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春の断章 -Comedy-

春の断章④‐2

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 陣西神社は町の北西側に位置している、住宅街からは少し離れた高台に建つこの町で一番有名な社だ。



 幸い警察にも見つからず、二十分ほどで目的地まで着いた。



 境内へと繋がる石段脇の駐車場に自転車を停める。



 夜空に浮かぶ満月がまるで睥睨する目玉のようで、こちらをじっと睨まれるような嫌な錯覚を感じ続けていた。



 ポケットから携帯を引っ張り出して、時刻を確認する。



 深夜の一時。



 電話の主は深夜と言っただけで、時間までは指定してこなかった。



 あまり心配はしていないが、本当に来ているか怪しいものがある。



 若返った身体の軽い足どりで、石段を登っていく。



 やはり心配は杞憂だったらしい。



 鳥居の真下にぼんやりとした輪郭が見え、次第にそれが人の形を成していった。



 先客がお待ちのようだった。





「福島、永輔さん。待っていました」



 よく通る旋律のような声が、夜闇に響き渡った。



 その人物は浮いていた。



 比喩ではない。



 そいつは何一つ道具を用いている様子もなく、三メートルほどの上空から俺を見上げていたのだ。



 俺を出迎えたのは、腰まで伸ばした絹のような白い髪を生やした日本人離れ、いや現実離れした女性だった。



 すらっと伸びた背丈。取ってつけたような狐のお面をつけていて、顔を半分だけ隠している。露出したもう半分の顔から、物憂げな紺碧の瞳が覗いていた。



 その容姿とは不釣り合いな華やかな紅色の着物を着た彼女は、人の認識を超越したような圧倒的な美しさを無秩序に放っていた。



 俺はしばらく放心していたが、ようやく我に返る。

 

 無意識に肩をすくめて言った。 



「納得したよ。お前がこの状況を作り出した張本人なんだな」



 眉一つ動かさず、彼女は頷いた。



「教えてくれ。お前は一体何者なんだ?」



「あなたもこの町の出身なら、『天女伝説』を一度は聞いたことがあるでしょう?」凍ったような無表情で、彼女はそう答えながら天を仰いだ。



「ああ、知っている」



「……では、もしも私が伝説に登場する天女だとしたら?」 

 

 これが平時に言われた台詞なら、思わず吹き出していただろう。



 しかし、俺が置かれた状況を顧みて、それを妄言と片づけられる人間がいるだろうか。



 もはや神だの、伝説の天女だのを持ち出さなければ、俺を取り巻いている超常現象には説明がつけられないのだ。



「賢明ですね。私が天女だろうが、神だろうが、イデアだろうが、物自体だろうが何だって構わないんですよ。あえて言いますが、肩書は重要ではありません。たまたま私が人の理から外れた者で、この地では天女伝説というものが語られている。なので、そう名乗ったまでです。だからどうぞ、お好きに正体を解釈してください」



 彼女は心底興味なさそうな顔を向けて、吐き捨てるように言った。



 「随分と建設的な価値観を持った神さまだな」とぼやきたいのを抑え、俺は初めに確認しておかなければならないことを尋ねた。



「……あの時。千賀燎火の病室から飛び出した俺は、そのまま事故で死んだのか?」



「ええ、死にました。交通事故が原因で、本来存在した世界の福島永輔さんは、そのまま帰らぬ人になったんです。絶命する直前の意識や記憶を、この世界の福島永輔さんにそのまま貼りつけたのが、今のあなただと思ってください」



 おかしな話だが、自分が死んだと告げられて俺は少なからず動揺した。



 それなりにショックだったのだ。



 今こうして生きているのだからその反応はナンセンスだろうと言われたらその通りだが、そうそう理性だけで割り切れるものではない。



「……簡単に言ってくれるな。未成熟の脳内マップに大人のそれを貼りつけるなんて、それこそ千年経っても再現できそうにない技術だ。タイムリープだって、現代科学の基本原則に反している。やり方があまりに荒唐無稽じゃないか」



