャ嬢、慌ただしくて申し訳ありません。昨日から部屋の掃除ができておりませんので、申し訳ないのですが今からメイドを入れさせていただけないでしょうか。それに薪の補充もさせていただきたいのです」
昨日一日部屋に閉じこもっていたため、部屋の掃除や片付けはスキップさせてもらっていた。さすがに二日連続というわけにはいかないと判断されたようだ。屋敷の主人であるヘルマンがわざわざそんな瑣末なことを伝えにきたことに恐縮したが、使用人たちは自分と話をすることを避けているようだから、彼が来ざるを得なかったのかもしれない。
掃除なら道具さえもらえれば自分でやりたいところだが、薪の補充はひとりでは無理だ。わかりましたと返事をしながら扉を開ければ、そこにはヘルマンとミーナの姿があった。
「わたくしのせいでお手間をかけてしまって申し訳ありません。どうぞ、お願いします」
扉を大きく開け放って二人を招き入れる。今から掃除をするならここにいては邪魔だろう。ヘルマンが一階の執務室か応接間への移動を提案してくれたが、丁重に断った。
「じつは昨晩、あまり眠れなくて。隣の寝室で少し休ませてもらいます」
歓迎されていない自分が屋敷を出歩くことを彼らはよしとしないはずだ。それなら寝室にこもってしまう方がいい。トリシャなりの気遣いのつもりでそう告げれば、ヘルマンはまたしても眉尻を下げた。何か言いたそうな視線を遮って寝室に移動しようとしたとき、手紙が書きかけだったことを思い出した。
「ヘルマン様、ちょうどよかったですわ。クレア様への返信を書いたのです。投函いただいてもいいでしょうか」
「もちろんです。先ほど集配があったばかりですが、ちょうど私も王都に送らねばならない書類があったので、東地区に向かう前にもう一度寄ってもらうよう伝えています。今日中に集荷してもらえますよ」
「助かります。少々お待ちください、今準備しますので」
デスクに取って返したトリシャは書き終えたばかりの便箋を手早く封筒に詰めた。それをヘルマンに渡し、自分は逃げるように寝室にこもる。ここ数日居室のソファで眠っていたこともあり、寝室のベッドは綺麗なままだ。念の為バルコニーもチェックしてみたが、何かが落ちている気配はなさそうだった。
暇つぶしにと持ち込んだ本をベッドの上で広げていると、居室の方から荒い物音がした。慌てるような話し声に加えて何やら歓声まで聞こえてくる。
(何か面白いものでも見つけたのかしら? あ……もしかしてベランダのあれ?)
嫌がらせが成功したことを喜んでいるのだとしたら、なんともいたたまれない。本の内容などちっとも頭に入ってこなかった。
ブランケットにくるまっていると、まだ午前中だというのになんだか眠くなってきた。ここ数日まともに眠れていなかったところに、寝心地のいいベッドに移動したせいだろうか。案外図太い自分の神経におかしみを感じながらも、生理的欲求に負けてついうとうとしてしまう。
居室の向こう側からノックする音が聞こえた気がした。答えることもできず、トリシャは束の間の休息を貪った。
そのまま寝入ってしまったトリシャが目を覚ましたのは数時間後のこと。寝室に移動していたことを思い出して、そっと居室を覗いてみると、すでにヘルマンとミーナの姿はなかった。暖炉の脇の薪が増えているところを見るに、掃除は完了したらしい。
まっさきにバルコニーを確認してみれば、そこも綺麗に片付けられていた。ほっと息をついて部屋を見渡すと、デスクの上が散らばっていることに気がついた。
「わたくしったら、片付けもせずにいたのね」
クレアへの返信を書くために使った道具をしまう暇もなく、寝室に逃げ込んでしまった。だらしない女主人と呆れられただろうか。それ以前にそもそも女主人と思われていないのだったわなどと思いながら、てきぱきと道具を所定の位置に戻していると、先ほど書き損じて避けていた便箋に指が触れた。
こんなものまで放置していたのかと気づいてざっと血の気が引いた。ヘルマンや使用人たちへの不満ともとれるも内容を彼らに見られでもすれば、嫌がらせがますますひどくなるかもしれない。便箋は四つ折りのままだし、道具はトリシャがいつも使う定位置から動かされた気配はなかったから、触られていないものと信じたい。
