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黒幕の影 第五章・過去(5)
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保険の勧誘の際に知り合った顧客の男性と親密になり、駆け落ちしたのである。都会であれば、特段あげつらうこともない行状なのだろうが、昭和四十年代のしかも地方の閉鎖された村社会にあっては、前代未聞の醜態であった。
一転して灘屋には村人の侮蔑と好奇の目が注がれることとなった。表面上は、取り立てて変わりはなかったものの、心の奥底では皆嘲笑っていたと思われた。
いかに灘屋といえども、小夜子の不倫の末の駆け落ちは、それほどまでに取り返しの付かない痛恨事だったのである。洋介に対する世間の目も同様で、その後しばらく、彼は小さな身を針で突き刺されたような痛みに耐えて行かなければならなかった。
洋一は、後日小夜子から郵送されてきた離婚届に黙って判を押した。
小夜子が出て行った後、悪霊にでも呪われているかのように、不幸が立て続けに灘屋を襲った。まるで、積み木の一片を抜き取られたように家族崩壊が始まった。
翌々年、洋介を一番に可愛がっていた祖父の洋吾郎が、それから一年も経たずして父の洋一までが相次いで死去したのである。
洋吾郎はくも膜下出血、洋一は小夜子が去った後、益々酒に溺れた挙句に肝臓病を患い、食道静脈瘤破裂と二人とも信じられないほどあっけなく往ってしまった。二本の大黒柱を失った灘屋の威光が地に堕ちたのは言うまでもない。
かけがえのない家族が、次々と傍から姿を消して行く現実に、洋介の喪失感は雪だるまを転がすように、どんどん大きくなっていった。そして、あっという間に彼の小さな胸を埋め尽くしたとき、ある結論に至った。
――おらはこの世に拒まれている、と。
ときには、この世から疎まれている以上、早くあの世へ行きたい、とさえ思ったこともあった。
「そして……」
洋介は口籠った。
「……」
茜は黙って洋介を見つめた。
「一度、海にな」
洋介は言葉を切ったが、茜には意味がわかった。洋介が金槌であることを知っていたからである。
「もしかして、笠井の磯」
「うん」
洋介は切なそうに肯いた。
「たまたま、近くで磯釣りをしていた人が居てな。助けてあげてという女性の声で気づき、俺を助けてくれたんやそうだ」
「女性って、まさか浩二少年のときの」
茜が驚いたように訊いた。彼女は、凶刃に倒れ入院していた洋介の口から霊妙な女性の存在を聞いていたが、半ば信じ、半ば彼は幻覚を見たのだろうと思っていた。
うん、と洋介は頷いた。
「ただ、それがわかったのは俺が入院していたときや」
「入院?」
「どうやら俺は死ぬ予定だったらしいが、あのときの女性が現れ、救って下さったんや」
「まあ」
「まさか」
「死、ってか」
茜は目を丸くし、坂根と南目もそれぞれ驚きの声を漏らした。
「その際にな、海に飛び込んだときもこの女性が助けて下さったことを知ったんやが、ともかく金槌の俺には周囲を見渡せる余裕など無かったから、女性の姿は見てへんかったんや。助けてくれた人も、波の音を聞き間違えた幻聴ということになったらしく、結局運が良かったということで片が付いたんや」
「森岡さんは、その女性に三度も命を救われたのですね」
「そういうことやな」
と頷いた洋介はただ、と口元を歪め、
「そのときの俺は、ああー俺は死ぬことも出来へんのかって、自分の運命を呪ったものや」
と自嘲した。
この一件は、公には事故として処理されたが、浜浦の人々は皆、洋介が自殺を図ったものだと察していた。釣り下手の洋介が、よりによって一人で笠井の磯へ釣りに出掛けたのを訝ったのである。
さて、そのような洋介の唯一の支えは、一人生き残った祖母のウメであった。
「恥ずかしい話やが、ときたま悪い夢にうなされて夜中に目が覚めたりするとな、俺はお祖母ちゃんの布団に潜りこんで、萎んだ乳房を弄(まさぐ)っていた。五年生にもなってやで」
森岡は恥も外聞も無く言った。
「きっと、お祖母様の肌の温もりでしか、生きていることを確認できないほど淋しかったのね」
茜は目に涙を溜めながら言った。
坂根好之と南目輝は息を詰めて聞き入っていた。
坂根は、兄秀樹から耳にしていた森岡の人生観を変えた詳細な経緯に圧倒され、南目は経王寺での同居時代を思い出し、自分より遥かに辛い過去を生きていたはずの洋介の明るい振る舞いに、感動すら覚えていた。
