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春の断章 -Comedy-
春の断章③-1
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新学期の初日は、まともな授業もなくあっという間に放課の時間になった。
中学生をほんの少し体験しただけで、ほとほと精神が参ってしまったのは言うまでもない。
この数年、まともに他人と関わることもなかった上に、それが十も歳が離れた少年たちときたものだ。
この感覚に慣れるには、相当な時間と研鑽が必要なのだろう。
まあ、そんな憂慮は脇に置いておこう。
俺の頭を一番悩ませていたのは、千賀燎火だった。
時々様子を盗み見ていたが、ほとんど神経質な鋭い瞳で窓の奥を見ているばかりで、まともに教師の話を聞いている様子ではなかった。
休み時間も一人でぽつんと机に座っているだけで、誰かと会話している光景はついぞ目撃することができなかった。
もしも俺の知っている彼女が学校生活を送っていたとしたら、俺などとは比べ物にならないほど華やかなものになっていただろう。
それだけの魅力が彼女にはあった。
認めたくないが、それより他に解釈のしようがない。
俺が病室で出会った千賀燎火と、三年二組に在籍している十年前の千賀燎火は別人だった。
放課後、彼女に声をかけようと決意していたが、新田たちに絡まれている間にいつの間にか教室からいなくなっていた。
彼らに用事があると嘘をついてその場を抜け出したが、すでに廊下のどこにも彼女の姿はなかった。
昇降口まで追いかければ、あるいは捕まえることができたかもしれない。
しかし、俺はそこで立ち止まってしまった。
正直に言って、怖かったのだ。
千賀燎火は俺にとって、たった一つの光だった。
その彼女が自分を忘れているどころか、まったくの別人として現れた事実を認めなくてはならないことが怖くて堪らなかった。
すごすごと教室へと引き返している最中、背後から「永輔くん」と俺を呼び止める声が聞こえた。
振り向くと日聖がいた。
「良かったら、一緒に帰らない?」と澄ました顔で言ってきた。
気後れしたが、断る言い訳を即座に見つけられなかった。
仕方なく承諾すると、日聖は「久しぶりだね。一緒に帰るの」と無邪気に歯茎を見せて笑った。
鞄を取りに教室に寄ってから、あまり近すぎない距離感を保って二人で廊下を歩く。
教室には、すでに数人の生徒しか残っていなかった。
初日から皆、部活や遊びでご多忙なのだろう。
陸上部に入部している新田たちの姿も、すでに教室にはなかった。
三年四組。その教室の前で足が止まる。
「どうしました?」
日聖が尋ねてくる。
「ちょっと待っててくれ」とひと声かけてから入り口に立った。
俺は「康太」と教室中に響くような声で、その名を呼びかけた。
彼はスポーツバッグを片手で背負うように持ちながら、だらしなく机の上に座ってて友人と会話をしていた。
すぐさま俺の声に気づいたらしく、彼はこちらに振り向いた。
「お、永輔」
人懐っこい微笑みを浮かべながら、宮内康太は俺のもとに駆け寄ってきた。
清涼剤のツンとした匂いが鼻腔をくすぐった。
薄い眉に彫りの深い端正な顔立ち。
スポーツマンらしい日焼けした皮膚と切り揃えられた髪。
高身長だというイメージがあったが、改めて見てみると俺と同じぐらいか、それより少し低いくらいの背丈だった。
凛々しく涼しげな雰囲気を纏わせ、いかにもクラスのカースト上位だという雰囲気を漂わせている。
「久々だな。休み中もほとんど顔合わせなかったろ?」
大義そうに頷いて、俺はあらかじめ用意していた台詞を吐いた。
「高熱で、ほとんど自分の部屋から出られなかったんだよ」
すると彼は盛大に吹き出して言った。
「まじかよ。せっかくの春休みを不意にしたって、やっぱりお前ついてないな」
「ああ、つくづくそう思う。康太はずっと練習だったんだろ?」
「そりゃあな。ほとんど毎日練習三昧な春休みだったよ」
そう言って彼は嘆息したが、その顔は本気で嫌がっているものではなかった。
いつかは顔を合わせることになるのだからと、勇み足で自分から接触しに行ったが、やはりそうだった。
福島永輔がもしかしたら享受していたかもしれない、幸福な新学期。
それがこの世界の正体だと、ようやく証明することができたのだ。
「今日もこれから練習なのか?」
「ああ、夏の大会まで間がないからな。あとの三ヶ月は勉強じゃなくて、ボールを蹴り上げることに集中するさ」
「それは羨ましい話だ。俺も、サッカー部に入っとくべきだったな」
「うるせえ。こちとら二年半の練習時間がかかってんだ。高校の受験勉強ぐらい、夏休みから始めたっておまけがくるだろ?」
「ごめんごめん。まあ練習と大会、頑張ってくれよ」
そう返してから、俺は教室の前で所在なさげに待ちぼうけている日聖に目配せした。
「もう行くよ」
彼が屈託ない顔で「ああ」と頷くのを見届けてから、俺は性急に踵を返した。
「なあ、永輔」ふと康太が呼び止めたので、俺は立ち止まる。
「なんかさ、お前、大人っぽくなったな」
「ああ、誰かさんのおかげでな」
