黒い聖域

久遠

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修羅の道 第一章・転落(6)

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「えっ! 藪中専務さんを紹介してくれたのは南目君だったの」
 母親の恭子は、酷く驚いた様子で訊いた。
「ということは、勝部の知人というのは前杉さんだったのですか」
 南目も愕然として開いた口が塞がらない。
 勝部に藪中を紹介した南目だったが、それ以上の深入りを避けるため、相談中は席を外していた。為に、詳細を把握していなかったのである。
 一方、前杉母娘にとって表通りへの進出は悲願だった。路地裏の辺鄙な場所でさえ、それなりに繁盛しているのだから、表通りに店を構えられれば、と皮算用するのは人の欲として理解できる。
「勝部から相談を受けまして、藪中さんを彼に紹介したのです」
「まさか、そんな。勝部は自分の知り合いだと自慢していたのよ」
 恭子は憤慨した。
 藪中の尽力により、前杉母娘の念願は適った。彼が関西庶民信用組合に直接出向き、支店長と話を付けたのである。というのも、後日わかったことだが、関西庶民信用組合は、藪中が専務の要職にある大手都市銀行・日和銀行の孫会社だったのである。
 南目が、かつて神村の自坊に寄宿していた学生だと知った藪中が、神村との関係を慮って尽力したというのが真相であった。
「ああー、なんと愚かだったのでしょう。そうとも知らず、私は大切な美由紀をあんな男と一緒にさせたなんて……」
「えっ? 美由紀さんは勝部と結婚したのですか」
 南目は、何とも言えぬ声を出した。
「念願が適って有頂天になり、目が塞がっていたのね。あんなクズ男を過大評価してしまい、つい美由紀との交際を認めてしまったの」
 恭子は歯軋りして悔しがった。
「その勝部に騙されたというのは、どういうことですか」
 南目が話を戻した。
 美由紀がやるせない表情で口を開いた。
「結婚した途端、彼が豹変したの」
「豹変?」
「それまで優しかった彼が、結婚した途端、暴力的になったの。会社も勝手に辞めてしまい、定職には就こうとはせず、私たちの収入を当てにし出したの」
 涙声の美由紀に、南目は切なさで胸が塞がった。 
「いえ、ヒモでも大人しいヒモなら良かったのですが、そのうち競馬、競輪、競艇、パチンコといった博打に手を出し、挙句に借金までしてしまったのです」
 恭子が吐き捨てるように言葉を加えた。
「その果てがあの金融屋ですか。それで、勝部は今どうしているのですか」
「わかりません」
「わからない?」
「三年前、借金を残して行方を暗ましたのです」
「なんと、無責任な!」
 南目は怒りを露にした。
「店の土地、建物を当てにして東京に逃げたようです」
「あのやろう、やはりいい加減な男だったか」
 詰るように言った南目が、恭子の言葉尻に気づいた。
「店を当てにして? もしや、あの喫茶店は……」
「うう」
 美由紀は両手で顔を覆った。
「借金の形に取られました」
 恭子が口の端を歪めて言った。
 喫茶店は、病死した夫の生命保険金を元手にしたものだっただけに思い入れもひとしおだったのだろう。
 勝部が姿を暗ました後、彼女らが取り立てに遭い、店の売上から少しずつ返済していた。だが、なにせ法外な利息である。元金一千万円の利息は、三年で一億円を超えてしまった。とうとう立ち行かなくなり、土地と店舗を売却し、その一部を返済に充てたばかりだったのである。しかも、残金精算のため、美由紀を風俗店で働かせようとまでしていた、という経緯だった。
 恭子が警察や弁護士に相談しなかったのは、ひとえに報復を恐れたからで、特に美由紀への災禍を心配しての自重だったと付け加えた。
「なんということを……」
 南目は、母娘を襲った災難に悲壮な声を上げた。
「今日、南目さんにお会いしてなければ、美由紀はとんでもないことになっていました。地獄で仏、とはまさにこのことです」
 恭子は手を合わせ、南目を拝むようにした。
「ママ。救いの神は俺なんかじゃなくて、兄貴、いや社長だよ」
