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序章
幕間1-④
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一度だけの見舞いにするはずだったが、俺は次の週も、また次の週も、性懲りなく母の見舞いに出向いた。
つまらない言い訳は抜きにして、正直に言ってしまおう。
母の見舞いという建前で、俺は千賀燎火に会いたかったのだ。
それ以上でも、以下でもない。
笑ってしまう。自分の単細胞さと愚かさに。
あの日以来、彼女の存在は俺の中に焼きついてしまっていたのだ。
病室に入ると、彼女は母と談話をしているか、それとも窓の外をただ眺めているかのいずれかだった。
多分、空を見つめていたのだろう。
もしかしたら彼女にしか見えない、つい見入ってしまうような面白い映画が青空というスクリーン上に投影されていたのかもしれない。
彼女の実在を確認するたび、そんなつまらない空想を巡らせた。
母を介して俺に気がつくと、彼女は髪を撫でつけながら振り向いて、柔和な笑みを向けてくるのが常だった。
「ああ、永輔さん。来てくれたんですね」
さも歓喜したような無邪気な笑顔で、彼女はいつも俺を出迎えた。
その温度差のある態度を目にすることで俺は安心する。
くすんだ灰色をした世界が、彼女を中心として放射線状に色づき続ける。
そんな陳腐なイメージを幻視するほど、福島永輔は彼女に首っ丈だった。
俺は母という緩衝装置を介して、様々なことを彼女に話した。
数年の間、他人と会話らしい会話をしてこなかった俺のような日陰者が異性とまともな交流ができたのは、憎々しくも母の存在に依るところが大きかった。
家族の絆というものは良くも悪くも強固なものだ。
だがそれ以上に、相手が千賀燎火という特異な存在だったからこそ、在りし日の感覚を思い出せたのかもしれない。
彼女の前でだけは、まともな人間を演じることができたのだ。
一時間ほど、俺たちは他愛もない会話を交わした。
三人で、屋上に散歩をしに行ったこともあった。
病院の売店で菓子類を適当に買ってきて、看護師さんに許可を取ってささやかなパーティーを開いた時もあった。
楽観的な尺度で測れば、彼女も俺のことを好意的に捉えてくれていただろう。
だが彼女なりの線引きか、彼女は自分について多くを語らなかった。
その中で収集した断片的な知識を繋ぎ合わせてみよう。
彼女は若干七歳の時に、重篤な心筋症を患い入院した(正確には拡張型心筋症というらしい)。
その後の人生の中で何度も入退院を繰り返しながら、その半生のほとんどを病室と自宅で過ごしてきた。
まともに学校に行けなかったことを負い目にしているらしく、参考書を片手に午前中は勉強に励んでいるらしい。
高校範囲の数学や英語について、質問されることがあった。
数年前の無茶な受験勉強の名残で、なんとか面子を保つことができた。
地頭がいいのだろう。彼女は俺の拙い説明も、すぐに呑み込んでくれた。
ベッドの横の床頭台には、十冊ほどの小説や詩集が置かれてあった。
訪れるたび、そのレパートリーは数冊分変わっていた。
お気に入りなのか夏目漱石、梶井基次郎、中原中也、宮沢賢治といった顔ぶれが常に鎮座していた。
中にはメジャーな学術書や哲学書も紛れていて、彼女が積極的に知識を欲していることがよく分かった。
プラトン、デカルト、ショーペンハウアー、西田幾多郎などといった哲学者の本。
晦渋なそのセンスは、それを持ってきている彼女の保護者のものなのかもしれない。俺は薄々予想を立てていた。
真偽のほどを尋ねると、「ええ、その通りです。でも私には難しくて、難しい本は読んでもほとんど内容を理解できません」と恥じらうように答えた。
「でも難しい本を読んでいると、なんていうか、まるで空を飛んでいるような気分になれるんです。不思議ですよね。でも、私はここから出られないから、黒いインクの集まりだけが、広い世界を見させてくれるんですよ」
そんな切実な彼女の言葉がきっかけとなったのだろう。
大学在籍時に録音していた講義録とテキストを組み合わせて、彼女にどのような授業を行うのか再現しようと試みた。
そのことを提案すると、彼女は今までで一番喜んだ顔を浮かべて快諾してくれた。
自分の拙い説明と技量で、どこまで彼女が満足してくれていたかは分からない。
だがその時間になると俺を「先生」と呼び、集中してスピーカーと俺の声に聞き入っているように見えた。
即席の講義は何回か続き、それを見ていた看護師さんが上にかけあって、そのためのレクリエーションルームを用意してくれることになった。
こんなに順風満帆に事態が運ぶのは、生まれてこの方初めてだったかもしれない。
それに見合う成果を求めるため、俺は念密に台本を練って、分かりやすい資料を集めることに時間を捧げるようになった。
