黒い聖域

久遠

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黒幕の影 第三章・裏切(3)

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 西中島の活魚料理店の座敷に呼び出された野島の顔つきは、いつになく深刻なものだった。
 徒ならぬ気配を察した坂根は、
「私は席を外します」
 と腰を上げようとした。
「いや。お前の意見も聞きたい」
 そう言って引き留めた野島は、座布団に座るや否や大きな深呼吸をした。
「社長、情報洩れの犯人は私です」
 と悲壮な顔で深々と頭を下げた。
 思いも寄らぬ告白だった。
 だが、
「えっ」
 と驚きの声を上げた坂根に対して、
「どういうことや」
 と、森岡は腹心の告白にも意外に冷静だった。
「私が町村里奈という女性に情報を漏らしました」
「町村? 誰や」
「私が今交際している女性です」
「お前の彼女だと。詳しく言うてみい」
 森岡の催促に、野島は詳細に話した。

 借金の肩代わりをした野島は、真弓こと本名町村里奈が勤める檸檬にも顔を出していた。得意先の接待ではなく、部下を連れての慰労が主な目的だった。野島には月に百万円、年間一千二百万円の交際費が認められていたが、彼がその金を使うことはなかった。森岡が夜の飲食代を全て自費で賄っていることを知っているからである。
 それはともかく、週に一、二度の割合で檸檬に通っているうち、どちらからでもなくお互いに好意を抱き始め、理無い仲になった。
 その真弓があるとき、
「森岡さんはどうしていらっしゃるの」
 と訊ねてきた。
 ルーベンスのホステス時代、真弓こと町村里奈は、森岡とは一度も顔を合わせてはいない。だが、幾度となく当時部長だった柳下の口の端に上り、野島もまた心酔する森岡に興味を持ったのだという。
「社長は今大変な時期やねん」
 何の疑念も抱かなかった野島は、話の流れでつい神村や霊園地の件まで話したのだという。