 南目は、ちょうど談判を終え、席に着こうとしていた森岡を見て諭した。
「ああ、そうでした。社長さんは、森岡さんとおっしゃいましたか」
「あらためまして、森岡洋介です」
 森岡は軽く会釈し、
「私が肩代わりするということで話が付きましたので、どうぞご安心下さい」
 と笑みを向けた。
「うう……」
 両手で顔を覆った恭子に対し、美由紀は何やら思い当ったようで、
「森岡洋介さんって、もしかしたら、ウイニットというIT会社を経営する森岡さんですか」
 と驚きの目で訊いた。
「良くご存知ですね」
「何かの雑誌に掲載されていました」
 美由紀が種を明かした。
 たしかに、この頃の森岡はIT企業を経営する時代の寵児としてマスコミから注目され始めていた。
「今、南目さんは社長さんを兄貴と呼んでいらしたようですけど……」
 恭子が探るような目をした。
「ママ。学生の頃、不良だった俺を改心させてくれた恩人がいると言ったことがあったでしょう。それが、この森岡社長なのです」
「じゃあ、現在は森岡さんの下で働いているのね」
「そうです。命を懸けています」
 南目が真顔で言い切った。
「そうだとしても、何の縁もゆかりも無い私たちが、ご好意に甘えて宜しいのでしょうか。返済する当てなどないのですよ」
 恭子は恐る恐る訊ねた。そうはいうものの、森岡以外に頼りとする者はいなかった。
「ご懸念なく。輝は私の義弟も同然の男です。その義弟の想い入れのある知人の難儀を知って、手を差し伸べないわけには参りません」
 森岡は柔和な笑みを浮かべて言った。
「それに返済して頂く方法は考えています」
「はい?」
 恭子は首を傾げた。
「坂根、ウイニット(うち)のビルの一階の店舗はどうなってる」
 不思議顔の恭子を他所に、森岡が訊いた。
「まだ、買い手は付いていないようです。うちが取得すればレストランですから、少し手を入れるだけで使用できると思います」
 森岡の意図を察した坂根が答えた。
「よし、坂根。早急に奥埜清喜さんに連絡を取ってくれ」
 奥埜というのは、元はJR新大阪駅界隈の豪農で、東海道新幹線の開通に伴う土地売却によって、一躍不動産及び金融資産家となった地元の名士である。ウイニットの本社が入っているビルも奥埜家の所有だった。
 祖父徳太郎とは、大阪梅田で彼と茜がチンピラに絡まれていたところに出くわしたことで知り合い、孫の清喜自身とは西中島のスナックで出会い、意気投合していた。
 森岡はコーヒーを一口飲んだ。 
「失礼ですが、今仕事はどうされています」
「仕事どころか、住むところさえ困っています」
 恭子は気恥ずかしそうに俯いた。
「では、ウイニット(うち)で働きませんか。社宅も用意しましょう」
「……」
 前杉母娘は突然の申し出に声もない。
「あのレストランを喫茶店に衣替えするんやな、兄貴」
「そうや、そうすれば借金の取りっぱぐれがないやろ」
 森岡が茶目っ気に言うと、
「兄貴はえぐいからなあ」
 と、南目も笑顔で応じた。
 前杉母娘の目には、その冗談を言い合う様子が、まるで実の兄弟のように映っていた。
「前杉さん、ウイニット(うち)のビルの一階に閉店したレストランがあります。うちが権利を買い取って、喫茶店を始めようと思います。そこで、営業を前杉さんにお願いしようと思うのですが、いかがでしょう」
「いかがもなにも、私たちにとって願っても無いお話です」
「売上高に応じた歩合給も考慮します。そして、いつかその気になられたら権利をお譲りしても良いですよ」
「えっ、まさかそのような……まるで夢のようです」
 感極まった恭子は誰憚ることなく嗚咽した。
「喫茶店は福利厚生の一環です。担当は総務課長の輝ですので、よくよく相談して下さい」
 森岡が南目に視線を送ると、 
「二人だったら大丈夫。それにうちの社員がよう使うから繁盛間違いなしや」
 と大袈裟な仕種で太鼓判を押した。
「まあ、南目さんは昔とちっとも変わっていないのね」
 美由紀は眩しそうに南目を見つめた。その瞳の輝きに、森岡は新しい恋の産声を聞いた気がした。

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