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古都の変 第五章・巨星(4)
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週末、森岡、神村、菊池、谷川東顕の四人は長厳寺へと向かった。坂根はホテルに残った。
鎌倉の市街地から、少し山手に上がったところにある長厳寺は、約三万坪の敷地に本堂、修行堂、奥の院、別院等が建立されていた。加えて、修行僧や参拝客のための宿坊も整っており、その概観は大方の本山と遜色がなかった。
本堂に向かう参道の両側には、数百本の桜木が植えてあり、春には花見の名所として市民の憩いの場ともなっていた。その桜並木を仰ぎ見て、やおら本堂まで歩みを進めると、傍らには当寺院の隆盛を象徴するかのように、稀代の彫刻家高島双雲作の力作『天翔の白馬』の青銅像が聳え立っている。
一行は本堂の前で、法華経第二十五・観世音菩薩・普門品(かんぜおんぼさつ・ふもんぼん)を読経した後、久田帝玄の待つ別院へと向かった。
応接間で二十分ほど待たされた後、いよいよ面会となった。
住職室に通され、帝玄と初めて対面した森岡は、まずもってその存在感に圧倒される。前もって、帝玄の数々の逸話を神村から聞いていた彼は、ある程度の心積もりをしてこの場に臨んでいたが、実物の迫力は彼の想像を遥かに超えるものだった。
その衝撃は、初めて神村と出会ったとき以来の強烈なものであった。
しかし神村との初見の折は、森岡はまだ十代であった。その後、神村の薫陶を受け、政治家や実業家、あるいは著名人とも知り合い、自らも二百余名を率いる社長の立場にあって、年齢を重ねた今日に至っては、多少なりとも分別というものが身に付いているはずである。
その彼が、青臭い頃と同じ衝撃を受けるということは、如何に久田帝玄の威圧感が抜きん出ているかを物語っていた。さすがに、神村が師と仰ぎ、一目も二目も置くだけの人物であった。
昔の人にしては、百八十センチを超える大柄であるうえに、背筋が伸びており、肩幅は広く胸板も厚いため、恰幅的にも息を詰まらせるほどの圧力があった。肌の色艶も良く、煙草に火を点けたり、湯飲みを啜ったりする一つ一つの所作が機敏で、とても半寿(はんじゅ・八十一歳)を迎えているとは思えないほど矍鑠としていた。
眼光は、霊峰に湧く岩清水の如く澄み、相手の胸中を見透かしているかのようであり、銀白の着物を纏った全身から醸し出される気は、ただ単に宗教上の達人というだけでなく、俗にいう『清濁併せ呑む』という、人間としての凄みを内包していた。
その凄みこそ、ある地方に出向いた帝玄を、空港に居合わせていた地元の極道者が、関東の大親分と間違えて、一斉に仰々しい挨拶をしたという笑い話を生み出した。
森岡は、神村と知り合ってから、唯一無二、神村しか眼中になかったが、この帝玄には久々に人物を観た思いになっていた。
「法国寺の件だね」
来訪の用件を問うた帝玄に対して、神村が無意識に身構えてしまったため、その間を突いて、帝玄自らが核心に触れた。
はい、と頭を垂れ、
「このような不躾なお願いを御前様に致しますのは、大変心苦しいのですが、万策尽きまして、後は御前様にお頼りするしかございません」
神村は、いかにも恐縮した様子で答えた。
「私に法国寺の貫主に成れというのだろう? 良いよ、その話引き受けよう」
帝玄はあっさりと受けた。その場での即答の快諾に、固唾を呑んでいた皆が拍子抜けしたほどだった。
「えっ? 宜しいのですか」
神村は半信半疑で訊ねた。
「君たち二人に加えて谷川上人までが雁首揃えて私に相談があるといえば、そんなことだろうと思っていたよ」
帝玄は、神村と菊池が揃って面会を申し出たときから、本件を予想していたことを告げた。
「しかし、御前様。お頼みしておいて大変恐縮なのですが、戦況は芳しくありません。もちろん、我々は最大限の努力を致します。ですが、御前様の名に傷を付けることも十分考えられるのです」
「神村上人、そんなことは気にしなくても良い。上人のことだから、ここまでやって来るのにずいぶんと悩んだことだろう。私を想う、その気持ちだけで十分だ」
帝玄はその顔に優しい笑みを湛えていた。
