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黒幕の影 第四章・拘束(1)
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かくして森岡の目論見通り、光陽実業から売買交渉に応じるとの連絡が入る。
この申し出は、吉永幹子が森岡と同額以上の買収案を提示しなかったことの証明であり、光陽実業の土地が彼らの手に渡るという最悪の事態は免れたことを意味していた。
ところが、売買交渉はそう簡単には進まず、森岡はしだいに袋小路へと追い込まれて行くことになる。ようやく交渉に応じた光陽実業だったが、坪当たり十万円という法外な値段で買い取るよう要求してきたのである。それは明らかに足元を見たもので、とうてい受け入れられる条件ではなかった。
五千坪を買収するための五億円という額は、予定買収資金の総額であったうえに、一旦そのような条件を飲めば、他の地権者も黙っていないということが容易に予想されるのだ。
他方、この期に及んで買収を諦め、他に土地を求めるにはあまりにも時間が無かった。大本山傳法寺貫主の大河内法悦に面会を求めるにしても、計画話の段階では説得力に乏しく、少なくとも霊園地の買収は済ませておくことが不可欠だったのである。
茫洋たる大海の真っ只中、海図も羅針盤も持たずに進む小船が陸地に辿り着けないのと同様、解決の糸口が見つからないまま、無為な日々が過ぎ去って行った。
いかに森岡といえども、暴力団が相手では打つ手が無かったのである。
ついに、時間切れも覚悟したある日の夕方だった。
急転、森岡は直に極道者と対峙するという、これまでとは勝手の違う戦いの場に引き出されることになった。
その日、石清水哲玄との面談に赴くため、森岡が車に乗り込んですぐのことである。運転していた南目輝が、二台の黒塗りの高級車に尾行されていることに気づいた。南目は、あの忌まわしい刺傷事件以来、頑として護衛に付くことを主張したため、森岡が折れていた。
元々、南目が森岡の護衛役を兼ねた運転手であった。だが、谷川東良からの呼び出しがあった日から、坂根好之が森岡の専従となったため、南目は渋々役目を代わっていたのである。
「兄貴。後ろの車、どうも変ですね。会社を出た直後から着けて来ているようです」
「そうらしいな。たぶん、光陽実業か神栄会の奴らやろ」
「どないする」
「せやな。いずれ直接会って、決着を付けることになるやろうとは思っていたから、話をする分には構わんのやが、坂根やお前まで巻き込むわけにはいかんしな」
「何を言ってるや。兄貴を一人にはできんやろ」
南目がいきり立ったように言うと、
「輝さんの言われるとおりです」
坂根も力強く呼応した。
南目はもちろんのこと、この頃になると、坂根にも森岡と一蓮托生という気概が生まれていた。彼は小学生の頃より、空手を習っており、有段者だった。もちろん、喧嘩のプロである極道者を複数人相手にすれば、それが通用しないことは十分承知していたが、坂根は修練を通して漢気というものを培っていた。
一方、南目は暴走族の頭だったこともあって、喧嘩には慣れていた。身体も大柄の森岡よりさらに一回り大きく、素手での一対一での勝負であれば、大抵の極道者にも引けを取ることはないと思われた。
「二人とも、おおきに」
森岡は神妙に謝意を示した。
「せやけどな、お前らにはもしものときのために動いてもらわなあかんから、別行動の方がええんや」
「もしものときなんて、縁起でもないことをおっしゃらないで下さい」
坂根が不安顔を覗かせた。凶刃に遭った夜の光景が脳裡を掠めたのである。
「万が一のときのためや」
森岡はそう言うと、厳しい口調になった。
「坂根、輝、よう聞けよ。まず、行き先を帝都ホテル大阪からパリストンホテルに変更し、岩清水さんには断りの電話を入れてくれ。次に、ホテルで俺を降ろしたらお前らはそのまま会社に帰って待機しとってくれ。何もなかったらすぐに連絡を入れる。もし、三十分以内に連絡がなかったら、向こうに拘束されたと思え。そしてな、このことを伊能さんに話して、手を打ってもらってくれ。伊能さんは、大阪府警のマル暴の刑事にも知り合いがおるから、場合によっては、そのマル暴から神栄会に連絡を入れるように頼んでもらっておくんや。それでな、坂根は適当な時間を空けて、俺の携帯に連絡を入れろ。用事はなんでもええ。とにかく俺の判断を仰ぎたいとか、俺に連絡を取ってくれと電話があった、とかな」