それにしても。これはヘルマンに早く手紙を託してしまいたい一心で焦ったための失敗だ。いくら自分の心が不調だからといって、浅はかな行為だったと反省する。今後は一層気をつけなければと自戒もこめながら、確認のために処分すべき便箋を広げた。
そこにあるのはトリシャが暴走する感情のままに書き殴った不満だらけの文章——ではなく、ごく形式的な時候の挨拶に始まり、丁寧さと誠実さを込めつつも、どこか他人行儀な印象が拭えない、当たり障りのない内容だった。
「これって、書き直した後の手紙よね。なぜこれがここにあるの?」
一瞬きょとんとしてしまったのち、血の気の引いたトリシャの顔からさらに色という色が失われた。
「た、た、た、大変! わたくし、書き損じた方の手紙を送ってしまったわ!」
勢い余って手紙を握りしめたまま、トリシャは部屋を飛び出した。
昨日ベランダから外を眺めているとき、ヘルマンと目が合った気がした。彼は私がここに立っていることすら不快で、外に出るなと警告する意味であれを仕込んだのかもしれない。
彼からすれば自分は政略結婚の相手。愛する人との仲を割く邪魔な存在。田舎暮らしに根を上げてすぐに出ていくだろうと思っていたのに、しぶとく居座っているお飾りの妻。
だから初夜を行う必要もなく、結婚式での誓いのキスすらフリで終わらせた。
家政を任せるつもりもなければ、使用人と積極的に交流もさせたくない。ともに食事をとることすら不快で、ダイニングに呼ぶこともしない。
そこまで邪魔な妻なら、徹底的に冷たくして排除してくれてもいいのに、王命の重みのせいだろうか、毎朝トリシャに声をかけにくる。
今もまた控えめに響くノックの音に、びくりと身体が反応した。
「おはようございます。トリシャ嬢、今よろしいでしょうか」
「……はい」
扉も開けずに返事だけすると、ヘルマンは心配そうな声色で続けた。
「体調はいかがですか? 昨晩雪が降ったせいで今朝はかなり冷え込んでいます。もう外をご覧になりましたか?」
まるでベランダの新たな嫌がらせに気がついたかと問われているようで、辛くなったトリシャは首を振って否定した。
「いいえ、今起きたばかりで、気づいておりませんでした。それから体調はもう問題ありませんわ」
自分は何も見ていない、あなたたちの悪意に傷ついたりしていないと言わんばかりに、そう嘘をつく。けれどヘルマンは特に残念がる様子もなく、話を続けた。
「そうですか。予想通り、今年は初雪が早めでした。トリシャ嬢は雪を楽しみになさっていたので、ぜひ後でご覧になってください。一晩でかなり積もりましたから、きっと驚きますよ」
「そうですね」
すでに朝から驚いてばかりで、これ以上驚くことなどなさそうなのだが、曖昧に返事した。
「そうそう、朝早くからお伺いしたのは、手紙が届いたからなんです」
「手紙? どなたから?」
「妹から、あなた宛の手紙です」
「クレア妃殿下から、わたくし宛にでございますか?」
驚きと喜びから、ヘルマンの言葉が終わらぬうちに扉を開けた。起き抜けで夜着のまま、羽織もない状態だが構っていられなかった。
一日ぶりに見るヘルマンの驚いた顔に目もくれず、トリシャは彼が差し出した手紙を受け取った。
「まぁ! ありがとうございます……!」
この家に嫁いできた翌日、クレア宛にしたためたあの手紙の返事が届いたのだろう。久々の胸踊る出来事に、トリシャの表情も明るくなった。
「よかった、お元気そうですね……」
なぜかこちらを直視しないように目を逸らせたヘルマンは、そのままおずおずと切り出した。
「その、よければ朝食をご一緒にいかがでしょうか。雪が降れば外の仕事はしばらく休みになるんです」
「せっかくのお誘いですが、妃殿下のお手紙をゆっくり読みたいのです。それにお返事を書かねばならないかもしれませんので」
彼の本心はもうわかっている。自分でなく“青の方”ととるべき食事こそが、彼にとっての癒しであり日常なのだと。そこにお飾りの妻でしかない自分が割り込むのは気が引けるし、クレアからの手紙を一刻も早く開封したいのは本当だった。