森岡は感動に打ち震えながらも、帝玄と神村の関係を羨んでいた。短い会話の中に、弟子が師を気遣い、師が弟子を思い遣る心情が溢れていた。この二人には、宗教を媒介とした普遍的な結び付きがある。森岡は、それは俗人である自分と神村との間には、決して生まれることのない聖域だと感じていた。
神村は、金銭的にはもちろん、人的にも一切の手間を取らせないことを帝玄に確約した。
それは師に対しての、せめてもの配慮であり、神村の背水の覚悟でもあった。帝玄が動いても勝てる保証がない以上、静観してもらう方が敗北のときの傷が小さいと考えたのである。
こうして、久田帝玄の快諾により、次期法主と影の法主という、表と裏の両巨星の戦いの火蓋が切って落とされたのである。
そして決着の期限は、ちょうど半年後の、三月二十五日と定められていた。
その夜、銀座にある寿司店『六兵衛』に神村らの姿があった。
久田帝玄の擁立に成功した神村一行は、銀座でも有名なこの高級寿司店で、これから始まる壮絶な戦いへの決起集会を開いていた。
帝玄の登場は、森岡をして砂漠にダイヤを見つけたような、空一面を覆った漆黒の闇の隙間から、かすかに光が差し込んできたかのような思いにさせていた。
現実を見れば、いかに帝玄といえども、不利な情勢には変わりがないが、しかし興妙寺と龍門寺を押さえられたことにより、戦いの芽は出てきた。
静岡の三ヶ寺は総務清堂の意向の下、揺ぎ無く清慶を支持するであろうから、残る傳法寺と澄福寺の二ヶ寺をどのようにして、味方に引き入れるかであった。
戦いの焦点は絞られてきた。全く不可能な状態から、希望が持てる状態にまでにはなった。その微かに灯った希望の光が森岡の心を奮い立たせていた。
その一方で、帝玄の予想外の快諾に、神村は再び心を痛めていた。帝玄の承諾が自身の苦境を見るに見かねてのことだと察した彼の心には、図らずも自分の戦いの延長で、師を巻き込んでしまったという後悔が再燃していた。
いくら帝玄を渦中の外に置いたとしても、結果として惨敗の憂き目に遭うことにでもなれば、師の晩節を汚してしまうことになる。神村にとって、それは万死に値することだったのである。
谷川東顕と菊池龍峰もまたそれぞれに秘めた思いがあった。
こうして三者三様の思いを抱きながら、東京の夜は更けて行った。
鎌倉の市街地から、少し山手に上がったところにある長厳寺は、約三万坪の敷地に本堂、修行堂、奥の院、別院等が建立されていた。加えて、修行僧や参拝客のための宿坊も整っており、その概観は大方の本山と遜色がなかった。
本堂に向かう参道の両側には、数百本の桜木が植えてあり、春には花見の名所として市民の憩いの場ともなっていた。その桜並木を仰ぎ見て、やおら本堂まで歩みを進めると、傍らには当寺院の隆盛を象徴するかのように、稀代の彫刻家高島双雲作の力作『天翔の白馬』の青銅像が聳え立っている。
一行は本堂の前で、法華経第二十五・観世音菩薩・普門品(かんぜおんぼさつ・ふもんぼん)を読経した後、久田帝玄の待つ別院へと向かった。
応接間で二十分ほど待たされた後、いよいよ面会となった。
住職室に通され、帝玄と初めて対面した森岡は、まずもってその存在感に圧倒される。前もって、帝玄の数々の逸話を神村から聞いていた彼は、ある程度の心積もりをしてこの場に臨んでいたが、実物の迫力は彼の想像を遥かに超えるものだった。
その衝撃は、初めて神村と出会ったとき以来の強烈なものであった。
しかし神村との初見の折は、森岡はまだ十代であった。その後、神村の薫陶を受け、政治家や実業家、あるいは著名人とも知り合い、自らも二百余名を率いる社長の立場にあって、年齢を重ねた今日に至っては、多少なりとも分別というものが身に付いているはずである。
その彼が、青臭い頃と同じ衝撃を受けるということは、如何に久田帝玄の威圧感が抜きん出ているかを物語っていた。さすがに、神村が師と仰ぎ、一目も二目も置くだけの人物であった。
昔の人にしては、百八十センチを超える大柄であるうえに、背筋が伸びており、肩幅は広く胸板も厚いため、恰幅的にも息を詰まらせるほどの圧力があった。肌の色艶も良く、煙草に火を点けたり、湯飲みを啜ったりする一つ一つの所作が機敏で、とても半寿(はんじゅ・八十一歳)を迎えているとは思えないほど矍鑠としていた。