彼女の質問に答えるために、元のテキストを舐めるほど読み尽くす必要があったし、分かりやすい要約の作成に腐心した。
時間はいくらあっても足りなかった。
つまらない言い訳は抜きにして、正直に言ってしまおう。
母の見舞いという建前で、俺は千賀燎火に会いたかったのだ。
それ以上でも、以下でもない。
笑ってしまう。自分の単細胞さと愚かさに。
あの日以来、彼女の存在は俺の中に焼きついてしまっていたのだ。
病室に入ると、彼女は母と談話をしているか、それとも窓の外をただ眺めているかのいずれかだった。
多分、空を見つめていたのだろう。
もしかしたら彼女にしか見えない、つい見入ってしまうような面白い映画が青空というスクリーン上に投影されていたのかもしれない。
彼女の実在を確認するたび、そんなつまらない空想を巡らせた。
母を介して俺に気がつくと、彼女は髪を撫でつけながら振り向いて、柔和な笑みを向けてくるのが常だった。
「ああ、永輔さん。来てくれたんですね」
さも歓喜したような無邪気な笑顔で、彼女はいつも俺を出迎えた。
その温度差のある態度を目にすることで俺は安心する。
くすんだ灰色をした世界が、彼女を中心として放射線状に色づき続ける。
そんな陳腐なイメージを幻視するほど、福島永輔は彼女に首っ丈だった。
俺は母という緩衝装置を介して、様々なことを彼女に話した。
数年の間、他人と会話らしい会話をしてこなかった俺のような日陰者が異性とまともな交流ができたのは、憎々しくも母の存在に依るところが大きかった。
家族の絆というものは良くも悪くも強固なものだ。
だがそれ以上に、相手が千賀燎火という特異な存在だったからこそ、在りし日の感覚を思い出せたのかもしれない。
彼女の前でだけは、まともな人間を演じることができたのだ。
一時間ほど、俺たちは他愛もない会話を交わした。
三人で、屋上に散歩をしに行ったこともあった。
病院の売店で菓子類を適当に買ってきて、看護師さんに許可を取ってささやかなパーティーを開いた時もあった。
楽観的な尺度で測れば、彼女も俺のことを好意的に捉えてくれていただろう。
だが彼女なりの線引きか、彼女は自分について多くを語らなかった。
その中で収集した断片的な知識を繋ぎ合わせてみよう。
彼女は若干七歳の時に、重篤な心筋症を患い入院した(正確には拡張型心筋症というらしい)。
その後の人生の中で何度も入退院を繰り返しながら、その半生のほとんどを病室と自宅で過ごしてきた。
まともに学校に行けなかったことを負い目にしているらしく、参考書を片手に午前中は勉強に励んでいるらしい。
高校範囲の数学や英語について、質問されることがあった。
数年前の無茶な受験勉強の名残で、なんとか面子を保つことができた。
地頭がいいのだろう。彼女は俺の拙い説明も、すぐに呑み込んでくれた。
ベッドの横の床頭台には、十冊ほどの小説や詩集が置かれてあった。
訪れるたび、そのレパートリーは数冊分変わっていた。
お気に入りなのか夏目漱石、梶井基次郎、中原中也、宮沢賢治といった顔ぶれが常に鎮座していた。
中にはメジャーな学術書や哲学書も紛れていて、彼女が積極的に知識を欲していることがよく分かった。
プラトン、デカルト、ショーペンハウアー、西田幾多郎などといった哲学者の本。
晦渋なそのセンスは、それを持ってきている彼女の保護者のものなのかもしれない。俺は薄々予想を立てていた。
真偽のほどを尋ねると、「ええ、その通りです。でも私には難しくて、難しい本は読んでもほとんど内容を理解できません」と恥じらうように答えた。
「でも難しい本を読んでいると、なんていうか、まるで空を飛んでいるような気分になれるんです。不思議ですよね。でも、私はここから出られないから、黒いインクの集まりだけが、広い世界を見させてくれるんですよ」
そんな切実な彼女の言葉がきっかけとなったのだろう。
大学在籍時に録音していた講義録とテキストを組み合わせて、彼女にどのような授業を行うのか再現しようと試みた。
そのことを提案すると、彼女は今までで一番喜んだ顔を浮かべて快諾してくれた。
自分の拙い説明と技量で、どこまで彼女が満足してくれていたかは分からない。
だがその時間になると俺を「先生」と呼び、集中してスピーカーと俺の声に聞き入っているように見えた。
即席の講義は何回か続き、それを見ていた看護師さんが上にかけあって、そのためのレクリエーションルームを用意してくれることになった。
こんなに順風満帆に事態が運ぶのは、生まれてこの方初めてだったかもしれない。
それに見合う成果を求めるため、俺は念密に台本を練って、分かりやすい資料を集めることに時間を捧げるようになった。
彼女の質問に答えるために、元のテキストを舐めるほど読み尽くす必要があったし、分かりやすい要約の作成に腐心した。
時間はいくらあっても足りなかった。
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