「わたくしのことはどうぞお気遣いなく」
それだけ言い置いて扉をしめたトリシャは、急いでデスクに駆け寄りペーパーナイフを手にした。
伸びやかで大きいクレアの文字は、本人の清廉な性質を表しているようで好感が持てるものだった。トリシャの手紙に対する礼と、ヘルマンの仕事人間は今に始まったことではないからという説明、それにトリシャのことを心から気遣う空気が満ち溢れた、とても温かな手紙だった。
手紙を読みながら、じつはクレア妃もヘルマンの事情を知っていて、トリシャが冷遇されることを見越した上で結婚相手に定めたのではないかと抱いた疑いは、綺麗に霧散した。
彼女がヘルマンと仲がいいことは事実だろう。手紙に書かれたヘルマンの取扱説明書とも思えるリストには、クレアの鋭い観察力が存分に生かされた巧みな分析の中にも、兄を慕う愛情が見え隠れしていた。トリシャが懸命にリドル領に馴染もうとしている姿勢を評価した上で、焦らずゆっくりでいいといった優しいメッセージも添えられていて、そのどこにも嘘があるようには見えなかった。
ここ数日ずっとささくれ立っていた心に温かなものが染み入ってきて、反動で胸が痛くなる。その温かさはトリシャの心では受け止めきれず、大きな奔流となって一気に溢れ出た。
気がつけばトリシャは泣きながらペンをとっていた。青い便箋を広げ、取り繕うことも忘れてひたすらペンを走らせる。——クレア様、励ましのお手紙をありがとうございます。せっかく温かく送り出してくださったのに、私の努力が足りず、ご期待に添えることができそうにありません。ヘルマン様にはほかに愛する方がおり、その方は屋敷の三階で暮らしておられます。さらに妊娠もなさっていて、お飾りの妻である私は完全に邪魔者なのです。私たちは白い結婚で、一緒に食事をとることすら嫌がられています。使用人たちも皆、ヘルマン様と彼の愛する方の味方で、嫌がらせもされています。皆私を追い出したいようで——。
そこまでペンを走らせてからはっとした。自分はいったい何を書こうとしているのだろう。
これはヘルマンの妹であり、妃殿下となられた方への返信だ。こんな赤裸々なことを書くなんてもってのほかだし、許されることではない。
己を恥じるかのように俯けば、頬を伝った涙がぽたりと便箋に落ちて、文字を滲ませた。ひどい手紙の有様を見てようやく冷静になったトリシャは、書きかけのそれを横に避けた。
(クレア妃はなにもご存じないのだわ。だったら、ご心配をおかけするわけにはいかない)
涙を拭ったその手で新しい便箋を取り出し、今一度ペンを持つ。今度は当たり障りのない、丁寧な文章を心がけながら手紙をしたためた。けれど前回のように希望に満ちた気持ちなど持てぬ今、ごく普通の近況報告でさえさらさらと書き進めることができず、かなり時間を要してしまった。
朝食もそこそこに長い時間をかけて取り繕った手紙が仕上がったとき、再び部屋を訪れる者があった。
「トリシャ嬢、慌ただしくて申し訳ありません。昨日から部屋の掃除ができておりませんので、申し訳ないのですが今からメイドを入れさせていただけないでしょうか。それに薪の補充もさせていただきたいのです」
昨日一日部屋に閉じこもっていたため、部屋の掃除や片付けはスキップさせてもらっていた。さすがに二日連続というわけにはいかないと判断されたようだ。屋敷の主人であるヘルマンがわざわざそんな瑣末なことを伝えにきたことに恐縮したが、使用人たちは自分と話をすることを避けているようだから、彼が来ざるを得なかったのかもしれない。
掃除なら道具さえもらえれば自分でやりたいところだが、薪の補充はひとりでは無理だ。わかりましたと返事をしながら扉を開ければ、そこにはヘルマンとミーナの姿があった。
「わたくしのせいでお手間をかけてしまって申し訳ありません。どうぞ、お願いします」
扉を大きく開け放って二人を招き入れる。今から掃除をするならここにいては邪魔だろう。ヘルマンが一階の執務室か応接間への移動を提案してくれたが、丁重に断った。
