黒い聖域

久遠

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古都の変 第七章・凶刃(1)

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 京都別格大本山法国寺の、新貫主の座を巡る戦いの幕が切られてから、早や二ヶ月が過ぎようとしていた。
 この頃から、森岡洋介の面には焦りの色が滲み始めていた。
 榊原壮太郎の抜け目の無い情報網と、伊能剛史の綿密な調査を以ってしても、京都大本山傳法寺貫主・大河内法悦(おおかわちほうえつ)への付け入る隙は見つからず、対応策は全く手付かずの状態だったのである。
 大河内はすこぶる品行方正で、大本山の貫主でありながら、質素な暮らしを旨としていたため、脛に傷一つ持っていなかった。森岡の忌み嫌う、世間に有りがちな生臭坊主とは異なり、酒は嗜む程度に控え、パチンコ、競馬などのギャンブルや株式、商品相場の類には目もくれなかった。ましてや女色に溺れることなど、言語道断の所業とみなしていたのである。
 また、良き支援者に恵まれているのか、霊園や駐車場経営といった生計を補うための事業ですら手を出していなかった。つまり、経済的な困窮とは無縁だったのである。
 それどころか、仏道一筋に精進を積んで来ており、在野の僧侶にしては珍しく総本山の妙顕修行堂で三度、久田帝玄の天山修行堂で四度、合わせて七度の荒行を達成するといった、律儀な面も覗かせていた。
 言うなれば、本来あるべき僧侶の姿を具現化している人物だった。まさに森岡好みの僧侶であり、法国寺の件さえ絡まなければ、進んで交誼を結びたいほどの清廉な人柄だったのである。
 森岡は、憂さ晴らしにロンドへ行く機会が増していた。
「また今日も浮かないお顔ですね」
 茜は顔色を窺いながら、森岡の横に座った。
「……」
 森岡は無言のままだった。
「今日もだんまりですか? せっかく高いお金を出して遊びに来られても、これじゃあずいぶんと勿体無いことですね」
 顔を見せてくれるのは嬉しいのだが、碌に口も利かない森岡に、茜は堪らず嫌味を言った。商売人らしからぬ物言いだったが、それだけ森岡に想いを寄せているという証拠でもあった。
「上手く行ってないんや」
 森岡は、ポツリと愚痴を零した。
「上手く行ってらっしゃらないって、お仕事ですか」
「仕事のわけがないやろ。仕事が上手く行かんぐらいで俺が落ち込むかいな」
 目を剥いてそう言うと、
「先生の件や、先生の……」
 大きな溜息を吐いた。
「そうでしたか。確か本妙寺でしたね、神村先生が目指しておられるお寺。…それが上手く行っていないのですか」
「正確に言うと、その延長線の戦いというか、代理戦争というか、そういうものやけどな。まあ、神村先生の関わりには違いない」
「よくわかりませんけど、森岡さんがこうまで気を落とされているということは、余程のことなのでしょうね」
「ああ、そうやな。こないな窮地に追い込まれたのは生まれて初めてかもしれんな。しかも、自分の事やったら諦めも付くけど、先生の事となるとなあ……何とか道が開けんかなあ。ママにも助けて欲しいくらいやな」
 森岡はそう言い終えると、いきなり身体を横に傾け、茜の膝に頭を乗せた。およそ、これまでの紳士的な態度からは考えられない砕けた行いに、坂根や周りにいたホステスたちは、皆目を丸くした。
 茜自身も、
「まあっ!」
 と驚きの声を上げた。
 だが、彼女はなすがままにさせていた。他の客やホステスの視線もいっこうに気にならなかった。彼女は、何のてらいもなく膝に頭を置いている森岡を眺めているうち、沸々と心の奥底から湧き上がる愛おしさで、胸が満たされて行くのを覚えていた。
「なあ、ママ。いっそのことママの色気で、大河内を籠絡してくれへんか」
「はい、はい。森岡さんのお頼みでしたら、何でも致しましょうね」
 茜は、まるで幼子(おさなご)をあやす様に言った。
 その声の響きに釣られるように、森岡は横目でさりげなく彼女の顔を仰ぎ見た。
 卵型より少し角張った輪郭で、大きな黒目にやや太目の眉。鼻はすっきりとして小高く、腫れぼったい上下の唇が居座っている。目鼻立ちの整った非の打ち所の無い絶世の美女というのでないが、彼には楚々とした透明感と親しみの持てる愛嬌さが、それを補って余りがあるように思えた。
 そのとき、茜の目と目が合った。
「有難う、ママ。あほな話に付き合ってくれて」
 森岡はあわてて頭を上げ、両手で頬を二、三度叩きながら、
「よっしゃ、弱気の虫は叩き出した」
 と気合を入れ直した。
 この間、僅か一分にも満たなかったが、森岡と茜のお互いの心が触れ合った瞬間だった。
 茜は喜びを噛みしめていた。森岡が初めて気を許してくれたことで、二人の距離が一気に縮まった気がしていた。
 森岡の方は、というと自分自身に驚いていた。これまでに、彼が弱音を吐いたことのある相手は、他界した妻の奈津美だけだった。神村はもちろんのこと、部下に対してもあるまじき行為と厳に戒めていた。彼は奈津美を亡くしてから、ずっと気を張り詰めて生きて来ていた。独立して社会的責任が重くなってからは、その傾向がいっそう強くなっていた。
 森岡は、茜に惹かれ始めている自分にはっきりと気づいた。久しぶりに胸をときめかせてもいた。しかしそれは、彼をある葛藤へと導くことでもあった。
 