「それで、彼女が神栄会に情報を漏らしたという確たる証拠は掴んどるのか」
「いいえ。ですが、彼女以外に考えられません」
 野島は悲壮な顔つきでそう答えると、一呼吸おいて、
「坂根、お前はどう思う」
 と、里奈と面識がある坂根に、第三者の立場での率直な意見を求めた。
「私には良くわかりませんが、ただ里奈さんの専務への想いは芝居ではないと思います」
 坂根は気遣うように言った。
「俺もそう思いたいが」
 野島が苦渋の面になったとき、森岡がにやっと笑みを零した。
「野島、よう言うてくれた」
「と、おっしゃいますと」
 野島が首を傾げる。
「お前の言うように神栄会に情報を漏らしたのは彼女やろうな」
「も、もしや社長は、何もかもご存知だったのですか」
 いつもは冷静な野島も唖然として訊いた。
「すでに伊能さんから報告が上がっとった」
 森岡は伊能に光陽実業をマークするよう依頼していた。といっても、伊能の会社ではなく、彼を通じて警察、それも暴力団担当だった刑事が多く在籍している調査会社に依頼していた。
 当然、依頼主である森岡の名は伏せ、用件のみを伝えていた。調査会社は、光陽実業だけでなく、光陽実業を訪れた神栄会の組員の行動も徹底マークした。その結果、町村里奈は神栄会系のとある組員と関係があること、さらに野島との関係も突き止めた。
 調査報告を受け野島に疑念を持った伊能は、直ちに森岡に報告していたのである。言うまでもなく、森岡は野島を微塵も疑ってはいない。伊能に対して、第三者の存在を示唆し、調査の継続を依頼していた。
 もっとも、絶対的な信頼を置いているとはいえ、野島が情報洩れに関わっている事実に心穏やかではなかった森岡は、一刻も早く野島自身が気づき、告白するのを待っていたのだった。
「私は騙されていたのですね」
 野島は呻くように言った。
「それはわからん。最初は騙すつもりで近づいても、ミイラ取りがミイラになることもある。お前ほどの男や、坂根の言うように、途中から彼女が本気になったとしてもおかしくはない」
 森岡は慰めるように言った。
「それで、お前の方はどうなんや」
「未練がましい男と思われるでしょうが、彼女を憎めません」
「愛しているんやな」
「はい」
 野島は項垂れるように顎を引いた。
「せやったら、もう少し様子を見てたらええ。彼女もお前を愛しているなら、そのうち自責の念に耐えかねて、正直に告白するやろ」
「しかし、それで良いのですか」
 ええで、と小さく肯いた森岡の目が厳しいものに変わった。
「せやけど、彼女も本気やったら、それはそれで厄介なことになるで。なんせ、極道絡みの女やからな。お前も性根を入れんとあかんぞ」
 極道者相手に話を付けなければならなくなる、と森岡は言ったのである。
「それは覚悟しています」
 と言った野島の目は、決然とした光を湛えていた。
「良し。ほなら、この話はこれで終わりとして、残る問題は、誰が彼女をお前に近づけるよう仕向けたかやな」
「神栄会ではないのですか」
 野島が訊いた。有能な彼にしては愚問であった。
「それは無理やろ。神栄会が、ルーベンス時代の里奈とお前の接点を知っているはずがないがな」
「あ、そうか」
 間の抜けた声を出した野島は、
「では、やはり社内に」 
 と苦々しく言った。
「信じたくはないがな」
「しかし、神栄会と同様、社内に私と里奈の過去の繋がりを知っている者がいるとは思えませんが」
「それはそうやが」
「社長には見当が付いていらっしゃるのですか」
「信じたくはないが、桑原、三宅、船越、荒牧の四人の内の誰かが裏切っていると睨んでいる。誰か一人かもしれんし、四人全員かもしれん」
「私が言うのもなんですが、宇川のこともありますからね。所帯がでかくなりますと、そういう輩が出てきますね」
「残念やが、そういうことやな。この四人のうちの誰かが、なぜかお前たち二人の接点を知っていたのではないかと思うのや」
「調べて行けばそれも判明するとお考えなのですね」
「そういうことや。そこでだ、前と同じようにもう一度、お前に一芝居打ってもらたいんや」
「承知しました。それで、何をしたら良いのでしょうか」
「それやが、適当に商談話を作ってな、打ち合わせと称してそれら四人を飲みに誘い、うまく霊園事業の話にもっていってな、これ以上買収交渉が長引けば、俺が今回の山林の買収から完全撤退するつもりである旨をさりげなく伝えるんや。ただ、荒牧は総務やから、三人とは別に機会を作って住倉を同席させたらええ」
 一旦言い終えた森岡が、ああそれとな、と再び口を開いた。
「ただしや、住倉には本当のことを話すなよ。あいつは芝居などできる性質やないからな」
 聞いた野島が微笑む。
「わかっています。それで、確認ですが、吹き込むのはそれだけですか」
「そうや、それだけでええ。もし、四人の中に裏切り者がいれば、そいつは慌ててこの情報を光陽実業に伝えるやろ。なんというても、高値で売って利鞘を稼ごうとしていたのが、一転して二束三文の土地になってしまうんやからな。それはな、この情報を漏らした本人にとっても恐怖のはずやで。何しろ、悪意はないとはいえ、自分の齎した情報で、暴力団が損をするかもしれんのやからな。如何なる災難が、我が身に降り掛かるかもわからんというのは恐怖やで」
「そうすれば、必ず向こうから何か言ってくると読んでいらっしゃるのですね」
「せや。そやから、絶対に四人に気取られたらあかんで。自然にやで、あくまでも自然に……」
「はい」
 野島は、森岡の意図を十分に飲み込んだ。
 話が一段落すると、同席していた坂根が待ち構えていたかのように森岡の言葉を検めた。
「社長、先ほど『前と同じようにもう一度と芝居を……』とおっしゃいましたね」
「ああ、言った」
「ということは、もしかして今回の一件が始まって最初の幹部会議のとき、野島専務が反対されたのは芝居だったのではないですか」
 ふふふ、と森岡が含み笑いをした。
「なんや坂根、今頃気い付いたんか。あのときだけやのうで、野島はあれからずっと芝居しとんのや」
 森岡は嘲るように言ったが、野島の目には、それは決して坂根を貶してのことではなく、むしろ褒めているように映っていた。
 当の坂根も、満足そうな森岡に心地よい気分が湧いていた。
「やはり、そうでしたか。私も野島専務が社長の考えに反対されたので、おかしいなとは思っていたのです」
「神戸へ行く車の中でお前が疑問を呈したときには、さすがやと思っていたんやで」
 緊急幹部会議で、森岡の子飼いともいうべき野島らが挙って反対し、中途採用者が賛成に回ったことに疑念を抱いた坂根は、森岡にその思いを漏らしていた。
「では、なぜ秘匿されたのですが」
 坂根は顔を綻ばせながらも疑問をぶつけた。
「敵を欺くにはまず味方から、と言うやないか。一番俺の身近にいるお前をどうにか騙せたんや、他の者は推して知るべしやろ」
 森岡は澄ました顔で答える。
「なるほど」
 得心顔で肯いた坂根だったが、
「何のためにそのようなことをされたのですか」
 と重ねて問うた。
「なあ、坂根。株式上場を前にして、社長が個人的なことでその職務を離れるというのは、本来ならいかなる理由があろうとも許されるべきものではない。放っておけば、社内に不満が生じるのは必定や。そういうとき、子飼いの野島や住倉が率先して賛成してみいや、社長の腰巾着やと、こいつ等まで反感を買うやろ。そうなったら、こいつ等に求心力がなくなり、社内がバラバラになる。そうなっては困るから、野島や住倉が俺に毅然と反対することによって、社内に不満が生じるのを未然に防ごうとしたんや」
「それだけやないで、坂根。社長は第二の宇川が出んようにと、俺に課長以上の動向に目を配るよう指示されておられたんや。心にやましいことを考えている奴は、ふとしたときに、どこかに襤褸が出るもんやから、お前の勘でええからそれをよう観とけ、とな」
「そういうことですか」
 坂根は、森岡の深謀遠慮に感動すら覚えていた。僅か五年で、今のウイニットを築き上げた理由の一端を垣間見た気がしたのである。
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