 動揺を毛取られないために適当な反論を並べてみると、露骨なため息の音が聞こえてきた。



 実に煩わしいとでも言いたげな冷たい視線が突き刺さり、知らず全身を硬直させた。



「愚問ですね、賢明ではない。ならばSF的な解釈はどうでしょう。この世界は0と1のデータで構築された仮想現実で、あなたはその箱庭の世界で生き返ったのです。……こう言えば、それで納得しますか? だとしたら、それで構いませんよ」



 そのあっけらかんとした態度と暴言に、俺は二の句を告げなかった。



 彼女は面倒くさそうに首を捻りながら、あくび混じりに続けた。



「ねえ、そもそもとして、理由とか理屈ってそんなに大事ですか?」

 

 その言葉はまったく正しい。



 彼女の言葉を開き直りと捉えるには、目の前の現実はあまりに雄弁すぎる。



 反駁の余地など最初からありはしなかったのだ。逆立ちしたって、今の俺には彼女に勝ち目はない。



「そんなことはどうでもいい。語りえるものについては明晰に、語りえぬものにはただ沈黙する他にない。ここ百年近くで、呆れるほど繰り返されてきたスローガンではないですか」



「まさにこの。今、そこに」



 虚げに言って、彼女はゆっくりと指差した。



 それは目の前の俺を通り越して、さらに宵闇の奥、ひたすら向こうの一点を指し示しているように思えた。



「こんな曖昧で儚い言葉で指し示すしかない、私の眼前にただ広がるシンプルな世界。それは、同時にあらゆる可能性が潰え、生起する複雑な一点でもある。この端的な現実以外に、確実性が保証されているものが他にありますか? あなたが事切れる間際に悪霊が見せている夢だろうが、未知の経験機械Xが見せている幻影だろうが、それこそ万能の神の御業だろうがなんでもいい。そんなことは瑣末な問題なんです。だって、この現実以上に確実な現実なんて、最初からありはしないのだから」



 それから彼女は「一にして全、はんにして疎」と謎めいた言葉をつけ加えた。



 言っていることは難解だったが、ぼんやりと意味を理解する。



 素直に「分かったよ」と負けを認めて、話の続きを急かした。



 ここからが本題だと言うように、彼女は「さて」と切り出した。



「あなたもこの世界について、あらかたの予想はついているのでしょう?」



「この世界は俺が心のどこかで望んでいた幸福な世界そのものだ。大方、俺が人生に挫折するきっかけとなった、あらゆる可能性が存在しなかった世界なんだろう」



「悲劇というものは、いつでもあの言葉で始めることができる。……もしも、あの出来事さえなかったら、何も起きなかったのに。この世界は一つの因子が取り除かれ、十四歳の福島永輔の身に悲劇が起きなかった世界。ただその結果だけが与えられた、あなたが心のどこかで求め続けてきた幸福な世界です」



「待ってくれ。この世界が俺にとって本当に都合がいい世界だったとしたら、千賀燎火の境遇をどう説明してくれるんだ?」



 この世界で幸福を与えられた俺と、かたやこの世界で別の不幸を背負った千賀燎火。



 その構図に疑問と憤りを感じないわけがなかった。



 俺は神を名乗る、目の前の不遜な女を必死に睨めつける。 



 すると、その表情に変化があった。



 物憂げで常にこちらを見下すようだった硬い表情がふっと緩む。



 見る者を凍りつかせるような、ある種の妖艶ささえ感じさせる嘲笑だった。



「目を覚ましてください。この世界にそんな都合のいい話がありますか? それはあなた自身、二十五年の人生で嫌と言うほど痛感してきたことでしょう。現実なんて、所詮はそんなものなんです」



 その言葉を聞いて、俺は心中苦笑した。



 超常的な存在が口にするには、あまりにつまらない説教じゃないか。



 ああ、分かってるよ。



 そんなことわざわざ言葉にされなくたって、とっくに分かりきっているさ。



「確かにこの世界は、あなたにとって至上に都合のいい世界ですが、一つだけ都合の悪い点があります。お気づきでしょうが、あなたの愛する千賀燎火は、この世界のどこにもいません。なるようにしてそうなった、それがこの世界のあり方なのですよ」