「じつは昨晩、あまり眠れなくて。隣の寝室で少し休ませてもらいます」
歓迎されていない自分が屋敷を出歩くことを彼らはよしとしないはずだ。それなら寝室にこもってしまう方がいい。トリシャなりの気遣いのつもりでそう告げれば、ヘルマンはまたしても眉尻を下げた。何か言いたそうな視線を遮って寝室に移動しようとしたとき、手紙が書きかけだったことを思い出した。
「ヘルマン様、ちょうどよかったですわ。クレア様への返信を書いたのです。投函いただいてもいいでしょうか」
「もちろんです。先ほど集配があったばかりですが、ちょうど私も王都に送らねばならない書類があったので、東地区に向かう前にもう一度寄ってもらうよう伝えています。今日中に集荷してもらえますよ」
「助かります。少々お待ちください、今準備しますので」
デスクに取って返したトリシャは書き終えたばかりの便箋を手早く封筒に詰めた。それをヘルマンに渡し、自分は逃げるように寝室にこもる。ここ数日居室のソファで眠っていたこともあり、寝室のベッドは綺麗なままだ。念の為バルコニーもチェックしてみたが、何かが落ちている気配はなさそうだった。
暇つぶしにと持ち込んだ本をベッドの上で広げていると、居室の方から荒い物音がした。慌てるような話し声に加えて何やら歓声まで聞こえてくる。
(何か面白いものでも見つけたのかしら? あ……もしかしてベランダのあれ?)
嫌がらせが成功したことを喜んでいるのだとしたら、なんともいたたまれない。本の内容などちっとも頭に入ってこなかった。
ブランケットにくるまっていると、まだ午前中だというのになんだか眠くなってきた。ここ数日まともに眠れていなかったところに、寝心地のいいベッドに移動したせいだろうか。案外図太い自分の神経におかしみを感じながらも、生理的欲求に負けてついうとうとしてしまう。
居室の向こう側からノックする音が聞こえた気がした。答えることもできず、トリシャは束の間の休息を貪った。
そのまま寝入ってしまったトリシャが目を覚ましたのは数時間後のこと。寝室に移動していたことを思い出して、そっと居室を覗いてみると、すでにヘルマンとミーナの姿はなかった。暖炉の脇の薪が増えているところを見るに、掃除は完了したらしい。
まっさきにバルコニーを確認してみれば、そこも綺麗に片付けられていた。ほっと息をついて部屋を見渡すと、デスクの上が散らばっていることに気がついた。
「わたくしったら、片付けもせずにいたのね」
クレアへの返信を書くために使った道具をしまう暇もなく、寝室に逃げ込んでしまった。だらしない女主人と呆れられただろうか。それ以前にそもそも女主人と思われていないのだったわなどと思いながら、てきぱきと道具を所定の位置に戻していると、先ほど書き損じて避けていた便箋に指が触れた。
こんなものまで放置していたのかと気づいてざっと血の気が引いた。ヘルマンや使用人たちへの不満ともとれるも内容を彼らに見られでもすれば、嫌がらせがますますひどくなるかもしれない。便箋は四つ折りのままだし、道具はトリシャがいつも使う定位置から動かされた気配はなかったから、触られていないものと信じたい。
それにしても。これはヘルマンに早く手紙を託してしまいたい一心で焦ったための失敗だ。いくら自分の心が不調だからといって、浅はかな行為だったと反省する。今後は一層気をつけなければと自戒もこめながら、確認のために処分すべき便箋を広げた。
そこにあるのはトリシャが暴走する感情のままに書き殴った不満だらけの文章——ではなく、ごく形式的な時候の挨拶に始まり、丁寧さと誠実さを込めつつも、どこか他人行儀な印象が拭えない、当たり障りのない内容だった。
「これって、書き直した後の手紙よね。なぜこれがここにあるの?」
一瞬きょとんとしてしまったのち、血の気の引いたトリシャの顔からさらに色という色が失われた。
「た、た、た、大変! わたくし、書き損じた方の手紙を送ってしまったわ!」
勢い余って手紙を握りしめたまま、トリシャは部屋を飛び出した。
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