そうだな……と、森岡にあることが閃いた。
「そのときのために、二人だけの符牒(ふちょう)を決めておこう」
「ふちょう?」
「合言葉みたいなものや。忠臣蔵の『山』と『川』は、知っているやろ」
「はい」
「それとはちょっと違うが、ええか、もし俺がこれまでどおり、『坂根』と呼び捨てにしたら、異常無しやから、何もせんでええが、『坂根君』と君付けにしたら、やば
い状態やから伊能さんにGOサインを送れ。携帯に出なかったときも同じや、わかったか」
「わかりました」
「もう一つ、これも肝心やからよう聞いてや。後ろの車は二台や。もし俺を降ろした後、お前らを着けて来るようやったら、お前らの身柄をも確保して、動きを封じ込みたいということやから、あいつ等に捕まる前に、坂根の役目を誰かに代わってやってもらわにゃならん。そのときは、野島に連絡して事情を説明し、役目を代わってもらえ。ええな」
「は、はい」
坂根の声は、微かに震えていた。
「輝。もし、お前らが捕まっても抵抗するんやないで。暴力団と力づくの勝負をしても、ええことは何もない」
森岡が厳命した。
「わかったすよ」
南目は渋々承諾した。
「まあ、俺をどうこうしたってなんにもならんから、大丈夫やとは思うが、用心をするに越したことはない。それから、伊能さんにはあくまでも内々に済ませるよう頼んでおいてな。つまり、大阪府警やのうて、刑事の個人的な動きにしてもらえ。事情は後で説明しに伺うことにしてな」
「社長。確認しますが、そのマル暴の刑事は、連絡を入れるだけで良いのですね」
「そうや、連絡を入れるだけで十分や。神栄会に『大阪府警が、俺が神栄会に捉えられていることを知っている』と臭わせれば、それだけで、もしものときの手荒な動きを封じることができる」
綿密な打ち合わせをしているうちに、車はパリストンホテルに着いた。森岡はロビーの中から、さりげなく立ち去った南目の車を見守っていたが、幸い後を着けて行く車はなかった。
この申し出は、吉永幹子が森岡と同額以上の買収案を提示しなかったことの証明であり、光陽実業の土地が彼らの手に渡るという最悪の事態は免れたことを意味していた。
ところが、売買交渉はそう簡単には進まず、森岡はしだいに袋小路へと追い込まれて行くことになる。ようやく交渉に応じた光陽実業だったが、坪当たり十万円という法外な値段で買い取るよう要求してきたのである。それは明らかに足元を見たもので、とうてい受け入れられる条件ではなかった。
五千坪を買収するための五億円という額は、予定買収資金の総額であったうえに、一旦そのような条件を飲めば、他の地権者も黙っていないということが容易に予想されるのだ。
他方、この期に及んで買収を諦め、他に土地を求めるにはあまりにも時間が無かった。大本山傳法寺貫主の大河内法悦に面会を求めるにしても、計画話の段階では説得力に乏しく、少なくとも霊園地の買収は済ませておくことが不可欠だったのである。
茫洋たる大海の真っ只中、海図も羅針盤も持たずに進む小船が陸地に辿り着けないのと同様、解決の糸口が見つからないまま、無為な日々が過ぎ去って行った。
いかに森岡といえども、暴力団が相手では打つ手が無かったのである。
ついに、時間切れも覚悟したある日の夕方だった。
急転、森岡は直に極道者と対峙するという、これまでとは勝手の違う戦いの場に引き出されることになった。
その日、石清水哲玄との面談に赴くため、森岡が車に乗り込んですぐのことである。運転していた南目輝が、二台の黒塗りの高級車に尾行されていることに気づいた。南目は、あの忌まわしい刺傷事件以来、頑として護衛に付くことを主張したため、森岡が折れていた。
元々、南目が森岡の護衛役を兼ねた運転手であった。だが、谷川東良からの呼び出しがあった日から、坂根好之が森岡の専従となったため、南目は渋々役目を代わっていたのである。