 そう言って、彼女はもったいぶったように空中で優雅に一回転して見せた。



「そして、これが核心です。もしもあなたが彼女を選ぶというのなら、やがてこの世界はあっけなく崩れ去ります。だけどもし、あなたが千賀燎火を諦めたのならば、世界はいつまでもあなたに微笑み続けるでしょう。つまり二者択一、あなたに与えられた結末はどちらか一つしかないんですよ」



「……つまり、俺にこの世界か、千賀燎火への愛かを選べということなのか?」



「ええ、その通りです」



 ようやく意を得たのか、今日見せた中で一番満足げな表情で彼女は深く頷いた。



「期限はあなたが彼女と初めて出会った、十二月の初旬まででいいでしょう。その日までに答えを聞けなかった場合は、両方とも失うという結末が待っていると思ってください」



 見かけだけ評すれば無邪気と取れる女の笑みが、再び蔑みの色を帯びた。



 その勢いに呑み込まれてはいけない。



 かろうじて残っている判断力を動員して、俺は尋ねた。



「仮に俺がこの世界を選んだら、その後の千賀燎火はどうなってしまう?」



「その場合、彼女は孤独な一生を送ることになるでしょう。あたかも元の世界でのあなたのような悲惨な人生です。もっとも、性格さえ歪みきってしまった彼女の場合は、あなたにとっての千賀燎火のような存在さえ絶対に現れない。それぐらいの条件じゃないと、この遊びは面白くはないでしょう?」



「じゃあ、彼女を選んだら?」



「もしも千賀燎火を選んだ場合、確かにあなたは、その愛を手にすることがあるかもしれません。ですがそもそも、彼女があなたに心開く保証なんてどこにもありません。仮に添い遂げることがあっても、元の世界のようにあなたは全てを失い、ありとあらゆる不幸が立ちふさがります。不条理に押し潰されながら、二人で呻吟し続ける灰色の日々を送ることになるでしょう」



 肩の力が急速に抜けていく。



 地面にへたりこみそうになるのを必死に耐え、彼女に鋭い視線を向け続けた。



「理解したでしょう? これはあなたが千賀燎火への愛を、最後まで証明できるのかを試す遊びなんです」



「愛を証明する?」



 彼女の言葉を反芻する。



 どこかくすぐったくなるフレーズだったが、それが人生を賭けた選択となると話は変わってくる。



「時間を要するまでもない選択肢かもしれませんね。なんだったら、この場で答えを出しても構わないのですよ?」



 煽るような軽薄な薄ら笑いを浮かべて、彼女は言った。



「お気遣い感謝するが、断らせてもらう」



 即答する。



 それだけが、今の俺ができる精一杯の反抗だった。



 小馬鹿にしたのか、予想通りの反応でつまらないと思ったのか、彼女は鼻を鳴らして顔を背けた。



「まあ、構いません。とりあえず今日のところはこれでお開きにしましょう。期限の日まで幸福は起こるように起こり、そして不幸もまた起こるように起こる。それまでに、よく考えるといいでしょう」



「どう言う意味だ?」 



「いずれ分かります。それから私のことは、あの伝説のようにカンナと呼んでください。その方が色々と便利でしょう。いつかまた、姿を見せます」



 謎めいた台詞を残して、彼女は背中を向けた。



 そして、社の方へ宵の闇に吸い込まれるようにしていつの間にか消えていた。





 しばらく押し黙ったまま、俺は苦々しい余韻を噛みしめていた。



 「ふふふ」という力ない笑い声が自然と溢れて、幕のように垂れ下がった夜の帳を満たした。



 こうなったら、笑うしか他にないだろう。



 どうやら自分は神さまの戯れで、とんでもない余興に巻き込まれてしまったらしい。





 全てが取り戻されたこの「幸福な世界」と、俺の全てを取り戻してくれた千賀燎火。



 そのどちらかを選んで、どちらかを捨てる。





 そんなのわざわざ、悩むまでもない選択肢じゃないか。



 そう思いたいと思う自分の浅ましさにほとほと嫌気が差して、つくづく消えてしまいと思った。

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