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決意の徒 第三章・覚醒(2)
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中年女性が入って来た。
「お義父さん、私からもお願いするから森岡さんに詳しく話してくれない」
「貴方はリッチのママさん」
相良が素っ頓狂な声を上げ、
「おとうさんって、先生はママの……」
森岡も眼を丸くして訊いた。
「私は母の連れ子だったから血は繋がっていませんが」
と、佐伯知草が無楽斉に視線を送った。
「でも、どうして私がここに来ることがわかったのですか」
「それは、私が昨日教えました」
相良が恐縮そうに言った。
昨夜、リッチの後、皆でカラオケに行ったとき知草や綾音も同道していた。そのとき酔っぱらった相良から森岡の予定を聞き出したのだという。
「なぜ、そのようなことを」
「だって、助けて頂いておきながら、碌くにお礼も言ってなかったのですよ」
「礼なら、あの場で言ってもらった。それで十分だ」
「二千万以上も御迷惑を掛けたのです。そういうわけにはいきません」
「二千万とは、どういうことだ」
無楽斉が訊いた。
知草がリッチでの出来事を話した。
「それは、義娘が大変世話になりました。この義娘は親を頼りにしませんので」
と、無楽斉は頭を下げた。
「その義娘の初めての頼み事ですので、聞いてやりたいのはやまやまですが」
と言いつつ、それとこれとは別だ、と断った。
「義娘さんの件は成り行き上の事ですから気になさらないで下さい」
森岡はそう言って再び辞去しようとした。
「無駄足だったようで申し訳ありません、先輩」
相良が泣きそうな声で詫びた。
無楽斉がその言葉尻を捉えた。
「ちょっと待て、相良君。先輩とはどういうことだ。森岡さんは僧侶ではなかろう」
「え? ああ、森岡さんは松江高校の先輩なのです」
「松江だと」
無楽斉の脳裡の襞が疼いた。
「ということは、森岡さんも島根出身なのですか」
「はい。もっとも、今でこそ松江市と言っていますが、生まれ育った頃は字(あざ)の付く島根半島の小さな漁村です」
「なにっ!」
無楽斉の眼が大きく見開かれた。
「島根半島の漁村で森岡というと、もしや灘屋という旧家をご存知ないかの」
「知っている何も、灘屋は私の生家です」
「な、なんと」
無楽斉は呆然となった。
「先生は灘屋(うち)をご存知で」
と訊いたところで、ああー、と今度は森岡が叫んだ。
「まさか、うちの観音様は先生が……」
そうです、と無楽斉が微笑む。
「貴方が灘屋さんのお身内だと思いも寄りませんでした。森岡さんと伺ったときは、どこかで耳にした名前だと気にはなったのですが、私の記憶には灘屋という屋号の方が強く残っていたものですから」
無楽斉が頭を下げた。
彼が気づかなかったのも無理はなかった。島根半島界隈では同姓が極めて多く、浜浦では四つの姓で村の八割の世帯を占めた。したがって、通常は姓ではなく屋号でお互いを呼び合っていたのである。
北大路無楽斉は十六歳で仏師を志し、十八歳から全国の神社仏閣を参詣して回った。目的は仏像他著名な建築物の拝観である。浜浦へは出雲大社参詣した帰りだった。たが、財布を紛失してしまい路頭に迷った。仕方なく、浜浦神社の軒下で夜露を避けたのだが、季節外れの寒波に襲われたため、風邪を拗らせてしまったのである。
「手厚い看護療養だけでなく、帰りの旅費まで用立てて下さったトラさんは、まさしく命の恩人。その子孫の貴方に恩を返さないのは人倫の道に外れています。先程のお尋ねにお答えしましょう」
無楽斉がそう言って居住まいを正したとき、
「先生、それには及びません。お礼としてすでに曾祖母が観音菩薩立像を頂いています」
と、森岡が断った。
「先輩、何を言っているのですか。せっかく先生がそう仰っておられるのに」
「もう十分だ、相良」
森岡が宥めるように言った。
「どういうことかな」
無楽斉が訊いた。
「先刻、先生の作品を拝観させて頂いたとき、子供の頃の力が呼び戻されたようです」
「何なのですか、その力というのは」
相良が怪訝そうに訊いた。
「それは後でな」
森岡は相良にそう言うと、
「先生、その代わりと言ってなんですが、一つお願いがあります」
「何なりと」
承る、と無楽斉は背を伸ばした。
「先生の作品をお譲り願いたいのですが」
「ほう。お気に召したのがありましたか」
「ええ、観音菩薩座像を」
無楽斉が目を細めた。
「さすがにお目が高い。実は、あの観音座像はあらためて灘屋さんにお礼を、と思い製作したものなのです。灘屋さんの立像と対の座像です。ですから貴方の手に渡るのが相応しい」
後年、無楽斉は正式な仏師としての処女作をお礼として灘屋に持参した。だがトラは、すでに礼は貰っていると固辞したのだという。
「では、譲って頂けるのですね」
「喜んで」
「代金はいくらでしょうか」
「それは無用です。仏像は縁のある方の手元にあるのが一番ですし、義娘を救って貰ったお礼としましょう」
と、弟子に梱包するよう命じた。
「そういうことでしたら、有り難く頂戴いたします」
頭を下げた森岡は、
「さあて、市内観光でもしてから定山渓へ行こうか」