結局、小夜子の家出がきっかけとなり、知らず知らずのうちに蝕まれていた洋介の精神は、度重なる不幸で、その症状が徐々に酷くなって行った。
そして、それが決定的に表面化したのが、大学受験が近づいた高校三年の秋だった。とうとう、人前に出るのが怖くなった彼は、不登校が目立つようになり、部屋に閉じこもりがちになってしまった。現在でいうところの引き籠もりである。そのときの後遺症なのだろうか、彼は人混みが苦手である。
それでも、洋介は教師に恵まれていた。一年次の担任だった藤波芳隆である。
彼の尽力で、洋介はどうにか卒業はできた。だが、とても大学受験どころではなかった。当然、浪人する羽目になったのだが、その後も症状はますます酷くなる一方で、家から一歩たりとも出なくなった。
目を覆うばかりに変わり行く孫の姿を前にして、なす術を知らない老いたウメの辿り着いた先は、神仏に救いを求めるということだった。
元来、ウメは日頃より暇を見つけては方々の神社仏閣を参拝するという、大変に信心深い人間だったので、ますます神仏に傾倒し、孫の病を治そうと、霊験あらたかと噂に聞けば、一縷の望みを抱いて洋介を連れて参拝した。
洋介が救われたのは、赤子の頃から家事に追われていた小夜子に代わり、ウメに育てられたということであろう。彼は毎日、朝な夕な神棚や仏壇に読経するウメを傍らで見聞きして育っており、神仏のもつ神秘性に抵抗感がなく、疑念も抱かなかったのである。
「俺自身もな、胸の片隅で何とかせねばという思いを抱いていたから、素直にお祖母ちゃんに従っていた。よくよく考えてみれば、それが俺に神仏の御加護というべき幸運をもたらしたんやな」
「神村先生との出会いですね」
茜が得心したように言った。
森岡は力強く肯いた。
「俺が二浪も覚悟していたその年の暮れ近く、神村先生が荒行通算千日達成という偉業を成し遂げて、故郷の米子に凱旋されたんや。先生の偉業は米子だけでなく、近隣地域にも隈なく知れ渡っていてな、ある伝説を生む事になった」
それは、神村が米子駅に到着したときであった。駅から大経寺までの約二キロ沿道が、天真宗開祖栄真大聖人の生まれ変わりと噂に名高い神村を、ひと目だけでも拝みたいという信者で埋め尽くされたのである。
交通規制された車道の中央を、警察車両の先導を受けた神村が、読経を唱えながら歩みを進める様は、まさに聖者の行進だったという。
ウメは、その沿道の人込みの中にいたのである。神村を眺めた彼女は、後光の射したその姿に生き仏様を見た心地になり、
『―このお方こそ、孫の心の病を治して下さるに違いない』
と確信したのである。
一転して灘屋には村人の侮蔑と好奇の目が注がれることとなった。表面上は、取り立てて変わりはなかったものの、心の奥底では皆嘲笑っていたと思われた。
いかに灘屋といえども、小夜子の不倫の末の駆け落ちは、それほどまでに取り返しの付かない痛恨事だったのである。洋介に対する世間の目も同様で、その後しばらく、彼は小さな身を針で突き刺されたような痛みに耐えて行かなければならなかった。
洋一は、後日小夜子から郵送されてきた離婚届に黙って判を押した。
小夜子が出て行った後、悪霊にでも呪われているかのように、不幸が立て続けに灘屋を襲った。まるで、積み木の一片を抜き取られたように家族崩壊が始まった。
翌々年、洋介を一番に可愛がっていた祖父の洋吾郎が、それから一年も経たずして父の洋一までが相次いで死去したのである。
洋吾郎はくも膜下出血、洋一は小夜子が去った後、益々酒に溺れた挙句に肝臓病を患い、食道静脈瘤破裂と二人とも信じられないほどあっけなく往ってしまった。二本の大黒柱を失った灘屋の威光が地に堕ちたのは言うまでもない。
かけがえのない家族が、次々と傍から姿を消して行く現実に、洋介の喪失感は雪だるまを転がすように、どんどん大きくなっていった。そして、あっという間に彼の小さな胸を埋め尽くしたとき、ある結論に至った。
――おらはこの世に拒まれている、と。
ときには、この世から疎まれている以上、早くあの世へ行きたい、とさえ思ったこともあった。
「そして……」
洋介は口籠った。
「……」
茜は黙って洋介を見つめた。
「一度、海にな」
洋介は言葉を切ったが、茜には意味がわかった。洋介が金槌であることを知っていたからである。
「もしかして、笠井の磯」
「うん」
洋介は切なそうに肯いた。
「たまたま、近くで磯釣りをしていた人が居てな。助けてあげてという女性の声で気づき、俺を助けてくれたんやそうだ」
「女性って、まさか浩二少年のときの」
茜が驚いたように訊いた。彼女は、凶刃に倒れ入院していた洋介の口から霊妙な女性の存在を聞いていたが、半ば信じ、半ば彼は幻覚を見たのだろうと思っていた。