背中を向けたまま答えて、俺は教室を出た。
自分の膝が震えていたことに、その時になってようやく気がついた。
中学生をほんの少し体験しただけで、ほとほと精神が参ってしまったのは言うまでもない。
この数年、まともに他人と関わることもなかった上に、それが十も歳が離れた少年たちときたものだ。
この感覚に慣れるには、相当な時間と研鑽が必要なのだろう。
まあ、そんな憂慮は脇に置いておこう。
俺の頭を一番悩ませていたのは、千賀燎火だった。
時々様子を盗み見ていたが、ほとんど神経質な鋭い瞳で窓の奥を見ているばかりで、まともに教師の話を聞いている様子ではなかった。
休み時間も一人でぽつんと机に座っているだけで、誰かと会話している光景はついぞ目撃することができなかった。
もしも俺の知っている彼女が学校生活を送っていたとしたら、俺などとは比べ物にならないほど華やかなものになっていただろう。
それだけの魅力が彼女にはあった。
認めたくないが、それより他に解釈のしようがない。
俺が病室で出会った千賀燎火と、三年二組に在籍している十年前の千賀燎火は別人だった。
放課後、彼女に声をかけようと決意していたが、新田たちに絡まれている間にいつの間にか教室からいなくなっていた。
彼らに用事があると嘘をついてその場を抜け出したが、すでに廊下のどこにも彼女の姿はなかった。
昇降口まで追いかければ、あるいは捕まえることができたかもしれない。
しかし、俺はそこで立ち止まってしまった。
正直に言って、怖かったのだ。
千賀燎火は俺にとって、たった一つの光だった。
その彼女が自分を忘れているどころか、まったくの別人として現れた事実を認めなくてはならないことが怖くて堪らなかった。
すごすごと教室へと引き返している最中、背後から「永輔くん」と俺を呼び止める声が聞こえた。
振り向くと日聖がいた。
「良かったら、一緒に帰らない?」と澄ました顔で言ってきた。
気後れしたが、断る言い訳を即座に見つけられなかった。
仕方なく承諾すると、日聖は「久しぶりだね。一緒に帰るの」と無邪気に歯茎を見せて笑った。
鞄を取りに教室に寄ってから、あまり近すぎない距離感を保って二人で廊下を歩く。
教室には、すでに数人の生徒しか残っていなかった。
初日から皆、部活や遊びでご多忙なのだろう。
陸上部に入部している新田たちの姿も、すでに教室にはなかった。
三年四組。その教室の前で足が止まる。
「どうしました?」
日聖が尋ねてくる。
「ちょっと待っててくれ」とひと声かけてから入り口に立った。
俺は「康太」と教室中に響くような声で、その名を呼びかけた。
彼はスポーツバッグを片手で背負うように持ちながら、だらしなく机の上に座ってて友人と会話をしていた。
すぐさま俺の声に気づいたらしく、彼はこちらに振り向いた。
「お、永輔」
人懐っこい微笑みを浮かべながら、宮内康太は俺のもとに駆け寄ってきた。
清涼剤のツンとした匂いが鼻腔をくすぐった。
薄い眉に彫りの深い端正な顔立ち。
スポーツマンらしい日焼けした皮膚と切り揃えられた髪。
高身長だというイメージがあったが、改めて見てみると俺と同じぐらいか、それより少し低いくらいの背丈だった。
凛々しく涼しげな雰囲気を纏わせ、いかにもクラスのカースト上位だという雰囲気を漂わせている。
「久々だな。休み中もほとんど顔合わせなかったろ?」
大義そうに頷いて、俺はあらかじめ用意していた台詞を吐いた。
「高熱で、ほとんど自分の部屋から出られなかったんだよ」
すると彼は盛大に吹き出して言った。
「まじかよ。せっかくの春休みを不意にしたって、やっぱりお前ついてないな」
「ああ、つくづくそう思う。康太はずっと練習だったんだろ?」
「そりゃあな。ほとんど毎日練習三昧な春休みだったよ」
そう言って彼は嘆息したが、その顔は本気で嫌がっているものではなかった。
いつかは顔を合わせることになるのだからと、勇み足で自分から接触しに行ったが、やはりそうだった。
福島永輔がもしかしたら享受していたかもしれない、幸福な新学期。
それがこの世界の正体だと、ようやく証明することができたのだ。
「今日もこれから練習なのか?」
「ああ、夏の大会まで間がないからな。あとの三ヶ月は勉強じゃなくて、ボールを蹴り上げることに集中するさ」
「それは羨ましい話だ。俺も、サッカー部に入っとくべきだったな」
「うるせえ。こちとら二年半の練習時間がかかってんだ。高校の受験勉強ぐらい、夏休みから始めたっておまけがくるだろ?」
「ごめんごめん。まあ練習と大会、頑張ってくれよ」
そう返してから、俺は教室の前で所在なさげに待ちぼうけている日聖に目配せした。
「もう行くよ」
彼が屈託ない顔で「ああ」と頷くのを見届けてから、俺は性急に踵を返した。
「なあ、永輔」ふと康太が呼び止めたので、俺は立ち止まる。
「なんかさ、お前、大人っぽくなったな」
「ああ、誰かさんのおかげでな」
背中を向けたまま答えて、俺は教室を出た。
自分の膝が震えていたことに、その時になってようやく気がついた。
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