 森岡は坂根好之を伴い、再び松江に足を運んだ。高校時代の恩師に会うためである。
 大河内対策が膠着状態にある以上、森岡は他に手立てを見出すしかない。
 とはいえ、残る寺院は総本山の影響力が強い大真寺、法真寺、国真寺の三寺院である。とてものこと、調略が通じるとは思えなかったが、そうかといって手を拱いている余裕もなかった。
 森岡はこれから会う恩師に活路が見出せないか、と淡い期待を掛けての松江入りだった。
 恩師と言ったが、森岡との関係は実に妙なものだった。
 名を藤波芳隆(ふじなみよしたか)といい、漢文学の大家で、代々地元でも有名な由緒正しき古社の後継でもあった。漢文学の分野では、日本でも五指に数えられるほどの高名な学者で、長らく国営放送の教養番組で漢文講座を担当していた。
 もし彼が神官職を継ぐ必要さえなければ、母校である帝都大学で教鞭を執っていたと思われるほどの博才であった。
 森岡が通った高校は、県下一の名門進学校である松江高校だったが、とくに国語はこの藤波の存在が大きく、古文や現代国語にも優秀な教師が揃い、当時全国屈指の教諭陣と称賛されていた。
 その証拠でもないが、あの毎年帝都大学進学率で全国一位を誇る兵庫の灘浜高校と、同大学合格者数で全国一位の栄冠に輝く東京の開星高校、この両校から試験問題の作成を依頼されているほどであった。
 実は、藤波は森岡の一年次のクラス担任だった。しかも、森岡がそのクラスの学級委員長をしていたという因縁があった。
 妙な関係と言ったのは、森岡が藤波には苦労をさせられたからである。とにかく、藤波は担任の仕事を全くしなかったため、学級委員長の森岡に代役が押し付けられた。
 毎朝、朝礼の前に職員室へ出向き、連絡事項を聞いてクラスの皆に伝えた。終礼、ホームルームも同様だった。
 後日わかったことだが、担任の職は不適格とされ、藤波は長らくその職に就いていなかった。それが、よりによって森岡が学級委員長を務める年に限って、久々に復職したのである。
 本人は何をしているのかといえば、それが何時出向いても飲酒であった。授業以外の時間はほとんど酒浸りだったと思われた。机の引き出しの中には、ウイスキーのボトルが、ロッカーには日本酒の一升瓶が入っていて、常時アルコールの臭いを漂わせていた。
 彼は個室を与えられていたので、他の教職員に直接的な迷惑を掛けてはいなかったが、それでも尋常ではない振る舞いであった。
 おそらくアルコール依存症だったと思われたが、それでも解雇されなかったのであるから、藤波の学校に対する貢献は多大なものがあったのだと推察された。
 むろん、昭和四十年代から五十年代前半の話であり、現在であれば、軽くて休職か停職、重ければ即時免職であろう。
 余計な苦労をさせられたのにも拘らず、森岡が藤波を恨みがましく思わなかったのは、ひとえに彼の授業のもの凄さであった。
 酔いが回っているとはいえ、一旦授業となればこれはもう別格で、特に漢詩などは中国語と日本語を交えながら朗々と詠んだ。目を瞑って声だけを聞いていると、いつの間にかその時代、その風景に迷い込んだかのような錯覚を覚えるほどで、森岡に言わせれば、藤波の授業はとてつもなく、
『値打ち』 
 があったのである。
 加えて、昼休みや放課後には藤波の個室で、酒のつまみを口にしながら雑談をするなど、一人だけ親しく接することができた。
 多感な思春期に、藤波のようなその分野の一流人と親密な関係性を体験学習したことが、有形無形に森岡の人生観に影響を与えていた。その下地があってこそ、三年後の神村との出会いが活きた、と森岡は確信していた。
 森岡は、日本最古の風土記・出雲風土記にも記述がある古社の後継である藤波が、神道はむろんのこと日本仏教にも興味を抱き、研究に勤しんでいたことを知っていた。

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