うん、と洋介は頷いた。
「ただ、それがわかったのは俺が入院していたときや」
「入院?」
「どうやら俺は死ぬ予定だったらしいが、あのときの女性が現れ、救って下さったんや」
「まあ」
「まさか」
「死、ってか」
茜は目を丸くし、坂根と南目もそれぞれ驚きの声を漏らした。
「その際にな、海に飛び込んだときもこの女性が助けて下さったことを知ったんやが、ともかく金槌の俺には周囲を見渡せる余裕など無かったから、女性の姿は見てへんかったんや。助けてくれた人も、波の音を聞き間違えた幻聴ということになったらしく、結局運が良かったということで片が付いたんや」
「森岡さんは、その女性に三度も命を救われたのですね」
「そういうことやな」
と頷いた洋介はただ、と口元を歪め、
「そのときの俺は、ああー俺は死ぬことも出来へんのかって、自分の運命を呪ったものや」
と自嘲した。
この一件は、公には事故として処理されたが、浜浦の人々は皆、洋介が自殺を図ったものだと察していた。釣り下手の洋介が、よりによって一人で笠井の磯へ釣りに出掛けたのを訝ったのである。
さて、そのような洋介の唯一の支えは、一人生き残った祖母のウメであった。
「恥ずかしい話やが、ときたま悪い夢にうなされて夜中に目が覚めたりするとな、俺はお祖母ちゃんの布団に潜りこんで、萎んだ乳房を弄(まさぐ)っていた。五年生にもなってやで」
森岡は恥も外聞も無く言った。
「きっと、お祖母様の肌の温もりでしか、生きていることを確認できないほど淋しかったのね」
茜は目に涙を溜めながら言った。
坂根好之と南目輝は息を詰めて聞き入っていた。
坂根は、兄秀樹から耳にしていた森岡の人生観を変えた詳細な経緯に圧倒され、南目は経王寺での同居時代を思い出し、自分より遥かに辛い過去を生きていたはずの洋介の明るい振る舞いに、感動すら覚えていた。
結局、小夜子の家出がきっかけとなり、知らず知らずのうちに蝕まれていた洋介の精神は、度重なる不幸で、その症状が徐々に酷くなって行った。
そして、それが決定的に表面化したのが、大学受験が近づいた高校三年の秋だった。とうとう、人前に出るのが怖くなった彼は、不登校が目立つようになり、部屋に閉じこもりがちになってしまった。現在でいうところの引き籠もりである。そのときの後遺症なのだろうか、彼は人混みが苦手である。
それでも、洋介は教師に恵まれていた。一年次の担任だった藤波芳隆である。
彼の尽力で、洋介はどうにか卒業はできた。だが、とても大学受験どころではなかった。当然、浪人する羽目になったのだが、その後も症状はますます酷くなる一方で、家から一歩たりとも出なくなった。
目を覆うばかりに変わり行く孫の姿を前にして、なす術を知らない老いたウメの辿り着いた先は、神仏に救いを求めるということだった。
元来、ウメは日頃より暇を見つけては方々の神社仏閣を参拝するという、大変に信心深い人間だったので、ますます神仏に傾倒し、孫の病を治そうと、霊験あらたかと噂に聞けば、一縷の望みを抱いて洋介を連れて参拝した。
洋介が救われたのは、赤子の頃から家事に追われていた小夜子に代わり、ウメに育てられたということであろう。彼は毎日、朝な夕な神棚や仏壇に読経するウメを傍らで見聞きして育っており、神仏のもつ神秘性に抵抗感がなく、疑念も抱かなかったのである。
「俺自身もな、胸の片隅で何とかせねばという思いを抱いていたから、素直にお祖母ちゃんに従っていた。よくよく考えてみれば、それが俺に神仏の御加護というべき幸運をもたらしたんやな」
「神村先生との出会いですね」
茜が得心したように言った。
森岡は力強く肯いた。
「俺が二浪も覚悟していたその年の暮れ近く、神村先生が荒行通算千日達成という偉業を成し遂げて、故郷の米子に凱旋されたんや。先生の偉業は米子だけでなく、近隣地域にも隈なく知れ渡っていてな、ある伝説を生む事になった」
それは、神村が米子駅に到着したときであった。駅から大経寺までの約二キロ沿道が、天真宗開祖栄真大聖人の生まれ変わりと噂に名高い神村を、ひと目だけでも拝みたいという信者で埋め尽くされたのである。
交通規制された車道の中央を、警察車両の先導を受けた神村が、読経を唱えながら歩みを進める様は、まさに聖者の行進だったという。
ウメは、その沿道の人込みの中にいたのである。神村を眺めた彼女は、後光の射したその姿に生き仏様を見た心地になり、
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