「兄貴。後ろの車、どうも変ですね。会社を出た直後から着けて来ているようです」
「そうらしいな。たぶん、光陽実業か神栄会の奴らやろ」
「どないする」
「せやな。いずれ直接会って、決着を付けることになるやろうとは思っていたから、話をする分には構わんのやが、坂根やお前まで巻き込むわけにはいかんしな」
「何を言ってるや。兄貴を一人にはできんやろ」
南目がいきり立ったように言うと、
「輝さんの言われるとおりです」
坂根も力強く呼応した。
南目はもちろんのこと、この頃になると、坂根にも森岡と一蓮托生という気概が生まれていた。彼は小学生の頃より、空手を習っており、有段者だった。もちろん、喧嘩のプロである極道者を複数人相手にすれば、それが通用しないことは十分承知していたが、坂根は修練を通して漢気というものを培っていた。
一方、南目は暴走族の頭だったこともあって、喧嘩には慣れていた。身体も大柄の森岡よりさらに一回り大きく、素手での一対一での勝負であれば、大抵の極道者にも引けを取ることはないと思われた。
「二人とも、おおきに」
森岡は神妙に謝意を示した。
「せやけどな、お前らにはもしものときのために動いてもらわなあかんから、別行動の方がええんや」
「もしものときなんて、縁起でもないことをおっしゃらないで下さい」
坂根が不安顔を覗かせた。凶刃に遭った夜の光景が脳裡を掠めたのである。
「万が一のときのためや」
森岡はそう言うと、厳しい口調になった。
「坂根、輝、よう聞けよ。まず、行き先を帝都ホテル大阪からパリストンホテルに変更し、岩清水さんには断りの電話を入れてくれ。次に、ホテルで俺を降ろしたらお前らはそのまま会社に帰って待機しとってくれ。何もなかったらすぐに連絡を入れる。もし、三十分以内に連絡がなかったら、向こうに拘束されたと思え。そしてな、このことを伊能さんに話して、手を打ってもらってくれ。伊能さんは、大阪府警のマル暴の刑事にも知り合いがおるから、場合によっては、そのマル暴から神栄会に連絡を入れるように頼んでもらっておくんや。それでな、坂根は適当な時間を空けて、俺の携帯に連絡を入れろ。用事はなんでもええ。とにかく俺の判断を仰ぎたいとか、俺に連絡を取ってくれと電話があった、とかな」
そうだな……と、森岡にあることが閃いた。
「そのときのために、二人だけの符牒(ふちょう)を決めておこう」
「ふちょう?」
「合言葉みたいなものや。忠臣蔵の『山』と『川』は、知っているやろ」
「はい」
「それとはちょっと違うが、ええか、もし俺がこれまでどおり、『坂根』と呼び捨てにしたら、異常無しやから、何もせんでええが、『坂根君』と君付けにしたら、やば
い状態やから伊能さんにGOサインを送れ。携帯に出なかったときも同じや、わかったか」
「わかりました」
「もう一つ、これも肝心やからよう聞いてや。後ろの車は二台や。もし俺を降ろした後、お前らを着けて来るようやったら、お前らの身柄をも確保して、動きを封じ込みたいということやから、あいつ等に捕まる前に、坂根の役目を誰かに代わってやってもらわにゃならん。そのときは、野島に連絡して事情を説明し、役目を代わってもらえ。ええな」
「は、はい」
坂根の声は、微かに震えていた。
「輝。もし、お前らが捕まっても抵抗するんやないで。暴力団と力づくの勝負をしても、ええことは何もない」
森岡が厳命した。
「わかったすよ」
南目は渋々承諾した。
「まあ、俺をどうこうしたってなんにもならんから、大丈夫やとは思うが、用心をするに越したことはない。それから、伊能さんにはあくまでも内々に済ませるよう頼んでおいてな。つまり、大阪府警やのうて、刑事の個人的な動きにしてもらえ。事情は後で説明しに伺うことにしてな」
「社長。確認しますが、そのマル暴の刑事は、連絡を入れるだけで良いのですね」
「そうや、連絡を入れるだけで十分や。神栄会に『大阪府警が、俺が神栄会に捉えられていることを知っている』と臭わせれば、それだけで、もしものときの手荒な動きを封じることができる」
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