黒い聖域

久遠

文字の大きさ
319 / 399

決意の徒 第一章・疑念(1)

しおりを挟む
 一段と寒さの厳しい師走の夜だった。
 夜の世界にとって、この時期は稼ぎ時である。クリスマスというメインイベントに合わせて歓楽街一帯が華やかな飾り付けをして客を迎える。
 加えて忘年会の二次会に使われることも多く、普段は足を踏み入れることのない若いサラリーマンや女性客の姿も散見される。店側も良く心得ていて、そのような客には時間制の低料金で臨機応変に対応している。 
 開店して間もない大阪北新地の最高級クラブロンドに珍客があった。
 ロンドも一見客はお断りの看板を掲げているが、他店と同様に暴力団関係者を排除するためのもので、一般客であればたいていの場合が入店を許可する。
 しかし、ドアを開けて店に入ってきた客に、支配人の氷室は思わず、
「どなたかのご紹介でしょうか」
 と訝しい声を掛けてしまった。 
 その客が妙齢な婦人の一人客だったからである。
 しかもただの女性ではない。チンチラのロングコートに身を包んだ彼女は、三十歳手前のようにも二十歳そこそこのようにも映る。
 身長は百五十五センチぐらいで、現代の女性からすれば小柄な方だが、氷室の目には、その凛とした気品から他者を圧倒するほど大きく映っていた。
 さしずめ夜の世界の住人であれば、ロンドにも匹敵するような最高級クラブのママの品格を備えていた。だが氷室は、そのような女性の噂は耳にしていなかったし、そもそもが擦れたところのない全くの無垢である。
 仕事柄、三十年もの長きに亘り数多の女性に接し、目の肥えているはずの氷室も、いったい何者だろうかと判断しかね、訝しげな言葉を発してしまったのである。
 「森岡社長さんのご紹介で」
 女性は高貴な笑みを浮かべて言った。鼻に掛かった声が甘えた感じを醸成し、少し舌足らずな口調が愛らしさを増幅した。
 氷室は思わず胸をときめかせた。客に心が動くなど、実に久しぶりのことである。彼は、これが芝居ならば相当な女(たま)であるし、自然体ならば魔性というのはこのような女性のことをいうのだろうと思った。
 「森岡様の……失礼ですが、お名前は」
 氷室はまたしても訝った声を出した。女性の言葉を疑ったのではなく、彼女の声に親しげな音色を感じたからである。
――森岡社長とはどういう関係なのだろうか。
 と、森岡と茜の行く末に対する不安がチラリと頭の片隅を過った。
「目加戸と申します」
「目加戸様……どなたかとお待ち合わせでしょうか」
「いえ。茜さんとおっしゃるママさんにお目に掛かりたいのです」
「ママに」
「いらっしゃいますか」
「生憎、今晩ママは同伴出勤の予定でございまして、二十一時近くになりますが」
「では、それまで待たせて頂いて宜しいでしょうか」
 もちろんです、と氷室は肯いて、女性の背後に回り、コートを脱ぐのを手伝った。コートの下は純白のワンピースだった。
 氷室はチンチラのコートとは対照的な装いに目を奪われながら、彼女をVIPルームに案内した。森岡と曰くの有りそうな女性である。茜とは難しい話になる直感が働いた彼の配慮だった。  
「何かお飲みになりますか」
「そうですね。では、シャンパンをお願いします」
「森岡様がお飲みになるのと同じで宜しいでしょうか」
「森岡君は何を飲んでいるのかしら」
――君だと? 年上の森岡社長を君付けにするこの女性は、いったい……。
 氷室はますます訝った。
「ドンペリのゴールドです」
「あら、お高いのでしょうね」
 と言った表情には、懐を懸念した様子は微塵も感じられない。
「ご心配なく。森岡様からは友人、知人の来店があった場合、私どもの判断でお飲み物をお出しするようにと言い付かっております」
 これは嘘ではなかった。
 氷室は、女性を森岡の昔の彼女ではないかと推量した。
「では、お言葉に甘えてそれを頂戴します」
 わかりました、と氷室は軽く会釈し、若い黒服を呼んでその旨を指示した。
「失礼ですが、森岡様とは古いお付き合いでしょうか」
「はい。学生時代から」
「学生時代、ですか」
 氷室はまたもや聞き返してしまった。中学、高校時代であれば二歳、大学であれば三歳、浪人を勘案しても最大で四、五歳しか違わない。森岡が高校生三年生で彼女が中学生一年生でも五歳違いである。
 永室は、森岡が大学時代に亡妻奈津美と交際していたことは知らなかった。
 いずれにせよ、氷室にはまさか目の前にいる女性が三十歳を超えているとは思えなかった。
「高校時代の同級生です」
「ええ!」
 とうとう氷室は眼を剥いてしまった。森岡と同級生であれば三十六歳ということになるのだ。
「あら、私の顔がそんなに珍しいですか」
「こ、これは大変失礼致しました」
 氷室は慌てて詫びた。額には動揺の汗が浮かんでいる。彼が女性に対して緊張したのはクラブ花園のママ花崎園子以外では初めてだった。北新地随一の美貌の持ち主である茜の前でもこれほど緊張することはない。
――やはり森岡社長の恋人だったのだ。
 その懸念が増幅した氷室は、自らが接客することにした。言うなれば、ホストクラブのホスト役ということだが、彼の脳裡にはホステスが余計なことを彼女の耳に入れないかという心配もあった。
 そうして三十分後、茜が同伴出勤し、氷室の無難な接客は終わりを告げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

秘事

詩織
恋愛
妻が何か隠し事をしている感じがし、調べるようになった。 そしてその結果は...

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...