眼光は、霊峰に湧く岩清水の如く澄み、相手の胸中を見透かしているかのようであり、銀白の着物を纏った全身から醸し出される気は、ただ単に宗教上の達人というだけでなく、俗にいう『清濁併せ呑む』という、人間としての凄みを内包していた。
その凄みこそ、ある地方に出向いた帝玄を、空港に居合わせていた地元の極道者が、関東の大親分と間違えて、一斉に仰々しい挨拶をしたという笑い話を生み出した。
森岡は、神村と知り合ってから、唯一無二、神村しか眼中になかったが、この帝玄には久々に人物を観た思いになっていた。
「法国寺の件だね」
来訪の用件を問うた帝玄に対して、神村が無意識に身構えてしまったため、その間を突いて、帝玄自らが核心に触れた。
はい、と頭を垂れ、
「このような不躾なお願いを御前様に致しますのは、大変心苦しいのですが、万策尽きまして、後は御前様にお頼りするしかございません」
神村は、いかにも恐縮した様子で答えた。
「私に法国寺の貫主に成れというのだろう? 良いよ、その話引き受けよう」
帝玄はあっさりと受けた。その場での即答の快諾に、固唾を呑んでいた皆が拍子抜けしたほどだった。
「えっ? 宜しいのですか」
神村は半信半疑で訊ねた。
「君たち二人に加えて谷川上人までが雁首揃えて私に相談があるといえば、そんなことだろうと思っていたよ」
帝玄は、神村と菊池が揃って面会を申し出たときから、本件を予想していたことを告げた。
「しかし、御前様。お頼みしておいて大変恐縮なのですが、戦況は芳しくありません。もちろん、我々は最大限の努力を致します。ですが、御前様の名に傷を付けることも十分考えられるのです」
「神村上人、そんなことは気にしなくても良い。上人のことだから、ここまでやって来るのにずいぶんと悩んだことだろう。私を想う、その気持ちだけで十分だ」
帝玄はその顔に優しい笑みを湛えていた。
森岡は感動に打ち震えながらも、帝玄と神村の関係を羨んでいた。短い会話の中に、弟子が師を気遣い、師が弟子を思い遣る心情が溢れていた。この二人には、宗教を媒介とした普遍的な結び付きがある。森岡は、それは俗人である自分と神村との間には、決して生まれることのない聖域だと感じていた。
神村は、金銭的にはもちろん、人的にも一切の手間を取らせないことを帝玄に確約した。
それは師に対しての、せめてもの配慮であり、神村の背水の覚悟でもあった。帝玄が動いても勝てる保証がない以上、静観してもらう方が敗北のときの傷が小さいと考えたのである。
こうして、久田帝玄の快諾により、次期法主と影の法主という、表と裏の両巨星の戦いの火蓋が切って落とされたのである。
そして決着の期限は、ちょうど半年後の、三月二十五日と定められていた。
その夜、銀座にある寿司店『六兵衛』に神村らの姿があった。
久田帝玄の擁立に成功した神村一行は、銀座でも有名なこの高級寿司店で、これから始まる壮絶な戦いへの決起集会を開いていた。
帝玄の登場は、森岡をして砂漠にダイヤを見つけたような、空一面を覆った漆黒の闇の隙間から、かすかに光が差し込んできたかのような思いにさせていた。
現実を見れば、いかに帝玄といえども、不利な情勢には変わりがないが、しかし興妙寺と龍門寺を押さえられたことにより、戦いの芽は出てきた。
静岡の三ヶ寺は総務清堂の意向の下、揺ぎ無く清慶を支持するであろうから、残る傳法寺と澄福寺の二ヶ寺をどのようにして、味方に引き入れるかであった。
戦いの焦点は絞られてきた。全く不可能な状態から、希望が持てる状態にまでにはなった。その微かに灯った希望の光が森岡の心を奮い立たせていた。
その一方で、帝玄の予想外の快諾に、神村は再び心を痛めていた。帝玄の承諾が自身の苦境を見るに見かねてのことだと察した彼の心には、図らずも自分の戦いの延長で、師を巻き込んでしまったという後悔が再燃していた。
いくら帝玄を渦中の外に置いたとしても、結果として惨敗の憂き目に遭うことにでもなれば、師の晩節を汚してしまうことになる。神村にとって、それは万死に値することだったのである。
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