と観音座像を受け取り、工房を出た。
「お義父さん、私からもお願いするから森岡さんに詳しく話してくれない」
「貴方はリッチのママさん」
相良が素っ頓狂な声を上げ、
「おとうさんって、先生はママの……」
森岡も眼を丸くして訊いた。
「私は母の連れ子だったから血は繋がっていませんが」
と、佐伯知草が無楽斉に視線を送った。
「でも、どうして私がここに来ることがわかったのですか」
「それは、私が昨日教えました」
相良が恐縮そうに言った。
昨夜、リッチの後、皆でカラオケに行ったとき知草や綾音も同道していた。そのとき酔っぱらった相良から森岡の予定を聞き出したのだという。
「なぜ、そのようなことを」
「だって、助けて頂いておきながら、碌くにお礼も言ってなかったのですよ」
「礼なら、あの場で言ってもらった。それで十分だ」
「二千万以上も御迷惑を掛けたのです。そういうわけにはいきません」
「二千万とは、どういうことだ」
無楽斉が訊いた。
知草がリッチでの出来事を話した。
「それは、義娘が大変世話になりました。この義娘は親を頼りにしませんので」
と、無楽斉は頭を下げた。
「その義娘の初めての頼み事ですので、聞いてやりたいのはやまやまですが」
と言いつつ、それとこれとは別だ、と断った。
「義娘さんの件は成り行き上の事ですから気になさらないで下さい」
森岡はそう言って再び辞去しようとした。
「無駄足だったようで申し訳ありません、先輩」
相良が泣きそうな声で詫びた。
無楽斉がその言葉尻を捉えた。
「ちょっと待て、相良君。先輩とはどういうことだ。森岡さんは僧侶ではなかろう」
「え? ああ、森岡さんは松江高校の先輩なのです」
「松江だと」
無楽斉の脳裡の襞が疼いた。
「ということは、森岡さんも島根出身なのですか」
「はい。もっとも、今でこそ松江市と言っていますが、生まれ育った頃は字(あざ)の付く島根半島の小さな漁村です」
「なにっ!」
無楽斉の眼が大きく見開かれた。
「島根半島の漁村で森岡というと、もしや灘屋という旧家をご存知ないかの」
「知っている何も、灘屋は私の生家です」
「な、なんと」
無楽斉は呆然となった。
「先生は灘屋(うち)をご存知で」
と訊いたところで、ああー、と今度は森岡が叫んだ。
「まさか、うちの観音様は先生が……」
そうです、と無楽斉が微笑む。
「貴方が灘屋さんのお身内だと思いも寄りませんでした。森岡さんと伺ったときは、どこかで耳にした名前だと気にはなったのですが、私の記憶には灘屋という屋号の方が強く残っていたものですから」
無楽斉が頭を下げた。
彼が気づかなかったのも無理はなかった。島根半島界隈では同姓が極めて多く、浜浦では四つの姓で村の八割の世帯を占めた。したがって、通常は姓ではなく屋号でお互いを呼び合っていたのである。
北大路無楽斉は十六歳で仏師を志し、十八歳から全国の神社仏閣を参詣して回った。目的は仏像他著名な建築物の拝観である。浜浦へは出雲大社参詣した帰りだった。たが、財布を紛失してしまい路頭に迷った。仕方なく、浜浦神社の軒下で夜露を避けたのだが、季節外れの寒波に襲われたため、風邪を拗らせてしまったのである。
「手厚い看護療養だけでなく、帰りの旅費まで用立てて下さったトラさんは、まさしく命の恩人。その子孫の貴方に恩を返さないのは人倫の道に外れています。先程のお尋ねにお答えしましょう」
無楽斉がそう言って居住まいを正したとき、
「先生、それには及びません。お礼としてすでに曾祖母が観音菩薩立像を頂いています」
と、森岡が断った。
「先輩、何を言っているのですか。せっかく先生がそう仰っておられるのに」
「もう十分だ、相良」
森岡が宥めるように言った。
「どういうことかな」
無楽斉が訊いた。
「先刻、先生の作品を拝観させて頂いたとき、子供の頃の力が呼び戻されたようです」
「何なのですか、その力というのは」
相良が怪訝そうに訊いた。
「それは後でな」
森岡は相良にそう言うと、
「先生、その代わりと言ってなんですが、一つお願いがあります」
「何なりと」
承る、と無楽斉は背を伸ばした。
「先生の作品をお譲り願いたいのですが」
「ほう。お気に召したのがありましたか」
「ええ、観音菩薩座像を」
無楽斉が目を細めた。
「さすがにお目が高い。実は、あの観音座像はあらためて灘屋さんにお礼を、と思い製作したものなのです。灘屋さんの立像と対の座像です。ですから貴方の手に渡るのが相応しい」
後年、無楽斉は正式な仏師としての処女作をお礼として灘屋に持参した。だがトラは、すでに礼は貰っていると固辞したのだという。
「では、譲って頂けるのですね」
「喜んで」
「代金はいくらでしょうか」
「それは無用です。仏像は縁のある方の手元にあるのが一番ですし、義娘を救って貰ったお礼としましょう」
と、弟子に梱包するよう命じた。
「そういうことでしたら、有り難く頂戴いたします」
頭を下げた森岡は、
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と観音座像を受け取り、工房を出た。
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